怪事醒話
第二解・いつかあの人のように①

 刻々と遠ざかる過去の中にある言葉を、少女はずっと覚えていた。
 とある夏。一人で悩んでいた彼女の前に現れた、『あの人』を。そのときかけられた言葉を。

「怖かったな。でも、もう大丈夫だから――」

 その言葉を、少女は忘れない。……それだけで、十分だった。


 六夏に救われた翌日、眼子は美術部への入部届を出した。
 顧問の教員には「元よりたった一人の部活動に、今更部員が一人増えたところで……」と渋い顔をされたが、それでも突き返されることなく入部届を受け取ってもらえたのだから、彼女にもなにか思うところがあったのだろう。居合わせた担任はむしろ「部の存続はどうあれ、友達ができたのは良いことだ」と笑ってくれた。
 眼子はすんなりと美術部の一員となった。後にそのことを知った遺山美弓に一言嫌味を言われたが、これといって大きな事件もなく。
 こよみは進み、六月になった。

(あれから、六夏ちゃんに色々教えてもらったな……)
 窓外に曇天の広がる四時間目の教室で、ふと六夏は思う。
 六夏が語っていた、人ならざるモノたちの世界のこと。幽霊、妖怪、どちらともつかない奇怪なモノ。見えないだけで常にすぐそばにいるモノたちのこと。それらは古霊町には特に多く、自我も薄く形さえあやふやな存在ならどこにでもいるということ。はっきりとしている存在も少なからずいて、そういうモノは古霊北中学校にいくらでも潜んでいるということ。
 そういったモノが起こす様々な事件を、一部では怪事アヤシゴトと呼ぶこと。この北中の美術部は、そういったモノが悪さをしたときに現れてらしめていく……そういった噂が、かつてこの町の小学生たちの間で語り継がれていたらしい。だからなのか美術部に入部する人間は徐々に少なくなり……六夏が入部した当時には既に、三年生の部員一人を残すだけというありさまになっていたようだった。
「その真東まひがし先輩も七月には引退しちゃってさ。ほとんどずっとあたし一人でやってたんだよね。だけどそんなにさみしくなかったよ。慣れてたし、それに……『あの人』が色々教えてくれたから」
 眼子が入部して最初の金曜日、六夏はそう言った。
 一年前、この北中で大規模な怪事が起こった。その際に六夏は出会ったのだという。北中美術部が敬遠されるきっかけを、古霊町に噂と伝説を作ったあの美術部・・・・・に。最初の六人・・・・・に。
 彼女ら・・・はすでに美術部ですらなく、更には高校三年生という忙しい時期だった。けれども六夏がかつて聞いた噂の通り、大きな怪事を鮮やかに解決してみせたという。
 その姿に六夏は惹かれた。そして彼女らの一人にせがんだのだ。「あたしも」、と。「あたしも先輩たちのようになりたい」と。

 そうして頭を下げた相手。それが烏貝乙瓜だった。

 六夏と乙瓜が会ったのは、そのときが初めてではなかった。
 更にさかのぼること四年前、まだあの美術部・・・・・が北中の内外を駆けまわっていた頃。六夏は一度だけ彼女に助けられたことがある。
 思い返せばそこまで深刻なことではなかったと六夏は言うが、彼女は所謂いわゆる心霊写真を撮ってしまったのだ。こうしたことは初めてで、けれども以来起こる心霊現象にどうしたらいいかと困ってしまって。幼馴染の大鳥居巴の伝手でとある神社の巫女に相談してみたところ、家にふらりとやってきたのが乙瓜だったのだ。
 そのつながりがあったからこそか。中学生になった六夏は乙瓜に頭を下げ、そしてほんの少しだけを学んだ。
 それこそが、眼子を黒い影から救った術。護符を操る力なのだ。

(六夏ちゃん、昔の美術部みたいにおかしなことから人を守りたいって、助けたいって思ってる。だからわたしのことも助けてくれて……。だけどわたしは、……わたしにはなにができるんだろう。……なにも……できない)
 眼子は六夏の席を見た。チラリと見遣った廊下側最前列で、六夏は一応は真面目に授業を聞いているように見えた。
 きっと彼女は、眼子が何者であろうとか、一緒にいるメリットがあるかないかとか、そんなことに関わらず「眼子ちゃんは友達だよ」と言うだろう。けれど眼子は、なにも与えてやれない自分がただ六夏の側にいることに、少なからず引け目を感じているのだった。
(わたしもなにか、六夏ちゃんにしてあげられたらいいんだけど……)
 小さくため息を吐いて一旦自分の机の上に視線を戻し、黒板に向き直って、板書の続きを書き込んで。それから眼子は、またチラリと余所見をした。
 目を向けたのは、窓際三番目の席。眼子が転校して以来、一度もそのあるじを見ない席。
 名簿によると、そこは童河わらべがわ裁子さいこという生徒の席らしい。六夏によれば彼女はバスケ部で、けれどゴールデンウィーク以降突然部活を辞めて不登校になってしまったという。
「ある日突然来なくなっちゃったんだよね。前の日までは普通に話してたはずだけど」
「病気とかでもないらしいんだけど、会いに行っても会いたくないって拒否られちゃうんだよ」
「……うちら、なにか傷つけるようなこと言っちゃったのかなぁ……」
 ときどき気にかけて話しかけてくるバスケ部の女子たちに訊いてもそんな具合で、どうやら本当になにも知らない様子なのだ。
「けど、たまに保健室に登校してるよね」
 最後に霊藤れいとうというクラスメートがそう教えてくれた。「来てたら上履きなくなってるからわかるんじゃない?」とも。

