怪事醒話
第四解・なりたかったモノ、なれなかった者⑤

 すっかり施錠された正面玄関には目もくれず、六夏はスタッフ用の通用口に向かった。
 通用口もロックされているが、【灯火】関係者に支給されるIDカードをリーダーにかざすことで開錠することができる。
 六夏は手荷物の中を漁った。
 特に準備の時間も与えられず連れてこられた六夏だったが、常に持ち歩いているパスケースの裏には【灯火】のIDカードが入っていた。
 もう【灯火】に関わることもないかと思い、何度も返却しよう、あるいは廃棄しようと思ったが、結局未練がましく持ち続けてしまっているカードは、閉ざされた扉をあっさり開いてしまった。
 セキュリティの都合上定期的にカードの更新が必要になるのだが、六夏のそれはまだ有効期限を終えていなかったらしい。

 ほっとしたようながっかりしたような複雑な気分になりながら、六夏は取っ手に手をかけ――ふと柚葉を振り返った。
 柚葉はついてくる気がないようで、正面玄関前で一服しているようだった。
 正直心細いような気もする六夏だったが――否。結局来ることを拒まなかったのは六夏自身である。
 それに【灯火】の敷地に入ってしまった以上、自分が来ていることはとっくに丙に気付かれている。ここまで来たらもう後には引けない。
 召集の意味を知るにしても、もう止めたいと伝えるにしても、いつまでも誰かの口を借りずには伝えられない幼児ではないのだ。自分で伝えるしかない。

 何度もウジウジするな。自分にそう言い聞かせ、六夏は本部建物内に脚を踏み入れた。

 深夜の建物内には人気ひとけはないが、丙の放ったヒトガタ符に宿る式鬼たちが淡く発光しながら警邏けいらしている。
 その中の一体が六夏に気付き、紙の頭部をぺこりと下げた。どうやら案内してくれるらしい。
 六夏はその式鬼の後に続いて暗い本部の中を進み、三階応接室まで辿り着いた。

「……失礼します」

 ノックして、声がけして。開けた扉から漏れる光の眩しさに、六夏は少しだけ目を細めた。
 けれども長くしかめ面を晒すわけにもいかない。まばたき三つの圏内で光に慣らすよう努め、きちんと前を向く。
 そして改めて見た応接室の中には、ソファーの上座に座る丙と、その背後に立つ補佐役の烏丸ささぐと、……丙の向かい側に座る、六夏の知らない少女がいた。弦月沙奏である。

(誰だろう、この子……?)

 六夏がチラリと視線を向けると、沙奏はニコリともせず、ただ無感動な視線を返した。ツリ目気味の目が冷たい印象を与えるものの、嫌悪している風でもなく、かといって好意が見えるわけでもなく、とにかく無感動としか現しがたい、人形のような視線――六夏にはそう思えた。
 
(なんだろう? でも丙さんといるんだから、それなりに理由があるんだろうな)

 怪訝に思いながら、六夏は沙奏に会釈した。沙奏は相変わらずニコリともしないが、頷くように会釈を返し、それから丙に向かって口を開いた。

「この方でしょうか?」
「ああ。――久しぶりだな六夏。遠い所すまないな」

 丙は沙奏に答えると、もっと近くに来いと六夏に手招きした。
 六夏はそれに従い、ソファーの横に立ち――それから着席を促されたので、ソファーの下座側、つまり魚の隣に腰を下ろした。
 沙奏は不動の表情のまま座る位置を横にずらした。六夏がそれに「ありがとう」という間に、捧が素早く茶を出してきた。六夏はその対応の速さにたじたじした後……息を一つ吐いて、丙に言った。

「…………大変ご無沙汰しております。長らく連絡も取らずすみませんでした」

 最初に出たのは不義理に対する謝罪だった。だが深々頭を下げる六夏に、丙は「挨拶なんて気にするな」と言う。

「あまり気にしなすんな。数ヶ月なんて連絡がない内には入らんよ。どこかほっつき歩いたまま十年二十年音信不通も珍しかない業界だからな」

 丙があまりに軽く言うものだから、六夏は面食らってしまった。
 数ヶ月思いつめていたのは一体なんだったのかというくらい、丙は六夏の悩み事をバッサリと切り捨て、「そんなことより」と流してしまったのだ。

「そんなことより今日呼出した件だが……ちょいと頼まれてくれないかい? お前さんが一番適役だと思ってのことなんだが――」

 腰を折った体勢から首だけ上げて目を丸くして、最高におかしな姿になっている六夏を無視し、丙は話し続けた。
 あの狐面――【逆月】を名乗るキナ臭い団体のこと。彼らが人外を廃滅しようとしているということ。沙奏から聞いたことの一部始終を。

「――あちきら【灯火】は悪鬼悪霊を成敗して怪事を解決することを生業としているが、無害なモノ・人間と共存しようとするモノまで廃滅するつもりはない。むしろ物理の肉体のある怪異が人里で暮らすことを望むなら、行政に手を回して支援しているぐらいだ。だから……そう。【灯火】としてもこういう奴らは困るわけだ。大事件にならない間に食い止めたい」

