"彼女"にとってのはじまりは、六年も昔のこと。
立ち上る炎と煙を背に友人と逃げ出したその日、"彼女"は一生かけて逃げ続けることを余儀なくされた。
それが茨の道であることはわかっていた。けれども手を引く友人とならば、それで構わないと"彼女"は思った――
丙に召集された翌朝、六夏は見覚えのない家の中で目を覚ました。
だが「どこだ」と口に出した直後、ここがどこであるがぐらいは思い出す。
あれから――丙に重大な頼みごとを受けて、それに関わる話を聞いて、大分夜も明けて――今から都内に帰るのは難しかろうと、【灯火】職員の社宅に行くよう勧められたのだった。
(そうだった、そういえば「空きがないからだれとかの部屋でいいよな」って……それで……)
六夏は身体を起こして周囲を見た。そして自分が寝ていたのがソファーの上だったことに気付き、「ソファーでいいよ」と自分で寝たことを思い出した。
あまり広くはない室内には六夏の趣味とは全く異なる家具や調度品が並び、机上や床の上には資格の参考書が少々――いや、だいぶ乱雑に置かれている。
(そうだ、この部屋って)
と、六夏が思った瞬間。部屋の外から――おそらくキッチンから――やや焦げた臭いと共に、誰かが顔を覗かせた。
「あ、おはようございます。まだ寝ててもいいですよ」
大して驚いた風でもなく言ったのは少女だった。随分小柄で、昨夜の沙奏ほどではないが小中学生くらいにしか見えないが、六夏は彼女に見覚えがあった。
以前【灯火】に出入りしていた頃からたまに見かけた娘だ。六夏とは親密とまではいかずとも何度か挨拶を交わしたことがあるし、実は同い年くらいであることも知っている。
名前も聞いたことがあったはずだ。確か――
「住吉るりか……さん?」
「はぁい? そうですが」
彼女・住吉るりかは不思議そうに答え、小さなテーブルの上の参考書を雑に払いのけると、ハムエッグとトースト(いずれも黒っぽかった)を置き、六夏を気にせず食べ始めた。
それから思い出したように断りを入れる。
「すいません。自分もう出勤しなくちゃいけないので。烏麦さんもおなかすいたら冷蔵庫適当に漁るかコンビニ行ってください。外出てずーーーっと右行くと百メートルくらいのとこにあるので。鍵は――玄関の横に合鍵置いとくんで。帰るときは施錠して郵便受けに入れといてください」
「は……はあ、わかりました……?」
六夏は要点だけパキパキと伝えていくるりかに気圧されるが、スマホを見ればもう7時半であり、彼女が急いでいるのも理解できた。
そして六夏自身も段々と昨晩あれからの経緯をはっきりと思い出してきた。
随分明け方になってから解放された六夏は、丙の勧めで一旦るりかの部屋に泊まったのだ(柚葉の家でいいのではと六夏は聞いたが、あり得ないほど汚いからやめておけとのことだった)。
到着したときは(既に新聞配達などが動いているとはいえ)随分な早朝だったため非常識にも思えたが、るりかは起きていて、「まあ寝るくらいいいですよ」と受け入れてくれた。
るりかは早朝から資格の勉強をしているらしく、ベッドが空いているので使っていいとも言っていたが、六夏は「悪いから」とそれを突っぱね、ソファーで寝たのである。
――以上、随分眠かったのですっかり記憶から飛んでいたことを思い出し、六夏は「泊めてくれてありがとう!」と頭を下げた。
るりかはトーストを咀嚼しながらそれを見て、口の中のものを嚥下して、「いいんですよ」と答えた。
「いいんですよ別に。社長の言いつけでしょう? それに自分朝早いし、一人なんで。二人くらい増えたところでどってことないですよ」
るりかは何でもない風に言って、早々に食べ終えた食器類を手に立ち上がり再びキッチンへ消えた。
そのとき六夏は先ほどまでるりかの背に隠れていたあるものに気付いた。田舎育ちで大きなものしか見たことのない彼女にはあまり馴染みがないサイズだったが、それが小さな仏壇であることは理解できた。
仏壇の前に笑顔の男女の写真が並べられていることも。
六夏はそれを見て、彼女の境遇を想って少し胸が苦しくなって――そして思った。
「……まって、二人くらいって?」
六夏の記憶が確かなら、岩塚柚葉は自分の家に帰ったはずである。明日(今日)は昼まで寝るぞと息巻いていて、自分が眠りに落ちていくと同時にバイクの音が遠ざかって行ったことも覚えている。
自分の他にもう一人いた覚えなんてないが!? ……と六夏がドキリとしたと同時、彼女の背後から声がした。
