それは救いの蜘蛛の糸か、否か。
歪んだ世界の中に現れた、歪みない六夏の姿。彼女の叫びと共に眼子を囲み捕らえる影が爆ぜ、煤けた煙を残してスゥとその場から居なくなった。
眼子にはなにが起こったのかわからなかった。
理解できぬうちに開放され、きょとんとしたままぺたりとその場に座り込む眼子の目の前に、六夏の手が差し伸べられる。
その手を取るともなしにぽかんと見つめ、ふと、眼子は思う。
(あれ……栞……)
先ほど一瞬だけ見えた、手指の間にこれでもかというほどに挟んでいた栞のようなものが、そこにはなかった。
あれはなんだったのだろう、どこへやったのだろう。些細なことを疑問し始めた眼子の頭上から、六夏の声が降り注ぐ。
「どうしたの? どこか怪我した!?」
心配の言葉。長らくの間、父親か、往診の医師にしか掛けられたことのない言葉。
そんな言葉にハッとして、眼子はやっと顔を上げた。
そこには六夏の顔がある。そこに浮かぶのは返答が遅れたことに対する苛立ちでもなく、嘲笑でもなく。目の合ったことに対する侮蔑や嫌悪でもなく。ただただ心配そうで前のめりで――少し間の抜けた表情だった。
そうした表情で見つめられたのはいつぶりだろう。眼子は思わず吹き出してしまった。
「ぷっ」
「えっ!? なになになに、あたしなにか変だった!?」
「いいえそんなっ、ごめんなさい。でもただちょっと安心したというか。大丈夫です、怪我とかないですから」
言いながら、眼子はとても安らいだ気持ちになった。
そして六夏の手を取り、立ち上がった後で――やや後悔した気持ちが押し寄せてきた。
(やっぱり烏麦さんいい人だ。……いい人だけど、だから、……本当にこれでいいの?)
――だって、自分は「呪われた子」。明るくなりかけていた眼子の表情に再び影が差す。
「…………っ」
「どしたん? やっぱどこか痛いとか――」
「そんなのじゃ、……ないんです」
慌てるような六夏からそろりと一歩離れ、眼子は俯いた。俯いたまま語りだした。
自ら話したくはなかったことを。けれどもいずれは知られてしまうだろうことを。
「わたし、……呪われてるって、言われてたんです。なぜだかわたしの周りでは、よくないことが本当に起きるんです。前の学校でも、その前の学校でも、よその国でもそうでした。……助けてもらったことも、友達になろうって言ってくれたことも、一緒に部活やろうって言ってくれたことも嬉しかったけれど、だからわたしは烏麦さんの近くに居ちゃいけない人間なんです。ごめんなさい。……だからもう放っておいて――」
「できないよ!」
眼子が最後まで言い終わるのを待たず、六夏は叫んだ。
そして離れた距離分をさっと詰め、改めて眼子の両手をがっしりと捕まえ、その目を見つめる。
「できるわけないよ!? そんなこと言われたら余計に放っておけないよ!? なにが呪いだよ不幸だよ、好きで一人でいるならともかく、そんな理由にきみ自身が納得してないじゃんか!! ……わかった。あたし決めた。ここであたしと友達になるって約束しない限り、この手ずっと放さないから」
「……っ、ダメです! 放して!」
「放さないッ! 絶対そんなことしないッ!」
そのとき眼子は本気で六夏の手を振り払おうとしていたが、六夏の力は存外強く、なかなか離れようとはしてくれなかった。
当然だった。六夏の頭の中にはあの日の橋架叶の姿があった。ここでまた手を離してしまったら、鬼樫眼子もと本気で思っていた。
逃げようとする者と逃がさないとする者。奇妙なのはどちらも本気で相手のことを想って行動していたことか。
そんな二者の間に、不意に第三者の声が割り込む。
「そうよ六夏。放しちゃ駄目」
それはずっと様子を見計らっていた花子さんの言葉だった。
すっかりその存在を失念していた眼子はハッと驚き、六夏もまた一時忘れていた彼女の言葉に振り返る。
二人の視線の先で、髪の長い美少女の姿をしたモノは、どこか俯瞰したような態度で言葉を続けた。
「呪われてるといえばそうでしょうね。その子、あちら側のモノをざわつかせるなにかを持っているわ。きっと行く先々で向こうのモノたちを活発にしてしまったのでしょうね。今日まで本人に大事なかったのが不思議なくらい。……けれど古霊町の雑霊は甘くはなかったわね。放っておいたらその子、この町で死ぬわ」
つらつらと語り、花子さんはふわりと浮いて眼子に詰め寄った。空中を滑るその姿に眼子は一瞬にして言葉を失い、パクパクと口を開閉して目の前に迫る白い顔を見つめるほかなかった。
