美術室から逃げだして、眼子は思う。
どうして逃げ出してしまったのだろう、と。
(嬉しかったはずなのに! 即答するべきだったのに! 理由はどうあれわたしなんかと友達になってくれる人がいるなんて、むしろこっちからお願いするべきだったのに……! どうして逃げたりしたのわたし!)
彼女の思考と行動は完全に矛盾していた。友達が欲しかったはずなのにそれを拒んで逃げ出して、自分が情けなくて、それでも足を止められないでいた。
(……ううん、でもこれでよかったんだよ。わたしが、わたしなんかがあんないい人の近くに居ちゃダメ……)
眼子の中に、逃走を正当化する眼子が居た。惜しがる自分を押しのけて、これが正しい行いなのだと擁護する自分が居た。
敢えて語ることもないだろうが、鬼樫眼子には友達がいない。
少ないのではなく、本当に「友達」と言えるような人物がいないのだ。そしてそれは眼子自身の自信のなさから来る思い込みではない。
一因としては、引っ越しの多さ。
眼子の唯一の肉親である父親は転勤が多く、眼子は生まれてこの方二年以上同じ土地に留まった記憶がない。
長くて二年だ。短い時は数か月、いや、数週間もしない内に去った土地もあった。
ゆえに友達をつくる時間もなかった……と言ってしまえば、それもまた正解なのだろう。けれど眼子自身が考えている最大の原因はそこにはない。
――『あんたフツウじゃない。呪われてるよ』
行く先々で同級生に、周囲の大人に、嫌になるほど言われた言葉。
眼子はまずその容姿で人目を引く。
色素の薄い髪と赤い目。生物、あるいはサブカルチャー方面の知識に明るい人間には、しばしば「アルビノ?」と尋ねられる特徴があるのだ。つまるところ、生まれつきメラニン色素が欠乏する遺伝子疾患、先天性色素欠乏症ではないか、と。
けれど眼子のそれは後天性だった。
写真がなければまず信じてもらえないことだが、五歳の秋頃までの眼子は平均的な日本人と同じ、黒髪に茶褐色の瞳をしていた。それが小学校入学を迎えるころには、すっかり現在のような白みがかった髪と赤い目に変わってしまったのだ。
当時暮らしていた町の住人は、そんな眼子の変化を気味悪がった。
未知の感染症ではないかと忌避したり、呪いだ祟りだと好き放題な流言飛語が飛び交った。眼子の父親が研究機関の人間だったことも、噂の流布に拍車をかけた。
中には心配してくれた人間もいたが、そんな優しい心根の人間ともすぐに別れることになった。
移動した次なる土地で、まず向けられたのが好奇の視線。珍しい動物を見る視線。
その視線に怯んだ眼子が「面白みのない奴」と判断された後に向けられたのは、あからさまな嫌悪の視線。異端者を見る視線だった。
それでも、"みんなの環"から外され、ただ無視されている内はまだよかった。「変だよね」「フツウじゃないよね」とひそひそ話されている間はまだよかった。
決定的だったのはあるときの授業中、眼子とたまたま目を合わせたクラスメートの少女が怪我をしたことだ。
彼女は窓際の席で、眼子はどちらかといえば廊下側の席で。決して隣同士の席ではなかった。
しかし、その少女がなにか――鉛筆か、消しゴムか――を机から落とし、「あっ」と声を上げたとき。眼子の視線がそちらへ向いて、落とし物を拾い上げて顔を上げた少女と目が合って。その瞬間に、窓ガラスが割れた。
なにもぶつかってなどいなかった。そもそも簡単に割れるほど脆いガラスではなかった。
だのにガラスは粉々に砕け散り、目の合ったその少女にだけ降り注いだ。
その一件を皮切りに、眼子の周囲では奇妙で不幸なことが相次ぐようになった。
眼子と目を合わせた別のクラスメートが、近所の人間が、果ては野良猫や野鳥までもが。導かれるように凶事に見舞われ、眼子に向けられる眼差しは恐怖へと変わった。
――『鬼樫眼子の目は呪われている』。そんな噂が立ち広まるまでにそう時間はかからなかった。
そして今度の噂は、どの土地へ移動しようとも自ずとついて回り離れなかったのだ。
目を合わせたから、というのは偶然だろう。
実際には眼子と目を合わせても何事もなかった人間の方が多いし、眼子と目を合わせるどころか面識すらない人間の不幸が「眼子の仕業」とされていたケースも少なくない。
けれども眼子の近くでは、何故だか妙に不幸が続く。
紛れもないその事実は眼子を人から遠ざけ、むしろ却って近付いてくる人間に対する警戒心を抱かせた。
酷いことを言った人間に自分の気持ちを分かってほしくて、酷いことを言っていると理解してほしくてボイスレコーダーを持って、なのにむしろだからこそ、面倒な奴だと更に孤立して。無視されて。
本当は友達が欲しいはずなのに。誰かに理解してほしいはずなのに。
(烏麦さんが酷い目に遭ったらどうしよう、そうしたらわたしのせいなのかな、……わたしなんかが転校してきたから……?)
