「死んじゃうって……、なんでっ、今更になって……ッ!?」
花子さんの宣告に、裁子は無意識に頭の更に手を伸ばした。
帽子越しに触れるのは、すっかり慣れてしまった硬さ。
家宝を割った罰に、不便を与えられただけだと思っていたそれが、これからニ三日のうちに命を奪う。そんな突然の宣告に、戸惑わずにいられる道理はなかった。
「だって、……一ヶ月も前なんだよ!? なのに今更、なんで死ななきゃなんないのよ! たかがお皿一枚でっ!」
「たかが……、そうね。貴女がそう思うのも無理はないわ」
花子さんはわめく裁子を見下ろし憂うように言って、小さくため息を吐いてから言葉を続けた。
「気持ちはわかるのだけれど、あれはただの皿じゃないもの。……貴女にはどんなふうに伝わっているかは知らないけれど、『あめふらしの皿』は本物の河童の皿なのよ。童河一族に平伏した証に、河童の大将は自らの頭の皿を差し出したの。皿は河童の命だから、人間で言うと首を差し出すようなものよね。血が流れたのよ。……だからこそ皿は童河一族と河童の約定の証となりえたし、つまり貴女が割ったのはそういった代物なの。そうなるのも仕方ないわ」
花子さんが淡々と語る傍ら、裁子は次第に肩を震わせて、最後にはもう聞きたくないとばかりに耳をふさいだ。
裁子は本当に知らなかったのだ。ただのいわくつきの古い皿だと思っていた。それが河童の頭の皿だなんて知らなかったし、知っていたらその場所に近付きもしなかっただろう。
(だって、それってつまり、首を置いてたのと同じじゃない……!)
もっと早く知っておけばよかったという気持ちと、今更知らなければよかったという気持ち。
なかったことにならないかという気持ちと、でもこれなら呪われても仕方ないという気持ち。
それらの気持ちが頭と言わず身体全体にぐるぐると渦巻いて、裁子はめまいと吐き気を覚えた。
「……童河さんは助からないんですか?」
うずくまる裁子を見て、眼子が花子さんに問う。
裁子が呪われたのは、裁子自身が自覚しているように完全な自業自得であり、眼子もやってしまったことに関しては仕方ないとは思う。
……思うが、これではあまりに不憫だった。それに「助けになりたい」と言った手前、このまま見殺しにはできない。
そんな気持ちで花子さんを見つめると、花子さんは悩ましげに小首をかしげて空を見つめる。
「助ける方法がないことはないと思うけれど……」
どことなく自信なさげに花子さんが呟くと、眼子よりも裁子よりも早く、六夏がそれに食いついた。
「それはなに!?」
と。眉を寄せて顔を寄せる六夏を、花子さんはキョトンと見つめ返し。
それから、真剣な面持ちに直り、「そうね……」と返した。
「思いつく方法がいくつか、あるわ。……童淵の河童は水神の遣い。神様の相手になるのは、別の神様――」
花子さんが言い終えるより先に、六夏はサッと自分の荷物を掴み。放たれた弓矢のような勢いで美術室から飛び出して行ってしまった。
「ま、まって! 六夏ちゃんッ!」
驚き反応の遅れた眼子が開けっ放しの出入り口の前に立ったときには、既に六夏の姿は三階廊下にはなく。
「……もう。人の話を最後まで聞かないんだから」
花子さんの呆れたような声だけが、眼子の背中に当たって落ちた。
眼子はハッとして、すぐに美術室に向き直る。
「あのっ、花子さん! 六夏ちゃんはいったいどこに向かったんですか!?」
「可能性は一つしかないわ。神逆神社よ」
「かむさ……? ワラベブチ神社じゃなくて!?」
「……六夏は裁子ちゃんの呪いの件で、童淵神社の河童に勝負を挑むつもりよ。神逆神社に納められたアレを使って」
「アレってなんですかっ!!」
眼子は叫んだ。叫ぶしかなかった。
新参者すぎて町の地理すら未だ不鮮明なのに、次々と神社だのアレだのソレだの言われては脳の処理がおいつかない。悲鳴に近い問いかけだった。
