怪事戯話
第十三怪・死蘇芳香④

 ――それは今から六十年以上昔の話だと、水祢は語りだした。


 まだこの国が世界を相手に戦争をしていた頃。一人の少女が居た。
 顔立ちも体つきも平均的で、他者と比べて特に抜きんでた才能もない、ごくごく普通の少女が。
 彼女は空襲で身内と帰る家をなくし、親類とも音信不通となってしまったが、そんなことは大戦末期の日本では別段珍しい事ではなかった。
 ……敢えて一つだけ特異な点挙げるとするならば、彼女は草萼火遠と縁を持っていた、ということだろうか。

 ――その少女の名前は、富岡沙夜子さよこと云う。

 身寄りを失った沙夜子は郊外へ逃れた。そして土地持ちの畑に夜な夜な忍び込み、泥棒をしながら食いつないでいたが、ある日遂に盗みの現場を発見される。
 当然畑の主は怒り狂い、沙夜子に容赦ない暴行を加えた。泥棒である彼女を介抱する人間もなく、沙夜子は襤褸雑巾のように転がされていたが――そこに偶々現れたのが火遠であった。

「何がそこまでさせたのか、俺は知りもしないけど。火遠はその女を助けて逃げ出したんだ。行く先々の戦禍を逃れながら半年近く生活してた。けれど――」
 水祢はそこで一旦区切って眞虚を見た。
「その女、どうなったと思う」
「どうって……」
 眞虚には、そこから先の展開は大体予想がついていた。そもそも死者を蘇らせる効果を求めた由来などという時点で、物語の末路なんて決まっている。
「…………死んだ……?」
 恐る恐る口にすると、水祢はゆっくりと頷いた。火遠の方はというと、ただ黙って腕組みし、不機嫌そうな顔で宙を睨んでいた。
「その日何が起こったかは、お前らも習って知ってるだろ。終戦近い八月六日、火遠と沙夜子は、不運にも広島に居た。……沙夜子は死んだよ、あっさりと。だってただの人間だもの。そして火遠は生き残った。……というのが昔火遠に聞いた話。戦時中は俺も嶽木も火遠と共に行動していないから、誰も本人からの伝聞でしかこの話を知らない。もしかしたらこれ自体火遠の嘘かもしれない。……けれど。ここからは俺が実際に見た話だ」
 言うと水祢は、スッと火遠を指差した。
兄さん・・・。俺の記憶に間違いがなければ、火遠と再会したのは戦後三年、妖怪どもの物品市での事だったよね?」
 ――物品市。その言葉に火遠は僅かに反応し、虚空を睨んでいた視線を水祢に向けた。
「ああ、そうだけれど」
 火遠は肯定するものの、そこに平時のような余裕はなく。まるで人が違ってしまったような、えらくぶっきらぼうな受け答えだった。
 その態度に、傍から聞いていた美術部員たちは少なからず驚いた様子だったが、水祢は気にせず続けた。
「あの時火遠は香木屋の前に居て、小脇に箱のようなものを抱えていた。……その中身は、反魂香の香木だったんじゃないの? 火遠は最初本来の目的で用いるつもりでそれを買い、後に改造を施した。――違う?」
「…………。何を根拠に言ってるんだい。確かに、俺は昔一人の人間と行動したことはあったけれど。死んだ者を生き返らせるなんて、それこそ理に反れたことを、俺が態々わざわざやると思うかい?」
 ましてやたった一人の人間の為に、と。理の調停者たる火遠は肩を竦める。だがしかし、水祢はその様子を呆れたような目で見つめ、小さな声で呟いた。

「……だからこそ妬ましいのよ」

 水祢はプイとソッポを剥いた。
 彼は知っていた。全く何でもないような態度を取ってはいるが、火遠はきっとその時その娘のことが好きだったのだ。
 しかしそれは恋愛感情としての"好き"ではない。泥水を啜ってでも生きて行こうとする沙夜子の精神が人間好きな火遠の琴線に触れて、愛すべき人間たちの中の一人として好いていたのだ。
 だが、恋愛にしろ友愛にしろ、好いた者を失うのに何の違いがあろうか。たった一人、されど一人。きっと彼は寂しかったのだ。
 反魂香は本来、煙の中に死者の姿を浮かび上がらせるもの。死者の霊魂と交流する為の道具。霊感というものを持ち合わせていない事の方が多い人間ならまだしも、基本的にこの世ならざるモノの類なら何でも察知できる妖怪には本来不要の道具である筈。
 にも関わらず火遠がそれを求めたのは、きっとどこにも居なかったからなのだろう。……沙夜子の霊が、どこにも。
 戦後荒廃した都市と貧しい暮らしを強いられる人々の中で、幾度となくオカルト的な噂が飛び交った。現世で流言が飛び交うようになると妖界にモノが流れ着く。それは噂の中で新しく生まれた怪異だったり、伝説上の物品だったりと様々だが、特に物品が多く出現した時。妖怪は物品壱を開き、それらを再び世に流すのである。
 火遠が反魂香を手に入れることが出来たのは、そういった物流の背景と、偶然の出会いが重なったからなのだろう。反魂香と偶々出会ってしまった火遠は、それに手を出さずには居られなかった。
(……だけど、結局。何も浮かび上がることは無かった。たかが三年、されど三年。沙夜子の死体はもう無く、霊薬としてそのまま飲ませることも叶わない。だから遂に兄さんは、やってはいけない事をした)
 水祢は教壇の上から降り、黒板に顔を向けて深く溜息を吐いた。
(あの世の蓋を開こうなんて、下手すれば今頃糾弾されるべき【月】じゃなくては兄さんになっていた所じゃないか。……結局一時的に死体を生かす程度で、望み通りの効能を得ることには失敗したけど)
 ふっと水祢が見遣った窓の外には、広々と拡がる北中の校庭がある。先刻の騒ぎなど知りもしないで、暮れなずむ空の下で部活動を続ける運動部の生徒達は、理科室から見下ろすとまるで小動物か虫の様だ。

