神逆神社へ向けて自転車を走らせていた八尾凛音は、進行方向にある人影を見つけていた。
路肩に自転車を停めて、なにやら考え事をしているような女子生徒。後ろ姿だったが、凛音にはその人物に心当たりがあった。
ぎゅっとブレーキを握り、女子生徒と同じように自転車を停め。凛音は彼女に話しかけた。
「大鳥居先輩……? あれ、まだ部活中じゃ……」
「えっ? ……ああ、凛音ちゃんか」
女子生徒――大鳥居巴は驚いたように振り返って、けれども凛音を見てほっとしたような表情になった。
大鳥居巴は六夏の幼馴染で、六夏には苗字にちなんだ"ドリーさん"という綽名で呼ばれている。
部活は剣道部だが、休憩中にちょくちょく屋外の水飲み場から三階の美術室に声を掛けたり手を振ったりするし、なんならわざわざ美術室まで遊びに来ることだってある。学年音違う凛音と巴が互いに顔見知りなのはそのためだ。
「部活のことなら凛音ちゃんもじゃん。……いや私はさ、部活の後輩が、ただ……」
巴は少々言い出しにくそうに口籠ってから、思いついたように凛音に訊ねた。
「凛音ちゃん、芦原錬斗って男子知ってる? 凛音ちゃんと同じ二年なんだけど」
「芦原くんですか? 一年のときは同じクラスだったんですけれど……、うーんと、……ごめんなさい。あまり接点ないので顔と名前くらいしかわからないです」
「いや、顔わかるなら十分。その芦原くん、剣道部なんだけどさ――」
そこから巴が言うことには、同じ剣道部の芦原錬人が数日前からまったくの音信不通になってしまったということであった。
彼と仲のいい男子部員に聞いてもなにも分からないというし、電話をかけてみたもののずっと不通のまま。担任や顧問が掛けても同じ調子だったので昨夜自宅を訪ねて行ったというが、インターフォンを鳴らしても反応はなく、芦原錬斗どころか誰一人としている気配がないという。
「付き合いのある子が言うに、芦原くんには足の悪いお婆ちゃんがいて、日が落ちてから誰も居ないってのはなかなかあることじゃないらしいのね。……だから芦原くんが、っていうか、芦原くんの家になにかあったんじゃないかって、私たちも気にしてたんだけど。……今日の昼休み、手紙が入ってたらしいの」
「手紙、ですか?」
「うん。部活で仲のいい子の靴箱に。芦原くんからの手紙が入ってたんだって。『部活が終わったら家に来てほしい』って。……その子の様子おかしいから、聞いてみたら教えてくれてさ。どうしても気になるなら私が先に見て来るよって言ったの。ほら、私もう三年だし、ほぼ引退みたいなもんだし」
言って巴は自転車の前籠から件の手紙と、そして芦原錬斗の友人が書いたのであろう簡単な地図を取り出し、凛音に示した。
「次の信号どっちだったかなって道確認してたの。……だけどどうしよう、凛音ちゃんが声かけて来る前に、私なんか変なモノ見かけちゃったかもしれない」
「変なモノ?」
凛音は訊ね、直後ふと思いつくことがあって、それをそのまま巴に投げかけた。
今二人が自転車を停めている道は比較的新しく舗装され直した道だが、その周囲には山林や藪が広がっている。
「……あの。もしかしたら大鳥居先輩の見た変なモノって、……白い着物の女の人、ではありませんでしたか?」
そう。白い着物の女。地蔵ヶ原和珂らが見て、その後クビカリ様からの電話を貰ったという、なんらかの怪異的な存在。
凛音が未だ伝聞でしか知らないその姿を思い浮かべながら口にした途端、巴は不気味なものでも見たかのように表情を強張らせた。
「なんで、それ、……知ってるの?」
巴は質問にはっきり答えることなく、逆にぎこちなく訊ね返す。それを見て凛音は確信した。巴も白い女を見ているのだ。
確信してから、凛音は道路わきの林に目を向ける。
……だが、そこには既になにもいない。凛音が介入したからなのか、それとも別の要因があるのか、白い女はそこに居ないし、巴も特に周囲を気にしている様子はない。
(大鳥居先輩が気にしていないなら、今はいないと受け取ってもよさそうですね)
けれどもこのままではいずれ巴までクビカリ様の予告を受けてしまう。なんとかしなくてはと凛音は思い、けれども俯き考える。
彼女には一つだけ確認しなくてはならないことがあった。
言うまでもなく、芦原錬斗のことだ。
(もしかしたら芦原くんは――)
凛音はそこまで考えてからふと顔を上げ、改めて巴に向き直った。そしてこう提案したのだ。
「……先輩。私も付き合うので芦原くんの家に行きましょう。そこで芦原くんがいるかどうか確かめたら……今度は私に付き合って神逆神社まで来てください」
誘いを受けて、巴は一瞬困惑したように固まって。
……けれどもそこはあの六夏の幼馴染といったところか、なにかを振り切るように頭を振って。