けれど花子さんはそんな彼女に一瞥もくれず、どこか遠いところを見つめたままで言うのだ。
「疑似退魔宝具・紅蓮赫灼。最近のこの町では一番バケモノの血を吸ってきた刀よ」
花子さんの話を聞くなり走り出した六夏は、自転車に跨り学校を飛び出し、まっすぐに神逆神社を目指していた。
古霊町北東部に位置する神逆神社は、北の名を冠しながらもおよそ町の中心付近に位置する古霊北中学校からは大分離れている。
とはいえ片道は約五キロ。交通条件もあるが、自転車を全力で飛ばしていけば十五分からニ十分ほどでそこに到達できる距離だ。
昼から降り出した雨の中、乱雑に羽織った雨合羽でも防ぎきれない水滴が顔に目に打ち付けるのも厭わず、六夏は自転車のペダルをこいだ。
神逆神社に到着した六夏は、雨で人気のない参道に雨ざらしのまま自転車を停め、濡れた石段を一気に駆け上がった。
彼女がたまの参拝を除きここに訪れるのは、これで三度目だった。
一度目は五年前、自らが救われたとき。二度目は去年、美術部が今はなき旧校舎の怪事を解決したとき。
その二度目の機会に、六夏は見たのだ。
かつて戮飢遊嬉が振るい、数多の悪しき怪異を切り捨てた剣・紅蓮赫灼。進学と共に町を出る遊嬉は、怪事の解決と共にそれを神逆神社の友人・鬼伐山斬子に預けたのだ。
おそらく「当分不要」だからと。そして「もし後々北中美術部が困ることがあれば、そのとき役立ててほしい」と。六夏の目の前で、遊嬉はたしかにそう言ったのだ。
――困ることがあれば、そのときに。六夏が刀の力に頼ることを思いついたのは、決して突飛なことではなかった。
拝殿をスルーし、社務所を兼ねた鬼伐山家の私宅へと走る。
「鬼伐山さん! 斬子さん! いますか!!」
チャイムを鳴らし、昔ながらの引き戸の玄関を叩く。
やや間をおいて、中からバタバタと足音がする。ガラガラと扉が開く。
……けれども現れたのは斬子ではなく、おそらくその母親と思しき五十歳代くらいの女性だった。
「どちらさま? 斬子はまだ、大学ですけれど」
キョトンとしながら尋ねられ、六夏は一瞬にして今までの勢いを失ってしまった。
(……そうだよ、冷静に考えれば……)
いるわけがない。斬子だって学生なのだ。平日の、夕方とはいえまだ浅い時間帯。そう都合よくいるわけがない。
気付き、急激に頭が冷え、しゅんとする。
鬼伐山夫人はそんな六夏を不思議そうに見つめ、「斬子のお友達? にしては若い子ねぇ」と首を傾げる。
「いつ帰ってくるかわからないけれど、上がって待ってる?」
「……いいえ、大丈夫です。出直してきます」
「そお? それじゃあ帰ってきたときに用件だけでも伝えておこうか? あなたお名前は?」
「いえ本当に大丈夫ですこちらから連絡できますから! すみませんでした失礼します!」
逃げるように会話を終わらせて、六夏は雨の中嘆息した。
本当は斬子の連絡先なんて知らない。
だが伝言を頼んだとして帰ってきた後の斬子に大ごとだと思われても迷惑がかかるだろうし、そもそもどこまで事情を知っているともわからない人間相手に、馬鹿正直に「刀を貸りにきた」なんて用件を言えるはずもない。
変な子と思われるだけで済めばいいが、下手すれば自分の自宅に連絡されて面倒になる。
(こんなとき、先輩たちってどうしてたんだ……)
木の影に身を隠し、六夏はままならない現実に涙目になった。
烏麦六夏は、鬼伐山眼子が思うような人間などではない。
自分には過去に一度友達を助けられなかった前科がある。……そう信じていて、だからこそ今度こそは助けたいと願っていた。
そう、かつての美術部のように。小学生の自分を助けてくれた、烏貝乙瓜のように。
『怖かったな。でも、もう大丈夫だから――』
