スチール枠の窓を横降りの雨が打ち、不穏な風がガタガタと揺らす。穏やかならぬ外界を見遣って、異は僅かに眉を寄せた。
大して付き合いもない四人の生徒を集めるだけ集めた彼女の心中は、その表情からは窺い知れない。ともすればただ気取っているだけにも見えるその態度にムッとしたのか、天神坂は手近な机にバンと手を付いた。
「いやちょっと待てよ八尾。話をしようとかしないとかの前に、何だってんでこんな朝っぱらの図書室に集めたんだよ? 昼休みとかじゃ駄目だったん?」
天神坂はそう訴え、やや不機嫌な表情を浮かべた。そもそもがバスケ部の彼にとって、早朝のこの時間は貴重な練習時間の一つだ。恐らくそれは女子バスケ部に所属する幸福ヶ森も同じことだろう。
それを返上してまで彼がここに足を運んだのは、昨晩異の送って来たメールの文面にどうしても引っかかるところがあったからだ。自分の他三人も、蓋しその事が気になったが故に、あんな怪しい文面に釣られてやったのだろう。そう思うからこそ、彼は問うのだ。それは本当に今でなければいけない事なのか、と。
異はそんな天神坂に視線を返して幽かに微笑み、まるで天神坂の心中を見透かしたが如く、涼やかながらも怪しい声音で「駄目」と答えた。
「駄目。今日の今でなければ駄目なんだ。……あまり他人に聞かせる話じゃあないあし、大勢には知られたくないからね」
と。ふわりと顔にかかった長い毛を耳に向けて流しつつ、彼女は言葉を続けた。
「今日ぼくが集めた皆――君たち自身は大した共通項を見出せていないかもしれないから、はっきりと言ってしまうけど。君たちは、あの体育祭の中でおかしなものを見てしまった仲間たちなんだよ」
覚えているだろう? 言って異が小首を傾げる先で、四人は皆ビクリとその身を震わせた。
体育祭のおかしなもの。……そう。彼らには覚えがあった。
去る体育祭のあの日、天神坂邪馬人は、王宮氷月は、幸福ヶ森幸呼は目撃していた。あの後誰もが白昼夢か何かだと称した、人でない大量の何かが、我が物顔でグラウンド中所狭しと闊歩する光景を。皆がそれを当たり前のように受け入れている光景を。そしてその中で、唯一当たり前のようにそれらと接する美術部の姿を。
そしてこの場唯一の一年生たる古虎渓明菜は、不可解でオカルトな噂絶えない美術部の現役部員、当事者中の当事者だ。
つまりこの場に集められたのは、あの尋常ではない体育祭の真実を知る貴重なメンバー(と明菜)ということである。
「……い、いやいや! そうだけど、確かにおかしなものを見たことをしっかりはっきり覚えてるけど! 何で八尾がそれ知ってんだよ!? 」
天神坂は異の問いに肯定を返しつつ、しかし誰にもまともに打ち明けずに心にしまっておいたそれを、何故彼女が知るのかと身を乗り出す。しかし当の異は涼しい顔でそれをスルーし、「本当は斉藤ちゃんも呼べればよかったんだけどねー」と肩を竦めた。
彼女が不在を憂う斉藤メイもまた、先の体育祭の中で気付いていた一人だが、先週の事件で負傷し、未だ入院中である。幸い回復は順調で来月頭には退院できそうな様子であるのだが、天神坂としては今はそんなこと関係ないと、噛み合わない会話に頭を掻き毟る。
そんな彼を見て、異は平然と「禿げるよー」などと宣う。完全に余計なお世話としか言いようのないその言葉を受けて、天神坂は遂に地団駄を踏み出した。
「んにゃああああああやり辛ぇ! 滅茶苦茶やり辛ぇええ! 八尾ってこんなのだったの? めんどくせえええええ!」
昼間の図書室ならまず真っ先にお怒りを受けそうな行動だが、幸い今は早朝。諫める者は誰もいない。そんな彼に代わり、今度はその親友たる王宮が口を開いた。