 そんな話を聞いて以来、眼子はずっと童河裁子が気掛かりだった。
 なにんとなく他人事とは思えなかったのだ。もしなにか思うところがあってクラスに顔を出しづらくなってしまったのなら――むしろなにも知らない新参者の自分だからこそ、力になれる部分があるのではないか、と。
 もしかしたらそんなに深刻な理由はないのかもしれない。個人的なサボタージュなのかもしれない。あるいは複雑な理由があったとして、お前なんかになにがわかると拒絶されるかもしれない。余計なお節介だと。
(……自分でも自己満足ってわかってるけど。だけど、なにも役に立たないわたしだから、少しは誰かのためになれたらいいなって思うの。……六夏ちゃんみたいに)
 眼子は時計を見る。間もなく四時間目の授業が終わり、給食の後に昼休みが始まる。その昼休みに、眼子は保健室を訪れる気でいた。裁子の靴箱にスニーカーが入っていたことは、三時間目後の五分休みに確認済みだ。
(行くだけ、行ってみよう)
 ダメもとで決意し、眼子は改めてシャープペンシルを握った。



「雨、降りそうだねえ」
「……ええ」
 養護教諭の言葉にだるそうな返事をして、彼女は今まで横になっていたベッドがら少し体を起こした。
 保健室の白いベッドの上には、少女がポーズとして流し見るだけの数学の教科書が一冊、今さっきまで使っていた音楽プレイヤーが一つ、シーツに忍ばせてこっそりとコミックスが一冊。他者や外界から目を逸らす道具一式が散らばる。
 ときどき気まぐれに学校に来て、なにかをしている風を装って、頃合いを見て帰っていく。それが彼女・童河裁子の最近の不規則なルーティンで、そうでないときはずっと自宅の自室にこもっていた。
 そうなったのはごく最近のことだ。少なくともゴールデンウィーク前までの裁子は、ほどほどに真面目で学年初めの実力テストでは上から十番目。部活動にも過不足なく取り組み、友達付き合いも広すぎず狭すぎず程よい具合で、別段大きな問題を起こしたこともない生徒だった。
 そんな彼女が、それこそ以前までの評価の通り『大きな問題を起こしたこともなく』不登校気味になってしまっただなんて、周囲からしたらこの上なく不可解だったろう。
 友人、担任、学年主任、両親。誰もが「なぜ?」と訊ねた。……けれども彼女は具体的なことはなにも答えなかった。
 ただ、両親には「勉強はするから」と約束して。学校にも「ときどきは顔を見せるから」と約束して。以来一ヶ月、裁子はずっとこんな調子でいる。
 ……友人たちに、相変わらずの拒絶を貫いたまま。

(なんでって、仕方ないじゃん……)
 膝を抱えて屋外の空模様を見つめ、裁子は思う。――そろそろ帰らなくてはならない。
(雨……降り出す前に帰らなきゃ。なんで天気予報ってアテにならないかな。……たく)
 内心舌打ちし、裁子は大して荷物の入っていないかばんに手を伸ばした。
 そのときはた目に見た時計が一時を指す。昼休みのチャイムが鳴る。丁度いい、裁子は思う。北中は昼休みの後が掃除の時間だ。保健室の当番班が来たら少しやかましくなる。いなくなるなら今がいい、と。
「帰っちゃうの?」
「ええ。……降りそうですから。自習用のプリントも貰ってますし」
「そう……」
 やや残念そうに言う養護教諭に軽く頭を下げて、それから、保健室登校をするようになってから片時も取ることなく被っているニット帽を深く被り直して。裁子はそのまま保健室から、北中から立ち去ろうとした。

 まさにそんなタイミングだった。

「すみません、あの――」
 他の生徒が保健室に入ってくる気配を感じて、裁子は咄嗟とっさにベッドを囲うカーテンに身を隠した。
(誰……? 同じ学年だったらどうしよ……。タイミング悪いな)
 そう考えて聞き耳を立てる中で、誰かの気配はこう言った。

「童河裁子さんって、来てますか?」

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