怪事醒話
第四解・なりたかったモノ、なれなかった者①

 ――憧れに近付きたかった。
 けれども努力すればするほどに、憧れのその人と自分とがどうあがいても別の人間であり、全く異なる適正と才能を持って生まれた人間という事実を突き付けられてしまうのだ。
 無邪気に安易に軽率に、そうなりたいと願ったものは。近付こうとすればするほどに離れていく影法師のようで。
 ……だから彼女は、敢えて憧れとは別の道を歩むことにした。



 その日もとても暑かった。
 太陽を真上に戴く空は不安になるぐらいに青く、その頂に手を伸ばすように白い入道雲が膨らんでいた。
 地上には熱波と蝉時雨の混ぜ物が見えない壁のように広がって、人々はその隙間を縫うように、あるいは逃げるようにして歩いている。
 制汗剤の柑橘の香りに混ざって仄かに匂うのは、前日に湿った土の香り。――きっと今日も夕立がくる。

 そんなことを取り留めもなく考えながら、一人の少女が歩いていた。
 少女――否、今や少女と大人の女性の中間にある彼女の名前は烏麦六夏。

 あれから・・・・四年。六夏の足が踏みしめるのは古霊町の土ではない。
 彼女は地元の高校を卒業したのちに地元を離れ、都会の某大学に進学した。実家を離れて一人暮らし、現在は月々幾らかの仕送りとバイト代で生活しているありふれた上京大学生というわけだ。

 だがバタバタとしていた春はとっくに終わり、いい加減七月も終盤。
 目先には大学生の遊び時であり稼ぎ時である長い長い夏休みがぶら下がっているが、それに立ち塞がってくるのがテスト週間である。
 単位の取得がかった大事な数週間。六夏が今日足を運んだ某大学のB棟でも、本日これからとある教養科目のテストが行われる。
 ……のだが、六夏はこの講義を履修していない。登録していた別の講義で人数制限がかかったために、やむを得ず――折角なので休憩に使っている『穴』の時間帯なのだ。
 にも関わらず、彼女がテストの行われる教室を目指しているのは、ちょっとした約束のため。

(べつに断ってテスト勉強してても良かったけど、謝礼がアレだしなぁ)

 風邪をひきそうなほど冷房の効いたB棟に入りながら、六夏は大粒の汗を拭き取った。

 さて。大学のテストでは講義中に取ったノート類の持ち込みが許可されている場合があり、教授によっては『なんでも持ち込み可』だなんて言われることもある。
 これは概ね『ネットで検索して出るような問題は出さないのでこれまでの講義をしっかり訊いておけ』という意味なのだが、その『なんでも』を受けて彼女を持ち込んだ学生がいるだとか、ギターを持ち込んできた学生がいるだとか、一種の大学あるある的な大喜利ネタにもなっている。

 というわけで六夏はこの日、とある学生・山江やまえ莉乃りのの『持ち込み物』としてやってきた。
『謝礼』は学食の人気スイーツの食券一週間分と、美術展のチケット一枚。
 莉乃とは幾つかの講義がダブっているだけで取り立てて親友というわけではなかったが、あまりに執拗な「おねが~い!」と、丁度興味のあった美術展のチケットに目がくらみ(スイーツは嫌いじゃないけどどうでもいい)、『持ち込み物』役を引き受けることにしたのだ。

「あ! 来た来た! こっちだよー!」

 六夏が半地下にある教室に入るなり、莉乃が大袈裟に手を振りながら声を上げた。周辺の席を確保している莉乃の友人たちはというと、「本当に来たね」「すごいねえ」なんて、感心とも呆れとも嘲笑とも知れない雰囲気でひそひそ言い合っている。

「あの子、噂の・・?」

 隣の席の眼鏡の娘がそう言うのに、莉乃は頷いた。確か彼女も同じ学部の一年生で、名前は確か日沼ひぬま――……そこまで考えて、六夏は下の名前を覚えていないことに気付く。

(まあいいか。これだけ人がいっぱいいるんだし)

 この大教室がフルで埋まれば、百二十人くらいは収容できるだろうか。
 教養科目ともなれば別の学部生もいるだろうし、単位が足りなくなって急いで登録した二年生も、四年生もいるだろう。日に何百とすれ違うキャンパス内の全員を記憶しておくのは至難の業だ。
 そう割り切って、六夏は莉乃の隣の空席に腰を下ろし、荷物を置いた。日沼とで莉乃を挟む形だ。

