烏麦六夏には二人の幼馴染がいた。
一人は地元ゆかりの神社の氏子総代の娘・大鳥居巴。
もう一人は家が隣同士の平凡なサラリーマンの娘・橋架叶。
巴は活発で、大らかで。六夏と一緒に自転車を乗る練習をして、校則で各自宅の敷地外から学区内まで出られるようになった小学三年生の春、初めて一緒にサイクリングしたのも彼女だった。
叶は控えめで、独特の感性があって。小二の誕生日に買ってもらったトイカメラをきっかけに写真を撮ることを趣味にしていて、動物・植物・風景――町の中の些細な一瞬を、よく写真に収めていた。小三の夏、六夏に町の写真を撮る自由研究を勧めたのも叶である。
叶は大きな自己主張をしないし、生来吃音があるらしくあまり喋らない少女だったが、気付いたときには六夏の友達だった。なにか自発的なきっかけがあったというよりは、互いの親が悪しからぬ関係だったために物心つかない内から一緒に遊ばされていたためだろう。
六夏はそれが嫌だということではなくて、むしろそれで良かったと思っていた。そうでなければ多分、あまり自己主張しない叶とは友達になれなかったかもしれないと思うからだ。
なんにせよ、橋架叶は烏麦六夏の大切な友人だった。
小学六年生の夏、町境を走る線路の踏切で。叶が列車に轢かれるまでは。
事故だった――世間はそう言った。踏切の近くで撮影していて、夢中になるあまり警報に気付かず線路に立ち入ってしまったのだと。
けれど六夏と巴はそうは思わなかった。そしてきっと――六夏の憶測だが――、普段の叶の姿を知るクラスメートたちも多少は考えたに違いない。
――橋架叶は自ら轢かれに行ったのだ、と。
小学四年生の春、六夏らの学年に遺山美弓という少女が転校してきた。
父親は古霊町出身の成金で、わざわざ成功を見せつけるためだけに地元に出戻って豪邸を建てるような嫌味な性格――とは、彼の旧知である大人たちの弁。
そしてそんな父親の性分を引き継ぐように、娘の美弓もあまり気持ちのいい性格の持ち主ではなかった。
遊ぶ金があるのを露骨に見せつけ、気前よくふるまって数か月の内に"腰巾着"的な手下をたくさん作った。そこまでならまだ許せたものの、金や物を目の前で振って見せても言うことを聞かない人間には、冷酷なまでの嫌がらせを始めたのだ。
当初はそんな美弓に反発する動きもあったが、「美弓といるといい思いが出来るから」と手下に成り下がってしまったクラスメートたちが団結して嫌がらせに加わり――そのうち反発派の中にも「逆らわず、怒らせず、適度な距離を取ろう」という暗黙の了解が広まって、クラスは美弓に支配されてしまった。
遺山美弓はあっという間に『女王様』に成り上がった。
六夏らはそれを遠巻きに見て、美弓という"災害"に巻き込まれないように努めていたが――叶は逃れることができなかった。
橋架叶は幼児期から吃音だった。所謂「どもり」があったのだ。
言葉が滑らかに出てこないし、滑らかにしようと焦れば焦るほど酷くなる。
叶が普段あまり他者と話さず、会話するのも心を許した何人かだけであるのもそのためだ。馬鹿にされるのが怖いのだ。
とはいえ、四年生にもなれば大して会話のないクラスメートでも叶の吃音は理解していた。
教科書を読まされたり、設問の答えを問われたり、学校に来て授業に出る以上はどうしても声を出さなければならない場面がある。だから皆知った上で、「橋架叶はこういう子」だと慣れていた。
けれども遺山美弓は違った。
叶がしどろもどろで計算問題の答えを言ったり、何度もつっかえつっかえ教科書を読む様は、転校生の美弓の目には滑稽に映ったことだろう。
ともすれば「いじめてやりたい」と、思ったことだろう。
『本当の詳しい経緯』を六夏は知らないが――美弓は叶をからかって、無茶な要求をして、拒絶されて、……そして叶を排除しにかかった。
大きく自己主張しない叶は、すぐになにをしても許されるサンドバッグのような扱いになった。
六夏が知る限りでは、上靴に毛虫が大量に入れられたり、野外作業の最中に服にミミズを入れられたり、体操着を盗まれて美弓の気に入らない教師の机の引き出しに投げ入れられて、酷い噂を流されたり――といった具合だ。
それらは既にクラスの誰もが薄々「そうだろうな」と気づき始めてからの出来事で、本当はそれ以前から叶の様子がおかしかったことを六夏は知っている。
