怪事戯話
第三怪・怪談の女王様⑦

 教室を出、赤マントの娘の消えて行った方向へ走る二人。追いかけた廊下の先・校舎西端には、面積の広い特殊教室が二つ待ち構えている。
 手前側の特殊教室は学年の教室の前からでも廊下奥にあるのが目視できるが、もう一つの教室は手前側の教室の前を右に曲がらないと見ることのできない、所謂死角だ。ちなみに古霊北中は全三階、一階の西端には相談室と美術室が、二階にはパソコン室と被服室、三階には音楽室と図書室といった具合で配置されている。

 現在位置は三階。二人の追跡する娘の羽織る赤い布地は音楽室前の角を消えて行き、どうやら図書室の方向へ向かったようであった。
 先を走る魔鬼は走る足を止め、しかし何かを一言二言呟くとスケートのように廊下を滑走した。何かの魔術を使ったのかもしれない。魔鬼の上履き底のゴムがキュイイっと音を立て、床面に対する摩擦と抵抗の存在を思い出させるも、殆ど減速は見られない。
方向転換チェンジ・イン・ディレクション!」
 激突せんばかりの速さで音楽室の手前、そして廊下の曲がり角の最良の地点ベストポイントに到達した瞬間、魔鬼は叫んだ。同時、彼女の体はしなやかな猫のようにぐるりと方向を変え、勢いを殺さぬままに直角の角を曲がりぬける!
 十歩ほど後ろからついてきた乙瓜には、魔鬼の一連の動作がこだわりぬいたアクション映画のワンシーンであるかのように華麗で鮮やかなものに見えていた。だが同時に乙瓜は、それほどのことをやってのけた彼女の体育の成績がさほどいいものではないことを本人から聞いて知っていた。
 乙瓜は、瞬時に身体強化の魔法を行使した魔鬼の技量に恐れ入り、また、こうした技を体育や競技会の場面で使わない彼女にある種尊敬の念を抱いた。
(そうか、チートってこういうときに使うためにあるんだ)
 走りながら妙に感心した三秒後、乙瓜は角を曲がりきれず音楽室扉横の柱に激突し、頭をしたたかにぶつけた。

 ワンテンポ遅れて乙瓜が魔鬼に追いつくと、魔鬼は図書室前の廊下で赤マントの娘と対峙たいじしていた。
 音楽室・図書室は今日現在の時間帯にはどのクラスも利用しないのか、冷たく静まり返った空気が流れる校舎西端一角の狭い空間には、つい今しがた生まれたばかりの緊張の糸が隅々まで張り巡らされていた。
 魔鬼はすでに自分の得物である定規を取り出して構え、対する赤マントはマントの端を掴んだ左手で全身を隠すような体制で不敵な表情を浮かべている。
「お前は何者だ! 花子さんの仲間か!」
 魔鬼が張りつめた声で問いかけると、赤マントの娘はニヤリと目を細める。
「何者? 私が何者かだって……?」
 彼女不敵で意味深な感じに言い放つと、自らの身体を包み隠すマントをバァッと開いた。
 マントの下から現れたのは白い、しかし健康的なハリつやのある肌と、今や創作の世界でしか見かけなくなってしまった懐かしの旧型女子スクール水着、白いニーソックス、そして編上げの赤いブーツ。
 どうみても学生とは一線を画している、というか、平時の公道を歩こうものなら普通にお巡りさんの御用になりかねないその姿を誇示するように見せつけながら、赤マント娘はどや顔で名乗り上げる。
「我が名はエリーザ・シュトラム。北中花子さん一の子分にして誇り高きトイレの怪人赤マントの一番弟子! 泣く子も黙る大妖怪・ちまたを騒がし揺るがす怪人赤マント娘ちゃんとは私の事よ! えっへん!」

 

 数秒の間。魔鬼乙瓜両名と赤マントのエリーザの間に、何とも言えない沈黙が流れた。
 そしてその沈黙を破ったのは、乙瓜の一言だった。
「……ごめん。怪人赤マントって何?」
ヴェルヒェどゆこと!?」
 素っ頓狂な発言に驚愕するエリーザに、乙瓜の更なる追い討ちが襲いかかる。
「良く知らないけど、トイレにそんな変態仮面みたいな怪談あったっけ……」
「……変……態!? 変態っ!!? ノーーーー!! 私のどこが変態なのよォ!」
「いや……格好全般?」
「なんか春先に出てくる露出狂みたい」
「マントのせいでよけいにひどい」
「これはひどい」
 途中から魔鬼も応戦し、ほんの数分前まで得意げだったマントの怪人娘を遂に涙目にしてしまった。
 ちなみに怪人赤マントとは昭和の頃に全国的に流行った怪談であり、赤マントの怪人物が子供を誘拐して殺すような結構怖い都市伝説である。
 この手の噂の例に漏れず様々なバリエーションがあり、トイレに出るとか駅にでるとか吸血鬼だとかただ現れるだけとか紙の色を効いてくる来る系だとか、地域によって伝承にバラつきがある。
 今なお有名な口裂け女と同じように一時期は世間を震撼させた大御所怪談なのだが、現代の子供に得意満面に話してもおそらく通じないだろう。そして案の定この様である。
「えーんえーん……! ひどいよひどいよおおおぉ! うっうぅ……」
 プライドをズタズタにされて人目もはばからず泣き出す自称大妖怪を、かわいそうなものを見る目で見ながら乙瓜は言った。
「さぁて、早速あんたの作った偽物の鏡を消してもらおうか」
「……うっ……ぐすっ……なんのことぉ……っ」
「は?」
 あからさまにイラついた声音で目つきを鋭くする乙瓜を見てエリーザは「ひっ」と小さな悲鳴を漏らす。
「ち、ちがうよぉ……。私はただの囮でっ……ぐすっ、花子しゃんに、たのまれたからぁ! うっうっう……うえーーんもうやだぁぁああ!! 人間こわい最近の若者こわいよぉおおおおおお!!」
 泣き叫びながら防御体制のアルマジロのように丸まって話にならなくなってしまった妖怪を呆れ顔で見ながら乙瓜は思った。……この娘本当に囮の捨石なんだなぁと。
(ていうか知らなかっただけでここまで泣くことなくね……。全く攻撃してないのに……)
 可愛そうなものを見る目でエリーザを見下ろしながら、乙瓜は心中でごちた。

