まるで風に吹かれて舞う花弁のように。あるいは、秋の頃はらはらと地面に落ちる木の葉のように。
何の勢いも何の鋭さもなく、ひらりぺちゃりと暗黒四次元空間のあちらこちらに落ちる札。
遊戯用のカードと違い、一定の分厚さも丈夫さも持ち合わせていないそれを投げればこうなるだなんて、幼い子供にだって予想がつくだろう。無理である。無謀である。
だがしかし、今し方自信たっぷりにその「無謀」を試み、そして失敗した少女は、心底驚いた様子で狼狽えるのだった。
「うぇええええっ!? な、なんでなんでっ!!!?」
「なんではこっちの台詞じゃああ!!」
何が何だかわからないといった様子でアワアワしている乙瓜の頭にに、すかさず魔鬼の定規が振り下ろされる。
「うぇっ!?」
すぱーん、ぽかっ。魔鬼の一撃が脳天にクリーンヒットする。あくまで軽くだ。軽ーく。
だが、完全に意表を突かれた乙瓜は、大げさに頭を押さえながら憎々しげに魔鬼を振り返った。
「ぃっつつ……何すんだよ魔鬼!」
「何すんだもかにすんだも、お前なあああ! 昨日修行するとか言って一人で走って勝手に筋肉痛になった上に肝心なこと全然じゃあないかああああ! びっくりはこっちだよ!」
「それは……その…………追々何とかなると思ったんだよ。……ふん」
怒涛の勢いでまくしたてられた乙瓜は、むすっとした顔でぽそりと呟く。それから、やや開き直った調子で、「そもそも、火遠が教えとかないのが悪い」だなどとのたまった。完全に責任転嫁である。
「阿呆か! 出来ないことを出来るぶってもなんにもならないだろが! 人の所為にすんな、真面目に考えれ!!」
「ちょ、やめ……ごめん、ごめんってば……!」
怒った犬のようにギャンギャンわめきつつぽかすか叩いてくる魔鬼を腕で防ぎつつ、ばつが悪そうに謝罪の言葉を繰り返す乙瓜。
ヨジババはこの光景を見て笑っているのか、空間のあちらこちらからクスクスと嗤う声が聞こえてくる。ヨジババの他にこの空間を覗き見る外野でもいるのか、老若男女入り混じった幾多もの笑い声が、360度全方位から二人を包む。
あははは、あははは、あはははは。
どこからそこからかしこから、ぐるりと囲む、声、声、声。
あたかも超満員の劇場の舞台に立つ喜劇役者の如く雨霰の嘲笑を向けられた二人の表情は、最初こそ度肝を抜かれたようにポカンとしていたものの、次第に眼光鋭く曇って行き。そして、同じタイミングで爆発した。
「「うるせえ!!! 黙りやがれ!!!!」」
がなる咆哮、ぴしゃりと一言。
忽ちしん、と静まり返る四次元空間。
睨むべき相手がどこにいるのかすらわからない漆黒の海の中で、魔鬼と乙瓜の眼光は「天」を射抜いていた。
厳密には、それが真の天面かなんて二人にはわかっちゃいない。更にいえば、そこにヨジババが潜んでいるという確信もない。
考えなしの行き当たりばったり。大見得を切るためのブラフ。勘。適当。
だがしかし、二人は睨まずにはいられなかった。嘲笑う全てに宣誓してやらねばならなかった。
「ヨジババ、そしてその他大勢の見えない奴ら! 笑ってられんのも今の内だかんね!」
「俺たちはここから出る、そして花子さんの鏡を見つけ出す!」
「馬鹿にしてんならしてろしてろ、嗤いてえんだったら観てろ観てろ」
「お前らの表情を凍りつかせてやる! 野次飛ばす暇もないくらい怯え竦ませてやる!」
先刻までの不仲はどこへやら、妙に揃った呼吸で以上のような口上を述べきった二人は、緩やかにその姿勢を戦闘態勢に戻す。
己を取り巻く全方位に神経を張り巡らせながら、二人は自ずと背中合わせに立っていた。
「……本当にあるのか、勝算」
振り返らないまま乙瓜が呟く。頬には緊張からか汗が伝っている。
「あるさ」
間髪入れず魔鬼が応える。その声は全く震えておらず、どこか裏付けされた自信のようなものが感じ取れた。
「札の残りは。……いくつある?」
魔鬼が問う。乙瓜は胸ポケットの残りの札をざっと数える。
「80枚」
「十分だ」
「……いけるのか?」
「いけるさ」
短く会話を交わしながらも、冷静に相手が向かってこない事を再確認した魔鬼は、一層強く定規を握りしめた。
(ヨジババの目的はあくまで閉じ込めること。に攻撃の意思はない。ならば、硬直は無意味。速攻でカタを付けなければ思う壺。……行くしかない!)
