作戦決行日午前4時、夜明け前。まだ眠っている六夏のベッドの横には、一匹の奇妙な魚が浮いていた。
カーテンの隙間から漏れ出る更待月の光が照らし出す、黒い魚のシルエット。三日月形の大きな尾鰭を持つそれは、弦月沙奏のもう一つの姿である。
沙奏の魚は空間という水の中に透明な泡を吐いて六夏を見つめるが、六夏はそれに気付く様子はない。
実際六夏が就寝前にセットしたアラームの時間・午前5時にはまだ遠く、目を覚まさないところでそれを咎められる謂れもない。
強いて言うなら六夏の先輩が対立した【月喰の影】の現・代表の前で熟睡をかましていることについてはいささか不用心かもしれないが――この一週間一度も寝首をかかれることはなかったし、沙奏にだってその気はない。
沙奏はただ、じっと潜んでいるだけだ。多くの魚たちがそうして眠るように。
……否、沙奏には睡眠など必要はない。必要はないが、多くの影がそうであるように、暗がりの中ではじっとしているだけだ。
夜通し"仕事"をしていてもよかったが、曲月嘉乃らが育て上げた会社群はもはや彼女がどうこう介入せずとも動くようになっているし、他にしたいことがあるかといえばそうでもない。
そのため沙奏は夜の間はじっとその場に留まっていて、そして"母"と対話するのだ。
彼女の母――この世の全ての影、闇の魚、曲月常世。それはいつだって闇の中に在って、なにもかもをじっと見つめているし、"子"が求めればいつでも答えてくれた。
その母に、沙奏は言葉を介さず呼びかけた。
『今日のことを聞いていましたか。お母さま』
すると、闇の中で"母"が答えた。人間には聞こえない声で答えた。
――ええ。聞いていましたよ、沙奏。人間とはつくづく傲慢な生き物です。食事を摂れるか摂れないかなど些末なことに過ぎないのに。それを要せず一生を終える生命も多いと云うのに。
『本当に。我々は人間の形をとっているだけで人間とは異なるモノなのに、なぜ人間のように扱うことに拘るのでしょう。それが幸せだとでも思っているのでしょうか?』
――思っているのでしょうね。そうでなければ不幸だと、無意識のうちに考えてしまうのでしょう。そうでなければ恐ろしいと、無意識のうちに思ってしまうのでしょう。そのためにあなたたちのお父さまを恐れ、わたしの及ばぬ場所に隠してしまったのです。なんということを。
『……そうですね。人間は自らの理解の外にあるものを恐れすぎている。解釈の一つでいつも争っている。……早く我々になってしまえば分かり合えるのに』
――沙奏は良い子ですね。さすがはわたしとお父さまの娘です。……そう、いつまで経ってもわたしと嘉乃さまの望みは一つ。そのために、あの方の留守を預からなければなりません。異質だと追いやられた人間ではなき者たちを守らなければなりません。みらいのために。
『わかっていますお母さま。そのために月の名を騙る偽物の面を砕きます。お父さまとお母さまの望みが私の望み、それ以上は必要ありません。わたしは――六夏が焦がれる愚かな姉のようにはなりません』
それでいいのです、と闇が笑った。沙奏は黒い泡を吐き、閉じることのない魚眼をぐるりと動かした。
翌朝、早朝に起床し身支度を整えた六夏は【灯火】からの指示通りの駅から電車に乗ってT県に向かった。まっすぐ行けば二時間以内に着く計算だったが、敢えて乗り換えの電車を見送って馴染みのない街を少しぶらついたりして、のんびりとだ。
そうして【灯火】から支給された身代わりの木札を無関係な場所に撒いたのだ。六夏には原理がわからないが、木札には護衛対象の気配とでもいうべき物が記録されていて、あと何時間かしたらそれを再生するようにセットされているらしい。
つまりはデコイだ。【逆月】が血眼になって捜している護衛対象の気配を使った誘引剤――俗な言い方をするなら『時限式狐ホイホイ』。今日【灯火】に集う者は、皆これをあちこちに置いてきているはずだ。
とはいえ実際に周囲をうろつかれていた六夏としてはあまり意味のないことのように思えたが、【灯火】の式神使い職員が一週間ほど観測した結果・狐面の数自体はそう多いものではないらしい。
一定期間特定の監視対象に張り付くことはあっても常にあらゆる場所を監視しているわけではないらしく、むしろ妖怪のように気配を察知して行動するため、こうした地道な罠が有効――と【灯火】は考えたようだ。
尤も、護衛対象本人が目視されてしまえばデコイはあっという間に無意味になるが――
(そのときはそのときの考えがある、って言ってたしな……)
最後の乗り換え駅で電車を待ちながら、六夏はペットボトルの天然水を呷った。
傍らについてきている沙奏はというと、六夏の荷物からにょろりと顔を出す管狐の顎を撫でながら、その周辺だけ少しだけ発展している地方都市の様子を眺めていた。
ここまでの道中、六夏はなるべく沙奏に話しかけるようにしていた。