「こんなメンタルでよく人前に出てこれたな……」
 傍らに立つ魔鬼もまた同じようなあわれみの視線を送っている。彼女は彼女で、赤マント娘を春先の露出狂呼ばわりしたことを若干申し訳なく思っていた。
「どうするよこれ……」
「いや、しらんし……」
 尚も泣き止まないエリーザの扱いに困って立ち尽くしていると、二人の後ろから声がした。

「おやおや、弱いものいじめはいけないねぇ」
 嗄れてはいるが穏やかな調子の女性の声。だがこの学校の教師にこれほどまでに声の枯れた高齢の女性はいない。そして何より、何者かが迫ってくる気配など微塵みじんも無かったはず。
 エリーザがすっかりダウンしてからも念のため彼女の動向に気を配り、周囲の音・空気の動きに意識を集中していた魔鬼にはわかっていた。この声の主は突として、何の前触れもなく二人の背後に出現したということを! 魔鬼は識っていた!
 振り返り、飛ぶように距離を取ったのはほぼ同時か、一瞬にして戦闘態勢に戻る魔鬼と、素手でファイティングポーズをとる乙瓜の視線の先には、紋付の留袖を着た小柄で品のよさそうな老婆が、にこにこ顔で佇んでいた。一見授業参観に来た生徒の誰かの家族のようでもあるが、勿論今日は授業参観などやってないし、今日日きょうび紋付で参観なんて保護者はほとんどいないだろう。そもそも、見かけは人間だが気配もなく現れたこの老婆が普通の人間なんかである筈はないのだ。
「何者――」
 魔鬼が先と同じく問おうとしたとき、魔鬼と乙瓜の横を通り過ぎ、視界に躍り出る赤い影が一つ。
「……おばあちゃんっ!」
 エリーザだった。
 すっかり泣き腫らした赤マントの娘は、ともすれば自分よりも小柄な老婆の背中に隠れ、弱者が強者に縋るように着物の端を掴みながら、そっとこちらの様子をうかがっている。
「おおよしよし、すっかり泣かされてしまったねえ。怖かったねえ」
 老婆は僅かに背後を振り返り、エリーザの頭をポンポンとなでた。
 それから二人の方に向き直り、おのずから名乗りを上げた。
「わたしは四次元お婆ちゃん。あなたたちが花ちゃんの遊び相手ね?」
 初めから一貫して崩さない柔和な笑顔で老婆は告げた。
「四次元お婆ちゃん……ヨジババか!」
 乙瓜は一瞬考えたあと納得したように声を上げた。
 ヨジババとは、90年代頃から語られるようになった怪談である。
 その内容は午後4時に学校のどこかで正体不明の老婆に襲われるといったもので、これもまたメジャー故に学校によって襲われる場所や細かい時間(午後4時ジャストだったり4時4分、4時44分等振れ幅がある)、襲われるとどうなるか(異次元に送られたり殺されたり様々)等、細部が異なる。
 ……というのが怪談の内容であるが、共通するのは午後4時代にならないと襲われないという点だ。
 だが、今はまだ朝9時前後。クラスごとの朝会が終わって、やっと一時間目の授業が始まったあたりか。当然ながら4時とは程遠いし、4に縁のある時間でもなんでもない。
「なんでそんなのが今出てきてるのか知らねぇが、鏡の贋物作りに協力してる妖怪って言うなら容赦しねえ。逆に全く関係ないなら時間の無駄だ、失せろ」
「気を付けろ乙瓜。今は四時じゃないかもしれないけど、怪談の通りなら結構やばい能力を持ってるに違いない……!」
 丸腰で勇む乙瓜を冷静に諌める魔鬼。二人も、ヨジババも、両陣営一歩も動かないまま緩やかに時間は過ぎ去っていく。じわじわ、じわじわと。動けないにらみ合いが何十秒も続く。
 もしかしたら、そんなのは体感時間の話であって、現実の時間に換算すると十秒足らずの出来事だったのかもしれない。
 ……が、それにしても長い。あまりにも長すぎる。まるで、蛞蝓が這うように、一秒一秒がひどく凝縮されているようだ。

(――ん? ……時間? 『時間』だって?)

