怪事醒話
第五解・証人M護送作戦②

【灯火】本部施設の地下三階、平時は曰く付きの品々の保管空間として使われている階層に設けられた一室に"彼女"はいた。
 敵・【逆月】の人体実験成功例であり不老不死を得るも逃げ出し、その身を狙われている女性。
 彼女が匿われている階層は、訳あり物品の保管空間という特性上二重三重に結界が貼られており、【灯火】職員でも入室権限を持つ者は限られていた。
 そのため見つかってはいけない彼女を隠すのにはうってつけだったが……人が寝泊まりすることなど想定していなかったため、部屋には急遽用意したベッドと簡易トイレがあるだけで、さながら独房のようであった。
 とはいえ彼女は囚人ではないため食事ものんびりと食べられたし、望んだ嗜好品の類はいくらでも差し入れてもらえた。スマートフォンの使用は制限されていたものの、事情を知る友人とは【灯火】の職員を通して連絡が取れたため、彼女はあまり不満には思わなかった。
 今日日きょうび珍しくSNSへの依存が少なかったのも幸いしたのだろう。日に数冊適当な分厚い本を差し入れてもらえさえすれば、彼女は一日時間をつぶしていられたからだ。

 彼女の名前は――匿名を希望したため、仮にMとする。
 丁丙含めて数人は本名を知っているが、どこから情報が流出するかわからない以上、他に本名を知る者の記憶には封印の術式を打ち込んでいる。

 その日、いつものようにベッドにかけて本を読むMのところに丙が一人で訪ねてきた。

「時間いいか?」
「どうぞ」

 Mは本に栞を挟んだ。閉じられた本はなにやら見慣れない言語で書かれた本で、大百科ほどの厚みがある。果たして読んでいて面白いかわからないが、彼女にとってはこれが丁度よかった。
 日本語の本であったらすぐに読了してしまうというのもあるが、今のうちにその言語をできるだけ勉強しておいた方がいいと感じだたからだ。

 彼女は数日後国外へ飛ぶ。【灯火】史上稀にない規模の囮攪乱作戦で敵を欺き、海外に向かうのだ。

 丙がやってきたのはまさにその作戦についての事前説明の為だった。Mはそれを悟り、丙に向き直った。
「いよいよ出発ですか」
「ああ、明後日には出発する。大変だと思うがここを乗り切ればかなりの安全圏に行ける。あと少しの辛抱だ。……今までこんな地下で不便を強いたな」
「そんなこと。押しかけてしまったようなものなのに、良くしていただきありがとうございました」

 Mは深々と頭を下げた。丙はそんな彼女を見て申し訳なさそうに笑い、彼女の隣に腰を下ろした。そして呟くように言った。

「信頼できるやつを選んだつもりだ。まだ若いが腕は確かなはずだ」
「護衛の件ですね。どんな方ですか?」

 どんな方――と訊かれ、丙は少し考えてからこう答えた。「不器用だが優しい奴だ」と。
 それを聞いて、Mはクスと笑った。

「じゃあ、ショウちゃんと一緒ですね――」



 ――作戦結構予定日前日・夜8時。
 大学はすっかり夏休みに入り、学生たちが各々バイトに勤しみ・友人と遊びに出かけ・自堕落に精を出し・田舎に帰る中。六夏はどうしたものかと思いながらキッチンを見つめていた。
 彼女の見つめるキッチンには、踏み台に登りつつフライパンで野菜を炒める沙奏の姿がある。
 彼女は六夏の部屋にすっかり居ついてしまっていた。そして「助手になってくれた礼に」と称し、炊事洗濯掃除を問答無用で請け負ってしまったのだ。
 勿論六夏とて「じゃあおねがいします」と丸投げしたわけではない。自分より見た目年下の子供に世話をさせるのには抵抗があったし、何度もやらなくていいと伝えた。
 だが沙奏はその意見を一切無視し、結局なんだか都合のいい存在として六夏の居城に居座ってしまったのだ。
 セメスター終了前の大学についてきてあれこれ指図されることがなかったことだけは六夏にとって不幸中の幸いだったが――

(これってあたしのこと懐柔しようとしてるよね? ……絶対そういうやつだよね? 罠……かもだよね??)

 昨日も一昨日も考えたことを繰り返し、けれども六夏は今日も沙奏の行動を注視することしかできなかった。
 いや、お願いを聞いてもらえない以上は見ていることぐらいしかできないというべきか。
 一応、四日ほど前に強制退去させようと思って部屋の外に締め出したことがあるにはある。だが帰るどころか部屋の前に体育座りされてしまい、同じ階の住民に警察を呼ばれてしまったのだった(沙奏が口裏を合わせてくれたのでどうにかなった)。沙奏が下手に能力者にも視える怪異である以上、対応を間違うと社会的な死につながると実感した一件だった。

 穏便に済ませるには、どうにかして沙奏の方から出て行ってもらうしかないが、出ていく気配は一向にない。
 そうこうしている間に管狐(ココタ)は餌で手懐けられてしまい、沙奏を追い出そうとすると六夏を威嚇するようになってしまった。つらい。
 そして六夏自身も沙奏がどこで覚えたか作る料理に胃袋を掴まれそうになっている。つらい。魚介が多いけど普通に美味しい。
 ついでに掃除も洗濯も六夏と同じ洗濯機と掃除機使ってるはずなのに上手い。つらい。