「これ美味しいよ」とか、「珍しいもものがあるよ」とか、「風が気持ちいいね」とか、そんな他愛もないことをなるべく親し気に話した。
沙奏は「そうですか」「そうですね」「そうかもしれないです」と生返事するばかりだったが――今は暖簾に腕押しだとしても、少しずつ分かり合えたらいいな、と。
六夏は純粋に。無邪気に。沙奏がどう思っているかなんて考えもせず、そう思っていた。
【灯火】本部の最寄り駅に到着したのはしっかり正午を過ぎてからだった。
田舎の住宅街にポツンと立った小ぢんまりとした駅のホームで待っていた【灯火】職員の車に乗せられ、六夏と沙奏は一週間ぶりに本部に戻ってきた。
本部の中は平時より心なしか人が多い様子で、中には荷物を抱えてあちこち行き来している職員もいる。
せかせかしていない者は退魔師らしく、一般職員とは明らかに違う雰囲気を漂わせながら暇をつぶしている様子だ。
自分もここで待つのだろうかと六夏が思ったとき、本部まで送ってくれた中年職員が言った。
「あなた方は三階へどうぞ」
そうしてエレベーターを指し示す中年職員に礼を告げ、六夏はエレベーターに乗って三階の応接室へと向かった。
「失礼します!」
一週間前とは打って変わって自信をもって入室した室内には、丙と捧の他に既に七人ばかりの人がいた。
その内一人は岩塚柚葉であり、六夏を見て「よっ!」と気さくに手を挙げた。
住吉るりかもその中にいる。事務方であるはずだが、なにか補助の役割でも与えられているのだろうか。彼女もまた六夏の姿を認めると、ぺこりと小さく会釈した。
るりかの隣に立つ男性職員も戦闘職ではない一般職員のようで、腕章には『営業』と書かれている。あまり見覚えのある顔に思えなかったので、今年からの新人かもしれない。歳も六夏と精々3つ4つしか変わらないように見えた。
後の四人は皆知らない人物だった。
ライダースーツの顔のよく似た男女、退魔師らしき愛想悪そうな男――ここまで皆いずれも立っていたが、一人だけソファーに着席している者がいた。
どうやら退魔師でも運び屋でも一般職員でもなさそうな、眼鏡の女性。だが彼女を見たとき、六夏はピンときた。
――この女性なのかな、と。そしてその予想は的中した。
六夏が入室したのを認め、丙は「よし!」と手を叩き、喋り出す。
「皆よく集まってくれた! 今下の方でも人員を集めているが、護衛の本隊はここに集まっている八人で全員とする!」
八人。そう聞いて誰もが察した。やはり中央の彼女こそが、と。
部屋中の視線を受け、ソファーの彼女は起立し、無言のまま礼をした。
そして彼女がまだ頭を上げぬ内、丙は言葉を続けたのだった。
「彼女が今回の護衛対象だ。本人希望により匿名とさせてもらうが、作戦上は仮に『M』さんとする。……まあ、それだけではちと違和感があるだろうから、便宜上の偽名も考えてある。だよな?」
「はい。私のことは『以神まなみ』とお呼びください」
Mこと以神まなみは顔を上げ、大人しそうな外見よりも堂々とした声でそう言った。今回は護衛対象ではあるものの、芯の強そうな女性だと六夏は思った。
次いで、もしかしたら修羅場を潜り抜けてきたからそうなったのかもしれない、とも。
六夏がまなみのバックグラウンドに思いを馳せる中、まなみは改めて礼をした。
「お手数をおかけしますがよろしくお願いします」
その場の全員が浅く深く頭を下げた。六夏も一拍遅れて礼をして……少し緊張してきた。
一週間前に聞かされていたこと、あれから沙奏が言ったことをまとめるに――彼女を一番近くで守らなくてはいけないのは自分だ。
歴戦の雰囲気のあるもう一人の男退魔師はあくまで補助だろう。ライダースーツの男女は知らないが、柚葉と同じ運び屋なら本部への連絡係だろうし、るりかともう一人はナビゲーターか『財布』役だろう。
戦力としては手薄かもしれないが、何十人何百人いても分断されることを思えば少人数のほうが動きやすいかもしれない。
(それほどあたしに信頼置いてくれてるのか、もしくはこの男の人に信頼があるのか……)
六夏は男退魔師をチラリと見た。するとタイミングが悪いのか、それとも相手の察しが良かったのか、彼も六夏の方に視線を向けた。
突然視線が合ってビクつく六夏だったが、相手は怒るでもなく笑うでもなく呟くように「よろしくな」と言った。
「はいっ、こちらこそ――」
と頭を下げながら、六夏は初めて会ったはずのこの男に見覚えがあるような――顔立ちに既視感があるような気がしていた。
けれどその既視感を訊ねる前に最終的な目的地と移動手段・ルートの説明が始まっため、機会を逃したまま作戦に臨むことになった。
諸々の確認と準備を経て迎えた夜10時前。
囮の護衛部隊が同時多発的に陸海空路で国内外の擬装目的地へ向かう中、六夏ら本隊の姿は東京駅のホームにあった。
ここから一夜をかけて目指すは大阪、関西国際空港――!