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どれくらい時間が経っただろうか。
いや、もしくは時間なんて全く経過していないのかもしれない。
乙瓜が気付くと、そこは幾枚もの硝子の壁に囲まれた不思議な部屋の中だった。
硝子――否。彼女の周りをぐるりと取り囲む壁は、きょとんとして辺りを見回す乙瓜の姿を全方位全角度から映し出している。
――鏡だ。
乙瓜がその解に至るまでに、それほど時間はいらなかった。右も左も上も下も、全てが鏡でできた部屋が反射に反射を繰り返し、乙瓜の虚像を無限に映し写しているのだ。
「こんな映画どっかで見たことあるぞ……。流石にここまで全面じゃなかったけど」
独り言を呟きながら乙瓜は立ち上がる。同時に鏡の中の彼女たちも一斉に動き、まるで統率のとれた集団行動をしているかのような錯覚をもたらした。
「うわぁ気持ち悪っ。………………これが流石に学校の中、ってことはない、よな。はぁ、やっぱり、ここって鏡の中の世界って奴なのかな。マズったなぁ、どっかに出口があるといいんだけど……」
乙瓜は早くここから抜け出そうと、出口を探すように鏡の壁をペタペタと触る。だが、どの鏡も固く冷たい手応えしか返さず、どれか一つが隠し扉になっていたり、漫画でよくあるようにどれか一つが波打っていてワープできる、なんてことはないようだった。
「……ハンマーとか――ないか」
壊したら行けるんじゃないかという考えが過ったが、只の学生がそう都合のいい道具を持っている筈もない。標準的な中学校なら技術室や美術室に望みの物があるだろうが、今取りに行ける状況じゃない時点で意味がない。
それならと、がさごそとポケットの中を漁る。ポケットの中にはいつも通りなら護符が入っている……筈だったが。
「…………無い? うそだろ……」
まさぐるポケットの中には、ただの紙切れ一枚だって入っては居なかった。他のポケットに入っていたハンカチや学生証も無くなっていたのだ。乙瓜は覚えている。遊嬉と鏡を見に来る前までは、確かにポケットの中に何かが入っていた感覚があった。
「落とした……まさか?」
落としたのか、消えてなくなったのか、もしくは乙瓜を鏡の中に誘った何かに奪われたのか、いずれにせよ乙瓜は火遠との契約の力たる護符を失ってしまった。つまり超常的な力を使ってこの空間を脱することは不可能だということだ。
だが、それでも。ほんの少しの希望を賭して素手で鏡をバンバンと叩く。勿論鏡はびくともしない。けれども乙瓜は叩き続けた。
「誰か、誰かー! 遊嬉っ、まだそこにいるか? 聞こえるかー??」
もしもそれほど時間が経っていないとするなら、鏡の向こうの世界には遊嬉が居るはずだ。もしかしたら、こちらの声が届くかもしれない。
通じているかもわからない外界に向けて、乙瓜は叫び続けた。
……だが、その声に答える声は、いつまでも帰ってこなかった。
くたびれてきた乙瓜は最後に力いっぱい鏡を殴ったきり、その場にへたり込んでしまった。
「今年入ってからトンデモ空間に縁がありすぎだろ……」
両手を地についた情けない姿を、鏡たちが容赦なく反映する。馬鹿にされているかのようで乙瓜は少しムッとしたが、怒っても仕方ないと思いそっと目を閉じた。
目を閉じた視界の底は真っ暗だった。うざったらしい虚像も無ければ音を発する存在もいない。世界は静寂そのものだ。
何も見えず何も聞こえない、怖いくらいの虚無。――こういうのを得意としていたのは闇子さんだっけ? 乙瓜は思う。けれど、ここは天と地がはっきりとしている。上下左右の感覚がある。硝子の冷たい温度がある。