「八尾、……いやその、そろそろ揶揄うのはやめて真面目に答えてくれないか」
珍しく比較的まともな口調且つ神妙な面持ちで語りかけた王宮に、異のみならず天神坂や幸呼もまた目を丸くしていた。「こいつ普通に喋れるんだ」と。……唯一、他学年で面識の薄い明菜だけが皆の反応がわからずキョトンとしていたが。
そんな周囲の反応を他所に、王宮は言葉を続けた。「昨日、我々を呼び出したメールの内容を忘れたとは言わせないぞ」と。
言ってズボンのポケットからケータイを取り出し、彼はそのディスプレイを己の前方へと翳した。
決して大きいと言い難いディスプレイの中には、ほんの数メートル離れただけで見え辛くなる小さな文字列が躍っている。
見え辛い文字列、小さな文字列。しかしそれが何の文章であるか、その場のほぼ全員が察していた。
そう、それは異が王宮らに送信したメール。昨晩彼らの元に送られてきた怪文書。
どこからアドレスを仕入れて来たか定かではないが、異が彼らに送ったメールにはこう書かれていた。
『気付いてしまったことについて知りたくはないか。
体育祭 先週の事件 美術部のこと
明日の朝 八時前 図書室で会おう。』
それは妙に抽象的で、悪戯的で、愉快犯的で。しかし、それでも。ここ最近古霊北中学校界隈で起こった出来事に対し、ある種の疑問を抱えた人間を釣り上げるには十分な魔力を秘めていた。
故に見事に食いついて来た彼らに向かい、八尾異はニヤリと笑った。
「そうだね、それがぼくの約束だった。君たちに君たちの気づいてしまったことを話すという、ね」
彼女がしたり顔で腕を組んだ時、幸呼共々ずっと黙って居た明菜が叫んだ。ちょっと待ってください! と。
「ちょっと待ってください! 私に来たメールはそんな文面じゃ無かったです! ほらっ……!」
言って明菜が取り出し提示した彼女自身のケータイには王宮が見せたのとは全く違う文章が躍っていた。
『古虎渓明菜ちゃんだよね、はじめまして。
いつもうちの音色と仲良くしてくれてありがとう。音色のいとこのコトです。
実はちょっと相談というか、聞いてほしい話があるので、もし良かったら明日の朝八時前に図書室に来てくれませんか?
2年1組 八尾異(コト)』
そこに並ぶのは先の怪文書とは一転し、ほぼ面識のないに等しい後輩に宛てた、驚くほど当たり障りのない文章だった。
明菜と同じく美術部一年に所属する従妹・八尾音色を引き合いに出すことで僅かな接点を作り出し、殆ど知らない間柄という警戒心を緩めにかかっているのがえげつない。
そんなメールを証拠品のように示しながら、明菜は「何で私この場に呼ばれたんですか!?」と声を張り上げる。「これ絶対相談とかじゃないですよね?」と。
異はそんな明菜を見てふうと息を吐くと、ちょっぴり考えるように顎に手を当てて、それからケロリとした調子で行った。「ちょっと、証人になって欲しかったからかな」と。
「証人って何ですかっ!?」
「何って、そのままの意味だよ。だって、美術部の中心を除けば君が一番近くに居るじゃあないか。いっちゃん……じゃなくて烏貝ちゃんや魔鬼ちゃんたちの」
事も無げにそう言って、まだ一言二言言いたげな明菜をニコリとした笑顔で封殺すると、異は改めて全員に向き直り、そして言った。
「一通り整ったところで改めて話しを始めよう。現世に怪事ありて――って話をね」
変わる変わる。何かが変わる。
美術部が何かを知った裏で、彼らもまた何かを知ろうとしていた。
雲行きは益々怪しく、渦巻く黒雲が遠雷を運ぶ。
