怪事戯話
第五怪・最後の奏楽、楽器の歌声②

 火遠にそそのかされるままにやってきた音楽室は、普段この時間帯には吹奏楽部の拠点であるのだが、不思議なことに誰もいなかった。
 かといって、今日は活動休止中というわけでもなさそうで、学生たちの鞄と私物は部屋の隅に寄せられて綺麗に並ばっている。
「なんか夏の屋外発表の練習するんだってさ」
 頭の上に疑問符を乗せている部員たちに深世は言った。
 たしかに三階から見下ろす窓の外、校舎の前庭には楽器を持った吹奏楽部員が思い思いに音を出している光景が見える。尤も、教室のような閉じられた空間でないので平時より音がひびいていないようだったが。
「ていうか美術室したに居たときもずっと聞こえてたし。どんだけ歌練うたれんに集中してたんだよ……」

 呆れ顔の深世の話を聞いているのかいないのか、美術部員たちは思い思いに音楽室の中に広がっていた。
 その中で明らかに深世の話を聞いていなかったろう遊嬉は、音楽準備室の閉じられた扉の窓硝子ガラスを覗き込んでいた。
「はー、ベートーヴェンもバッハもシューベルトもこーんなところに押し込められてかわいそーになァ」
 暗幕のかかった薄暗い部屋の中、これといって使われることないままほこりをか被っている偉大な音楽家たちの肖像は、心なしか教科書の資料で見たそれより目が死んでいるように見えた。少なくとも、彼女には。
「あんまり憐れむとついてくるぜ?」
「はーん。そりゃおっかないこって」
 いきなり背後からかけられた声に普通に対応しながら、遊嬉は振り返った。
 その先には、想像に違わず火遠が居た。その顔はかつてなくキョトンとしていて、当たり前のように返されたのがよほど想定外だったと思われる。
「全然……驚かないね?」
「いや、驚くのって多分リアクション専門の乙瓜と魔鬼あの二人担当じゃん? あたしそういうのキャラじゃないと思うんで」
「……思ってどうにかなるもんなのかい?」
「気の持ちようが変わるとか」
「そういうもんなのかね」
 さらりと答える遊嬉に対して釈然としない顔をしながら、火遠は手近な窓枠に腰を掛けた。
「で、合唱が上手くなる云々の怪事はどこにあんのさ」
 先ほどまで覗き込んでいたドアに寄り掛かり、遊嬉は言った。視線の先には火遠ではなく、「居ないうちに使っちゃおうぜ」などと不穏なことを言いながらシンセサイザー・キーボードを引っ張り出している魔鬼と杏虎が、「大丈夫なのか」といいながらも止めるでもない様子の乙瓜と眞虚がいる。
 火遠も同じように彼女達を見て、そして――にやりと口角を上げた。
 気付いているのかいないのか、遊嬉は視線そのままに口を開いた。
「小学の時とか知らないけどさ、乙瓜・・は本当はまだ高音出せるとあたしは思うんだよねぇ。ていうか、練習はじめてからちょいちょい出せてるし。うん、出てるんだよ、声。出たり出なかったりするだけで。……結局は本人が無理だと思ってるのをどうにかしねえと無理っつーか、やる気持たせたうえで十月まで必死で練習せんと駄目っていうか――」
 遊嬉は何やら主題の見えないことをダラダラと喋ったあと、溜息をついて火遠に視線を移した。
「――怪事ってなんなのかあたしにゃまだよくわからんけど、解決した程度であの子の声が出るようになるもんかね? 『合唱が上手くなる』って、そういうことっしょ?」
「無論さ。だがそれだけじゃァないぜ。君ら全員のレベルを上げてやる。クラスの他の奴らがヘマしてもかすむくらいに底上げ・・・してやるよ」
 まあどの程度まで行けるかは君ら次第だけど、と言いながら火遠は立ち上がった。
 そして入り口から段々に下がっていく構造の音楽室の最低面、静かに佇むピアノへと視線を移す。

「そら、始まったぞ」


 ――ポーン。

 突として鳴り響いた高い一音。
 もし、絶対音感の持ち主がこの場にいたなら、それが「ド」の音だと分かっただろう。
 だがそんなことは論点じゃない。今この場において一番問題なのは。

 ピアノの近くには誰もいなかったのに、どうやって音を鳴らしたのか? という、ことである。

 エレクトーン組は違う。まだ電源すら入れていないのに音が鳴ったことに驚き、キーボードを机の上に置いた状態で四人とも固まっている。
 深世も違う。段々教室の中段ほどに立ち、ギョッとした顔でピアノを凝視している。
 勿論、遊嬉や火遠でもない。位置的には一番遠いのだから、可能性としては一番ありえない。
 火遠が何か人外の技を使っていたのなら話は別だが、「始まったぞ」という言葉からそれも薄そうだ。
「ぴ……ぴぴ、ピアノ鳴るのって真夜中の話っしょ……? 何で今鳴ってるのさ……」
 深世がえらく震えた声で言う。声が震えているというか、もう体全体が目に見えて震えていた。いくらなんでも怖がり過ぎではないかと思われる彼女に追い打ちをかけるように、ピアノは更に音を鳴らす。