だからこそ、どうしてもっと早く気付くことが出来なかったのかと自分自身を恨んだし、相談の一つでもしてくれればよかったのにと叶に詰め寄った。
けれども叶は不器用に「えへ、えへへ」と笑って。
「む、六夏ちゃんと巴ちゃんにっ、めめ、迷惑かけ、かけちゃうと思ったんだよ」
無理した気遣いを吐いて。
「だだだ、だからね、あの……そのねねっ、あたっ、あたしに、構わなくて、いいよ。いじめられっ……ちゃうから。シカトっ、しててねっ……」
なにそれ、と叫ぶ六夏の手を振り払って、走り出して。
その日以来自分から六夏たちに距離を置いて、孤立して。自分でなんとかしようとして、足掻いて、足掻いて――そして二度と帰らぬ人になった。
六夏は悲しみ、平気な顔で叶の葬儀の場にやってきた美弓に憤り、その席で美弓と殴り合い噛みつき合いの喧嘩をして、保護者を巻き込んだ騒動になって、たくさん怒られて、軋轢があって、今に至る。
あれから六夏と美弓は互いを敵視しているものの、暗黙の内に互いに無視し合っている。
美弓とその取り巻きからすれば、きっと「面倒な奴だから」。過去に一度大騒ぎになっている分、下手に手を出すと自分たちが不利だとわかっているから。
六夏からすれば、「もうあまり触れたくないから」。どれだけ美弓たちを糾弾しても、結局叶は帰ってこないから。懇意にしていた叶の両親は六夏の起こした騒動のせいか、やりきれない思いを抱えたまま町を去ってしまった。――そっとしておいてほしい。彼らが去り際に残した言葉が、まだ胸の奥に刺さったまま残っているから。
故に、六夏はもう美弓がなにをしていようとよほどのことでない限り干渉しないつもりだった。
けれども。中学二年生の五月。転校してきた少女の纏う雰囲気は、あまりにも叶に似ていて――気掛かりだった。
理由はなんでもよかった。鬼樫眼子が美弓の自己中心的な思想に取り込まれてしまう前に連れ出したかった。自分の側に来てしまえば、美弓は干渉してこない。眼子は困惑するかもしれないが、彼女が酷い目に遭うよりは百万倍マシだ――と。
だから。敢えてこの古霊北中学校に残っている『伝説』を利用した。この学校で、『本当にあった、不思議な話』。その渦中の人物の名前を。かつて自分を救ってくれた、そして自分とは違ってたくさんの人を……友達を救うことができた、そうなりたいと願った憧れの彼女らの名前を。
多分それが、自分のエゴだと分かっていながら。
「――なにが目的ですか?」
そのエゴを見透かすように、鬼樫眼子は言った。否、本当は見透かしてなんかいない。いままでの彼女の人間関係が歪だったが為に、一気に距離を近づけてくる人間に対してはどうしても防衛本能のようなものがはたらいてしまうのだった。
「……わたし別にお金も持ってないですし、頭がいいとか、宿題をやってあげるとか、……他にしてあげられることもないし……無理ですよ。そういうの」
「いやいやいや、違うよ。そうじゃないんだよ。"友達"ってのは」
怯える眼子に弁明して、六夏は「どういったら良いかなあ」と頭を掻いた。
「ただフツーに遊んだり、ご飯食べたり、今日は暖かいねえとか寒いねえとか、他愛ない話しながら一緒にいてくれればそれでいいんだよ」
「本当にそれだけですか? なんの対価もなしに?」
「……キミ、どんな人生送ってきたの」
六夏は驚き呆れて、けれどもその瞬間にやはり自分の行動が間違っていなかったのだと、後付けで納得し、安堵した。
他人に対して酷いようだが、この奴隷根性剥き出しの少女が美弓に気に入られれば、中学の間ずっと美弓王国の雑用係にされていたに違いないと確信したからだ。
自己を正当化する理由を得た六夏は、けれどなにか理由を与えてやらなくては普通の友達になることすらままならない様子の眼子に悩み、考え。少し唸った後で閃き、パチリと手を叩いた。
「あ、そうだ! キミも美術部に入ってくれるとちょっと嬉しい。今、若干潰れかけだから」
「美術部……ですか?」
眼子は今まさに立っている美術室にぐるりと目をやった。言われてみれば、もうすっかり放課後だというのに、この場には眼子と六夏二人だけしかいない。
「わけあって美術部って敬遠? されててさ。去年まで三年の先輩がいたんだけど、引退してからはあたし一人。だから今はあたしが部長で、唯一の部員なんだよね」
だからさ、と、六夏は眼子の手を取った。
「特に断る理由がないなら、あたしを助けると思って一緒に美術部やってくれない? 多分きっと楽し……ううん。楽しくするから」
