朝の霞が次第次第に消えていくように。少しずつ明確になって行く映像の中に、二人の少女が居た。
彼女らの立つ場所は、乙瓜にも見覚えがあった。まだ数回しか行ったことがないが間違いない。そこは、古霊北中学校の屋上だった。少女たちの服装を見るに、北中の学生らしかった。どちらも上着は羽織っておらず、半袖のブラウスを着ている。季節は夏の様だ。ゴオゴオと聞こえるのは風の音か。少しだけ見える旗竿の国旗はバタバタと激しくはためいている。
その旗と同じように制服のロングスカートを翻し、コンクリートの地面を白いゴムの上履で踏みしめる小柄な少女と、その傍らに控える長身の少女。小柄な少女が眉間にしわを寄せて睨む先に、彼は立っていた。
――草萼火遠。妖怪を狩る妖怪。理の調停者。
まだ両の眼が健在で、長い長い髪を炎色に輝かす彼は、乙瓜と出会う前の火遠に相違なかった。その手には、あの始まりの日に乙瓜へと向けられた大きな鎌が握られている。
『もう一度問おう。事態を収拾する気はないのか』
映像の中の火遠が相対する少女たちに告げる。強い風がゴオッと吹き、赤い髪が荒れ狂う炎のように乱れる。
小柄な少女はその風に短いおかっぱ髪をぶわと広げながら、キッと目を細め、火遠を睨む目により一層の力を入れた。
『断る。あなたがどんなに説得しても、私はずっとこのままを望み続ける。引くことはしない。後悔も無い!』
言って、彼女はブラウスの胸ポケットに手を入れた。スッと取り出したそれは風に煽られてカシャカシャと鳴った。
一枚の紙だった。更に言うなら、それは護符だった。
今にも吹き飛ばされてしまいそうな頼りなさげなそれを突出し、小柄な少女は言った。
『誰にも邪魔はさせない。だからあなたは要らない』
その言葉に応えるように、傍らの長身の彼女が動き出した。
身を屈め、吹きつける強風を文字通り切るようにして俊敏に走り出す。彼女の手にも小柄な少女と同じ護符が一枚。更に、反対側の手には、指の間に挟んでいるのだろうか、尖った竹籤のような鋭いものが覗いている。武装しているようだった。
火遠もまた動いた。動かし辛そうな巨大な鎌をバトンのように軽々と回すと、その巨大な武器は一振りの日本刀へと姿を変えた。
緋色の糸の巻かれた柄を握り、水平に構えて長身の少女を迎撃する体制に移行する。
風を切る長身の少女は火遠の間合いに入る直前で地を蹴り、高跳びの選手のように宙へ逃れた。とても人間の、中学生の少女のそれとは思えない、猫のようにしなやかで軽やかな動きだった。彼女は空中で握りしめた拳を解放し、鋭利な武装を火遠の頭部目がけて射出した。
その攻撃を瞬時に態勢を崩すことで躱した火遠は、重力に従って再び地へと舞い戻る少女に反撃を試みるもするりと躱される。
しばし長身の少女と火遠との躱し躱されの攻防が続く。
鏡の中に延々と上映されるそれを、乙瓜は映画のワンシーンでも眺めるような気持ちで見ていた。
(――まるで現実感がない。傍から見たら、自分たちもこんな戦いをしていたんだろうか?)