乙瓜は目を開ける。相変わらず視界いっぱいには鏡。けれど、きちんとした質感がある。
(慣れ、なのかな。あんまり怖くはないや。……それに、なんだろう。何とかなるような気がするんだ。安心感? っていうのかな。遊嬉は見てた……筈。なら、そのうち助けが来る……筈。わかんないけど)
その時、暫く姿を見ない契約の妖怪の姿が脳裏に浮かんだ。
(……今まさにピンチじゃないか。なんで来ないんだよ……)
体育座りした両膝をより強く抱えこみ、乙瓜は頭をうずめた。
「可愛そうだねぇ不幸だねぇ。女の子が泣いてる世界はとってもブルーでよくないねぇ!」
不意に聞こえた戯けた声に、乙瓜はばっと顔を上げる。
あれほど誰も居なかったのに、視界の先では一人の人物が、鏡に寄り掛かりながらひゅうと口笛を吹いていた。
見たところの年の頃は乙瓜たちと同じ程度だろうか。セーラー襟の服を着たその姿は、ほんのちょっとだけ火遠たちに似ているように思えた。束ねた黒髪を猫の尻尾のようにたらした彼は、乙瓜の視線に気づくと片手をあげて親しげに声をかけるのだった。
「よっ。どうも初めまして、カラスガイイツカちゃん。この度は楽しい楽しい上映会に足を運んでくださってぇ、誠に誠にありがとうございまーすっ!」
彼は無邪気そうな笑顔で笑うと、意味もなくその場でくるりと一回転した。
「……また新種のなんとやらが現れた」
乙瓜はこのパターン多いなぁと思いながら呆れ顔になった。彼もまたどうせ人外の類なんだろうということは、想像に難しくなかったからだ。
対する彼は乙瓜の呟きなど全く気にする様子見なく、アトラクション進行役みたいな口調で続ける。
「僕の名前はミハル。魅力のミに玄武のゲンで魅玄。袰月魅玄。君と言う将来有望で貴重な若者を不埒な輩から助けに来た、正義の組織の者……っていったら話通じる? オーケィ?」
「……何を言ってるんだか訳が分からん。正義の組織? いきなり鏡の中に拉致監禁するような奴らが正義の組織なわけないだろうが」
ソッポを向く乙瓜に、魅玄はやれやれと大げさに肩をすくめた。
「まーそうだねェ、男は狼、他人は泥棒、見ず知らずの他人をいきなり信じちゃダメダメって言うものねェ。とりあえず僕が怪しい者でないことを証明する為に身分を明らかにしちゃいますか、ね」
魅玄は乙瓜にすっと近寄って、ピエロみたいに芝居がかった動きでぺこりとお辞儀をした。
「我々は【月】。月喰の影、ルナ・イーター、餐月会……等々、人は我々の事を色々な名前で呼ぶけれど、敢えてお空の月と分けて云うなら、親しみを込めて【三日月】と。そう呼んでいただけたら幸い幸い。我々の構成員は洋の東西問わず存在する怪奇怪異怪物怪現象なれど、なぁに怪しいものじゃないよ。ただ人でない者たちが過ぎたる脅威に怯えることなく暮らしていけるように願い活動する集団、ってワケ。まあ、以後お見知りおきを」
長々と告げて、【三日月】の魅玄は右腕を差し出した。
「……? 何だよ」
「只の握手だよ。大丈夫、爪に毒とか塗ってないさ」
「…………そうかよ」
乙瓜は渋々右手を出して彼の握手に応じた。そろりと差し出された乙瓜の手を、魅玄はニコリとして握りしめた。
「で、月だかすっぽんだか知らないけどその正義の味方の一人が俺に何の用なんだよ。こんな変なところに閉じ込めやがって、あまり許されることではないぞ」
「まあまあ、そう怒らないでちょうだいよ。学校妖怪や奴の目を欺いて時間を稼ぐにはこうするしかなかったんだって。僕だって手荒な真似して悪かったなーとは思ってるよ? 荷物だって返すさ」
