怪事醒話
第三解・憧れの向こう側①

 高く昇った満月が、古霊町を青く淡く照らす夜。
 その輝きを映す野池の池畔ちはんに立ち、薄雪媛神はぽつりとつぶやく。

「新しい美術部も大分上手くやっておるようじゃ。つたなく危なっかしいところもあるが、烏麦六夏、鬼樫眼子。そして八尾凛音と、ときどきあのむすめ・童河裁子も顔を出して、……いつ以来じゃろうな、だいぶにぎやかにやっておる」

 辺りはしんと静まり返り、人の気配も人工の明かりもなにもない。薄雪の言葉は独白のようでもあった。
 だが、薄雪が言い終えると同時、池の水がとぷんと鳴く。
 なにかを投げ入れたような、あるいは水面下で一定の大きさのあるものが動いたような。
 その音は静寂せいじゃくの夜の下にやけに大きく響き渡った。

 薄雪はそんな音に動ずることなく、視線をゆっくりと水面へと向ける。
 はたしてそこには、月光を反射してゆるやかに輝く、コイの顔が覗いている。

 頭部だけでずいぶんと巨大であることがわかるその鯉は、この野池のぬし輝水キスイの化身である。
 鯉は感情のない魚の顔でじいっと薄雪を見つめ返し、すこし水を吸っただけで他の鯉をニ三匹吸い込んでしまいそうな大口をぽっかりと開いた。

『良きことじゃ』

 鯉は老若男女いずれにも聞こえる奇妙な声で言う。

『大霊道事変は収まれど、この地に怪事のゆることあらずして。"灯火"と"かの六人"が去った今、人の子とわらわらの間に立ち境界さかいを整えるモノが新たに現れたのであれば、それは良きことじゃ。良かったのう、媛神』
「そうじゃ。願ってもない良いことじゃ」

 頷く薄雪の顔には、しかしどこか沈んだ色が浮かんでいた。
 それを目敏めざとく読み取り、鯉は訊ねる。

『なにをいておる。それとも、八尾、童河の血筋があるにも関わらず、そち・・の鬼伐山の血筋がおらぬことが気に入らぬかえ?』
揶揄からかうでない鯉の神。わしがそのような狭量きょうりょうにみえると申すか。そんなことではない。……そんなことではないのじゃ」
『ほう』

 煽るような声音で言って、鯉は静かに泳ぎ始めた。

『ではなにを憂いておる。マガツカミと戦い、妾らよりも古くからこの地に其方そなたが、今更なにをおそれて・・・・おる?』
「あの娘、鬼樫眼子という娘のことじゃ」

 近くに遠くにゆらゆらと移動する魚影に向け、薄雪は言った。

「あの娘はわからん。あの娘の心根そのものは清流のように澄んでおるが、後付けで違う流れが混ぜられておる。その流れが怪異をきつける」
『ほう。流れとな。それはよどんだ水かえ? それとも――』
食いたくなるような良い水じゃ・・・・・・・・・・・・・・
『じゃろうな。クフフ!』

 被せるような薄雪の答えに、輝水は嬉しそうな笑みを漏らした。そしてザプンと音を立て、月に向けて飛び上がった。

 飛び上がったその影は、既に鯉の姿ではない。
 薄雪と同じわらべの姿になって、みどりに輝く瞳で薄雪を見つめ、外見相応の童の声で言った。

「のう媛神よ。妾とてこの地の神の端くれぞ、雑霊どもの異変に気付かぬほど鈍ってはおらぬわ」
「……じゃろうよ。しらばっくれるのもいい加減にせい、水神龍」

 水神龍、と呼ばれた輝水はニヤリと笑み、重力を感じさせないふわりとした動きで薄雪の隣に降り立った。

「眼子なる娘が何者であるのかなど、妾には興味がない。じゃがあの娘がこの頃やけに続く怪事の原因であることくらいはっておる。"闇の魚"に喰われる寸前の、残りかすのような亡者ども。かたちを失い事象となり果てたアヤカシの成れの果て。……それらが揃って泣いておるわ」

 さあと風が吹き、童の形に化けた輝水がまとう、衣類に括られた鈴をカラカラと鳴らす。
 なにかの予兆にざわめくようなその鈴の音の後で、輝水はゆっくりと言葉を続けた。

「――泣いておるのじゃ。恨み節と救済の望みを吐きながら」

 聞いて、薄雪は無言のまま頷いた。それから遥か月をあおぐ。
 辺りには再び静寂。眠る鳥や獣の気配、静かに揺れる草木の音。
 ……その音の奥の奥に、今も現世をさまよう雑霊たちのささやきがかすかにただよう。

 存在の残滓ざんしであるそれら一つ一つには、さして大きな力はない。
 だが、それら一つ一つのざわめきが。周囲の怪異を刺激して、町に怪事を起こしている。

 そう、まるで大霊道が開きかけたあのときのように――

「……大きな異変が起こらぬとよいがな」
「悠長じゃの媛神。もう始まっておるやも知れぬ。其方も妾も気づかぬところで、……否。其方にも妾にも、狐神にも河童殿にも知られぬように。なにかが、既に」