鏡の中の少女の動きはどこかにワイヤーでもついているのではないかと思うくらい軽快かつ俊敏で、これが作り物でないとするならオリンピック選手だって真っ青だ。
(これは実際に起こったことなんだろうか。奴は過去を見せると言ってたけれど、この光景が作り物でないとも断定できないじゃないか……)
「作り物だなんてとんでもない。これは実際に起こった出来事だよ。九年前、この学校で。当時の生徒会長と副会長と草萼火遠との戦い、これがその記録」
また乙瓜の心を読み取ったかのように、魅玄は言った。彼は続ける。
「彼女達はシールブレイカー。故意的に大霊道を解き放ち、地獄の最下層まで続く穴から混沌を呼び出そうとした。過程で妖怪の力を手に入れはしたけれど、列記とした人間だよ。どこにでもいる普通の人間の女の子。そんな彼女たちに、草萼火遠が何をしたか――」
ごらんあれ。と、魅玄は言葉を閉じる。瞬間、鏡の向こうから絶叫が響き渡る。
乙瓜が再び鏡の中の映像に注意を戻すと、小柄な少女がコンクリートの地面に膝をついている。両手で耳を塞ぎながら、果たして人間にこんな声が出せるのかといった声で絶叫している。
瞳孔の開ききった彼女の視線の先には長身の少女がいる。腕をだらりと下げ、がくりと下を向いて、何かに寄り掛かるような形で辛うじて立っている長身の少女の背からは――刃が生えていた。
――火遠の持つ刀が、長身の少女の腹を貫通していた。
刃が引き抜かれ、少女の身体は崩れ落ちる。うめき声一つ上げない彼女は既に絶命しているのだろうか。辛うじて生きているのかもしれないが、灰色のコンクリートを染めていくどす黒沁みを見るに、どの道もう助からないだろう。
火遠は刃に付いた血を振り払う。その表情は髪に隠れてわからない。
残された少女の悲鳴が怒声に変わる。雄叫びに変わる。
黒いおかっぱ髪が風に乱れて獅子の鬣のように拡がる。
少女は吠えるように火遠に何かを言った。
乙瓜には、殆ど叫び声と変わらないその言葉を聞き取ることができなかった。だが火遠には通じていたのか、少女に応じるように火遠は再び刃を上げ、その切っ先を少女へと向けたのだ。
……そこで、唐突に映像は途切れた。
ぷっつりと。電源を落としたテレビのように。空間は真っ暗闇に染まった。
光の無くなった空間の中で、乙瓜はただ呆然と、否、僅かに震えていた。自分でも意味も解らず震えていた。
どこからともなく魅玄の声がする。
「上映会はどうだったかなぁ乙瓜ちゃん。見たかい見たかい? ちゃぁんと見たよね、お分かりいただけたかな。そーだよ、あいつ人間の女の子殺しちゃったんだよぅ? 確かに、彼女達もやらかしちゃったけれど、何も殺す事ないじゃないねぇ。……そう思うとほら、怖くなってこないかい?」
魅玄の声は一度途切れ、次の瞬間乙瓜の耳元で囁きかけるように続いた。
「君もヘマしたら殺されちゃうかもしれないんだぜ?」
――例えば、霊道の封印に失敗した時、彼は君たちをどうするだろうね? 魅玄は意地の悪い口調で告げる。
乙瓜はハッとした後振り払うように腕を動かすが、その手は空を切るばかりで彼を捉えることはなかった。
「……ッ! 望みはなんだ、何の為に俺を引き摺りこんだ!? あんなもの見せてどうしろって言うんだよッ!!!」
「だーかーらー、言ったじゃないか。『君と言う将来有望で貴重な若者を不埒な輩から助けに来た』んだよぅ。……そうだね、しいて言うなら」
闇雲に叫ぶ乙瓜に、もはや声だけの存在となった魅玄が答える。
「火遠との契約を打ち切って欲しい。それが僕の――ううん。我々【三日月】の望みかなぁ」
「なっ……?」
言葉を失う乙瓜に、【三日月】の使者は追撃をかける。
「そもそも、奴の目的って何なんだろうね? ていうか、理とは何ぞや。人間を守る? 人間と妖怪の世界に線引きすること? 妖怪という驚異から人間を救うこと? 共存を目指しつつも協調できない輩を排すること? ……わっかんないよねー、わっかんないよねぇ? 怪事を起こすなと言いつつ自分でも怪事を起こしてるじゃないか。矛盾してるよ、矛盾してるよ。ねえ?」
疑問、問いかけ。
――確かに……そうだ。乙瓜は思った。
怪事を語ることで復活した大霊道を封じる為に、幾つの怪事が語られたのだろう。霊道は本当に封印されているのだろうか。……そもそも、終わりはあるのだろうか?
