怪事戯話
第五怪・最後の奏楽、楽器の歌声①

 それは、いよいよ梅雨も明けようかという七月の初めの出来事。

 十月に開かれる芸術祭の合唱練習は、古霊北中ではこの時期から開始されていた。六月の内に学年の課題曲とクラスごとの自由曲が決定され。休み時間に、放課後に。校舎のあちこちで歌声を耳にするようになった。
 そんな折、学校全体で囁かれるようになるうわさがあった。

『真夜中の音楽室から歌声とピアノの音が聞こえてくる』

 誰が言い出したのかは誰にもわからない。昨今の学校の警備は警備会社に全て委託しているから、宿直の先生なんてのもなく。基本的に真夜中の学校に残っている人間は生徒教師ともにいない筈だ。
 その昔は不良が校庭で花火をするのに侵入したなんて話もあるらしいが、ここ数年で閉門の後侵入すると警報が鳴るようになったので、誰かが侵入した線も薄そうだ。
 だとすれば、家が近い学生が聞いたのだろう。あるいは、学校のはす向かいにあるコンビニから何か見えたか聞こえたか。そんなところだと思う。少なくとも、聞くだけなら校舎や敷地に侵入せずともいいのだ。そう、きくだけ・・・・なら。

 だが、音の主は?

 前述のとおり、近年は片田舎の学校でも思いの外警備が厳しい。
 確実に誰もいなくなったことを確認して施錠される真夜中の校舎に、どうやって侵入したというのか。
 隠れていた? ……どこに? 消灯されて非常灯以外の明かりが全て落ちた校舎に、一人ないし数人で? 施錠を確認する当直の教師の目をかいくぐり、真夜中になるまで何時間も……?

 それは、そんなことができるのは果たして、生きている人間なのだろうか。



「……もう無理」
 放課後の美術室の窓際。烏貝乙瓜は大きな溜息をついた。
 手には、一冊のバインダーファイル。中には今年の一年生の課題曲と、そして乙瓜のクラス、一年一組の自由曲の楽譜が綴じてある。
 一番上に重ねてあるA4コピー用紙の端には、ボールペンで走り書きした「ソプラノ」の文字。彼女の担当パートである。
 なんということだろう。これだけでは溜息の要素が一ミリたりとも見つからない。しかし原因は何を隠そう、彼女の担当パートにあった。
「声が出ない息が続かない……」
 乙瓜はがくりと肩を落とし、再び溜息をついた。
「仕方ないじゃん、選んだの乙瓜だし」
 同じく一組でアルトを担当する杏虎が言う。そう。それを選んだのは紛れもなく乙瓜自信なのだ。
「練習すれば出るようになるよ、ね、頑張ろ……?」
 困った笑顔の眞虚はソプラノパート。一応乙瓜と同じパートの担当だ。
「練習止まっちゃうじゃーん。やらないんだったら乙瓜ちゃん抜いてあたしらだけでやっちゃうぜよ?」
「遊嬉ぃー、そんなこというなよー」  ぶーぶー不満を言いながら早く続きをやろうと訴える遊嬉はアルト。それを制する深世はソプラノ。美術部一年の魔鬼以外の同クラス勢は、大体半々にパート分けされているようだ。
 さて、そんなこの場で何が問題になっているかというとだ。
 単純なことである。乙瓜の声が出ないのだ。
 否、勿論声枯れしているということではない。会話することは平時通りできるし、意思疎通に問題はない。
 歌声だ。乙瓜の担当するソプラノの高音。それが出ないのだ。

 烏貝乙瓜は、さほど地声が高い方ではない。
 同年代の女子たちの中でも低めな方で、電話口で少年に間違われたことも何度かある。そういう声質なのは、本人は勿論美術部の仲間も重々承知している。
 遊嬉などは、乙瓜は絶対アルトを選ぶと思っていた。しかしそこからのソプラノである。

「なんで選んじゃったのさ……」
 机に顎を乗せて頬を膨らます遊嬉を、乙瓜は申し訳なさそうに見ているしかなかった。
「しゃーない、意地があんだよな」
 そんな乙瓜の背中をポンポンと叩きながら、杏虎は代弁するように語る。
「この子さ、小学校まではソプラノ声だったん。結構普通に。だから出来ると思っちゃったんだよ、な?」
 杏虎の言葉にコクコクと頷く乙瓜。
「あとさ、乙瓜小学校の卒業式の時にはじめアルトの練習やってたんだけど。……うん、アルトはやらせない方がいいと思う」
 何を思い出したのか神妙な顔で言う杏虎の後で乙瓜はぽそりと。
「主旋律以外ひっぱられる……出来ん」
 やはり何かを思い出したのか青い顔をして言った。少なくとも杏虎が言葉を濁し、本人が顔面蒼白になるような出来だったに違いない。
 そういえば、こいつらと同じ小学校の出の奴らはただの一人として止めなかったな。遊嬉はパート決めの時の微妙な雰囲気を思い出し、納得した。
「ま、まあ! ソプラノ入れておけば無難な感じにはなるから! つかその内高音出るようになっから大丈夫だって!」
 はい終わり、乙瓜も頑張れと言って場の空気を取り持った杏虎。彼女のフォローのおかげで周囲もある程度納得したし、肝心の乙瓜もやる気を取り戻したようで一安心である。