(……結局追い出せないまま一週間が過ぎてしまう。つらい)

 六夏が恨めし気に見つめる中、沙奏は「どうぞ」と今日の夕食をお出ししてきた。
 麦飯、シーフードと野菜の中華炒め、オクラと卵のスープ。相変わらず沙奏の分はない。消化器官がないので食べられないし味見すらしていないそうだが――六夏はそんな料理を相変わらず美味いと思う自分が憎らしくなった。
 そんな六夏の気も知らず、沙奏は今日も訊ねてきた。

「お味はいかがでしょうか、烏麦さま?」
「……美味しいですー。今日も相変わらずー」

 不貞腐れた調子で言う六夏に沙奏は「そうですか」とだけ答え、食事を摂る六夏を黙って見つめた。興味深そうに、幼い子供が飼育動物を観察するように。
 沙奏がそんな風に覗き込んでくるのは初めてではない。ここにきて初めて食事を作ると言い始めたときからずっとそうだった。
 当初は「不気味だなあ」とか「こちらの反応を伺ってるのか」とちょっぴり嫌な感想を抱いていた六夏だったが、今日に至って別の考えが浮かんできた。

「もしかして……食べたい?」

 訊ねると、沙奏は目線を六夏に合わせ――相変わらず変化に乏しい表情のままで答えた。

「不便に思っているわけではないですが、興味はあります」
「へーえ……。つまり食べてみたいってこと?」
「簡単に言えばそうですね。けれども実現は望みません。経験はありませんが、味はわかっていますので」
「経験ないのにわかるもんなの?」

 不思議に思って六夏が訊ねると、沙奏はコクリと頷いた。

「わたしは元々一つの存在――母の数ある分身の一つです。他の分身体が体験したことは情報として理解できます」
「なんだそれ……。てか他の分身体は食べたり飲んだりできるんだ?」
「ええ。既存の他の生物個体を隅々まで参考にして作られていますので」
「ふーん。……でも同じ分身体のなかでできる個体とできない個体がいるのは不平等じゃない??」
「そうでしょうか?」

 沙奏は顔色一つ変えないまま首を傾げた。

「烏麦さまたち人間も特定のことに秀でた個体とそうでない個体があります。先天性あるいは後天的理由によりできること・できないことに差があります。努力では埋められない格差による羨望せんぼうと嫉妬と不和があります。……けれど我々・・分身体は母と意識を共有しています。記憶と体験を共有しています。できないことで他の兄弟姉妹たちを妬んだり羨んだりしません。……人間もそうあればいいのに」
「怖いこと言うね。……それが本性かい?」
「本音ではあります。実際【月喰の影】創始者の――の望みでありました。けれども烏麦さまの先輩方に阻止されて以降、裏社会での組織力を大きく削がれた現在の我々にはそれを実行するだけの力はありませんし、計画再開の目途も立っていません」

 ですのでご安心ください――と、沙奏はそう付け加えた。
 六夏はしれっとかつての計画を明らかにしてきた彼女を見て思った。先輩たち本当にヤバいのと戦ってたんだな……と。箸を運ぶ手は完全に止まっていた。
 簡単な経緯は聞かされていたつもりだったが、悪いと思わずにそれをする相手ほど質の悪いものはいない。

 ……そう思う一方で、少しだけ沙奏たち・・・・を羨ましいとも思った。

(できないことで他の兄弟姉妹を妬んだり羨んだりしない……か)

 怪物に取り込まれる気は毛頭ないが、その境地に至れたならこの数年はどれほど楽だったろう。
 自分ではないものが高く高く飛ぶのを見て、なんとも思わなくなって――それができたらどれほどよかったろう。

(なんてね)

 ふと湧いた考えを振り払い、六夏は思い直す。確かに気分はよくはなかったけど、最悪だったけど、どん底のどん底ではなかった・・・・・・・・・・・・・
 それに丙に頼られたときの感覚、烏貝乙瓜が間違いなく生きていてそう遠くない場所にいると知った時に沸き上がった熱い感情がある。自分はまだ終わっていない。

 ――大丈夫。その想いを反芻し、六夏は両手で自分の頬を叩いた。
 黙りこくったと思えば唐突に奇行に走った六夏を見つめ、沙奏は不思議そうな声音で訊ねた。「烏麦さま?」と。

「なんでもないっ!」

 六夏ははっきりとそう返し、それから思い出したように食事を再開した。
 そして冷めて尚悔しいほどに箸の進んだ料理を全て胃袋に納めた後、六夏は一人納得したように言った。「なんだかんだ個体差も悪くない!」と。

「どういうことです?」と沙奏は言った。「個人的な感想!」と六夏は返し、沙奏の目をまっすぐに見た。

「……決めた! 何度も何度も帰らせようとしたけど、今腹括った! キミがあたしの相方になるってのなら、キミを通して人間も悪くないって、キミの"お母さん"に伝える! それからキミとちゃんと友達になる! いつかキミのお母さんに、キミ自身がモノを食べられるようにしてもらう! だからその一歩として――とりあえず『沙奏ちゃん』て呼んでいい?」

 暗い考えを振り払うように、六夏は努めて熱く明るく宣言した。鬼樫眼子に初めて会ったときのように、敢えて少し無理して言った。
 そんな六夏と対照的に、徹頭徹尾凪いだ水面のようにそこに在る少女は――「お好きにどうぞ」と。そう答えた。

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