そんな言葉を平然とかけられる、強い人間になりたかった。
もういない橋架叶にも、そして今の童河裁子にも。
童河裁子は友人グループこそ違えど六夏と同じ小学校で、昔から知っている間柄だった。
同じグループだった大鳥居巴や橋架叶ほど親密でもなかったが、一度も話したことがないわけでもないし、堅苦しくもない間柄。示し合わせたわけではないが、六夏と同じく遺山美弓の傘下に入らなかったクラスメート。
……ほんの少しだけ、一方的に同志のように思っていた相手。
それでも裁子には裁子で仲のいい友人がいて、ちょうどの関係があって、ちょうどの距離感があって。だから彼女が学校に来なくなった当初、六夏は裁子のことを大きくは気にしなかった。
なにも思わなかったわけではないが、裁子には裁子の事情があるのだろうと思っていた。
けれども、その原因には怪事が絡んでいて。それに一早く気付いたのは、自分が初対面から「危うい」と決めつけていた眼子だった。
(あの子はよっぽどできた子だった。……もしも眼子ちゃんが気付かなかったら、サイちゃんは死んじゃうところだった。……ううん、今だってなにも解決してない。あたしが、なんとかしなきゃ……! なんとかしないと……)
決意し、でもどうすればいいのかわからない。六夏は途方に暮れた。このままでは裁子まで死んでしまう。裁子まで助けられなくなってしまう。……けれど自分には、かつての美術部たちのような力はない。そしてあの美術部たちも、今やそれぞれの道を行き古霊町から散り散りになっているのだ。
「あたしがなんとかしないといけないのに……なんであたしは無力なんだよ……!」
呟き、六夏は己の唇を噛んだ。そこへ――
「……六夏ちゃん! 六夏ちゃーん!」
パシャパシャと濡れた地面を歩く音と共に、すっかり聞きなれた声が近づいてきた。……眼子だった。
地味な黒っぽい傘を差してキョロキョロと辺りを見回していた彼女は、木の影に隠れている六夏の姿を認めると、安堵の表情で駆け寄ってきた。
「眼子ちゃん……」
六夏は彼女の名を口にし、直後驚きに目をむいた。それには明確な理由が一つある。
「どうやってここまで……!?」
そう。疑問である。
眼子は自転車通学ではない。精一杯走ったとして、こんな短時間で自分に追いつけるわけもない。
……否、裁子の自転車を借りたという可能性も考えられなくはないのだが、そうだとするなら眼子の顔はあまりにも濡れていないのだ。
傘を差しながら漕いできたにしても、すると今度は自転車の速度が削がれてしまう。
だからそう、おかしいのだ。眼子が今ここにいるなんて。
そんな気持ちで眼子を見つめる六夏の背後に、不意に気配が立つ。
「だからぁ。人の話は最後まで聞きなさいって。ね?」
窘めるような言葉に続き、ひやりとしたなにかが首筋に触れる。
「うわっ!?」
六夏が驚き振り返ると、やはりというべきか。そこにはぷうと頬を膨らませた花子さんの姿があって。
その肩越しには泣き晴らしたような目で傘を差す、裁子の姿も見えた。
「なんでっ!? なんでみんないるの!?」
「追いかけてきたからに決まってるでしょ。まったくあなたは不器用でせっかちさんで困っちゃう。北中と四大寺社間にはね、楽に行き来できる抜け道があるのよ」
花子さんは呆れたように笑って、それからおもむろに拝殿に顔を向けた。
六夏もつられてそれに続く。
すると来た時には誰も居なかった拝殿の前に、小さな人影がぽつりと立っていることに気付く。
薄暗い雨雲の下、そこからさらに影になる拝殿の軒の下に。それでもなお、純白とわかる白いだれかが、じっと六夏らを見つめていた。
「……だれ、あれ?」
「あら。六夏も会ったことはなかったのね」
問う六夏に意外そうに返し、花子さんは言った。
「薄雪媛神。この神逆神社のご祭神だわ――」
