「どうぞこれを」
沙奏はそう言って朱色の棒状のものを差し出した。1m半はあるだろうか、それなりに長い棒だ。
何も知らないで見れば選択竿にも見えるだろうが、六夏にはすぐにその正体がわかった。――仕込み刀である。
「……よく刀なんて持ち込めたね?」
「随分積みましたので」
「積んだ」の意味に六夏が勘づくより先に、住吉るりかが「お金ってすごいですね」と呟いた。
それから「まあ受け取ってください」とるりか促すので、六夏は沙奏の差し出すそれに手を伸ばした。
受け取り持ち上がった手の中に木の重みの内に隠された鉄の重みをずしりと感じ、六夏は思った。まだ勘は衰えていない。
ここ数ヶ月刀に触れることは一度もなかったが、久々と得物を手にした体に今まで鳴りを潜めていた経験がじわじわと浮かび上がってくるのがはっきりとわかった。
以前鬼伐山斬子に叩きこまれたことの全てが、ほろ苦い記憶と共に。
「…………中身は?」
浮上しかけた過去に目を向けすぎないように六夏が問うと、「会社で使っている赫灼の量産品です」とるりかは答えた。
それから「よろしければこちらもお使いください」と、一枚の長い布のようなものを鞄から取り出した。
「烏麦さんなら上手く使えるだろうって、社長が」
と、るりかが差し出す布には護符と同じ術式パターン模様が織り込んである。これも六夏がかつて長物と組み合わせて使っていた術布だ。
「ありがとう。……でもどうしてわざわざ別室まで呼び出したの?」
「あまり護衛対象を不安がらせてはいけないかと。社長の指示です」
るりかが言う『社長』とは一貫して丙のことである。
「不安がらせてはいけない」という言葉に沙奏も頷き同調し、首を上げて六夏を見上げた。
「我々の【月】は情報を与えることだけしかできません。可能な限り足止めを努めますが、あまり期待はしないでください。また、我々の母にも向けられる意識に限りがあります。既に侵入者がいるかもしれませんのでご用心を。なにがあっても、あの方を敵に奪取されてはなりません。よろしくお願いします烏麦さま」
沙奏は無機質な調子のままそう言って、ぺこりと頭を下げた。六夏はその静かな圧力に少し気圧されながらも、一呼吸して「わかった」と頷いた。
正直、頼られているというだけで、烏貝乙瓜がこの案件の近くにいるというだけで来てしまったが――実戦なんて久しぶりだし、どんな形であれ『生きた人間』の悪意と戦うのなんて当然初めてだ。上手くやれるかどうかはわからないし、正直怖い。
けれど【逆月】の実験体となってしまったまなみと話してみて思ったのだ。「この人を見捨てられない」と。
まなみは【逆月】が作り出そうとしている不老不死の人間、その現状唯一の実験成功例だ。連れていかれればきっと酷い目に遭う。
そして酷い目に遭うと分かっている人間を放っておくことは、六夏にとっては耐えられないことだった。
それはかつて橋架叶を救えなかった後悔のために。
それはかつて八尾異に庇われてしまった後悔のために。
力及ばずとも自信がなくとも心折られても、六夏の頭には今まさに自分の目の前で危険な目に遭おうとしている人間を放っておく選択肢はなかった。
烏貝乙瓜に憧れ、妖界に沈み行く鬼樫眼子に手を伸ばしたときからずっと――。
六夏が沙奏と共に元の客室に戻ると、仏頂面で椅子に座っていた男退魔師が気怠げに「おう」と手を挙げた。
まなみはベッドの上に体育座りしながら本を読んでいて、二者の間に特に会話があった風ではなさそうだったし、当然だが変なことが起きていた様子もなかった。
六夏が戻ってきたので、男はよっこらせと立ち上がった。あくまで交代のつもりらしく、留まって一緒に警護に当たる気はないらしい。
「おつかれさん」と言いながら、彼はさっさと立ち去ろうとした。
それを見て焦ったのは六夏だ。
「あの、もう少しいてもらえないですか!?」
そう呼び止めると、男はいかにも面倒そうに立ち止まり、「なんでだよ」と振り返った。
六夏は益々焦ってしまった。なんでと言われたって、不安がらせるかもしれないからとわざわざ別室まで行った手前馬鹿正直に言えるわけもない。
それに「敵が乗り込んでくるのでもう少し残っていてほしい」なんて、今更情けないし恥ずかしいではないか――
だが、そんな六夏の考えなど男にはお見通しのようだった。
「あのな、今回の作戦はお前がメインって丙が決めたんだよ。俺はあくまで尻ぬぐいだ。それに馬鹿みてーに一ヶ所に纏まってたらいざってとき動きづれーじゃねえか」
男は気怠げなテンションのままそう言って――それから六夏の持つ棒に視線を向け、思うところありげに「フン」と鼻を鳴らした。
