怪事醒話
第六解・覚醒する血と正体①

「マワリさん……でしたっけ? あなたが生きていたとは驚きです」

 以神まなみは――否。甘木あまぎみなみは寝たふりを止めて体を起こし、六夏らの背中越しに狐面の女を睨んだ。
 狐面の女・マワリは無言の微笑みでそれに答えると、わざとらしい動作で客室の中をぐるりと見渡した。
 客室の出入り口は、今まさにマワリが塞いでいるドア一つしかない。
 いざとなれば窓を割って脱出することは可能だろうが、時速百キロ近い速度で走行する電車の車窓から脱出するのは現実的ではない。
 いかに不死身に近い人間であれ当分行動不能の重体となることは想像に難くなく、寧ろ動けなくなったところで【逆月】の手の者に攫われるリスクを考えればしないほうがいい行動と言える。
 そんな状況を再確認させるように周囲を見回した後で――マワリは言った。

「今の状況。分かってますよねえ?」



 何秒かの沈黙があった。規則正しい電車の走行音と振動だけがあり、多くの乗客が眠りの中にあることを際立たせた。
 その一時の沈黙の後、マワリは言葉を続ける。

「なにも荒事を起こしたいわけではないのですよ? 多くの何も知らない方々に累が及ぶことは我々とて本意ではありません。そちらの彼女を引き渡してさえくだされば、我々は大人しく帰ります。……けれども、です。貴女がたが愚かにも無駄な足掻きをするというのであれば……ねえ?」

 ――と、彼女は黒衣の下から何かをちらと覗かせた。
 それは六夏の目には金属の――刃物ではなく、そう――鉄扇てっせんに見えた。その名の通り鉄(または金属)でできた扇である。
 武器としては間違いなくマイナーな部類に入るだろうし、それを使って上手く戦うのは難しいと思われるが、相手が強化人間である以上油断はならない。
 六夏は己の武器を握る手にほんの少し力を込め、ふうと大きく息を吸い、吐き、それからマワリの奇妙な目を見つめて言った。

「……交渉は無意味です。あなただってわかっているはずです。まなみ・・・さんは渡しません」
「あらあら。……逃げ場もないというのに? 本当に?」

 マワリはさも驚いたように聞き返すが、その実大して驚いていないことは態度の端々から窺えた。
 当然である。表向きは荒事を起こしたいわけではないなどと言っているが、彼女だって最初からやり合うつもりで来ているのだから。そのつもりで己の得物を明かしたのだから。
 マワリは「残念です」と、決して残念に思っていない口調で言うと、鉄扇を広げ、それからもう一度客室内を見渡した。  彼女が周囲を見渡すのは六夏ら敵対者への牽制のためだけではない。……純粋に警戒しているのだ。かつて甘木陽が実験体となった後、【逆月】の拠点の一つを壊滅に追いやった恐るべき存在。それが再び己の眼前に現れることを。

(――やはりあの悪魔・・はいない。……教授を殺したあの女も。随分と舐められたものですが……いいえ。好都合と受け取っておきましょう)

 ふぅと息を吐き、マワリは鉄扇を大きく広げる姿勢を取った。

「貴女に恨みはありませんが、倒してそちらのお姫様をいただくとしましょう。せめてもの情けにすぐに終わらせて差し上げますわ。けれど……ごめんあそばせ? 鉄扇この子はあまり優しく出来ないのです。痛いですわよ、とぉーっても」
「……かかって来るなら早くしてください。面倒なので」
「いえいえ。ただ倒してしまっても味気ないですし。それ・・を抜くくらいの時間は待ちますわ」

 マワリは余裕の態度を崩さず、六夏のを示した。恐らく、すでに刀であることは見破られている。
 六夏は小さく舌打ちすると敢えて刀を抜かずに棒のままで構え、その端にどこからか取り出した長い布を結いつけた。
 それは【灯火】の護符百枚分の術式の織り込まれた特性の防御布だった。一見ただの布だが、この一流ひとながれに込められた術式は銃弾をも弾く。
 六夏としては抜刀してしまってもよかったが、狭い客室内で刀を振り回すよりもまなみ・・・に手を出させないことを優先と考えた。

