深夜の最終停車駅を超え、何も知らない一般の乗客たちの大半が寝息を立てている時間帯、深夜から明け方に向かう午前3時半。
車内には電車の走行音以外に目立った音はなく、夜行列車らしい静寂に支配されていた。
その静寂の片隅、烏麦六夏と以神まなみ(仮名)と同車両内一階部分の客室内。いつでも開けるよう施錠していないドアに耳を当てて、住吉るりかは呟いた。
「…………なにも起きないですね。こちらの牽制が効いているからでしょうか?」
そう言って彼女が視線を向ける背後には、るりかと同じ【灯火】職員且つ連絡係の男、読坂一弥がタブレット端末・スマートフォン・携帯用Wi-Fi機器等々をベッドの上にずらりと並べ、端末モニターを交互に睨んでいる。
モニターの中に表示されるのは、【灯火】のサーバーにアップロードされる本部からの最新の指示と、他の作戦遂行部隊からの最新情報だ。
現時点でのログを辿るに、フェリーで吸収や北海道に向かった囮部隊は現在狐面の一団と交戦中であり、現在のところ特になにも仕掛けられていない空路の囮部隊も乗客の中に怪しい気配を察知して警戒中……とのことだ。
また、作戦参加者があちこちにばら撒いた木札の囮にも何人か誘引された情報も上がっており、【逆月】狐面の戦力は随分と分散されているらしい。
――が、複数の囮を走らせて尚本隊に付かれてしまったのは偶然か、執念か。
本部をはじめ狐面に追跡されなかった他部隊からの「用心するよう」というメッセージに目を走らせ、一弥は言った。
「あんまり喋らない方がいいですよ。聞かれるんで」
彼はそう言ってからもう作業机代わりになっているベッドの上に散らばる電子メモパッドを掴み、なにやら書いてからるりかに差し出した。どうしてもというなら筆談で、ということらしい。
るりかはなるべく物音を立てないようにドアから離れ、一弥の手からパッドを受け取る。
そして彼の書いたものに目を走らせると、そこには『本物がいると思われると余計によくない』と書かれていた。
(……まあ、それはそう。わかってるけど)
るりかはパッド備え付けのペンを取り、空いたスペースに自分の考えを書き記した。
『このまま逃げ切れるという可能性は?』と。
別室の連絡係によれば、弦月沙奏が敵が来ると言った駅で乗ってきた人数は十九人。全員が敵と見積もっても二十人もいない。
実際はもっと少人数かもしれないが、決していなせない人数ではない。それに他の囮部隊の襲撃情報と比較しても、本隊だけが特に大勢にマークされているというわけでもなさそうだ。
だからるりかは考えた。もしかしたら、まだ囮との区別がついていないのではないか? と。このまま逃げ切れるのではないか? と。そんな淡い期待をもって、彼女は一弥にパッドを渡した。
一弥はしかし、るりかの文章を一瞥すると、更に空いたスペースに一言書き加えてるりかに見せた。
『わざと囮に乗せられているフリをしている可能性』
るりかは目を見開いた。それから一弥の手からもぎ取るようにパッドを奪うと、走り書きで一言書き足した。
『気付いてるってことですか?』
その文字を見て、一弥は随分と狭くなってしまった空きスペースに『可能性』と書き、強調するように丸で囲ってるりかに見せた。それから一度メモパッドをクリアし、少し長めの文を、隅に小さく詰めながらこう書いた。
『ありがちな話、引っ掛かったふりをして油断させているのかもしれない。だから気を抜かないよう本部からも通達アリ』
一弥はそう書いたメモパッドをるりかに預けると、無言のままにタブレット端末の画面をるりかに向けた。
その画面内ではミュート状態の動画が流れていて、どうやら【灯火】側の退魔師と狐面たちがフェリーのデッキの上で戦っている様子を他の囮部隊の連絡係が撮影したものらしい。
動画は30秒ばかりで終わっていて、一見目新しい情報は皆無に見えた。
るりかはそんなものを見せられる意図がわからずに首を傾げ、メモパッドの空きスペースいっぱいに大きな『?』を書いて一弥に見せた。
すると一弥は溜息を吐いてタブレットを置き、メモパッドを返すよう手で促し――『?』のカーブの内側にこう書き加えた。
『敵、遊んでるみたいな動きじゃないか』と。
るりかはそれを見て「ええ?」と言葉を漏らすと、タブレットを持ち上げて再び動画を冒頭から再生し、狐面たちの動きを追った。
光源の少ない夜の船上、加えて敵は黒衣で手振れもあって視認性が悪く、数回のリプレイ確認を要したが――五度目の再生でるりかはやっと気付いた。
今、わざと勝ちに行かなかったな? と。そう思える動きをしている狐面がいることに。