六夏がどうだ、とばかりに見つめ上げた先で、眼子はきょとんとして、困惑したように目を泳がせて、考えるようにして、それから小さく頷いた。
正直なところ、眼子は同年代の他人からこんな風に純粋に優しい言葉をかけられることがあまりなくて、どうしたらいいか自分でもよくわからなくなっていた。
本当は、友達にならないかと提案されたときから今まで、ずっと。
「いいのかな……っ、でしょうか。全然面白い奴じゃないですよわたしっ……。美術の成績がいいわけじゃないし、賞とか取れないですよ……?」
「いいんだよ。そんな高みを目指した即戦力捜してるわけじゃないんだから。仮にキミが面白くなくてもあたしが面白くするから問題ないの」
六夏は胸を張って言った。かといって自分が面白い奴だとも思えなかったが、ここで手を離してはいけないと強く思った。……あの日の叶のようにさせてはいけない。
そんな六夏の思惑など知らない眼子は、まだ少し迷っていた。
また騙されるかもしれない。裏切られるかもしれない。罵られるかもしれない。経験から来る未来予想に怯えながら、……けれども六夏の言葉を信じてみたい気持ちもあった。
(この人は……わたしのことを知っても怖がらないでいてくれるかな……)
無理に決まっている。過去の眼子が冷徹に言う。
大丈夫かもしれないよ。まだどこかに残っている、他人を信じたい眼子が言う。
眼子は迷って、迷って、その末に。
「ごめんなさい。明日まで、考えさせてください」
言って六夏の手を振りほどき、さっと鞄を抱えてその場から逃げ出した。それは自己防衛のための逃亡だった。
「あっ、ちょっと……!」
六夏は呼び留めようとするが、眼子の足は思いのほか速く。六夏が美術室の出入り口から顔を出した時には、既に眼子の姿は三階にはなかった。
「……やっちゃった、マズったか……!」
六夏は舌打ちし自分の荷物を取ると、誰も居ない美術室内の中心で叫んだ。
「"花子さん"っ!!」
まるでなにかの誓いのように。訴えるようにそう叫ぶと、六夏の前に一瞬前にはなかった影が立つ。
「はいはい? お呼び?」
長い黒髪・白い肌、少し古いモデルの制服と赤いリボン。この"学校"に棲む人ならざるモノの統率者・"トイレの花子さん"。先代、先々代、そこから更に数代遡った原点に存在する彼女たちが交流し、かつてこの古霊北中であった戦いを語り継げる唯一の存在。学校妖怪。裏生徒会長。
六夏が会うよりも遥か昔から変わらぬ姿の彼女は、いつも通りの涼しい顔で「貴女、人誑し下手すぎよ」とクスクス笑った。
「わかってるなら止めて! あの子は――」
「カナちゃんの代用品にはなれないのよ? わかってるの?」
「……わかってるッ! わかってるから叶と同じにしたくないの!」
「わかってないわよ。あの子はあの子なりに逞しく生きていけるかもしれないわ。貴女がなにをしてもしなくても。慣れっ子ならむしろ、それでも生きていくかもしれないわ」
「だとしてもッ!!」
冷静な花子さんの言葉を大声で遮り、六夏は言った。
「……学校にボイレコ持ち込まなくちゃいけないような子、ほっとけないよ……」
苦々しそうに呟いて、六夏は小走りで出入口まで向かう。
「花子さんも手伝って。……あたし諦めないから」
振り返らずに"頼みごと"をして去ってゆく美術部部長を見送って、花子さんは「ふむ」と腰に手を当てた。
「あの子も大概頑固だわ。悪い子じゃないし、むしろいい子過ぎるほどいい子だけれど、……不器用で」
ふうと息を吐き、それでも六夏の後を追うためにふわりと宙に浮かび上がるのは【美術部部長】という存在に対しての情けからか。しかし動き始めた後で、彼女は難しい表情を浮かべるのだ。
「だけど気をつけなさい烏麦六夏。あの鬼樫眼子という子……なにか普通じゃない事情があるわ」
その呟きは六夏には届かない。けれども花子さんは言わずにはいられなかった。
今日の――否。鬼樫眼子が転校してきてからの古霊北中学校は、妙にざわざわとしている。それは何かが起こる前兆めいていて――あまりにも、あの頃の古霊町界隈に似ていて。
まるで、そう。かつて旧・古霊北中校舎に封じられていた【理の調停者】が目覚めた夜のように、怪しい気配が満ち満ちていくのが、花子さんたち学校妖怪にははっきりとわかっていた。
【月】と共に封じられた濃厚な瘴気にも似た、深い怪事の気配が。