「沙奏ちゃん、まなみさん。部屋の奥に」

 マワリに視線をむけたまま六夏が言うと、その視界の隅で沙奏たちがゆっくりと、敵を刺激しないように動き出した。

「六夏さん気を付けて。その人は――」
「わかっています……!」

 心配の言葉を向けるまなみ・・・を庇うように防御布を翳し、六夏はマワリを睨んだ。
 単身乗り込んできた彼女が相当な手練れであろうことなんて、指摘されるまでもなく理解していた。
 以前都内で見かけた狐面とは明らかに何かが違う。人間でありながら怪異でもある嫌な気配である点では同じなのだが、マワリは血と怨念の気配を一層強く纏っている。恐らく既に何人もほふってきている。……少しでも気を緩めれば狩られる・・・・
 そんな相手を前にして、六夏は……本当は少し怖かった。人間の形をしたものを前にしてこんな気持ちになったのは久しぶり――それこそ首接丹夜と対峙して以来だ。

(本当は『やますぃ』さんにも来てもらえると助かるんだけど連絡取ってる時間なんてないし、それに……)

 六夏には聞こえていた。マワリの背後から通じる通路の向こうで、静かに、けれど確かに。列車特有の"環境音"に混じり、なにかとなにかがぶつかり合う音が。
 ――既に味方戦力とは分断されている。そう判断するのに時間はかからなかった。
 やるしかない。

「準備、終わりました?」
「…………ええ。いつでも」

 六夏が頷いた瞬間だった。ブンッっと風を切る音がしたと思った瞬間、六夏の左頬に痛みが走った。
「えっ」と呟いた瞬間には六夏の視界には客室の天井が広がっていた。遅れて腹部と背中に鈍痛が走る。そこで初めて「斬られて、蹴られて、体をぶつけた」ということを理解する。
「六夏さん!」というまなみ・・・の声に続き、「ごめんあそばせ」というマワリの声が頭上・・から降ってくる。

「ごめんあそばせ? 私、荒事は得意ですの。……ご理解、頂けたでしょう?」

 マワリは六夏の横にしゃがんで首を傾げ、嗜虐心を抑えきれない様子で言葉を続けた。

「貴女は私には勝てませんわ。今降参してくださるのであれば、命までは取りませんけれど」

 六夏の首筋に冷たいものが添えられた。それがマワリの鉄扇であることは明らかだった。
 ほんの十数秒のことだった。だが、相手があまりに速く、あまりに理不尽で、あまりに強いことを理解するのには、十分すぎる時間だった。
 ――嘘でしょう? 六夏は思う。けれどどう考えって嘘じゃない。夢じゃない。痛みは本物だし、感覚は本物だし、ニヤリとしながら覗き込むマワリの顔も、客室の隅で心配そうに表情を歪めるまなみ・・・の顔も、全部全部現実だ。

(は? は?? なんだこれ。……次元が違いすぎる。おかしい。おかしすぎる。あまりにも……化け物・・・すぎる。……でもっ、)

 精一杯の困惑の後で、六夏は、けれど首を横に振った。首の皮膚が切れるのも厭わず。

「……しません。しないです……! 降参はだけしませんっ、絶対にッ!」

 声の震えを抑え込み、六夏は咄嗟に防御布をマワリの顔に被せた。
 すっかり精神的に制圧したと思っていた者の抵抗にマワリは不意を突かれ、術式の編まれた布の力に数秒だけ動きを封じられ、それから忌々しげに布を取り祓って立ち上がる。

「よくわかりました。それが貴女の解答こたえですね?」

 初めて怒りを顕にしたマワリの視線の先で体勢を立て直し立ち上がった六夏は「はい」と答え、刀を抜いた。

「……自分の中に油断がありました。非礼をお詫びし、全身全霊をもってあなたに挑みます!」

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