(まだ天気悪いなあ…)
深夜二十三時、書店バイト明け。六夏は空を見上げてそう思った。
古霊町と違って深夜でも尚消えることない都会の灯りは、上空に垂れ込める雲模様を薄っすらと照らし出している。
日が沈む前、夕立――というには激しすぎるゲリラ豪雨が過ぎ去ったというのにまだ未練がましく居座っている雲は、予報を信頼するなら再び泣き出すことはないだろうが――
(傘とか買っていった方がいいかな? ……でもここからマンションまでそんなに遠くないし、最悪走って行ったって――)
それでいいか。それに下手にコンビニに寄るとちょっとしたスナック菓子を買ってつまんでしまうだろうし良くない。
六夏は納得し、マンションに向けて歩き出した。
周囲は二十三時なんてまだ浅いと言わんばかりの明るさで開いている店も多く、女性だけで歩いているグループも散見され、流石は都会といった具合だ。
田舎人として都会は物騒なんじゃないかと懸念していた六夏だったが――実際所属不明のスカウトやしつこい客引き・バイト先に現れる珍客を通じて『物騒』を感じないわけではないが――住んでみれば便利なことも多く、存外居心地の良さを感じていた。
『都会は人間関係が希薄で冷たい』……なんて言われることもあるが、田舎の代々固定化した人間関係が必ずしも温かいかと言われたらそうでもない。
都会人ぶって田舎を貶す気はないし、地元が嫌いになったわけでもないが――人間関係が密であるがゆえに一度のトラブルが何年何代も尾を引くのも、田舎の一つの側面として真なのだ。
橋架家が古霊町から出て行かざるをえなかったように。
遺山美弓の一派が未だに六夏を鼻つまみ者にしているように。
鬼伐山斬子が首接丹夜と一会を殺すことに執着するように。
そして古霊北中学校美術部が、今も――
(そんなこと考える時点でまだしがらみから抜けられていないのかもしれない。……いや、しがらみからは逃げられないのかもしれない。けれど物理的に距離を置くことで冷静に考える時間ができた、それについてはドリーさんに感謝しないといけないなぁ)
進路を決める時期の六夏に、「町を離れてみたら」と勧めたのは巴だった。
――一回、古霊町出てみたら?
八尾異が死んで、斬子の様子が変わって……その変化を間近で感じ取り悩んでいた六夏に、巴はそう言ってくれたのだ。
六夏は最初こそ渋っていた。古霊町を出れば斬子を見放す形になるのではないかと危惧したからだ。
けれど幼馴染はそんな六夏の前で「任せなさい」と胸を叩いた。
――斬子姉さんのことはみんなが見てるから。私んちは氏子総代だし、サイちゃんとこのお兄ちゃんも戻ってきたし、……私には見えないけど、ひめかみ様だっている。だからムイっちだけが気負うことじゃないんだよ。
――ムイっちは、ムイっちにしかできないことをして。今しかできないことを。
――とにかく一回離れよ。それでたまに帰ってきて。
その言葉に、押しつぶされそうだった六夏の心がどれだけ軽くなったことか。
強くなりたい、助けたい、守りたい、あの人のようになりたい――かつて自ら誓ったことは、年月ごとに重量を増す錘となってしまっていた。
それを知ってか知らずか――否。幼馴染は、大鳥居巴はきっと察していた。察した上で荷物を減らせと言ったのだ。
なにもかもを抱え込んでパンクしそうな頭を休ませろ、と。そう言ってくれたのだ。
だから六夏は一旦古霊町を離れ、夜の灯りの中にいる。
かつての美術部のような"伝説の存在"にはなれない。世界の危機なんて早々に起きるものではないし、起きて欲しいと願うものでもないし、この先も大きなことなんて成し遂げられないかもしれない。
怪事と関わる道を諦めたわけではないが、些細な助っ人程度でいい。大層な人物になることは諦めた。きっと世の中に名前が残ることはないが、それでいいしそれがいい。
クビカリ様のことだって、時折巷を騒がす怪奇な事件だって、いずれ自分より有能な者や、気鋭の天才がなんとかする。
離れてみれば恐ろしく見えるようになってしまった斬子のことだって、たとえ周囲の者に癒せなくても時間がどうにかしてくれる。
自分はなれなかったのだ。幼い頃に見た、自分にとっての烏貝乙瓜のような人間にはなれなかったのだ。
バイト先からの帰路、六夏は幾度となく頭の中で繰り返した言葉を噛みしながら立ち止まり、また天を仰いだ。
何気ない気持ちで見上げた空には相変わらずの厚雲が懸かり、その周囲を背の高いビルや電線群が額縁のように囲っていた。
その、額縁の中に、六夏は奇妙なものを見つけてしまった。
細い窓枠の縁に、袖看板の上に、電柱の上に。通常人間が立てるはずもない場所に、人影が立っている。
六夏はギョッとして目を擦り、改めて人影を見た。そして気付く。……見え方からして幽霊や妖怪の類ではない。
彼らは、幽霊と言うにはあまりにも存在が濃すぎた。物理的な実在感とでもいうものがありすぎたのだ。
人影は皆黒いローブを纏い、金色の狐の面を被っていた。
そう。丁度この頃六夏の頭に浮かぶヴィジョンと同じ、黒衣の狐面の集団が、そこにいた。
「え――」
思わず声の出かけた口を、六夏は慌てて塞いだ。
無駄なことかもしれないが、こちらが気付いていることをあちらに知られてはいけないと咄嗟に思ったのだ。
(バレれてる? バレてない? いや、それよりなにあれ!? ……ヤバイかも?)