「まあ、上がりよれ」
山羊か羊を思わせるツノの生えた小さな神に招かれ、六夏たちは普段賽銭箱越しにしか見ることのない拝殿の内部へと上がった。
「これ、神社の人に見られたらどうするんでしょう?」
「今は認識妨害でわからないから大丈夫よ」
やや抵抗ありげな眼子に花子さんがそう答る。
眼子はそれでも尚釈然としない気持ちだったが、六夏も裁子も既に上がった後なので「なにかあったら連帯責任」と思うようにした。
けれどそんな懸念など吹き飛ばすように、拝殿の内にも外にも付近にも、神社の関係者は一人もおらず、新たに寄ってくる様子もない。
屋根を打つ雨音だけがやけに大きく鳴り響く神社の中で、それとなく横並びに座った中学生三人(と、なんとなく壁に寄りかかっている花子さん)らの前に腕組みで立ち、薄雪は怒っているような惜しむような顔でまず一言。
「遊嬉の剣は貸さぬぞ」
六夏を見て、はっきりとそう言い放った。
それを受けて、六夏は慌てたように前のめりになる。
どうして、と。てっきり助けてくれるものかとおもった神様の最初の一言がそれだなんてと、突き放されたような気分だった。
「どうしてッ!? だってサイちゃんは、このままじゃ死んじゃうかもしれないんだ――ですよ!? なのに神様どうしてです!?」
「どうしてもこうしてもないじゃろ。儂と伯瑪河童は古くからの友人でのう。いくらあの美術部らの後輩とはいえど、彼奴に剣を向けさせるわけにはいかぬ。……だいたいそんなことをしてみろ、河童らだけでなく新たに水神の怒りすらも買って、その娘はニ三日といわず今日の内に川に連れていかれるじゃろうよ。ふん」
薄雪が不機嫌そうに言う前で、六夏は言葉をなくした。
眼子もありったけ目を見開いて、叫びだしそうな両手に口を当てている。
裁子に至っては美術部にいたときのように、またガタガタと震え出している。
六夏はそんな裁子を見て、勇気を振り絞って神に叫んだ。
「でもっ!!! サイちゃんを見殺しになんて、あたしにはできません!!! サイちゃんとは……そんなに仲のいい友達じゃなかったとおもうけど、でもッ! いなくなってもいいやって思うほど、どうでもいい子じゃないんです!」
「……六夏、あんた……」
震える裁子の目が、久しぶりに床や地面ではなく誰か他者に――六夏に向かった。
そして裁子は気付く。六夏の背中も震えていた。
六夏だって怖かった。
相手は神なのだ。今いるこの神社に祀られた、今この場で最も立場の高い存在。可といえば可になり否といえば否になる、絶対的強者。
せいぜい教室の中の女王様である遺山美弓なんかとは格が違いすぎる存在。歯向かわない方がいい存在。
そんなモノに、六夏は。自業自得の自分などのために立ち向かっている。恐ろしさをこらえて立ち向かっている……!
その一生懸命の姿が、裁子の中の恐怖を確かに緩めた。絶望と後悔に支配されていた思考を解きほぐそうとしていた。
そして六夏の勇気に便乗するように、眼子も意を決したように言う。
「……ぉ、お願いしますッ! 童河さんを助けてあげてください!! なんでもします、だから神様っ!」
二人とも前のめりで、やがてその姿勢が土下座になって。平身低頭、床板に頭を擦りつけて頼み込む六夏と眼子の姿を見て、ついに裁子も意を決した。
「お願いします! お願いします! 本当のことを話します、ほかの形の償いならいくらでもします! だから命だけは助けてください……!」
三人揃って薄雪にひれ伏して。しばしの間、沈黙と雨音が流れた。
十秒か、二十秒か、それ以上か。薄雪はその間、冷ややかな視線を三者にそれぞれ向けたのち。
「……頭を下げる相手が違うじゃろうよ」
仕方がないといったように、お叱りをゆるす母のように呟いて。「面を上げよ」と続けた。