 その時、魔鬼は何かに気が付いた。傍らの乙瓜を見遣る。彼女は気付いていないようで、相変わらず下手なファイティングポーズを取りながら石のように固まっている。
 このままじゃあ駄目だ。魔鬼は直感し、叫んだ。
「動け乙瓜! このままだと一生ここに固定されるぞ!!!」
 その言葉にハッとした乙瓜が魔鬼に顔を向けると同時か、魔鬼はすかさず攻撃の意思を言葉に紡ぐ!
氷獄の呼び声コキュートス・コーリング!」
 杖代わりの定規の角が強烈な閃光を放ち、瞬きする間に魔鬼の足元から出現した六本の太い氷柱の槍が、ヨジババめがけてミサイルのように宙を飛び、炸裂する!

「やったか!?」
「油断するな乙瓜、手応えはないっ、逃げられた!」
 魔鬼が舌打ちすると同時に、今まで二人のいた空間の天井が、壁が、床が、ジグソーパズルのピースのようにパラパラと剥がれ落ち、一面真っ黒な空間が姿を現す。
 真っ黒といっても、真っ暗ではない。光も無ければ影もない"真っ黒"の中に、光源もないのに輪郭がはっきりとしている人間二人を放り込んだような異常な世界。そこが現世ではないことは、誰の目から見ても明らかだった。
「こ……これは一体……!?」
 しかし、乙瓜はいまいちピンときていないのかうろたえている。足場の感覚はあるが自分がまっすぐ立っているのか寝そべっているのかわからない、どこがX軸でどこがY軸なのかさっぱりわからない、気味の悪い空間の出現にただでさえ少ない冷静さを失いつつある。
「深く考えるな乙瓜! ここはヨジババの四次元空間だ、恐怖にのまれると二度と帰れなくなるぞ!」
 見かねて魔鬼は助け舟を出した。
「四次元……空間……?」
「そう、……たく、私としたことがヨジババは時空の怪異だってことを失念してたわ。あのお婆ちゃんは時空を操る。さっきは単に体感時間が長かったんじゃない、時間を飛ばされてたんだ……! 花子さん側の妖怪の目的はあくまで『時間内に乙瓜に鏡を見つけさせないこと』、つまり時間稼ぎさえできれば戦う必要なんてない! ……ちくしょう、はめられた!」
 そこまで聞いてやっと合点がいったのか、次の瞬間乙瓜の心中にはふつふつと怒りが込み上げてきた。

「やいッ! ヨジババァっ!! 隠れてないでさっさと俺たちをここから出しやがれ!!!」
 乙瓜は叫んだ。どこを向いていいかわからない四次元の、しかしどこかに潜んでいるヨジババに向けて叫んだ。
『さぁて、どうしましょうねえ』
 何処からか、否、全方位からか。まるでやんちゃな孫との戯れを楽しんでいるかのようなヨジババの声が聞こえてくる。
 上から。下から。右から。左から。前から。後ろから。目と鼻の先から。耳元から。肩越しから。近くから。遠くから。何百何十ものヨジババの声が聞こえてくる。
 同じ声は魔鬼にも聞こえているようで、魔鬼は視線を忙しなく動かしながら真の位置を見極めようとしていた。

 ――私より怖いオバケなんていっくらでもいるのよ?

 不意に、乙瓜の脳裏を花子さんの言葉がよぎった。
 ……成程、このヨジババという妖怪オバケは静かにして強かな怪異だ。一般的な女子中学生なら、たぶんここで泣くなり叫ぶなりして発狂するのが正解なんだろう。……だが、乙瓜は。

「露骨な怖がらせに入ってきたことで逆に頭が冷えたぜ……」
 制服の胸ポケットに伸びる手。そこには、昨日火遠から受け取った護符が二十枚ほど突っ込んであった。
「どこにいるかわからない、ならッ!」
 指先に触れる紙の感覚をすっと引き抜く。
 両手の親指と人差し指、人差し指と中指、中指と薬指、薬指と小指。それらの間に一枚ずつ札を挟んで計八枚。札を持つ手を前にして、不敵に素敵なポーズで乙瓜は構える。

「八方投射!」

 それらしく宣言って、札を投げる乙瓜であったが。
 宙に放たれた札たちは力なく空気中を進むも、手から数センチも離れたところでへにょりと呆気なく落ちて行った。

「え」
 唖然とする乙瓜、しかしこの場で誰よりもあっけにとられたのは魔鬼の方であった。
 だってそうだろう、相方が自信ありげに何か始めたと思ったらその結果がへにょり、なのだから。

「全然駄目じゃあないかあああああああああああああああああ!!!!」

 果てなき漆黒の中、魔鬼の精一杯のツッコミはどこまでも飛んで行った。

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