怪事戯話
第二怪・見ずの訪れ、水の音すれば①

 ぴとん。ぴとんと水の音。
 薄暗く人気のない廊下に響く水漏れの音。古びて緩んだやや錆び臭い蛇口から、ぽつぽつと一定の間隔で落ちる雫。
 ぴちょん、ぴちょん。ぽつ、ぽつ、ぽ……。
 誰かが蛇口をきつく締めたのか。水漏れは止まる。誰かが立ち去り、再び静寂が訪れる。
 もう蛇口から水滴は落ちていない……のだけれども。
 
 ……とん……ぴちょん。ぽつ……ぽつ……。
 何処かで、水漏れの音が聞こえた。
 
 ――思えば、夢のような出来事だった。
 六時間目の授業がと帰りのホームルームが終わり、またいつも通りの部活の時間がやってきた。有り余る青春の活力を勉学より部活動に注ぎ込む生徒達は、皆次々と教室を飛び出し、各々の活動の場へと急ぐ。
 そんな中、この学校に数少ない文化系の部活・美術部の活動拠点たる美術室に向かう烏貝乙瓜の足取りは、心なしかいつもより軽快だった。
 つい先日……というより昨晩の出来事なのであるが、乙瓜は同じく美術部員の魔鬼と共に、それまで半信半疑の存在であった存在・妖怪と遭遇した。
 火遠と名乗ったその妖怪と一悶着あった後、乙瓜は彼との謎の契約によって不可解な能力を授かったのである。
 それ即ち、妖界ヨウカイが見える力。人ならざる者の住処と現世が重なり合う領域のみが見える異能。
 正直、最初はテンションがハイになっていたことによる錯覚か何かかと思った。しかし、寝て覚めて再び目を開いた乙瓜が見たのは、昨日と変わりない奇妙な光景。
 いつもの景色の中に半分だけ薄赤色の風景が重なり、その薄赤の中に煮凝りのような黒い影がうごめいている。
 見ることは出来ても触れようとすれば幻のように姿を消す人ならざるモノの影。実態のない有象無象の塊。
 常人ならば悪い夢の続きか、極度の疲労による幻覚を疑うような光景を見て乙瓜は「そういうものか」と、それだけ思った。
 全く驚かなかったと言うと嘘になる。しかし、当然のようにそこに在る『彼ら』を暫くぼうっと眺めていると、案外今まで見えていなかっただけで妙なモノはその辺にいっぱいいるんだなと。そう思えてきたからだ。
 ――なんだ、不思議な事なんてそこら中に在るじゃないか。
 乙瓜はその事がなんだか嬉しかった。
 数日も経てば恐らく日常になってしまうだろうその感動を、奇妙なことが大好きな仲間達に一刻も早く伝えたかった。
 授業の合間の休み時間に伝えることも考えたが、やはりこういう事は仲間内だけの秘密にしておいた方が面白い。本当は何度も話しそうになったけど、まだまだ秘密秘密……!
 そうして大事な『秘密』を隠し持ったまま無事放課後を迎えた乙瓜は、誰よりも早く教室を飛び出し、美術室へと向かっていたわけだ。怒られない程度の小走りで三階から階段を下り一階へ。一階へ着いたら美術室までの残り少ない廊下を一気に突き進む!
 美術室の扉まで、あと数メートル――。
 
「ねえ」
 
 唐突に誰かに呼び止められ、乙瓜は歩を止めた。
 同時に、声の聞こえた方へと振り向く。しかし、そこには誰も居ない。
「ここだってば」
 不思議に思う間もなく今度はすぐ側から声がして、乙瓜は其方に視線を遣る。しかし、やはり誰もいない。
「…………幻聴?」
 はて、テンション上げすぎておかしくなったかな。乙瓜は狐に摘まれたような顔をしながらもう一度辺りをぐるりと見渡し、やはり誰も居ないことを確認すると美術室の戸に手を掛けた。
「ここにいるのに。無視するんだ」
「……っ?!」
 真後ろから明瞭はっきりとした声が聞こえ、乙瓜は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 ――嘘だろ……? だって、何処にも人影なんて……っ。
 背後にいる得体の知れない何かは、尚も続ける。
「ねえ。ねえったら。……少なくとも聞こえてるんでしょ? ……ねえ」
 まだ、居る。
 声そのものは普通の、少女か、或いは声変わりする前の少年のような、強いて言うなら子供の声だ。同年代か、それ以下の。少し弱々しいことを除けば、何ら不気味な要素はない普通の声。
 でも、その声の主は……いいや、でも。仮に普通の生徒だったとしても、どうして見えなかった?
 それに、「少なくとも聞こえているんでしょ?」とはどういうことか?
「一体……なんなんだ?」
 乙瓜は意を決して背後の何かに問いかけた。
「なんなんだ? ……それを聞きたいのはこっちの方。お前こそ何なの。変な目をしてる。……でも、まだ不安定。だってお前」
 何か一度言葉を区切ると、少しだけ大きな声で言った。
「俺の事見えてないでしょ?」
 その一言で、乙瓜は確信した。こいつ人間じゃない。
 幽霊か、妖怪か。わからないけれど。少なくとも間違いなく人間でないことは確かだと。
 乙瓜はぞくりとすると同時に、二日連続で人外に絡まれるとかツいてないなぁなんて事を思い、心の中で溜息を吐いた。
 声は尚も続ける。
「兄さんが此処にいるって聞いて来たけど、気配が弱くて見つからないの。昨日の夜気配が大きくなったから来てみれば、また弱くなってる。……でも、お前からは兄さんの気配がする。お前兄さんの事を知ってるでしょ?」
「はぁ? 兄さん……? そんなの知らな」
 知らない、と言いかけたところで乙瓜は何かに思い当たり、口を止める。――まさか。
 ある。知ってる。思い当たる節が一つだけある。いや、でもまさかまさかまさか……!
 冗談じゃァないっ、昨日の今日で、二人目……否、二匹目だと……!? 馬鹿な……でもすごーく、嫌な予感がする。
 乙瓜の頬嫌な汗が伝う。
「なんだ、やっぱり知ってるじゃない」
 姿の見えない背後の何かは、乙瓜の動揺に気付いてか、嬉しそうな声音で言った。

「俺は草萼水祢みずね。兄さんに、火遠に会いに来たんだ」
 嫌な予感は的中した。

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