 ――ポロロン。

「ひぃっ!」と短く悲鳴を漏らし、深世はその場にへたり込んだ。
 ピアノの音は尚も続く。始めは試すように意味のない音たちが鳴り響いていたが、次第にそれは曲の体を成していく。

「……英雄ポロネーズ?」
 誰もが押し寄せる音の群れに驚くばかりの中、魔鬼が一つの曲名を口にした。
 そう、その曲はショパンの有名なピアノクラシック曲、英雄ポロネーズだった。
 タイトルコールに答えるように、ピアノの蓋がひとりでにギギギと開く。その時になってやっと美術部員たちは、ピアノが普通鳴る筈のない状態で音を奏でていたことに気付き唖然とする。
 鍵盤蓋も上がって姿を現したモノクロの列は支えることなく波打つように動いており、奏者の腕前が相当のものであることを伺わせるが、そこに姿がないだけに不気味としか言いようない。
 突然にはじまった姿なき第三者のピアノコンサートを、美術部員達は唖然としながら清聴せいちょうすることしかできなかった。

 やがて演奏が終わり、再び音楽室に静けさが戻った時。すかさず生じるのは乾いた音。
 火遠が両の手を叩いて送る拍手の音だった。
「やあやあ、名演だったじゃないか。素晴らしい」
 彼が称賛の言葉を贈る相手は、控えめにピアノを鳴らすと、すっとその姿を現した。
 
 ――灰色だった。
 髪の毛から服装に至るまで、白黒写真から取り出したかの如く色を失くした半透明の少女が、そこには居た。
 おかっぱ頭の彼女は、火遠の言葉に対してか照れくさそうに微笑み、座ったままぺこりと頭を下げた。そして再びピアノを一音ならす。

『ありがとうございます』

 ピアノの音に乗るように、涼やかな少女の声が美術部全員に届いた。
 だが火遠の隣の遊嬉は気付いていた。少女の口が声に連動して開閉していないことに。
 気付き、そして納得した。
「誰もいない学校でピアノを弾く幽霊の怪談ってのは、超ありがちな話だけど。ははン、なるほどね。そこのかわいこちゃんがこの学校のピアニストってワケだ」
 モノクロ半透明の彼女を指さしながら遊嬉は言った。その言葉を受けて、へたり込んでいた深世がガタッと立ち上がる。
「ああああぁぁああぁあもうッ!! だから幽霊とかマジやめてっていってんでしょ!」
 突然大声を出す彼女は、どうやら精神的に追い詰められすぎて逆ギレしているようである。
 一方、眞虚などはそわそわしながらピアニスト少女の方へと近づいていった。少女は振り返り、色の無い、けれど澄んだ瞳が眞虚に向けられる。
 眞虚は余りにも穏やかなその瞳に一瞬面食らい、「えっと、えっと」と口ごもった後に意を決したように言った。

「幽霊、さん……?」

 眞虚の問いに対し、ポロロンという音色。『そうだよ』という言葉が、音とともに心に伝わってきた。

「襲ったりしない?」

 低い音色の後、『しないよ』の言葉。

「え、演奏……ッ、とてもよかった、よ! えと、その、ピアノすごい上手なんだねっ!」

 高く明るい音色の後『ありがとう』の言葉。眞虚は目を輝かせた。

「ちょぉっとちょっとぉ! お和み中のところ悪いですけどねぇ!? 幽霊ですってよ幽霊! 事件じゃないっすかねお二人! 早く何とかしたほうがいいんじゃないんですかぁ!!!!?」
 折角の雰囲気をぶち壊し、深世は魔鬼乙瓜両名に向かってまくしたてる。大地震でもきたかのように机の下に隠れ、首だけ出して半べそかいて吠える姿はなんとも情けない。
「いやあ、でも無害っぽい相手を出合い頭にいきなり攻撃すんのはちょっと……」
 ねえ? と言いながら魔鬼たちは顔を見合わせた。
 それを見て腰抜けどもめ! と叫ぶ深世が一番の腰抜けであるという何とも変梃な状況である。
 机の上に腰かけて足組する杏虎は、髪の毛を弄りながら「で、これが怪事なわけかいね?」と火遠の方を振り返った。
「そうだとも?」
 答えは杏虎の背後ではなく真正面から返ってきた。
 いつの間にやら遊嬉の隣から杏虎の真ん前に移動した火遠は、一瞬ビクリとした杏虎を見て今度こそしたり顔で笑った。
 火遠はそのままの位置から音楽室全体を見渡した後、虚空に向かって言葉を投げた。