六夏はその態度に少しムッとして「なんですか?」と男を見上げるが、彼は薄笑いを浮かべ「いいや?」と吐いて、「嬢ちゃん悪いね」と沙奏をどけて、今度こそ扉の外へ出た。
そうして通路に出たところで男は再び振り返り、六夏を見てニヤリと笑った。
「怖いなら精々鍵かけて籠ってな。極力そっちに行かないようにしてやんよ」
「なっ――――!?」
なんてこと言うんだ。六夏がそう言い返そうとした瞬間、車輪とレールの摩擦音が微かに響き、電車がぐらりと揺れた。――停車駅に到着したのである。
「烏麦さま」
沙奏の言葉に、六夏は我に返った。通路にはもうあの男退魔師の姿はない。自分の客室に戻ったか、あるいは戦闘配置についたのか――。
わからないが、この駅で一般客に紛れながら【逆月】の者が乗り込んでくることだけは確かだった。
既に車内に乗り込んでいる他の【灯火】の構成員たちは、今頃各自戦闘や妨害術式の準備をしていることだろう。住吉るりかや岩塚柚葉も、きっと。
「烏麦さま。施錠します。よろしいですね?」
「……うん。そうして」
沙奏が言うのに頷いて六夏は刀を持つ手に力を込めた。
一方以神まなみは特に何も言わずにずっと本に目を落していたが、流石に先ほどからの空気を察知できぬほど鈍感でもなかった。
閉まり行く扉と六夏たちの様子を目の端でチラリと見て、それから彼女は車外に向けて意識を傾けた。
まなみは六夏が思うほどか弱い存在ではない。「接してみたら存外普通の人間であった」ことからそうだという意識が抜け落ちているのかもしれないが、まなみは【逆月】がこれから大量生産しようとしている不老不死の新人類――いずれ怪物をも超える生身の人間兵器――その理想の完成形に最も近い現状唯一の存在だ。
彼女はただ不老で不死なのではない。先行被験者である狐面たちが持っている怪物級の身体能力も、実は持ち合わせている。
だから本当は眼鏡など必要ない。度なんて入っていないし、どちらかというとファッション兼ちょっとした気休めの変装だ。
それに耳も大分いい。六夏が離席している間の会話は薄っすらとは聞こえていたし、戻ってきた六夏が持ち込んだ棒の中に金属が仕込まれていることも、それが恐らく刃物であろうことすらも音でわかっていた。
そして六夏が「怪異に限りなく近いがギリギリそうではない」と感じた初期の被験者独特の気配は、まなみにも察知することができた。
(十……十五まではいかない、十二か三。…………あの秘密施設の生き残りもいる。ちょっと厄介だな)
まなみは目を閉じ考える。
いざとなったら彼女も戦えないこともない。名を変え居場所を変えての逃亡生活の始まりに、ヒーロー気取りの知人が力の使いどころを簡単に教えてくれた。
一ヶ月前は数十人単位の敵の連携にしてやられたが、今回は十数人。【灯火】の本部施設を出てから随分経つが、それでやっと十数人なのだから、囮は上手く機能したようである。
(とはいえ私がしゃしゃり出て行って血や肉を大量に持っていかれてもまずいから、烏麦さんには頑張ってほしいけど……)
まなみは改めて六夏を見た。六夏は黙々と刀に布を巻き付けているようで、まなみの視線には気付いていないようだったが――そんな彼女を見てまなみは思った。
六夏はきっと一生懸命やるだろう。真面目に、出来ること全てをぶつけて戦ってくれるだろう。まなみの親友がそうだったように。
だが、だからこそまなみは心配だった。六夏の青い危うさに……だけではない。
六夏の内に渦巻く黒い力。恐らく六夏自身は気づいていないであろうその力の気配を、まなみは感じていた。
(多分……宵ちゃんやあの人のそれとは違うんだけど……、近いものを最近見た気がする。だからもしそれが表に出てくることがあれば、とても怖いことのような気がする)
まなみが引き続き不安げな視線を六夏に向けていると、ふと沙奏と目が合った。
幼い姿の彼女が人間ではないことも、本質的には彼女の親友と同じモノであることも、まなみはちゃんと気付いている。
だからまなみは、「どうしよう?」という目で沙奏を見た。
沙奏は相変わらず不動の表情のまま口元に人差し指を立て、「何も言わないように」とジェスチャーした。
誰も何も言わない客室の向こうで、何人かの人間が出入りする気配がした。深夜とはいえまだ日付が変わったばかり、二十人は乗っただろうが、過半数は敵である。
スピーカーから発車のアナウンスが流れる。動き出した車内が揺れる。
次の停車駅まで四時間以上。敵を乗せた電車は乗客の増減を許さず夜を行く。
六夏は生唾を呑み込み、自分を勇気づけるように頬を叩いた。