「今日は本当にありがとうね! ほんと烏麦さんが来てくれて助かった! 約束のものは終わった後で……ね」
「わかった」

 六夏が頷くとほぼ同時、日沼が溜息交じりに「いいなー」と漏らした。莉乃が「なにがさー」と振り返ると、日沼は更に続けるのだ。

「だって持ち込み可でムギさん持ち込めるなら、莉乃さんこれから単位の心配いらないじゃーん?」
「いやいやそんなことないから」

 羨ましそうに日沼が言うのに、莉乃は苦笑いを返した。それから六夏を見て言う。「今回だけだよね?」と。
 六夏もそれに頷いた。

「今回だけですよ。そもそもダブってる授業じゃどうしようもないですし。それとあたしののことですけど。アレも『絶対』を約束するものじゃないので。――ですよね山江さん?」
「そうそう! もうやけっぱちの運試しみたいなものだから。駄目でも恨まないしどうなっても『謝礼』は渡す約束だから~」

 莉乃はコクコク頷いて、けれどもこうも付け加えた。「それでももし行けちゃったらすごくない? すごいよね?」と。
 日沼はそんな友人呆れ顔で見つめ、それから六夏を見てペコリと頭を下げた。

「なんか莉乃さんがごめんね? 私のノート写させる時間もあったんだけど、どうしても試してみたいって聞かなくて」
「大丈夫ですよ。こっちも断らなかったわけですし」

 六夏も日沼に返すように一礼した後、「けれど」と付け加えた。

「けれど自分でもやってみようとは思わなかったことなので。ちょっといい機会を貰えたなとも思ってるんです」

 この年、大学生になった烏麦六夏はちょっとした『噂の人』だった。
 首接丹夜の起こした『クビカリ様事件』以降、六夏は鬼伐山斬子に剣術を学び、【灯火】に出入りして護符の応用を学び、再び古霊町を脅かす怪異が訪れるときに備えた。
 だがとっくに大霊道異変が一段落ついてしまった故か、大きな怪事というものもなかなか起らず、ときたま少しだけ不穏なことが起ることを除いては、彼女らの周辺は至って平和そのものだった。
 平穏すぎる日常に、六夏は安堵と同時に落胆した。複雑な気持ちだった。
 だがそんな平穏のなかで身に着いた技能もある。それはモノ捜しの技術だ。
 きっかけは些細なことだった。高校時代、六夏のクラスで財布を失くした生徒がいて、そのとき六夏は管狐の力を活用することを思いついたのだ。
 力を望んだ六夏に、八尾異が預けた使役の憑き物。
 八尾異当人は全くそれを必要としなかったが、管狐は使役者が望めば過去や未来を占うことができるという。
 そのために、もしかしたらと使った占いがピタリとハマった。

 ――なにか失くしたら、烏麦六夏に訊くといい。
 ――なんならテストの山もわかるらしい。

 六夏は瞬く間に母校の有名人になった。現在は地元を離れ大学生となっているわけだが、元来の「ほっておけない」性格故に管狐の力を振るってしまい、知る人ぞ知る『霊能者』、『千里眼』といった扱いを受けている。
 とはいえ六夏とて「テストの持ち込み物になるのは流石に反則じゃないか」と思わないでもない。
 いくら山江梨乃が賃貸の雨漏りでノートを駄目にしてしまったとしても、美術展のチケットで釣られたからといっても、占いでテストを乗り越えようというのは間違っていないか? と思う。
 けれども、それでも。強引にでも理由をつけて力を使わなければ、怪事との繋がりはあっさりと切れてしまうような気がして。六夏は結局ここにいる。

(占うだけ。カンニングは駄目。変な頼みだけど今日もよろしくね、ココタ・・・

 六夏は心に念じ、元のあるじがそうしていたようにシャープペンシルの消しゴムを抜く。
 すると蛇のように煙のように、細く長く白いオコジョのような狐のような、そんな生き物が現れる。
 教室という空間に現れた異質なその姿は、霊感か、なんらかの特殊な能力のある人間でなければ視えていないだろう。
 管狐。ココタというのは八尾異から譲り受けた後に六夏がつけた名前だ。
 六夏の前にふわりと止まったココタは、彼女にしか聴こえない声でキュウと鳴いた。

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