三人が顔を上げると、薄雪はもう怒ったような顔ではなく、どことなく母のような微笑みを幼い顔に浮かべ、
「仕様がないのう。たった一度、この一度だけじゃ。この薄雪媛神がどうにかしてやろうぞ」
言ってくるりと一度背を向け。
「なんでもする、と言ったのう?」と。どこからか取り出した椀を持ち、眼子の方に振り返った。
「持て」
「わたしがですか……?」
「他に誰がおる。よいから」
促されるままに眼子が椀を受け取ると、中にはたっぷりと水が注がれていた。
そして神は、呆気に取られて水面を見つめている眼子に向けてもう一言。
「その水を彼奴にかけろ」
言って、裁子を蹄で示した。
当然裁子はうろたえて、帽子を――その下の皿を庇おうとする。
「ばかもの! 命以外なら償うと言ったじゃろ! 隠すな!」
薄雪はそれを見て怒声を発し、それから壁に目を向けた。
そこには花子さんがいる。
アイコンタクト一つで神の意志を察した花子さんは、「失礼するわね」と裁子の背後に回り込むと、サッと帽子を取り払い、両手をしっかりと固定した。
「やだ! やだ冷たい! "花子さん"冷たい!」
「熱すぎるよりはマシでしょう我慢しなさい。これに懲りたら軽率にいくらでも償うなんて言わないことね。……それじゃあいいわよ眼子! しっかり皿狙いなさい!」
「……でも……、………………っ! いきますっ……!」
眼子は一瞬ためらった後、意を決して椀の水を裁子に向けて放った。
なんの指示も与えられなかった六夏は、その様を息を飲んで見守るしかなかった。
裁子は皿に水がかかることを嫌がっていたが――それが裁子の命を救うというのならば、ひたすらに神を信じるしかなかった。
水は放物線を描き、裁子の顔に身体に、そして頭の上の皿にかかる。そして――
――『皿に水が溜まるとこいつ鳴くの。ウチの声で色々わめき散らすの』
果たして裁子自身が言っていた通り、それは裁子の声でなきだした。
――……なりたかったの。
三人のお兄はみんな真面目で頭もよくて、優秀だったから。ウチもそんなふうになりたかったの。
秀兄は高校の先生。勉強教えるの上手くて優しい秀兄にぴったりの仕事。近所のおじさんおばさん、みんな秀兄を褒めてる。ウチもがんばらないと。
龍兄は警察官。まだ下っ端だーって言ってたけど、正義感強い龍兄にぴったりの仕事。近所のおじさんおばさん、みんな龍兄を褒めてる。奈桜もマリアもすごいって言ってる。ウチもがんばらないと。
和兄はえらい。自分から神社は俺が継ぐって、いっぱい勉強して大学入ってがんばってる。近所のおじさんおばさん、親戚、お父さんお母さん、みんな和兄を褒めてる。ウチも和兄大好き。だからウチもがんばらないと。
……でもウチはね、一番平凡だから。頑張っても頑張っても、三人のお兄みたいになにが得意とかなにになりたいとかじゃないから。がんばってがんばって、テストの点数だけにはしがみ付いてるけど、ウチだけ空っぽ。なんもない。
作文も平凡! 絵も平凡! 音楽も平凡! 体育も平凡! 部活も最低限動けるってだけ、すごい子いくらでもいる! なにやってもウチはこれが得意って自信もって言えることなくて、なくて、なくて!! "いいこ"なだけ! 問題起こさないだけ! それだけ!!!
「お兄ちゃんはもっとできたのよ」って。お母さん、でもウチも頑張ったよ。ウチのことみてよ。がんばるから。
「お前はもっとのんびりでもいいぞ」って。お父さん、ウチお兄たちより馬鹿だし賞も取れないけど、なにかには期待してよ。がんばるから。
お兄たちがいなければよかったのに。でもお兄たちのことすき。嫌いになれない。
お父さんとお母さんがウチだけ見てくれればよかったのに。ううん、でもそれもだめ。
みんな家族だから。みんな家族なのに。なんで家族なのに。……ウチだけ、ウチだけ、ウチだけ!