嫌な想像を膨らませながら、ついに学校から飛び出して逃走を続ける眼子はしかし、気付いていなかった。
彼女を取り巻く世界の風景が、絵の具を溶かすようにぐにゃりと歪んできていることに。
すぐに気づくことができなくて、走って、走って。……眼子がやっと異変に気付いたときには、もうすべての景色が塗り替えられていた。
「なに? なんなのっ、これ……?」
ぴたりと足を止め周囲を見渡す、眼子の周囲に広がる光景は、色がぐるぐると混ざり合った奇怪な世界。
彼女のあまり豊富ではない芸術知識内で表すならば、それはゴッホの絵画のようであり、ムンクの『叫び』のようでもあり、マーブリングの抽象画全般のようであり。とにかく、世界の全てがおよそ見慣れた現実とは乖離した奇妙なものに変わってしまっていた。
「どうして……!?」
コンビニの前の信号を渡るまでは、まだ『普通』だったはずなのに。眼子は思い、振り返るが、たった今通過したはずの信号も横断歩道もすでに混合した世界に飲まれて見当たらず、車のようなものすらそこにない。
あるのは絵の具然とした光景と、そこにグネグネと蠢く黒い影。魚のような、両生類のような、海藻のような――得体のしれない『なにか』。
それらが、洞のような目で眼子をギロリと見つめ、ないはずの口で眼子に囁く。
『食ベラレル? コレ食ベラレル? ドコカラ食ベル?』
『ホシイナ、ホシイナ、存在ホシイナ。ドコカラ食ベヨウ、迷ウナ迷ウナ』
『チガうよ、こノ子、チカラガあルよ。アイツと同ジ、チカラがある。返して、私ノ、あの人返シテ』
『あなた外から来たンダね、アたしも連レテって、おうちニ帰シテ、帰りたいノ』
恨むように、羨むように、縋るように。暗渠の泡沫のように次から次へと湧き上がってくる影たちの声。
眼子はそんな声から耳を塞ぎ、その場にうずくまった。
(なにこれっ、なんなの!? この黒いのはなんなのッッ!? どうしてわたしがっ、どうしてなの!? ……嫌だよこんなの、……こんなの、そうだ、現実なわけない。夢だよっ……!)
夢だったら醒めて欲しい。現実逃避の気持ちで目を瞑るが、その体はじわじわと影に取り囲まれて埋もれて行く。
眼子だって、本当はこれが夢ではないことぐらい薄々は勘付いていた。抵抗しなければ無事では済まないだろうと察っせないほど鈍感でもなく、むしろより悪い方へと想像は膨らんでゆく。
けれども初めて本物の怪奇現象に直面した彼女は、「なにをどうしたらここから抜け出せるか」なんてわかるはずもない。
お経なんて知らない。御守りだってたいして持っていないし、そもそもこんな目に遭っている時点で意味がない。
出来ることは、出来たことは、神様に祈ることくらい。
父親と別れて出て行った母親はカトリックだった。そのおぼろげな記憶をなぞりながらブツブツと祈ってみるが、やはり何も変わらない。
(……嫌だ。もう嫌だ……!)