 一人だけクラスが違ったばかりに蚊帳の外な魔鬼は、彼女らを遠巻きに見ながら思っていた。

(しかしこの曲はなぁ。割とソプラノの音高めだしなあ……)
 練習を始めたばかりで微妙にかみ合わない自由曲の歌声を聴きながら、しかし魔鬼は乙瓜を哀れに思っていた。
 それ以外の曲だったら、まだ何とかなったろう。実際、課題曲を練習しているときは乙瓜の声はまだなんとかついていけていた。
 一体どんな奴が支持して決定したのだろうか。伴奏の担当がよっぽど自信家だったのか。
(鳥にしようかな……それとも星……。うーん。あ、あとこれ最後が地味にむずかしいんだよな)
 魔鬼は彼女らが練習する「怪獣のバラード」を聞きながら、合唱と同じく芸術祭に出展する絵の構図をぼんやりと考えていた。

「ひっでぇ歌」
 いつの間にか魔鬼の前に部外者が出現していた。
「火遠か」
 魔鬼は視線をスケッチブックに落としたまま、嘲笑ちょうしょう混じりの声の主に呼びかける。
 声の主・草萼火遠は、机に頬杖を付き、にやにや顔で一組女子たちを観察しているようだ。
 というか、今この美術室内には普通に先輩方もいるのだが、誰も存在にツッコミを入れない。先月だったか普通に挨拶しているところを見たので、いつだかのように限定した相手にしか見えていないということはなさそうだ。
 そういえば、ここ一ヶ月半くらいの間魔鬼と乙瓜は花子さんの用事でちょっとした幽霊妖怪退治をしたりしたが、先の白い奴の件以外は火遠が介入してくることなどほとんどなかった。
(……多分自分たちの留守中に何かあったんだろうなあとは思うが、一体何て言って溶け込んだんだろうか。怖い。私は怖い……)
 このことはあまり考えないでおこうと、魔鬼はもやもやを頭の片隅に追いやった。

 なんにしろすっかり美術室に馴染んでいる妖怪は、強調するように繰り返した。
「ひっでぇ歌だなぁ」
 多分そのつぶやきは、声を張り上げて大真面目に練習する彼女らには届いていない。けれど、魔鬼にはしっかり届いていた。
「いちお頑張ってるんだから言わんといてあげてよ……」
「わかっちゃあいるけど滑稽で滑稽で」
 火遠は愉快そうに指さして笑った。
「他はまァいい。乙瓜の音域の狭さときたら」
「……いや、それは私も……思わんでもないけど」
「だろう?」
 魔鬼が顔を上げると、火遠は両頬杖をつきながら魔鬼の方を見てにやにやしている。
「鳥か星か……それとも天使か。ふぅん、中学生君たち年代の描く絵ってなんでみんなこうなんだろうねぇ?」
「勝手に人のスケブ見んなよ」
「いーじゃないか、どうせ最終的しまいにゃ見せるんだから」
「未完成品見られんのはあんま好きじゃないの」
 むっとしたようにスケッチブックを閉じる魔鬼を見て、火遠はしかし、何か気付いたような顔をした。
「成程、未完成品か。確かに未完成品、だな。このままの出来じゃ未完成品だ」
「……? おい、火遠?」
 火遠は顎に手を当てて何かをぶつぶつと呟いた後、よし、と席を立った。そして練習を続ける一組女子たちの方へつかつかと歩く。

「美術部のお嬢ちゃんたち、ちょいと時間を拝借してもいいかい?」
 突如かけられた言葉に、練習していた彼女たちの歌が止まる。皆ハッとして顔をあげ、やっと火遠の存在に気付く。
 すかさず乙瓜が口にした「何だよ、邪魔すんな」という言葉を遮り、火遠は続けた。

「深夜の音楽室の噂を知っているかい? 勿論君らが知らないとは言わせない。ピアノの音と歌声が聞こえるっていう、今一番この学校でホットな怪談さ」
 一組メンバーたちは皆顔を見合わせ、こくりと頷く。それを見た火遠はとても嬉しそうな顔をした。何も知らない彼女らは不審そうな顔をしている。
 火遠は何を考えているのかわからない。魔鬼はなんとなく嫌な予感がした。
 三日月型に弧を描いた彼の口。そこから「じゃあ」と漏れ出した言葉に続くのは、悪魔の誘惑。

「怪事を一つ解決する代わりに合唱が上手くなるって言ったら、どうする?」

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