お兄みたいになりたかった。お兄みたいな子に産まれきたかった。
でも今更無理そう。だったら今更どうやったら、私のこと見てもらえるかな。
あ。…………お皿。そうだ、お皿。
家宝のお皿。大事なお皿。
どうやっても見てもらえないならいっそむしろ、悪い子に。
割っちゃおうか。……ううん、だめだよ。
やっぱりそれだけはだめ。戻さなきゃ。…………あっ――
ガシャンと響き渡った大きな音に、裁子はハッと我に返った。
水を掛けられたところまでは覚えていた。けれどそこから時間が少し飛んだような、夢を見ていたような、そんな気持ちになっていた。
「あれ……? あれ? 私っ、」
なにかあったような、なにもなかったような。そんな妙な感覚に戸惑う裁子の前に薄雪が立ち、静かに言った。「すべて終わった」と。
「皿は割れた。お主の周りを見てみよ」
裁子の周囲には何かの破片が散らばっていた。
それを見て、裁子は恐る恐る頭に手をやる。片手でさすり、それからもう片方の手でもさすり。その指先がつるつるとした皿ではなく、ぐしゃぐしゃとした髪の毛しかとらえないことを確かめて。
喜びよりも安心よりも先に、裁子の頭の中を埋め尽くしたのは大量のクエスチョンマークだった。
「うそ……? うそ、だって呪い、……死んじゃうって、水掛けただけでそんな簡単に?」
「あー、まー、そうじゃの。水掛けただけじゃの」
薄雪媛神はのんびりと答え、裁子に、それから未だにぽかんとしている六夏と眼子に向けて言った。
「いいかお主ら。そも『あめふらしの皿』ってーのは河童の皿じゃ、そんで河童ってーのは皿が渇くと死ぬ。そんなモノに水を掛けないでいてみろ、えらいことじゃろがい」
その言葉を受けて、いつの間にか薄雪の横に移動していた花子さんが「そうよ」と頷く。当たり前のように。
そんな彼女らを見て、最初に叫び声をあげたのが六夏だった。
「……えええええまってまってまって!? 死んじゃうって呪いとかじゃなくて!? そういうやつ!?」
「そういうやつよ? だって私、裁子ちゃんが呪いで死んじゃうとは一言も言ってないもの。皿の具合から見てニ三日以内に外せなかったら死んじゃうかなーって、思っただけだもの」
「じゃあ紛らわしいこといわないでよぉ!」
なんだったのおおお! と六夏が頭を抱える隣で、眼子は未だ皿のように目を見開いたままだった。
完全に呆然としていた。そんな彼女を覗き込み、薄雪は「大丈夫か?」と問いかける。
「目の前で皿が爆発四散したのは刺激が強すぎたかえ?」
「……いや、はい。それもあるん、ですけど……」
まん丸目玉のまま、眼子は言葉を続けた。
「なんでお皿、爆発したんですか? それに"童河さんの声"で少しだけ聞こえてきたこと、って……」
少しだけ。そう、裁子が夢をみているように感じていたとき、眼子らには裁子の悲鳴のような声が聞こえていた。
それに混じって少しだけ、同じ声で、なにかまとまりない感情の断片のようなものが聴こえていたのだった。
その正体を問うと、薄雪媛神はコクリと頷いた。
「心の雨というヤツかの。平たく言うと心の声じゃが、当人にしてみれば"わめき声"だとか"夢のなかで聞いたこと"ぐらいの感じ方じゃったろうな。まあその方が穏やかか。誰も自分の内面なぞ軽率に覗かれたくはないものよ」
昔話のいじわる老婆のようにケケケと笑い、薄雪は眼子にだけ聞こえるように声を潜めた。
「そもそもあの皿に人を呪い殺すような力なんぞない。あれにできるのは水を吸って雨を降らして音を鳴らすくらいのことじゃ。皿があの娘に引っ付いたのはな、あの娘の中に雨が降っていたからじゃ。引っ付いて、半分河童にして。心の中の雨を吸い取って吸い取って、だからいままでは拭こうが乾かそうが問題なかった。……けれども今日雨が降ったろ?」
「はい。……降ってますけど。もしかして、それがお皿の力なんですか」
「左様じゃ。雨が降るのはもう皿が満杯で、吸い取れる水が少なくなってきてるってことじゃ。そうするとだんだん水位が減って、遠からず皿が渇く。となると、半分河童になってるあの娘の命がヤバイじゃろ? だからまだ皿の水が満杯のうちに、新しい水をこう……注いで。吸い取れる限界を超えさせると、皿は力を失い壊れる。河童の皿ってのは壊れてもマズいんじゃが、まあ直前に力を失っとるからの。そうしたらあの娘の人間である部分が勝って……まあ助かったからどうでもいいじゃろどうだって。理解したかの?」