「わたしですが」
「わあっ!?」
滅多に出さない大きな声を出して六夏が振り向くと、そこには昨晩【灯火】の応接室で会った少女・弦月沙奏が立っていた。
所謂「口から心臓が飛び出そうな」気持ちになったのはいつぶりだろう。そう思いながら「いつから!?」と問う六夏に対し、沙奏は「ずっとです」と答える。
「不躾ながら烏麦さまの後をつけさせていただきました。ですが丙さまから要項を伺っている最中睡魔に襲われているよう見受けられましたので、伝達に不備があってはいけない、と」
「た、確かに眠かったけど聞いてたよ!? 一週間ほどで作戦がはじまるから予定とか調整しとけって……だからバ先にも大学にもこれから伝えようって思ってるけど、だからってスポンサーのあなたが来ることないじゃない!?」
六夏が言い返すと沙奏は溜息を吐いて首を振った。
「作戦については概ねその通りですが、わたしが自ら赴いたことについてはきちんと理由があります。あなたさまはわたしの助手に選ばれたのですから」
「なんて!?」
「助手です。じょ・しゅ。聞こえませんでしたか?」
沙奏は仏頂面のままそう言うと、ソファーをひょいと超えて六夏の膝の上にのしかかった。六夏はそれに対して怖いよりなにより軽いと感じた。小学校中学年くらいの女子に登られているにも関わらず、小型犬に乗られているような感触しかなかった。
そして「やっぱり人間じゃないんだ」と思って、「そういえば【月】って元々敵方だったよな」と思って、「下手したら殺られるんじゃ?」と思って――着の身着のまま持ちっぱなしになっているはずのシャープペンシルを探り当てようとして、
「違反ですよ」とはっきり言う、沙奏の声に固まってしまった。
六夏が手にしようとしていたシャープペンシルは、既に沙奏の手中にあった。八尾異の大事な形見を左手に持って振りながら、沙奏は言葉を続けた。
「丙さまから手を組んだと伝えられたはずです。理由なき攻撃は協定違反にあたりますのでおやめください」
そう言うと、沙奏はあっさりとシャープペンシルを六夏に返した。
返したが、のしかかったまま、超至近距離に顔を近づけたままで彼女は言う。
「まだ出会ったばかりゆえ信じてもらえずとも結構ですが、わたしには大した戦闘力はありません。ただ他者と交渉するために存在する人形です。ですので我々に代わり【月】の名を名乗る連中をどうこうしようと思ったらどなたさまかの補助が要ります。そのために白羽の矢が立ったのが烏麦さま、あなたです。昨夜解散前に丙さまからも言及があったはずです」
言って、沙奏は六夏の目をじっと覗き込んだ。「わかりましたね?」と、言外に圧をかけているようだった。
六夏はその圧に負け「はい」と答えた。そこまでしてようやく沙奏は六夏から下りてくれた。
遠ざかる圧力にほっと胸を撫で下ろし、六夏は言った。
「……わかった、わかったって! 狐面の【逆月】がヤバイってのは事実っぽいからね。あなたがスポンサーで【灯火】と協力してて助けが必要ってんならのりましょう……」
「理解がはやくて助かります。これからよろしくお願い申し上げます」
床に三つ指ついて丁寧に礼をする沙奏を見て六夏が複雑な気持ちになっている最中、玄関からは住吉るりかの呑気な「いってきます」の声が響いた。
それからるりかの家を出た六夏はどうにか駅に辿り着いて、乗り換えアプリを駆使して東京へ帰り着き、その道中で方々へ日程調整のメッセージや電話を入れまくった。
弦月沙奏はその間ずっと同行してきた。「六夏は助手イコール相方なのだから一緒に居て当たり前」といった様子だった。だが、両者の間に会話らしい会話はあまりなかった。
「そういえばCEOとか言ってたけど会社はいいのか」とか、「六夏が助手に選ばれた理由は?」とか、そんな質疑応答も皆無である。
それは沙奏が不愛想なのもあるが、どこかに潜んでいる狐面を警戒してのことでもあるのだろう。六夏も昨夜のようなことになるのは嫌だったので、帰路はなるべく人の多い道を選んだ。
かくして六夏が一日ぶりに戻ってきたマンションには、特に荒らされている様子はなかった。なにかがなくなっている風でもなければ、あの「辛うじて人間」といった気配の残り香もない。
そのことを確認してから、六夏はようやく沙奏に訊いた。
「護衛対象ってどんな人?」と。
カーテンを閉めた薄暗い昼の中、沙奏はたった一言こう答えた。
「真っ直ぐな方です」と。