「行くぞ乙瓜! 上だ、札を上にばら撒け!」
「……なッ、全部か!?」
「そうだッ! 迷うな、遅れるな、狙うとか考えるな! 兎に角全部、景気よくパァーーーっと! 投げ散らかせェ!!」
「っ、てえぇいッ!」
ドバァッ!
束のまま一気に打ち上げられた札たちは空中で個々に分離し、先と同じように緩やかに舞い落ちようとしている。だが――!
「させねェよ!」
落下より早く杖代わりの15cm定規を握りしめ、魔鬼は叫んだ。
「舞い上がれ札! 逆巻く竜巻!!!」
刹那、閉ざされた四次元空間の中に風の渦が生じ、みるみる内に大きなつむじ風となって、落ち行く札たちを巻き上げる!
「……! そうか、風の魔法で舞い上げて――」
乙瓜は魔鬼がやらんとしていることを理解し、思わずガッツポーズを浮かべていた。
「――投射げられないならァ! 飛ばして向かわせるまでェェぇ! 喰らえ四次元!」
「「竜巻八方投射!!!」」
二人の声が重なる。
荒ぶる魔法の竜巻は、しかしながら丁寧に均等に全方向へと札を飛ばしていく。
今度こそ勢いを持って暗闇の果てへ向かって飛んでゆくのを目視し、乙瓜は唱えた。
「願いましては肆の伍の四つ。退魔の星よ、舞い飛べ輝け。覆いかぶさる闇帳を、その輝き以て打ち払え! 退魔護符乱射・流星!」
乙瓜は、その呪文のような言葉を予め知っていたわけではない。だがしかし、そう唱えなくてはならないような、そんな気がしたのだ。そしてそれは功を奏した。
呪い文句に導かれるように、札の五芒星が輝き、暗黒の中に光が生まれる。輝きが尾を引いて流れていくその様はまさに流れ星。
全方向へ散った八十の流れ星は、見えない地平線の彼方で炸裂し、白く眩い光が黒一面の世界を塗り替えて行く!