やけに整った顔の中ほどに、やけに長いまつ毛に囲まれて、やけに赤い目がある。眼子の瞳と同じ色の目。その目と目でたっぷりと視線を交わし合った後、花子さんは首を傾げて六夏に向き直った。
「……変ね。この子自身にはなにもないのに、この子の中になにかがある……」
「ごめん花子さん、なに言ってるかわかんない」
「奇遇ね、私にもよくわからないわ。わからないからこう言ってるのよ」
開き直った風に言って、花子さんはくるりと六夏の背後に回り込んだ。相変わらず、重力を感じさせない動きで。
「わかんないんだって。なんだろうね眼子ちゃん」
――と、六夏があまりに普通に話しかけてくるので、眼子はそこにきてやっと言葉を取り戻した。
「な、なな、なっ……なんなのその人ぉっ!」
そしてやっと出てきた言葉はもう「放して」ではなく、突如として割り込んできた謎の存在についての疑問だった。無理もない。
叫びにも近いそれを受けて、六夏は一瞬目を見開いて、けれどもすぐに落ち着いた口調になって。
「ああこの人ね。"トイレの花子さん"。学校の怪談。知らない?」
当たり前のように言って、花子さんと目配せして、それからもう一度眼子を見た。
「知らない知らない知らないよぉ! でもカイダンってことはオバケってことでしょ!?」
「そうだよぉ?」
「オバケ! なんで普通にいるのッ!」
「なんで、って。この町オバケいっぱいいるよって最初に言ったじゃん」
動転して余所余所しい敬語すら忘れている眼子にのんびりと回答し、六夏は花子さんと「ねー」と言い合った。
そのあまりに和やかな様子に、眼子はますます面食らってしまう。
だって。オバケと言ったら普通、「怖いもの」で。「恐れられる」もので。あまり近付きたくないもので。
(……あれ? それって、わたしと……同じ?)
ふと思い、眼子は「あっ」と小さく声を上げた。
それを目ざとく、ならぬ耳ざとく聴き取って、六夏は「うん?」と首を傾げる。明るい顔のままで。
「どうしたの? やっぱり、怖い?」
「ううん……いいえ、なんでだろう。怖く、ない、かも……」
眼子が恐る恐る正直な感想を口にすると、六夏はあははと笑った。
「怖くない、怖くないよ! うちの学校の"花子さん"はいい人だもん、全然全然」
「あら酷いわ。たまには恐れてくれなきゃ、オバケとしてやりがいがないわ」
花子さんがぷくりとむくれる。彼女は相変わらず宙に浮かんでいたが、眼子にはもう、わざわざ驚くほど恐ろしい存在には見えなかった。
(もしかしたらわたし、大丈夫なのかな……? 六夏ちゃんの友達になっても大丈夫なのかな?)
眼子が思い、けれどそれを口に出すを躊躇った隙に、六夏は言った。「いいんだよ」と。
「なんかきっと、眼子ちゃんはあたしなんかには想像もつかないくらい嫌な思いをしてきたんだなって思う。だけどさ、いいんだよ。一緒にいよ?」
六夏はそう言いながら、眼子を逃がすまいと強くつかんでいた手の力をゆるりと緩めた。それに気づいていながら、眼子はもう逃げ出さなかった。
「……怖い目に遭うかも、しれないよ?」
「さっきの花子さんの、聞いてなかった? なにか起こってもきみのせいじゃないし、むしろあたしがなんとかするよ。さっきの黒い影も近寄れないようにする。なにも起こらなくなったらきっと、あたしの他にきみのいいところをわかってくれる人も出てくると思う。けっこー、悪くないと思うよ?」
六夏はにやりとして、「それから」と付け加えた。
「敬語。はがれかけてるからやめたほういいよ?」
「あっ……!!」
指摘されてやっと気付いたのか、眼子は「しまった」という表情を浮かべた。「間違ったことをしてしまった」と。
けれど六夏は「いいのいいの」と首を振り。
「多分だけど元々そんなキャラじゃないでしょ? 同級生なんだからもうちょっと気楽にいこ? だってあたしたち、友達じゃん」
そう言って笑う六夏の顔が、眼子にはやけに眩しく見えた。美術室で「ならない?」と持ちかけられたときよりも、ずっと。
それもそのはず、気が付けば、辺りは既にあの異様な空間ではなくて。学校近くのコンビニ前の信号を渡って、そう遠くまで行っていない場所で。差し込む西日が昼の終わりを惜しむように、世界を橙に染め上げていて。
そんな輝かしい世界の一角で。六夏と眼子は友達になった。
怪事を呼び人を遠ざける少女と、怪事を討ち人を救いたい少女の出会い。
それはきっと、この物語の紛れもない起点の一つで。それはきっと、運命だったのだ。
(第一解・それはきっと運命・完)
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