悲観する己の裡から過去に浴びせられた言葉が浮かんでくる。
――『ほら、あの子だよ……呪いの。目を合わせちゃだめだよ』
――『名前通り鬼なんだよ。近寄ったらまた誰かが不幸になる』
――『怖いよね、嫌だよね。あの子の隣の席になっちゃって可哀そう……。学校こなければいいのにね』
――『どんな気持ちで外歩いてられるんだろ。ばけものは家から一歩も出てくるなよ』
――『消えろ』
――『消えろ』
――『消えろ』
耳を塞いでも意味のない、記憶の底から襲ってくる言葉たちの奔流に、眼子はみるみる気力を失っていった。
(……そうだよ。いても仕方ないんだよ。わたしなんかは。……どこへ行ってもどうにもならないなら、このまま、ここで――)
瞑った目から涙が零れ、耳を塞ぐ手から力が抜ける。そこから影のざわめきが再び襲ってくるが、眼子はもうなにも感じなかった。
どうだっていい、もう。
諦めた心の片隅で、眼子はふと思う。そういえば――と。
(……そういえば、烏麦さんだけだったな……。わたしの名前、『鬼樫』の『鬼』を待ってたって言った人――)
――『あたしにとっての『鬼』を待ってたのかもしれない』
――『友達になってみない? あたしたち』
あの瞬間眼子は、「もしかしたらこの人なら理解してくれるんじゃないかな」と思った。
いつものように転校生に対する物珍しさが切れて、嫌悪の視線に変わる前に。本当に友達になれるんじゃないかと思っいた。
柄にもなく運命の出会いだとすら思った。
けれど眼子はそんな自分の期待すら裏切って逃げ出した。だから思うのだ。今の状況は報いなのだと。
(だって、烏麦さんは言ってたじゃない。この町にはオバケがいる、って……)
悔いたってもう仕方ない。自分が間もなくこの世界から消えてしまうことを、眼子はもう知っている。
(本当にわたし、呪われてたのかもね…………)
自嘲気味にそう思った――その瞬間。
影の言葉をすり抜けて、過去の言葉をすり抜けて。眼子の耳に鮮烈な言葉が飛び込んできた。
「ソウガク・カラスガイ亜流、自立自走退魔護符乱射・軍星!」
それは強く、はっきりと、凛として。なにかに対する宣誓のようで。そして確かに眼子にとって、聞き覚えのある声だった。
否、聞き覚えがあるなんてものじゃない。ほんの何分か前まですぐ近くで聞いていた声だった。
眼子の真っ赤な瞳をまっすぐに見つめ、「友達にならないか」と誘ってくれた少女の声だった……!
(烏、麦……さん?)
ゆっくり目を開く。光がぼんやりと像を結ぶ。遅れて焦点が整って、視線の向こうに少女の姿を映し出す。
それは紛れもなく烏麦六夏だった。胸の前で交差させた両腕の先、手指の間に栞のようなものをたくさん挟んで。きりりとした勇ましい顔で眼子を見据える烏麦六夏の姿だった。
その傍らには、見覚えのない、長い黒髪の少女が佇んで――というより、地面から少し浮いている。眼子はそれに気づきこそすれ、そのことで騒いでいられるような心境ではなかった。
そんなことより、どうしてこんなところに烏麦六夏がいるのか。それがまずわからなかった。
「なんで……?」
すっかり死ぬかと思っていたのに。負の予想を裏切られ、眼子は完全に混乱していた。そのごちゃごちゃした脳を越して見た世界で、六夏は叫ぶのだ。
「眼子ちゃんを返してもらうよッ!!」