豪快にペンキをぶちまけたように、盛り重ねた砂を崩すように。バッと、ザァっと。天も地も頂点も辺も失われた空間は崩壊する。
二人が一、二度瞬きした後視界に出現したのは、いつも見ている学校の風景。一方の側面に窓があり、もう一方には壁があり、天井があり、ゆるく光を反射するリノリウムの床がある。
見知った場所。古霊北中の校舎の一角。僅かに聞こえてくる、校舎を伝わる生徒たちの声。戻った。超常怪奇からの日常回帰。
「戻った!?」
「うぉし、出られた!」
それぞれ歓喜の声を上げて喜ぶ二人。しかし、そこは囚われたときの風景とは少し様子が違っていた。
「あれ、ここ……美術室の前じゃないか」
辺りを確認していた魔鬼がつぶやく。
二人が四次元空間に飲まれたのは、三階図書室の前。廊下奥の教室に掲げられた板には、確かに図書室と刻まれていた筈だ。
しかし、今二人がいる場所の廊下奥には美術室。一階の特殊教室ゾーン。窓の外の景色には駐輪場が、見下ろすことない高さで確りと存在し、ここが一階であることを裏付けしている。
「飛ばされた……? これも次元の歪みってやつなのか……」
「私にゃわからん……けど戻れたことは確かみたいだ」
二人が呆然としていると、どこからともなくヨジババの声だけが聞こえてきた。
『おやおや、私の空間を破れるなんて大した子たちだこと。おお口惜しや口惜しや』
「ヨジババ! どこだ!!」
乙瓜が虚に向かって叫ぶも、ヨジババの姿はない。心底悔しそうな口ぶりで声は続く。
『私はいるさ、どこにでもいるさ。四次元お婆ちゃんだからねえ。……でもさっきのは効いたねぇ、少し回復するまで出てこれなくなったわ。まあ、もう時間は十分稼げたし、花ちゃんにも顔立てできるわさ。じゃあねえ、お嬢ちゃん方、久々に孫と遊んでるみたいで楽しかったよ。ホホホ……』
一方的に言い残して、ヨジババの声も、そして妖怪の気配も消えた。その時、タイミングよくチャイムが鳴る。
「今、何時間目くらいだろ」
魔鬼がつぶやく。
と、その時廊下の角を曲がって、ぬっと現れる者がいた。
「あれぇ、魔鬼ちゃんと乙瓜ちゃん、今日は授業ボイコットしたって聞いたけどどこ行ってたのぉ?」
眞虚だった。
学生鞄とスポーツバックを小脇に抱え、瑠璃紺色のジャージを着こんだ小柄な姿を見て乙瓜は、そういえば午後の授業に体育があったな、だなんて呑気に考えていた。一方、魔鬼の方はというと、ただでさえ白っちい顔を更に蒼白にして絶句していた。
「……どうした魔鬼?」
「どうしたもこうしたもあるか……」
いまいち状況がつかめていないのかのほほんとしている乙瓜に対し、魔鬼は震え声。落ち着きない様子で、指をわなわな動かした後、がっくりとうなだれてしまった。
その様子を見て、眞虚は小首を傾げながら言った。
「大丈夫? もう部活始まっちゃうけど」
点。目が点。誰の? ――乙瓜の。
先刻のチャイムは放課のチャイム。授業が終わり、部活の時間が来たことを知らせるチャイム。
二種の鞄を持ち、午後の授業後のジャージを着た眞虚は明らかに部活に向かう途中。何故ならここは美術室前だもの。
魔鬼の顔が青ざめたのは、そのことに気付いたから。
始業前から追いかけっこをはじめ、四次元空間に囚われたのは一時間目が始まったか始まっていないかという頃。囚われてから抜け出すまで、二人の体感時間では数十分程度の経過時間だったが、いざ出てみれば時刻は放課後。午後4時前後といったところか。ヨジババの四次元空間は、おあつらえ向きの「4」へと二人を飛ばしたようである。
まだ春時間だから、最終下校の放送は午後6時。6時。今4時。……差引二時間。
「わああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
以上の事を瞬時に脳内で巡らせた乙瓜は、頬に手を当てて悲鳴を上げた。その姿はさながらかの有名な絵画、ムンクの「叫び」のようであったと、後に眞虚は語った。
(――鏡見つかってない上にあと二時間とかマジ無理じゃねえかあああああ!)