「そろそろ出てきてくれてもいいんじゃないのかい、姉さん」

 ――姉さん?
 大半の部員が疑問符を頭に浮かべる中、乙瓜と魔鬼は先日の件を思い出して鳥肌を立てていた。先日の件とは勿論異怨のことである。

(まさかまさか、あの恐ろしいバケモンをここに呼び出すつもりじゃあるまいな……!)
 一応学校内の人間やその他を襲わないと約束したものの、直接狙われて襲われた乙瓜は気が気ではなかった。
 魔鬼も魔鬼で自分の魔法が碌に効かないという恐るべき経験をしているので、思わずとも体が強張っていた。

 身構える二人だったがしかし、呼びかけに返ってきたものは想像とは違うものだった。

「もう、いいの、か?」
 区切るような喋り方は異怨に似ている。しかし異怨の声ではない。
 やがて床が歪み筍が生えるようににょきっと現れたのは、緑色の髪の毛。
「じゃましに、きたのは、そのこら、かい?」
 顔の半分だけ覗かせながら、緑色の双眸をキョロキョロ動かすそれ・・が人間でないのは明白だ。
 偶然か狙ってか、それが現れたが場所が深世の近くだったがために、深世は両手で目を塞ぎ「見ていない私はなにも見ていないぞ……」と独り言を呟いている。
 半分の顔はその位置から見える深世を、杏虎を、乙瓜と魔鬼を確認すると、水中から飛び出すようにすぽんと床から全体を現す。
 まず目に付くのは、異怨や激昂した水祢と同じ奇妙な腕。禍々しい形の腕は、それ・・の場合左腕であり、捲られたブラウスの袖からにょきりとひざ下に向かって生えていた。
 次に、新緑の若葉のように鮮やかな緑色の髪の毛が目に入る。若葉のような、というか髪の毛の幾つかは本物の植物のようになっており、髪の毛から葉っぱが生えていた。
 瞳は翠玉すいぎょくのようであり、床面からは見えなかった眞虚や遊嬉を視界に見つけるときらりと輝いた。
 やはり火遠らと同じく学生のような恰好をしているが、スカートを穿いていることからたぶん女性なのだろう。火遠が「姉さん」と呼んでいたし特に疑うことはないと思う。

 それにしても、「邪魔しに来た」とはどういう事だろうか。
 乙瓜は嫌な予感がしてポケットに手を突っ込んだ。
 深世は「もう帰りたい……」とぼやいている。
 位置的にほかの部員や幽霊少女、今しがた現れた彼女からも一番遠い場所にいる遊嬉は顎に手を当てて渋い顔をしていた。何か考え事でもしているのだろうか。

「そうさ、美術部たちが姉さんの怪事を終わりにする」
 人間たちが各々違った反応を見せる中、火遠は言った。そして美術部員全員に確りと聴かせるように宣言した。

「さぁて君たちよく聞きな。ここに御座おわすが夜中の噂の大元、そして俺の姉の草萼嶽木がっき。嶽木が歌で、あちらの可愛いお嬢さんがピアノ伴奏。お分かりかい? いまここに、いままさに! 夜の怪事の元凶たちが出揃っているのさ」
 火遠は愉快そうに言葉を転がすと、自らの姉・嶽木に目くばせして続けた。
「彼女らに害意はないが、幽霊沙汰妖怪沙汰、人の物とは思えない奇っ怪な事は総じて怪事だ。大霊道を封印するためにも、この怪事を解決する必要がある。そこでだ」
 誰にも反論させる隙を与えぬように、火遠は続けた。

「一週間後! 嶽木と君たちとで歌の勝負をしてもらう! 君たちが勝ったら深夜の音楽会は解散、負ければ続行! 実にシンプルでいいだろう?」

「ハァ?」
 乙瓜が素っ頓狂な声を上げる。
「歌の勝負っておまえ、合唱が上手くなるとかいうのはどうした!?」
「勿論、歌は上手くなるよ? 考えてもみろよ、三か月後なんて漠然と時間があるからまだ大丈夫な気がして緊張感が無くなるんだ。一週間しかないと思えば、君も少しは本気になるだろう?」
 食って掛かる乙瓜に偉ぶった態度で答えながら、火遠はクスクスと笑った。
 そういう事かよ、と美術部全員が心の中で総ツッコミを入れる中、嶽木がふわりと教壇の前に移動する。

「かだいきょく、は、おまえらの、じゆうきょく『怪獣のバラード』だ。ばんそう、は、あのこが、する。おれが、すこしでも、いいとおもった、ら、おまえらの、かち。いっしゅうかんで、しあげて、こい。でも、おれ、まけない」
 そう言い残し、嶽木は消えた。幽霊の少女も起立してぺこりと一礼すると同じように消えた。

 後に残されたのは美術部六人と火遠のみ。
「えらいことになってしまった……」
 頭を抱える乙瓜の肩がポンと叩かれる。

「地獄の一週間コースへようこそ。特別講師の草萼ですよ! よろしくね!」
 過去最高にいい笑顔でわざとらしい台詞をつらつらと吐く火遠。

 とてつもない一週間がはじまろうとしている。

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