気付いて顔を上げたるりかの視線に飛び込んできたのは、一弥の掲げるメモパッド。
そこには特大の『?』の細い足を突っ切るようにちょっとした長文が付け加えられていた。
『特定の地方の祟り神ならこの方法で撒けたかもしれないけど敵はあくまで強化人間目視されたら終わり。そもそも実験体にされる前Mを攫いに来たのは一人だったらしい。何人来るかは問題じゃない。一人でもつけて来たなら油断できない。最後まで』
「むう……」
るりかは唸り、頷き、それから腕時計を見た。
目的地まで残り二時間弱。
(……何事もなく降りられるといいんだけどな)
ざわつく想いを胸に、るりかは天井を――六夏らのいる部屋の方向を見上げた。
――その頃、六夏は備え付けの椅子に掛けて刀を抱えていた。
彼女の見つめる先のベッドにはまなみが横になっている。ニ十分ほど前に「少しだけ休む」と言ったきり身じろぎ一つしないが、決して熟睡しているわけではないだろうが――
まなみの立てていた本を捲る音すらなくなってしまった室内には規則的な走行音だけが残り、周囲は不安になるほど静まり返っていた。
その静寂の室内の中心付近、まなみのベッドの端には沙奏が腰掛けている。
相変わらず愛想一つない表情で扉を見つめている彼女は瞬き一つしない。彼女自身が言う通り人形のように。それが人外であることの証左のように。
誰もなにも言わなくなって、誰も碌に動かなくなって久しい室内で。その沈黙を破るように、沙奏は言った。『烏麦さま』と。
『烏麦さま。……わたしの声は外には聞こえませんので、どうか黙って聞いていただけないでしょうか』
それは脳裏に直接響くような不思議な声だった。恐らくは念話か――だが今更そんなことで驚かない六夏は、姿勢も視線も変えぬままにコクリと頷いた。
沙奏はそれを黙視すると、淡々と言葉を伝え続けた。
『駅まで残り2時間となりました。屋外は少しずつ明るくなって参りましたが、敵がこのまま何もせずに駅まで行かせてくれるとは考え難いです。……気付いておられるでしょうか?』
六夏は再び首肯した。彼女だってただ黙っていただけではない。少し前から客室の外の通路を狐面の気配が行き来していることには気付いていた。
足音はなかったし黙々と集中してやっと拾える程度だったが――確かに奴らに嗅ぎまわられていると感じていた。
一時間もして日が昇れば車内アナウンスが復活する。そうなれば今は寝ている一般客も大半が目を覚ますだろう。
……だから仕掛けてくるとしたら今しかない。今この瞬間にもくるかもしれない。
ピリピリとした緊張感を抱いて頷いた六夏を見て、沙奏は言った。
『こちらにまっすぐ一人来ます。恐らく位置を特定されました。ご準備を』
「わかった」
六夏は敢えて言葉で答え、刀をしっかりと握った。
その次の瞬間だった。扉がノックされたのは。
コンコンと二つ。六夏はすぐに答えず机上のスマートフォンに視線を移した。
なんらかの通知があればスリープモードが解除されて通知ランプが点滅するはずだが、……スマートフォンは暗い画面のまま沈黙している。
それを確認して、六夏は立ち上がった。同時にドアの向こうからピピピと小さな電子音が響く。ナンバーロックの解除音だ。
視られたのか、それともツールを使ったのかはわからないが、今まさに扉が開かれようとしている。
六夏はぞわりとするが、いや。端から籠城戦が出来るなどとは考えていない。
「……沙奏ちゃん、まなみさんをお願い」
言って、未だ仕込み杖のままの刀を構えて六夏が睨む先で、扉が与えられた起動に沿って開く。その向こうにいたのは味方ではなく、沙奏の読み通りの狐面だった。
たった一人の黒衣の狐面が、そこに立っていた。
その狐面は室内を一瞥すると、顔面を覆い隠す面をスッと側頭部にずらした。
六夏はその行動に少し驚いた。正体を隠すための面ではなかったのか? と。だがそんな驚きも次の瞬間には別のことで上書きされていた。
それは面の下から現れたのが女の顔だったからではない。面をずらしてこちらを見る女の目の白目の部分が、『白目』なんて表わすのが馬鹿馬鹿しくなるほどに真っ黒だったからだ。
(……なるほど、ギリギリ人間だけど限りなく怪異に近いわけだ……)
生唾を呑み込んで立ち塞がる六夏の向こう側――まなみを見つめ、黒い目の女は言った。
「随分久しぶりにお会いしますわねえ、アマギミナミさん?」
横になったままのまなみは女の死角で両目を見開き、唇の内側を噛んだ。
(第五解・証人M護送作戦・完)
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