ともすれば泣きそうな顔の乙瓜を見かねたのか、眞虚がおずおずと話す。
「あのね、あのね乙瓜ちゃん、鏡の事なんだけどねっ。学校にいっぱい出てきた鏡、あんなにあったのに、お昼ごろに全部無くなっちゃったの。……なんでかな?」
「えっ……?」
思わぬ情報に、乙瓜の叫びがピタリととまる。同時に、がっくりとしていた魔鬼がバッと顔を上げる。
「「マジっすか!?」」
異常なシンクロ率で双方向から同時にがっつかれた眞虚はビクリと震え、オドオドしながらも「そ、そうだよ……?」と肯定の意を示す。
それを聞いた魔鬼と乙瓜は互いに顔を見合わせながら、
「贋物が消えたということは?」
「必然的に本物が残る!」
生気と意欲の宿った目を爛々と輝かせながら、大声で二人で一つの言葉を発する彼女たちを前にして眞虚は、「びっくりするからステレオ交互に喋らないでくれないかなぁ……」と考えていた。口に出して言わないが。
「こうしちゃあいられねえ! 眞虚ちゃん、俺たち行ってくるから皆によろしく!」
「じゃあの!!」
目の前で急に落ち込んだり叫んだりステレオされたりした挙句嵐のように去って行く二人を見送り、眞虚は一人呟いた。
「あの二人、明日大丈夫かなあ……」
勿論、教師に怒られるとかそういう意味で。
さて、眞虚と別れ、ほとんどの生徒はもう部活に行った後の人気の少なくなった校舎を上へ下へ、個人の机の中からロッカーの中、本棚からゴミ箱、非常用のホースに至るまで、学校中のあらゆる物体を漁りまくる二人の姿は殆ど不審者だった。
僅かに残る生徒たちからは奇人を見るような目で見られ、二人の担任が居ないことを確認してから職員室にそれとなく侵入してさりげなく(バレてないつもりだがかなり怪しまれている)物色したり、ついでに鍵を持ち出して理科室や調理室等の教室にも入り込んだ。が、鏡は出てこなかった。面白いくらいに出てこなかった。
やがて、いよいよ後がなくなってきた5時半頃。魔鬼は思いつめた顔で言った。
「ねえ乙瓜……私思ったんだけど、ていうかね、うん。思ってたんだけど」
「……言ってみ」
「私ら全教室全部屋隈なく探してるつもりでいたけど、探してないところが一か所あるじゃん……。いや、正確には一か所じゃあないんだけど」
乙瓜は魔鬼の言葉に目を見開いた後、無言で頷いた。
「確かにあるよな……探してないとこ」
「ある! あるよね……!?」
「……ていうか、もう学校の中縛りじゃああそこしかなくね?」
「だよね、絶対そうだよね……?!」
「なんつうか、本当にだとしたら――酷くね?」
「でもその可能性が一番……うん」
互いに同じことを考えていたことがわかったのか、二人して大きなため息をつきながら歩き出した。
――あそこしか、ない。
二人の気持ちはぴったり同じだった。
そして二人が辿りついた先は。
北中花子さんのテリトリーの真上、三階西階段のすぐ近くにある、少女二人には無縁の空間。……男子トイレの扉が、あった。
「わ、私は今から男子トイレ開けるけど、やましい気持ちはみじんも無いんだからねっ!」
先陣を切ったはいいが、乙女が立ち入ってはいけない禁断領域の扉を前に、誰に弁明するでもなく言い訳を繰り返す魔鬼を見かね、乙瓜が取っ手を掴んだ。
「いいから入るぞ」
乙瓜が遠慮なく扉を開け放つ。ギイィィと軋んだ音とともに漂ってきたアンモニア臭と、それを上回る芳香剤の匂いが鼻を突く。
勿論、乙瓜だって女子なわけだから、憚らずに男子トイレに入れるかと言えば答えはノーだ。もう後がないという事実がなければ、きっと彼女も開けられなかっただろう。
ついでに乙瓜は、扉を開けた瞬間「本当は男子トイレで用を足してるんじゃないのかい?」という火遠の言葉を思い出し、若干もやっとしたということも付け加えておく。
明かりもつけずに突入した男子トイレの中は薄暗く、女子トイレと同じようにじめっとしていた。タイルの壁が冷たく、狭い空間全体は人気も無く静まりかえっていた。全くの無人。……と、思われたが。
「ぬわああああああああああああああああああああ変態ぃぃぃいいいい!!!」