「……なんか最後説明雑じゃなかったですか? それはそうとして、ずいぶん脆い、お皿ですね……」
「まあ、所詮はひからびた古い河童の皿じゃしのう」
仕方がないわいと笑って、それから「聞こえてしまった雨のことは、あの娘には内緒での。皿のことは儂からも伯瑪に言っておこう」と付け足して。薄雪は屋外に目を向けた。
それから、今度は六夏にも裁子にも聞こえるように言う。
「ちなみに雨がしこたま降ったあとはどうなるとおもう?」
それはいかようにも答えられる質問だった。けれども誰が答えるより早く、六夏はこう答えたのだ。
「いい天気になる! 晴れるんですよね、神様!」
その後、数日間の内に。
裁子は自分が皿を割ってしまったのだと家族に自白した。
家族は――裁子の予想ほど怒ることなく。怪我がなくてよかっただとか、伝統についてはこれから親族で考えるだとか、拍子抜けするほどあっさりとした反応が返ってきた。
「少し触れただけで壊れそうな様子があったのは、ほとんどの親族が知っている。今回の件がなくとも、少しの地震で割れていたかもしれない。きっと親族も許してくれるだろう」というのが、当主である父親の弁だった。
それでも迷惑をかけた警察や周囲に頭を下げて回ったり、色々あったようで。
裁子が再びクラスに顔を見せるようになったのは、次の週になってからだった。
クラスメートは驚きと戸惑いの視線を向けたが、首洗奈桜と霊藤マリアは裁子の登校を快く受け入れた。
眼子は嬉しい気持ちでそれを見ていた。
たぶん、裁子の一番の友達グループは奈桜やマリアだちで、自分はもうあのときのようには一緒に行動できないかもしれないけれど。
それでも裁子を救えたという確かな実感が、眼子の心を温かくした。
「ちょっとは六夏ちゃんに、近付けたかな……?」
ふとそう呟くと、傍らの六夏は「ううん」と首をふった。
「眼子がいたからできたんだよ」
それがはじめての呼び捨てだったことくらい、眼子にもちゃんとわかっていた。わかっていた上で、なんだかとても嬉しくなった。
――その、放課後。
「ところでわたし、童河さんが美術部に入ってくれたらいいなーとか、そんな風に思ってたの」
「ああそれね。サイちゃんが入ってくれたら少しは部員の足しになるかなーって、楽しくなるかもなーってあたしも思ってた。つってもまあダメかぁ。同学年一人増えても、ねえ」
「廃部寸前だもんね」
「そーそー。ついに終わっちゃうかもだからね。北中美術部」
苦笑いで世知辛いことを話しながら美術室前まで来た六夏と裁子は、その扉の前に立っている見慣れない人影に足を止める。
そこにいたのは一年生の学年カラーの入った上履きをはいた一人の女子生徒で、六夏らの顔を見るなり「おつかれさまです」と頭を下げた。
六夏はその姿を見て、「はて」と首を傾げる。こんな一年生いただろうか、と。
いい加減一学期も半分を過ぎたので、ある程度の一年生はすれ違うなりして顔見知りであるはずである。けれども目の前の少女にはまったく見覚えがない。
傍らの眼子もまったく同じ顔をしていた。そうでなくても転校生してまだ一月と経っていないのだ、知らなくても仕方がないだろう。
などとアイコンタクトする二人に向けて、一年生はハキハキとした声で「美術部のかたですよね?」と問いかける。
「そうだけど、キミはだれ?」
ちょうどの質問に六夏が質問を返すと、一年生は待っていましたとばかりに目をキラキラとさせた。
「はい! 私、このたび美術部に入部しました、八尾凛音といいます! 入学式の後で骨折して、先日まで入院していたのですけれど……――」
どうやら美術部はまだ終わらないようである。
梅雨の合間に初夏を感じる空を望む窓の側で、六夏と眼子は顔を見合わせエヘヘと笑った。
そうやって、これからもこの美術部で。少し奇妙で、他愛もない思い出が紡がれていくはずだった。
六夏が眼子の良いところを、眼子が六夏の良いところを。互いに影響し合って過ごしていくはずだった。
一年後、あの破滅の瞬間をむかえるまでは。
(第二解・いつかあの人のように・完)
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