魅玄は二つの手を水平に重ねて手品師のような動きをすると、何も無かった手と手の間にハンカチが現れた。彼はそれを四つ折りにして乙瓜に渡す。「どうぞ」と手渡されたそのハンカチに、乙瓜は見覚えがあった。そのハンカチこそ、乙瓜のポケットから無くなっていたハンカチだったからだ。内側に感じるやや硬い感触に布を開くと、同じく喪失していた学生証が姿を現した。
「……! お前が盗ったのか!」
私物を奪ったのが目の前の人外だと知った乙瓜は一歩後ろに下がり、鋭い警戒の眼差しを向けた。
敵意をむき出しにした猟犬のような視線を向けられて尚、魅玄はそれまでの態度を崩さない。
「持ち物検査だよ、危険物を持ち込まれていたら危ないもの」
「……札が入っていた筈だッ! そいつも返せ!」
「それは出来ない相談だよ。あんな危険物を子どもが持ってるのは感心できないからねぇ。だから、こうしちゃった」
魅玄は軽く握った拳から立てた親指で何かを押すようなジェスチャーをしてみせる。乙瓜がその意味に気付くのに、それほど時間は要らなかった。
「燃やしたのか……?」
「まーねー?」
「っざけんな! あれが無いと――」
「……無いと、何だい? そう言って僕たち妖怪を片っ端から滅していくつもりかい?」
「――ッ?」
乙瓜はそれ以上言葉を紡げなかった。魅玄の発言に一瞬とはいえ正当性を感じてしまったからだ。
――僕たち妖怪を片っ端から滅していくつもりかい?
(……違う、俺は滅してなんかいない。ほんの少し悪さをする奴らを、ほんの少し懲らしめてきただけ……懲らしめてきただけじゃないか)
ほんの一瞬だけ乙瓜の中に生じた迷い、それをぴたりと読み取ったかのように魅玄は言った。
「違わないよ」
確りと。短く簡潔で否定の隙もないくらい確りと彼は言ったのだ。
「ナイフを振り回して遊んでいて、いつか相手を致命的に傷つけてしまう可能性がないなんて、誰に言えるんだよ? 君たちがやってることはどうしようもないくらい危険な火遊びだよ。だから【三日月】は君を助けに来たんだ。君に危ない遊びを教えて実行させようとしてる、悪い友達から縁切りさせるためにね?」
「悪い、友達…………」
「そう、覚えがあるでしょ?」
――『我が契約の名はソウガク***。契約主はカラスガイイツカ。契約承認。契約完了』
乙瓜は一匹の妖怪の姿を思い浮かべた。五月に自分たちの目の前に現れた契約の妖怪の事を、少々胡散臭くて捻くれた所があるが、何だかんだで窮地を救いに来てくれた彼の事を思い浮かべる。
「非ッ常に残念なことに、君は奴の事を随分と信用してるようだねェ。でも、ああっ! 悲しいかな悲しいかな。乙瓜ちゃん、君は騙されてるよ。その男こそ世の中の平和を掻き乱す大悪人。自分では自分の事を【理の調停者】と称してるようだけど、その実は全然違う。……奴ほどの悪人は中々いないだろうねぇ、いないだろうよ」
舞台役者のように激しく大げさに語ったのち、魅玄は再びピエロのように頭を下げた。途端、鏡だらけの部屋が真っ暗闇に染まる。
少しの後、乙瓜の前方側にある壁が明るく光りを放ち始める。辺りの暗さと相俟って、まるで映画の上映が始まったかのようだった。
そういえば、と乙瓜は思いだす。初めて魅玄が姿を現したとき、これは上映会だと言っていたことを。
鏡の放つ光を背に受けて黒いシルエットだけ浮かばせた当の本人は、司会者のように淡々とした口調で告げる。
「本日は上映会にようこそようこそ。本日の上映するのは『過去』。今から九年前、この学校で実際にあった出来事でございます。タイトルは――」
魅玄の影がすっとスクリーンの前から消える。白い画面が何かを映しはじめる。
映像が鮮明になる前に、姿を消した魅玄の声が響く。
「タイトルは――『草萼火遠の真実』でございます……」