 ――彼らの足元に、かの巨大な大霊道が眠っているだなんて。言った所で誰が信じようか。かつて黄泉に通ずると言われた大穴があって、それを霊能者総出で封じ込めたという話だけでも相当なファンタジーなのに。それが再び開通した日にはとんでもないことになるだなんて、夢物語もいいところだ。
 現在でも北中では度々不可思議な事――怪事が起こっているし、しょっちゅう怪談じみた噂も囁かれはするものの、それでも信じない者は信じないだろう。ましてや、彼らが今日も平穏に暮らしていられるのも、美術部のごく少数の部員のお陰だなんて。

 地獄だろうが天国だろうが、本来隔てられているあの世とこの世を繋ぎっぱなしにしておけば、何かしらの歪みが生ずる。ごく小さな霊道の通り道は所謂心霊スポット・幽霊物件程度で済むが、古霊町に眠る大霊道はそれを遥かに凌駕する大きさだ。封印の蓋は決して開け放してはいけないし、緩んでいようものならばもう一度封印しなくてはならない。火遠はそのことをわかっていて、分かっていたにも関わらず。たった一人の人間の為に、過去に一度だけ禁忌を犯そうとしたのである。
 それほど兄に好かれていた人間が過去に存在したのだと思うと、水祢は悔しく恨めしく思うと同時に、彼女の事が羨ましく思えて仕方ないのだった。

(――否、二度か)
 そう思いつつ水祢がちらりと振り返った先では、火遠が乙瓜と魔鬼に糾弾を受けているところだった。
「シリアス過去のことはわかったから、そんな危険物を手に届くところにいつまでも置いておくのやめてよね! 女々しいなぁもう」
「お前結局その子の事好きだったんだろ!? 曖昧な受け答えしてないではっきりいいやがれこのロリコン!」
「……だからそう言うのじゃあなくてだね。…………全くもう君たちは……」
 珍しく言い負かされて頭を抱える彼を後目に、水祢はまた溜息を吐いた。
「はぁ。お前たち、あまり火遠を弄るのはやめてよね……」
 くたびれたようにもう一度教卓にもたれかかる水祢の視界に、こげ茶色の頭が割って入った。
「何さ。もう俺から言う事は特にないよ」
「ううん、でもあと一つだけ教えて?」
 明らかに面倒くさそうな水祢の顔を真っ直ぐに覗き込んで眞虚は言う。
「火遠くんは沙夜子さんの蘇生に失敗したんだよね? だけど、その時の香木と香炉をずっと持ってたのは何でだろう?」
「……さあ。知らないよ」
「本当にそうかなぁ?」
「……しつこい」
 そう言って水祢は視線を逸らすが、本当は知っていた。否、直接聞いたわけでは無いのでこれは完全な憶測だが、それ以外に思い当たる節がなかった。
 知らないとあしらわれた眞虚も、本当は気付いていた。同じく憶測であるが、火遠が反魂香を北中に持ち込んでいた理由に心当たりがあった。

 火遠は九年前、【三日月】に唆されて大霊道を解き放った生徒会会長及び副会長を殺している。火遠が最後生徒会長と相打ちになる形で霊道を封印し、自身も封印されたという話は、眞虚も乙瓜達から聞いて知っていた。
 その時火遠が封印されていたのが美術室の小戸。用途不明の謎の空間。眞虚が香炉を見つけた場所である。

 眞虚が見つけた時、香炉の中に灰も炭もなく、ただ少しの香木の欠片だけが入っていた。
 香木は神域の樹木から作られたもので、死者蘇生の霊薬としての効果があった。

 ――火遠くんはもしかして。眞虚は思う。
 だが、その答えは本人しか知らない。香炉は壊れ、香木は消滅し、完全に消滅してしまった。
 三年の教室を騒がせたホルマリンゾンビもその痕跡ともども消えてしまったし、勉強疲れの中で見た白昼夢として忘れられて行くだろう。
 全てが夢幻の如く消え失せた、平穏な放課後。

 黄昏の光に包まれる理科室の中で、一瞬だけ。
 あの何とも言えない香りがふわりと立ち。消えた。



(第十三怪・死蘇芳香・完)

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