――もし抗えざる運命というモノがあったとして、それを感じられる時があるとするならば、きっと今この瞬間のことを言うのだろう。
その日、五月二十二日水曜日の午後四時、やっと使用されはじめたばかりの古霊北中学校新校舎三階・美術室にて。二人の少女はほぼ同時に、そんなことを思っていた。
一方の名は烏麦六夏。数年前からすっかり人数の減ってしまったこの【美術部】唯一の部員、二年生。
もう一方の名は鬼樫眼子。月曜日に六夏と同じクラスに編入されたばかりの所謂転校生。転校生特有の『物珍しさから構われがち』という一時的な上昇補正を除けばまだ馴染みの友達らしい友達はなく、眼鏡でボブカットで、いかにもスポーツより文学が友達といった出で立ちの少女。
ほんの数日前まで、互いの顔も名前も知らなかった二人。どこでなにをしているか、存在していることさえも意識したことのなかった二人。
そんな二人が今や同じ場所に立ち、互いに向き合っていて。開け放たれた窓辺に立つ六夏の言葉は、確かに眼子に届いていた。
「一昨日きみが挨拶したとき、ピンと来たんだ。『あっ、鬼の字を持った子だ』って」
「はあ、……?」
一体、この子はなにを言っているんだろう。「ピンと来た」と明るく言う六夏の伝えんとしていることを、異集団に放り込まれたばかりの眼子は掴みかねていた。
最初に声をかけてきたのは六夏だった。転校生の通過儀礼とばかりに嵐のような質問攻めの真っ只中にいた眼子に、「訊く」のではなく「教える」ことをしてくれたこの学校で初めての人間だった。
やや一方的で強引に思えなくもなかったが、六夏は特殊教室や保健室の場所は勿論、教師に不意の頼まれごとをした際に行くことが多い場所――倉庫や備品室への行き方、窓外に見える"部室小屋"などの『場所』の知識を教えてくれた。クラスで最近あった面白おかしい出来事や、学校に伝わっている『笑い話』、ちょっと『洒落にならない話』、――そして、そう。『伝説』だ。
ずっとじゃない、十年もしない、ほんの少し、昔の話。
その『伝説』を語り始める文脈で、六夏は唐突に「ピンと来た」らしいのだ。
(どういうこと、なんだろう?)
眼子は首を傾げた。
眼鏡レンズの向こうにはっきりと見える六夏の顔は心なしかキラキラと輝いているみたいで、少なくとも悪い話題ではないように……眼子は思う、のだが。わからなさは彼女の胸中に少しの不安を呼び起こした。
――『あのこはちょっとフツウとはチガウから。あんまり付き合わない方がいいとおもうの』
――『だって"オニ"だもん』
いつだかの残響を振り払うように小さく首を振って、眼子は訊ねる。
「確かにわたしは『鬼樫』だけど、それだとなにか悪かったりするん……するの、ですか? その、なにか、…………禁忌、だとか」
こんな些細なことに精一杯の勇気を振り絞った眼子だったが、相対する六夏はというとぽかんと目を丸くして、それから可笑しそうに噴出して。
「いいや別に? 禁忌
困ったような、あるいは冗談の後のような笑顔で手を振って、「逆、逆!」と言葉を続けた。
「違うよ、あたしむしろ嬉しくってさ」
「……嬉しい? 本当に……、ですか?」
「本当本当。嘘ならわざわざこんなこと言わないよ。本当だよ?」
悪戯っぽく言って、六夏は語りだした。『伝説』の続きを。
「信じられないような話だけど、ほんの少し昔、この町にはオバケがいっぱいいたの。……ううん、本当はきっと今もいるんだけど、悪いオバケが頻繁に人間
「はあ、まあ、……確かに」
そこまでは言わなかったものの『ライトノベルみたいな話だなあ』、と眼子は思った。正直反応に困っていたし、多少は引き攣った表情になっていた。
新しい学校ではできるだけ
「ごめんなさい、わたし……っ」
取り繕う眼子に、けれど六夏は首を振って。
「いやいや正直が一番いいよ。キミが転校生だからっていじめる趣味ないからさ。どうしても気になるならポケットのそれ
眼子が『失敗』と思い込んだことをさっとフォローして、ついでに眼子がずっとポケットに隠したままのボイスレコーダーを指摘した。
「……どうしてわかったんですか?」
「いや? なんかキミと歩いてたらときどき変な音したから、勘。……当たるもんだな?」
自分で感心するように呟く六夏の前で、眼子は諦めたようにポケットの中の秘密道具
その銀色の装甲を指さして六夏は言う。
「前の学校であんまりいい思いしてなかったでしょ? そういう目をしてるもん」
「…………無神経って言われません?」
「でもキミは持ってたじゃんか、それ。なんもなかった人は持ってないよ? そんなの」
「じゃあそれがわかるあなたはなんなんですか」
眼子がムッとして訊ねると、六夏は彼女から一度目をそらして、窓の外を見て、戻して。
「そういう友達が昔いた。今のキミと同じ目をしてた」
とだけ。ぽつりと答えた。
眼子は眉を顰めて六夏が一度目をやった場所を見遣るが、そこにはグラウンドがあるだけで。サッカー部やら野球部やら、屋外の部活に参加している生徒がその準備をしている姿が豆粒のように映るだけで、果たして六夏が特定の誰かを見つめていたのか、思わせぶりなだけなのか――眼子にはわからなかった。
「見たっていないよ。ここには」
六夏が言った。「辛くて遠くに行っちゃったから、もういない」と。
眼子はハッと振り返った。そこに六夏の顔があった。
不意なことに驚き見開く眼子の目。それをじっと覗き込んで、六夏は言葉を続けた。
「それでも、あの子をいじめた奴だけこの学校にいる。平気な顔して笑ってる。あいつらに復讐したって仕方ないって思うから、あたしはなにもしないでいたけど……」
目を伏せ、閉じ、戻し、六夏は続けた。
「あいつら、大人しくて従順そうな子が大好き
真剣な眼差しだった。六夏の目はやや薄めながら綺麗な琥珀色で、眼子はそれを美しいとも思ったし、羨ましいとも思った。
――『だって、鬼樫眼子の目は呪われている』
蘇ってくる過去の言葉と自己嫌悪を押さえつけるように、眼子は六夏に聞き返した。
「なんですか……?」
恐れるように、訝るように、それでいて惹かれるように、憧れるように、続きを求めるように。
複雑な心境で請う眼子に、六夏の言葉の続きが降り注ぐ。
「……さっき言ったこの学校の『伝説』の続きするね。この学校でオバケを退治してた先輩たち、そこには『烏』の字を持つ先輩と、『鬼』の字を持つ先輩がいて、二人は一番の友達だった。あたしは二人に会ったことあるし、だからずっと信じてる。……そしてずっと待ってたのかもしれない。あたしも『烏』だし、ちょっとだけ浮いてるらしいから。あたしにとっての『鬼』を待ってたのかもしれない。だからつまり、なにが言いたいのかってとだけど」
そこまで言って、六夏は照れ臭そうに笑んで。窓から入り込んだ初夏の爽やかな風と共に、彼女は『提案』の内容を解き放った。
「友達になってみない? あたしたち」