「わかったよ。こういうことは美術部の方が詳しいもん」
困ったように笑うのを、凛音は了承と受け取った。
それから凛音たちの辿り着いた芦原錬斗の家は相変わらず無人だった。
インターフォンのチャイムを押しても反応はなく、誰かが潜んでいそうな気配すらない。
物干し竿には洗濯物が干してあるが、まるで何日も干しっぱなしであるように薄汚れている。
玄関先には回覧板の入った手提げ袋が無造作に置かれ、……けれどそれがいつ回って来たものなのかすら不明である。
芦原家になにかが起こっているのは明白だった。
何度となくインターフォンを鳴らしていた巴は、ふと玄関の取っ手に手を掛けて、そしてポツリと言った。
「開いてる……」
近頃は空き巣や強盗を警戒して鍵を閉める家も多くなってきているが、昔ながらの田舎の習慣の名残か、……それとも何者かに開けられてそれきりなのか。
芦原宅の玄関は施錠されていなかったのだ。
引き戸の扉が支障なく開いてしまうのを確かめながら、巴はふと凛音を見た。
彼女は無言のままだったが、その瞳は確かに凛音に問いかけている。「入ってみる?」と。
凛音はゴクリと唾を呑み込み、コクンと頷いた。
巴は緊張した面持ちで頷き返し、恐る恐るの足取りで芦原家の中に入っていった。
「ごめんくださぁーい……」
巴の声が芦原家のやや古びた家屋いっぱいに響く。
……しかし、相変わらず誰の反応はない。友人男子の受け取った手紙には家にいるようなことが書いてあったにも関わらずだ。
「ねえ、やっぱり誰もいないよ。私たちが下手に立ち入るより警察呼んだ方がいいんじゃないかな……?」
不安になって、巴は凛音を振り返った。けれどその瞬間。
ジリリリリリリリリリリリリ! ――と。
その場に満ちる静寂を押し破って、どこからともなく古めかしい電話の呼び出しベルが鳴り響いた。
どこから、否。芦原家の中から。
巴はびくりと大きく肩を震わせて、凛音を振り返る不自然な姿勢のまま固まってしまった。
だが固まっているのは凛音も同じだ。
不意打ちのようなベルの音に息をのんで顔を強張らせて、三十秒ほど経ってから、漸く一つの言葉を紡いだ。
「電話、ですね……」
言わずともわかっていることを。当然のことを、漸くやっと。
「そうだね、電話、だね」
けれども凛音が当然のことを言ったことで、巴も再び動き出すことが出来た。
「誰も出ないね、電話……」
「留守だからじゃないですかねっ? 電話……っ」
ぎこちない会話で状況を確認し合いながら、二人は家の奥・音のする方を恐る恐る覗き込んだ。
もう一分以上はベルが鳴っているはずだが、電話が鳴りやむ気配は一向にない。
「…………取ってみようか?」
鳴りやまない電話の音を前に、ふと巴が言った。
凛音はギョッとした顔になって、なにも言わずとも「なんてことを言っているんですか」とその目が訴えていた。
巴はけれども「そんなことわかってるよ」という顔で、「おじゃましまーす」とか細く言って、そろりそろりと、まるで引き寄せられるように芦原家の奥へと足を踏み入れて行った。
凛音はそんな巴を放っておけず、遅れて後に続く。
音を頼りに電話を捜すと、玄関を入ってすぐの居間と思しき部屋の戸棚の上に今時珍しい黒電話があった。
巴はそれに近寄り受話器に手を伸ばす。凛音はそれを止めさせようとして――しかし寸前のところでそれは叶わなかった
受話器を上げて「もしもし」と巴は言う。他人の家の電話なのにという考えは、そのときの彼女の頭からは完全に抜け落ちていた。
「……もしもし、どちら様でしょうか?」
緊張した面持ちで尋ねる巴に、電話の向こうの相手は答えた。
『あなたは、ちがう』
それは女の声だった。まるで本当に相手が近くにいて、耳元で囁かれたような声だった。
巴の背筋に一斉に鳥肌が立つのと同時、電話は切れた。
切れた後も巴は少しの間動けないでいたが、何秒かして「大鳥居先輩!」と己を呼ぶ声にハッと我に返った。
振り返ると、今度は真っ青な顔をした凛音がいる。
凛音は部屋の中の一点を指さして、魚のようにパクパクと口を開閉している。
まるで上手く声が出せないように――いや、実際出せなかったのだ。先ほど巴を呼んだのが凛音の精いっぱいだったのだ。
ほんの少し前まで、凛音は巴が電話を取るのを止めようとしていたのだ。
けれどもそれが出来なかったのは、居間に入った瞬間にあるものに気付いてしまったからだった。
巴は凛音が指さす先に、ゆっくりと視線を移した。そして凛音と同じように絶句した。
その場所――芦原家の居間の天上には、なにか赤黒い塗料のようなもので大きくこう書かれていたのだ。
『首、からだ、いただきました』
二人は逃げるように芦原家を後にして、救いを求めるように神逆神社を目指した。
その場所でなにが起こっているかなんて、知らないまま。