六夏は初めての経験にパニックになった。……パニックになりながらも、自分が不自然に口を抑えたことを誤魔化すように、くしゃみの真似をした。
だがそれはあまりに不自然でお粗末なクオリティで、住宅街に近付いて少なくなってきた通行人が「今のなに?」と六夏を一瞬気に留めるような出来だった。
六夏は思った。やらない方が良かった。マンションまであと何十メートルもないのだから、足早に通り過ぎてしまえばよかった。そもそも空なんて見上げなければよかった――と。
はっきり「マズい」「やらかした」と、そう思った。
そしてその考えを秒で採点するように、耳元で声がした。
『気付いているか』――と。
「…………!」
六夏は驚き硬直したが、声が出せなかったのはそのためではない。怪異の対処に慣れているため、相手からの問いかけには下手に答えない方がいいと熟知しているからだ。
だが、何者かに接近されてみてはっきりと理解した。これはやはり怪異ではない。
限りなく怪異に近い気配がするが、やはりどこかギリギリの一線で怪異ではない気配があるのだ。こんなモノは古霊町では遭遇したことがない。
未知の存在。
とはいえ友好的な存在とも思えない。
(最悪、やるしかないか……)
六夏は周囲を見た。
先ほど六夏のくしゃみを怪訝に見つめた通行人は、皆どこかの道で曲がったのか、家に帰り着いたのか、一人残らずいなくなっていた。
相手が怪異であれば、怪異が誘うレイヤーの異なる世界・妖異に転移した為他者が見えなくなったとも考えられるが――六夏の経験則、現在地はまだ現世のままだ。
否、現世かどうかはどうでもいい。ここがあの世であれこの世であれ、目撃者がいないなら自由にできる。
六夏は深呼吸し、視線を動かさずに横に立つ者に問いかけた。
「何者なの?」
『………………異能者か』
どうやら会話は成立するらしいことに少なからず安堵しつつ、警戒心を保ったままに六夏は質問を続けた。
「近頃あたしを付けてるでしょ? 何が目的?」
『…………見定めるため』
「見定め……? なにを」
『『『お前がシロトウカか否か』』』
数人の声が一斉に答えた。複数の方角から同時に聞こえた声に、六夏は「囲まれている」と気付きゾッとした。
いけないかもしれない。逃げた方がいいかもしれない。……けれど何人もに追われて逃げられるかどうかわからない。
(どーーーーしよっかな…………。てかシロトウカって何? 白灯火? 丙さんと関係ある??)
正直、困った。困ったが、ずっとこうしているわけにもいかない。なにをされるかわからないなら、最初に暴れてやってもいいのではないか?
六夏がそう思って、ポケットの中の"筒"にゆっくりと手を伸ばそうとした――そのときだった。
ブオォン! と、徐々に眠りゆく夜の町に場違いな騒音が鳴り響いた。
ハッとして周囲を見ると、数メートル先の十字路の真ん中に、いつの間にかサイドカー付きの大型バイクが停まっている。
そしてそのバイクの主であるヘルメットからスーツまで全身黒ずくめのライダーは、六夏が認知したのことに答えるようにブオンブオンと空ぶかしの音を響かせてから、六夏目指して走り出した。
「えっ? えっえっえっ!!?」
完全に意表を突かれ、六夏は妙な一団に囲われていることも忘れて間抜けな声を上げた。
その周囲で、狐面たちの口惜しそうな会話が響く。
『勘づかれたか?』
『わからぬ。だがどうする』
『一度散れ。機会を待とう』
気配がどこかへばらけていくのと同時、六夏の前でバイクが停車する。
「あのっ、えっと……!? 今度はなにッッ!?」
思い出したように管狐入りのシャーペンを構える六夏の前で、ライダーはするりとヘルメットを脱いだ。
その時になって六夏はライダーが女性であることに気付く。さっきはそれどころではなかったことと、夜で距離があったことで気付かなかったのだ。
気付いて、そして、こういったゴツいバイクを好んで乗り回している先輩の存在を思い出す。
美術部というだけでウザ絡みしてくるOG先輩、チャットアプリに強引にフレンド登録してきた「ゆずティー♪」の正体、ヘルメットの下から素顔を現した、その人物の名を!
「――岩塚先輩っ!?」
その名を叫ぶ六夏を前にして、彼女・岩塚柚葉はわざとらしく髪を掻き上げて。かっこつけるように親指でサイドカーを指さして言った。
「約束通り迎えにきたぜェーー! さあ乗りな!!」