 輝水はクスクスと笑い、そして彼女もやけに大きな月を仰いだ――



 それが起こったのは、六夏と眼子が出会ってから一年後の夏のことだった。

 三年生になっていたふたりは部活動の引退を目前に控え、この一年に遭遇した怪事を振り返りながらノートにまとめていた。

「『あめふらしの皿』と、『神隠しの沢』と、『音楽準備室の書きかけの楽譜』に、『旧校舎跡のこと』と、……あとなにかあったかな?」
「ヨジババさんの教えてくれた異空間脱出方法とかも一応書いておいたほういいんじゃない?」
「そうだね、それも書いておくね」

 話しながら思い出したことを、眼子が丁寧につづっていく。
 それは当然誰に強いられたわけでもなく、全部二人の暇つぶしで、自己満足で。けれど後々美術部を継いでいく誰かにとって、少しでも役に立てればと。そんな気持ちから書き始めたものだった。

「花子さんにはずいぶん助けてもらったよね」
「面倒見いいからね彼女。本当は助けてもらわなくてもさ、もうちょっとやれると思ったし、やっていきたかったんだけどなあ」

 残念そうに言って腕組みする六夏。その背に、眼子ではない第三者の声がかかる。

「あんまり調子乗ると痛い目にあいますよ先輩」と、男子の声で。

「わかってるよ」と六夏が目をやった先には、この春の新入部員が一人。
 立てかけたイーゼルとキャンバスに向かい、実に美術部らしい活動をしている。

 彼・首無くびなし紅輔こうすけは、長年の傾向から女子だらけとなっていた北中美術部に、何年かぶりに現れた男子部員だ。
 それでいて、すっかり名ばかりとなりかけた美術部において、ほぼ唯一の「絵が描きたい」という意欲に満ちた部員であり、小学生の頃から絵画のコンクールの佳作以上常連で、賞もいくつか受賞しているという実力派だった。

 ここ数年、本業・・の方では実績もなにもない北中美術部においておくには勿体もったいなさすぎるのでは、と六夏も眼子も思うのだが、当の紅輔本人としては北中美術部にこだわりがあるらしく。
「先輩たちの邪魔はしないので絵を描かせてください」と、いつも部室の片隅でスケッチなりデッサンなり、水彩画なり油絵なりをせっせと描き続けている。

 そんな彼が話しかけてくることは滅多にないことだった。だが六夏は驚くというよりは嬉しくなって、筆を動かし続ける紅輔を見てニコリとした。

「来年はもう少し部員が増えるといいよね。首無くんの絵、すごいから」

 眼子が言う。六夏も追従して「うんうん」と頷く。
 けれども当の紅輔は相変わらずキャンバスを見つめたままで、「そんなことないですよ」と無感動に答える。

「そんなことないですよ。自分はまだ、伝説の絵・・・・みたいのは描けないっすから」

 彼は言って、ふうと息を吐き、おもむろに筆を置いて伸びをした。

 ――伝説の絵。それはかつて、あの・・美術部が卒業間近に描き残したとされる一枚の大きな絵のことだ。
 その絵は普段美術準備室に片付けられていて、表に出てくることは滅多にない。旧校舎時代は美術部内のあまり人目に触れない場所にあったようだが、新校舎に移行してからは一度も外に出ていない。

 そんな秘蔵の絵には、「異世界」または「世界の危機を描いた」ものであるという噂がある。

 思春期に描きがちな空想画であるとも言われているが、実物を目にする機会が少なくなった現在、妙な噂だけが北中内外で独り歩きしている。

 首無紅輔は入部当初からその絵の存在が気になっていたようで、言及するのも今が初めてではない。
 おそらくはそれこそが、形骸化けいがいかした美術部に彼がいる最大の理由なのだろう。
 それも絵を見るためではない。かつての美術部が描いたという、怪事にまつわるなにかを覗くつもりなのだ。伝説の絵を超えるために。

 そんな意図は六夏たちにもそれとなく伝わっていた。二人は苦笑いを浮かべ、ついでにノートの中に『美術部の伝説の絵』について小さく記した。
 ――と、そのときだった。

「先輩、投書がありましたよ」

 ガラリと扉が開き、二年生の八尾凛音が顔を出した。
 少し前に「お手洗いに」と出ていた彼女の手には、数枚の封筒。文具屋や百均で売っているような、ややファンシーなイラストのプリントされたレター便箋びんせんが握られている。

 その宛名は皆一様に、『美術部様』。

 六夏と眼子が活動を開始してから、かつて存在した、"美術部宛の投書の風習"がひっそりと息を吹き返していた。
 流石に往時のように何百通という勢いはないものの、稀になんらかの怪しい悩みや不安を綴った手紙が、相談箱に差し込まれるのだ。
 外に出ていた凛音は、相談箱を開けた教師から何通かの『美術部宛』を預かってきたのだった。

「今日は三通ですね。はい」
「ありがと凛音ちゃん。……あらら、ぴったりしっかりのりづけされてる」

 六夏は凛音から封筒を受け取り蛍光灯に透かすと、手近なハサミを手に取って、中の手紙を巻き込まないように注意して、じょきじょきと封を切った。
 そうして一度に全部の封筒を開いて一通一通目を通した後で、六夏は怪訝に眉をひそめた。

「六夏ちゃん……?」

 向かう眼子が言う。凛音も心配げに見つめている。
「裏世界覗けそうな話あります?」と、遠くから紅輔が言う。
「それはない」と六夏は返し、それから「どう思う?」と手紙を机上に広げた。
 そして眼子と凛音が見つめた三通の手紙は、それぞれまったく別人の筆跡ながらも、まったく同じ書き出しで始まっていた。

『たすけて。クビカリ様が来る。』

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