人の気配も何もない無人空間から、突然悲鳴が上がった。
「「!?」」
突飛な事態に「やっべえ、やっちまったか!?(主に人が居たという意味で)」と思い硬直する二人だったが、すぐさま声の主が人間でない事に気付かされる。
何故なら、トイレの中心の何もない空間に、ぽんっと、ドロンと。人影が現れたからだ。
出現した黒い学生服に古風な学生帽と外套を纏った少年は、心底驚ききった顔で二人を見下ろしながら宙に浮かんでいる。これも学校妖怪の類だろうか。
「な、ななな、女子が男子トイレに何の用でござるか!」
テンパっているのか素なのか、なぜか侍っぽい語尾で話しかけてくるその少年に乙瓜は、顔を真っ赤にしながら返す。
「うっせえ! 俺らは別にお前の事見に来たわけじゃねえッ! ていうか誰だ!!」
「誰だっ……て、お主たちトイレの太郎さんを知らんでござるか?! マジありえないでござるよ!?」
「トイレのぉ? 太郎さん?」
訝しげに聞き返す乙瓜に、少年ことトイレの太郎さんは自信満々といった様子で答えた。
「如何にも、拙者はトイレの太郎さんでござるよ! 男子トイレの平和と安全を見守る誇り高き妖怪なのでござる!」
得意げな笑顔でドンと胸を叩く太郎さんを見て、乙瓜は言った。
「ああ、花子さんの亜種か。花子さんの鏡知らね?」
すごいどうでもいいという風に言った。
「ちょ、そこはもうちょっと驚いたり感動したり崇め敬ったりする場面でござろうがあ……! 酷いでござる、あんまりでござる! せめて「ああ知ってるー」くらいの反応が欲しいでござるよぉッ!!」
ドヤ顔から一転、泣きそうな顔をした太郎さんが抗議するが、乙瓜はスルーして質問を繰り返した。
「ていうか、花子さんの鏡知らないのかよ。知らないならこっちも時間ないから帰るぞ」
言って、ここはもうだめだと魔鬼に視線を送り、二人して引き返そうとした時。
「ああっ、ちょ、待ってくだされ! えっと、花子殿の鏡……なら、確か……ここに……」
太郎さんは二人を呼び止めると、自分のポケットをごそごそと探って何かを取り出した。
片手に収まるほどの大きさ。赤いプラスチックの縁。小さな取っ手。中央に輝く反射の光。そして、白い花の飾り。
どうみても花子さんの鏡としか思えないものが、彼の手の中にはあった。
「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
下手すると学校中に響き渡るような大声を上げた乙瓜が、見るなりそれを奪取し、もう一度自分の記憶と照会する。
(赤。白。円。縁。色、形、大きさ。やはり間違いない、これは花子さんの鏡……!)
「間違いないのか!? これが本物で間違いないのか!!?」
横から同じく興奮気味に聞いてくる魔鬼に対し何度も頭を縦に振り、乙瓜は太郎さんに向き直った。
「おま、これ、なんで、あっさり、どうして????」
言いたいことがありすぎて上手くまとまらない言葉を羅列しながら詰め寄ると、太郎さんは不思議そうな顔をしてこう答えた。
「今朝方花子殿がきて預けられたんでござるよ。その上一歩も男子トイレを動くなだなんて、全くわけがわからんなあと思っ……て?」
頭をポリポリ掻きながら言う太郎さんの態度は、嘘をついている風ではない。本当に全く何も知らされていなかったようだ。
「いっやあ、それにしても今日は出歩けない上にほとんど誰も来なくて心細かったでござるよ。情けなきことに拙者、近年のトイレの自動水洗というものが怖くて怖くて仕方なくて……あ、あと薄暗いところも……蛇口の水漏れの音も……云々」
聞いてもいないのに自分語りを展開する太郎さんの話をスルーし、乙瓜と魔鬼はそそくさと出口に向かう。
「あ、じゃあ俺らここらでお暇するから」
「え゛ッ!? ちょ、待ってくだされ、一人怖い――」
じゃ、と手を振り男子トイレを後にする二人。閉ざされた扉の後ろで、トイレの太郎さんの情けない声が聞こえてくるのだった。
『一人は怖い、一人は怖いでござるよおおおおおお!!!』