怪事戯話
第十三怪・死蘇芳香③

「火遠!」
 乙瓜が見遣った扉の方には、なんとも呆れたような顔をした火遠と、傍らに控える水祢の姿があった。元から扉側に居た杏虎は気絶した深世を引き摺って教室の隅に退避し、彼らに対して道を開けている。
 火遠は自身の方に跳ねてきた目玉たちを一瞥すると、足で軽く払いのけた。目玉は教壇の方へ飛ばされ、雑に置かれていた消化バケツにぶつかると動きを止めた。……気絶した、ということだろうか。だが火遠は目玉がどうなったかなど全く気にすることもなく。遊嬉の方を指すと、彼女に一言命じた。
「遊嬉、刀だ。崩魔刀でもって香炉をたたっ斬れ」
「はぁ? 刀ァ?」
 遊嬉は相も変わらず向かってくる蛙のゾンビを避けながら、未だ机上にて芳香を放ち続ける香炉を見た。
「香炉と標本に何の関係がぁっ!? ……あるってーのさ!」
「俺が無意味なことを頼むとでも? 大有りに決まってるじゃあないか。それは只の香じゃない。反魂香はんごんこうだ」
「ハンゴン――ひぁっ!?」
 聞き返す遊嬉の顔擦れ擦れをさっきとは違う蛙のゾンビが通り抜け、彼女は小さな悲鳴を上げる。だが他の部員達も何かしらに群がられているし、三年の教室からは相変わらず怒声と悲鳴が上がっているし、火遠と水祢は自分たちからどうにかしてくれるつもりはないようだし、ここは自分がやらねばならない。
 遊嬉は腹を決めた。
「……願いましては四の五の双つ! 退魔宝具・崩魔刀!」
 まじない文句を叫ぶ遊嬉の目の前に棒状の火柱が上がる。その炎に驚いたのか、構ってほしそうに跳んでいた蛙のゾンビはぴたりと動きを止めた。二年の先輩たちを囲っていた臓物ゾンビや眞虚を取り囲んでいた甲虫ゾンビといった、視覚や聴覚があるのかすら怪しい連中もまた人間に迫るのを止め、突如現れた火柱に注目するように大人しくなった。
 遊嬉が火柱を手に取ると、それは瞬く間に一振りの刀へと姿を変えた。鮮やかな赤い柄糸と研ぎ澄まされた白刃。それこそが崩魔刀の持つ数ある姿の一つであり、退魔剣士である戮飢遊嬉が好んで用いる形態だった。
「でやぁ!」
 力のこもった掛け声と共に、遊嬉は香炉に向けて刃を振り下ろす。
 次の瞬間ふぅと息を吐く遊嬉の前には、見事真っ二つに割れた香炉の姿があった。大胆な軌跡は机ごと両断したかのように見えたが、不思議なことに机は無傷であった。
 不思議なことはもう一つ起こっていた。割れた香炉からは灰の一つも零れ落ちておらず、……というか、確かに入れた筈の香炉灰も、炭も、そして香木さえも、まるで夢幻ゆめまぼろしのように消え失せていたのである。

 ――そこには、真っ二つになった香炉そのものだけが存在していた。

「おーいおい、どーいう原理だ、コレ……」
 遊嬉が眉間に皺を寄せていると、机の上に逃れていた乙瓜が下りてきた。
「うぉぅ……大胆に割ったなぁ、これ」
 感嘆しては香炉の残骸に触れる乙瓜。その様子は先程までの怯えきった風とは打って変わり、どこか余裕すら感じる。
(あれ……そういえばゾンビは?)
 不審に思った遊嬉は、その時になって漸く顔を上げて室内の様子を見た。ぐるりと一周見渡してみると、そこには先程まで元気よく跳ね回っていた標本の姿も、その残骸すらも存在せず。部員達が逃げ惑った所為でほんの少し荒れてはいるものの、何の変哲もない理科室の光景が広がっているだけだった。
「遊嬉が香炉を切った瞬間に全部消えちまったんだ」
 そう語る乙瓜の後ろでは、首を傾げながら机の上から降りる二年生や、掃除用具を仕舞う眞虚の姿があった。疲れ切った様子の魔鬼は行儀悪くも机の上に腰かけ、深く息を吐いている。
 まるで大勢で揃って幻覚でも見ていたかのような有様に、遊嬉は目を白黒させる。直後何かに思い至り、小走りで出入口の方へと向かった。そして扉から少しだけ体を出し、廊下に面した準備室の窓を見る。
(ある…………!)
 それを確認した瞬間、遊嬉は戦慄した。
 確かに先程まで蘇り、ゾンビのように暴れまわっていた標本たち。彼らの姿は割れた筈のホルマリン漬けの瓶の中にすっぽりと収まっており。物言わぬ理科教材として、ただ静かにそこに在った。
 唖然とする遊嬉に、杏虎が言う。
「でも、騒ぎは確かにあったよ。ホルマリンは確かに割れたし、中の標本は蘇生した。三年の教室にも飛び火して大騒ぎになってたのもね。……尤も、あたしも夢を見てたってわけじゃなければの話だけど」
 だけど証拠ならあるか、と杏虎は足元に視線を移す。そこには、最初にそれを見て気絶した深世の姿があった。
 深世が叫んだり泡を吹いたりした瞬間なら、遊嬉も他の部員達も皆目撃している。自分たちの見たものが夢ならば、深世が未だ気絶し続けていることの説明がつかない。……そして何より。一連の出来事が夢でないことは、理科室の教壇の上に腰かけている火遠たちが証明しているのだ。
「…………反魂香……」
 遊嬉は思い出したようにその単語を口にした。