 長い説明を終え、丙はふうと息を吐いた。最初は軽い調子で話し始めた彼女だったが、最後は流石に渋い顔をしていた。
 聞かされた六夏も同様に渋い顔をしていた。当然だ。「頼まれてくれないかい?」で始まる話にしてはあまりにも壮大すぎたからだ。
 怪事と関わって、常人が絵空事と思うような事態にも何度も遭遇した六夏でも流石に思った。――本当に現実の話か? と。
 とにかく情報量が多すぎて咀嚼そしゃくしきれない六夏だったが、とりあえず気になることがあった。

「……あの、丙さん? 狐の人たちがヤバイ連中ってのはわかりましたけど、……どうしてあたしのことを監視していたんですかね? あと……白灯火ってなんですか?」

 六夏が白灯火と言うなり、丙の眉がピクリと動いた。そして「どこで聞いた?」と六夏に訊き返すのだった。

「いや、どこって……連中が言ってたんです。あたしが白灯火か否か見定める……って」
「そうか――」

 丙は目を閉じ、顎に手を当てた。なにか思うところがあるようだった。六夏は、もしかしたらなにか訊いてはいけないことを聞いたのかと焦り、捧と、それからずっと無言のままの隣の少女にそれぞれ目を向けた。
 捧も沙奏も特に何も言わなかった。強いて言うなら捧は丙の思考の邪魔をしないように黙っているという風で、沙奏は発言を求められないのでただ黙っているという風だった。
 長い長い――ほんの十秒ほどの沈黙の後、丙は言った。

「……見分けがつかないのか……?」

 それは誰かに言っている風ではなく、自己解決の独り言のようだった。
 実際六夏の質問に対する答えとしては意味がつながっていないし、声も雑踏の中であれば掻き消えてしまうほどに小さかった。
 だが沈黙に支配されたこの応接室に、呟きを遮るものはなにもない。丙の声は、はっきりと六夏の耳に届いていた。

「見分け? ……なんのことです?」
「お前さんが監視されているのは、別の誰かに間違われている可能性があるってことだ」

 六夏が言及すると、丙は驚くでも誤魔化すでもなくそう答え、「実はな――」と続けた。

「数日前、ある女性が【灯火ウチ】の保護下に入った。そのときはピンと来ていなかったが、どうも【逆月】に追われているらしい。なんでも実験の成功例だとか」
「成功例……というと、不老不死の?」
「ああ」

 丙はコクコクと頷いた。

「言葉だけじゃ判断がつかないから、合意の上で彼女の細胞を採取して検証した。その上で彼女の証言は信用に値すると判断したわけだ」
「……でも待ってくださいよ? その女性ひとが来たのは数日前なんですよね? 勘違いったって、あたしは数週間前から狐面らしき者を見ていますが……?」
「まあ急くな。あちきはまだその人とお前さんが間違われているたぁ言ってないよ」

 丙は落ち着けとジェスチャーし、自分の茶を一啜りした。そして露骨に「冷めてるな」といった顔をした後、湯飲みを捧に渡して話を再開する。

「あちきが間違われてると思うのは、件の彼女を連れてきた奴の方さ。一ヶ月ほど前に【逆月】に襲撃されていた彼女を助け、怪我が治るまで匿ってた奴がいるんだ」

【灯火】に連れてきたのは、その方が安全と思ったらしい。丙がそこまで言った直後、捧が新しい茶を置いた。
 丙が嬉々として温かい湯飲みを手に取る中、六夏は訊ねた。「誰なんです?」と。

「誰なんです? その人って」

 素朴な疑問だった。他意はなかった。【灯火】に連れてくるぐらいだから構成員か丙の知り合いの誰かだろうが、自分と間違われるような人物が何者なのか、純粋な興味からの質問だった。
 こんなことを聞かれても、普段の丙だったら「秘密」とか「守秘義務が」とか言って教えてくれないだろうし、六夏としても教えてくれないなら教えてくれないで別にいいと考えていた。
 けれども湯飲みを置いた丙は――まず沙奏を見て、それから捧に目配せして――それから予想とは違う言葉で答えたのだ。

「カラスガイイツカ」

 その文字列を、六夏は最初正しく認識できなかった。
 決して忘れてしまったわけではない。ただ他人の口からその名を聞くのは久しぶりで、音として聞くのが久しぶりで、一瞬なんのことだか分らなかったのだ。
 けれども、数秒遅れて脳は理解する。

 烏貝乙瓜。きっかけの人。なりたかった人。――自分の前から消えてしまった、憧れの――

「烏貝先輩は生きているんですかッ!?」

 机を叩く勢いで、殆ど叫ぶように六夏は言った。
 失踪した烏貝乙瓜がどこかにいる。生きている。そのことで頭がいっぱいで、自分の隣で無言を貫く少女の表情が僅かに歪むのには気付かなかった。

 丙は前のめりになった六夏を見て、たじろぐでもなく「ああ」と答える。
 その瞬間、六夏は確かに感じたのだ。自分の中で今にも消えかかっていた火が、再び大きく燃え上がるのを。

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