(そんな、でも、まさか……)
不安と胸騒ぎが乙瓜の心を掻き乱す。鼓動が早い。得体のしれない恐怖が足先からじわじわと登ってきて立っていられそうにない。
「僕はね。本当はこうじゃないかと思うんだ」
包囲するように聞こえてくる声が言う。
「結局奴は、自分にとって都合の悪いやつを消して回ってるんじゃないかって」
乙瓜はもう立っていることもできず、膝をついてぶるぶると体を震わせることしかできなかった。ずっと感じていた謎の恐怖、その正体に気付いたからだ。
――『なーに、目覚めの運動に一狩りいこうと思ってね』
あの日、火遠が乙瓜に言った言葉。
(何故、どうして? どうして火遠はあの日俺を殺そうとしたんだ……? 封印を解いたから? それとも火遠を目覚めさせてしまったから?)
大鎌を振り下ろされた時の恐怖が、今更になって乙瓜の中に蘇る。
(あんなもので斬られたら死んでしまう。そんな事考えなくたってわかる。そんなモノを、あいつはあんな軽いノリで、無慈悲に振り下ろすことができるんだ……! 偶々助かったけれど、もし咄嗟の反撃に出られなかったら? ……出られなかったら、きっと今頃――)
恐怖を思い出し声も出せない乙瓜に、魅玄の声が優しく囁く。
「奴とはもう縁を切るべきだよ。もう怖い事も無い、辛い事も無い。僕たちが君を守ってあげる。何なら君の友達も。こっちへおいで、乙瓜ちゃん」
暗闇の中からすぅっと手が伸ばされた。
うっすらと魅玄の姿が見える。その顔は笑っているのだろうか。人ならざる者の紫の瞳が穏やかに輝いている。
その二つの光に魅せられるように、乙瓜がよろよろと手をのばした、――その時。ぴしぴしとひび割れるような音が、闇の世界に響き渡る。
亀裂だ。
空間に亀裂が入っている。暗闇の世界に侵食するように、眩い光がどこからともなく侵入し、拡がっている。
「チッ……時間稼ぎはここまでかよ畜生っ!」
魅玄が露骨に舌打ちする。彼は明らかに動揺していた。
乙瓜は何が何だか考えることもできず、拡がって行く亀裂をぼんやりと眺めていた。――そして。
崩れる、砕ける、決壊する。
闇の世界が崩壊し、世界は硝子でできた鍾乳洞のような空間に姿を変える。天から壊れた鏡の雨が降り注ぐが、しかし乙瓜は呆然として動けない。その彼女を破片から庇ったのは魅玄だった。彼が妖怪だからなのか、それとも自分の術中に依るものだからなのか、乙瓜の盾となり硝子片の雨を一身に受けた彼は無傷だった。
ジャリ、と破片を踏んだような音がする。
魅玄は乙瓜を抱き寄せた体勢のまま音の方を睨みつける。彼には確信があった。
――来たな。
破壊の粉塵の向こうから、黒いローファーが姿を現す。続き、炎のような髪がゆらゆらと揺れてその全貌を現す。
「やあ。うちの下僕を大分虐めてくれたみたいじゃあないか。俺が不在の間に随分好き勝手してくれたみたいだね?」
呑気そうで、愉しそうで、しかし確かな怒りを感じさせる口調で彼は言った。その足元に散らばる硝子は赤く発光しながら溶けている。熱だ。彼が高温の炎と同じ熱を放っているのだ。
「……大層、ご立腹みたいじゃん」
「怒る? いいや、怒ってなんかないさ。外がとっても暑かった、それだけだよ」
何でもない風に彼は言う。……嘘だ。もう十月半ば過ぎ、外はいよいよ木枯らしの季節だ。暑いわけがない。
魅玄の頬に汗が伝う。それが彼の放つ熱に依るものか、冷や汗なのか、魅玄自身にもわからなかった。
ただ一つ、魅玄に解ることは――幻術を使うこと以外に能の無い自分に勝算は無い、という残酷で無慈悲な事実だけだった。だから彼には睨むことしかできない。精一杯の力を込めて、向かってくるそいつを睨むことしかできない……!
「草萼、火遠ッ……!」
魅玄の睨みを受けながら、火遠はにやりと口角を上げた。
「その子は影の溜まり場には渡さんよ。さあ、離れて貰おうか!」