 先刻は咄嗟の事で思い至らなかったが、遊嬉にはその名称に聞き覚えがあった。
 彼女の知る話では、それは確か大元は中国の故事であり、霊薬を金の炉で焚くとその煙の中に故人の姿が浮かび上がるというものだった。
 ……だが、少なくとも先程まで体験した出来事は、その故事とはかけ離れているような気がする。香炉からは煙は起こっていないし、故人の姿が映るどころかゾンビ映画紛いの展開が始まるし。
(――つまり、これは……一体どういうことだ?)
 遊嬉は顎に手を当てながら、呑気に足を揺らす火遠を見据えた。彼はパニックから一転、狐につままれたような顔をする部員達を見下ろしてはクスクスと笑っている。

 そんな彼に向かって、一人の人影が歩み出た。小鳥眞虚だった。

 眞虚は乙瓜や魔鬼が変な顔をして弄っていた香炉の残骸を持つと、火遠に向かってスッと突き出した。
「これ、火遠くんのだよね?」
 ちがう? と問いかける眞虚から残骸を受け取り、火遠は意味ありげに目を細める。そして二つに別れてしまったそれをまじまじと見つめた後、常日頃から見せている人を食ったような笑みを浮かべて答えた。
「ああ、そうだとも」
 火遠は教壇の上からよっと降り立つと、今度は生徒用の机に手を付き、寄り掛かった。
「君の言う通り、こいつは俺の私物さ。まあ、これ自体は昔の伝手つてで手に入れた只の古い香炉さ。どこかの茶釜みたいに狸の化身ってわけでもなけりゃ、付喪神が憑いていたりとか、特に曰くのある品というワケでも無い」
 言いながら、火遠は二つに割れた香炉の空っぽの中身を見せるようにした。
「中に香木のようなものが入っていただろう? 問題はそこにある。あいつは普通の香木のようでいて、その実は神域の樹木から作られた特殊なモンだ。……乙瓜は何度か入ったことがあるだろう?」
 突然話を振られて、乙瓜は少し驚きつつも思い出す。
 ――角のある白い神の住む場所。果てなき妖海と立ち籠める霧、聳える巨大な朱の鳥居。死して尚神に仕える死者の住まう、明らかに異質な空間を。
 やけに年寄りじみた言葉で話す小さな神の姿を思い出しながら、乙瓜はこくりと頷いた。
 火遠はそれを確認すると、再び眞虚へと視線を戻す。
「神域の植物や果物はそれ自体が高等な薬みたいなもんだ。……まあ、人間にとっては必ずしも薬になるとは限らないけれどね。兎にも角にも、そんな場所の樹木から作られたわけだから、例の香木にもただ香りを楽しむだけじゃあない効能があった。――即ち死者蘇生の霊薬としての効能が」
「死者蘇生?」
「ああ」
 訝しげに眉を寄せる眞虚に頷いて、火遠は話を続けた。
「中国の故事にこんなものがある。霊薬を炉で焚くと煙の中に故人の姿が浮かび上がるというもので、その煙が切れるまでは故人と話すことが出来たと云われている。それが反魂香。件の香木は、その霊薬と似たような効能を持っていたのさ。まあ、本来は霊界と交信するためのものだと思ってくれて構わない。……それにしても、反魂香は本来はそういう効果のものじゃないんだけど、経年で妙なことになってるのか。香の充満する範囲の死体がこぞって蘇るとは、流石に驚いたよ」
 後半をぶつぶつと呟きながら火遠は今はもう失われてしまった香木を惜しむように香炉の内側を見つめた。
 相変らず入り口側に居た遊嬉は、そういうことだったのかと納得したように手を叩いた。椅子に掛けて立て肘をつく乙瓜と魔鬼は、「だけどいい香りだったのに勿体なかったな」なんて、今更だから言えるような事を語りあっている。
 そんな中、眞虚一人だけが若干釈然としないような表情を浮かべ続けていると、黒板側から教壇に寄り掛かった水祢が口を開いた。
「……わざとらしく誤魔化すくらいなら本当の事を言えばいいのに。知ってるよ、反魂香の香木を弄って違った効果が出るように変えたのは火遠でしょ」
「え……?」
 ポカンとして見上げる眞虚の視線の先で、水祢が不機嫌そうに頬を膨らませていた。
「おいおい、何を言うんだよ水祢。俺は昔馴染みの伝手で手に入れたものを記念に持ってただけだぜ? 確かに惜しくはあるけれど」
「誤魔化さないで」
 水祢ははぁと溜息を吐くと、火遠の持つ香炉の残骸を指差して言った。
「それはある人を黄泉返よみがえらせる為にわざわざこしらえたもの。……違う?」
「………………」
 指摘され、火遠はばつが悪そうに視線を逸らした。
「おい、どういうことだよ火遠。それってつまり元凶はお前って事じゃないか!」
「そーだそーだ! 製造物には責任持て! PL法って知ってっか!」
「うるさい! 当分黙れ」
 脇でまくしたてる乙瓜と魔鬼を一蹴し、水祢は眞虚の方を見た。眞虚は大きな目に真剣な色を宿しながら、静かな声で言った。

「水祢くん。その話、詳しく聞かせてくれないかな?」

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