各々の心中は叩きつける豪雨の如く、木々を揺らす疾風の如く、嵐の如く。狂おしく掻き乱れに乱れた後、いずれ晴れ間へ向かうだろうか。……それは、誰にも分らない。
そんな嵐を映す硝子窓に手を付いて、アルミレーナは嘆息した。薄暗い屋外を背に部屋明かりを反射するその窓は、アルミレーナの顔とは別に、ソファーにかける黒い女の姿をも映し出す。
ヘンゼリーゼ・エンゲルスフィア。ここのところ名前ばかりを一人歩きさせる黒い魔女は、殆ど血のような色をした紅茶をカップに注ぎ、静かに口をつけながら言った。いよいよね、と。
「月はいよいよ火を屠る為に動き出し、火は己の正体を彼女たちに曝す。しかし双方隠し玉を抱えたまま、火蓋は切って落とされてしまった。ああ、はじまるのね……【月名乗る影】と【灯火を名乗る陽光】の戦いが」
感慨深げに呟いて、黒い女はククっと笑った。一旦ソーサー上に戻したカップにミルクを入れ、白い渦が赤黒い液体の中に緩やかに溶けていくのを見守りながら、彼女は嬉しそうに、実に嬉しそうに目を細める。
「その隠し玉を、私たち【青薔薇】は知っている。高見の座から静寂の水面に一石を投じる者。風のないところに波を立て、火の無いところに火をつけて回り、人を舞わし人を惑わし続けるその為に、人を滅亡の未来より助くる闇夜の結社。……私たちは魔女。うふふふふ」
幾分か柔らかい色へと変じた紅茶をティースプーンでくるくるとかき混ぜながら、ヘンゼリーゼは続ける。
「人間もこの紅茶も同じなのよ。少しのお砂糖とミルクでかき混ぜてやれば、簡単に色を変えてしまう。理性と欲望、道徳と背徳。ぐるぐると廻り、混ざり、迷い、崩れて。……その様を見ているのが楽しいの。あの揺らぎやすい心をしっかりとした柱に置換されてしまったら、それはとってもつまらないわ。魔女は人間をくるくる回すのが好き。魔女は人間をくるくる狂わすのが好き。うふふふふ……」
「今日は妙に多弁なのね、ヘンゼ……」
妙に上機嫌なヘンゼリーゼを反射越しに睨み、アルミレーナは言った。言葉の端に僅かな棘を込めて。
ヘンゼリーゼはそんな棘を受け取って僅かに窓の方に目を遣ると、「んふふ」と嬉しそうに顔を歪めた。
「んふふふ。いっぱいお喋りしたくもなるわよぉ、だってずっと待っていたんだから。世の中の命運を賭けた月と星の戦いを前にして、どうして黙っていられるかしら? あの田舎の廃れた町で繰り広げられるミクロレベルの攻防が、マクロな世界の命運を握っているのよ? そんな、人知れず世に知れず、観客席すら限られている見世物に、私たちは一石を投じることまで出来ちゃうの。とても黙っていられないでしょう? 黙っていられないわよ。うふふふふ……」
さもおかしそうに笑い、黒の魔女はすっかり苺色に転じた紅茶に口を付けた。話しながら沢山の混ぜ物をしたおかげで大分甘ったるくなっているそれを二口ほど飲み込み、彼女は思い出したように言った。――そうだわ、と。
「蒔いた種がどこまで育ったか、あちらもそろそろ様子を見ておかないとね――」
言いながら彼女が思い浮かべるのは、とある少女の姿。四年前に彼女が出逢い、彼女の力の片鱗を固めたものを魔導書の形で授けた彼の娘――黒梅魔鬼の姿であった。
そんな事など知らないはずの黒梅魔鬼は、というと。
「しっかしよー、まさか火遠の奴が神様的なヤツだったとはな?」
「ちょっとしたびっくりだよね」
「まあ、なんでもよくね? 神様なんてこの町じゃそんなに珍しくもないし」
「それもそうだな」
「いや、神様珍しくないとか、いくらなんでもお前ら慣れすぎだろ……」
などと、早朝の美術室を後にし、各々の教室を目指しながらそんな雑談を交わす美術部の行列の中で、ぶるりと身を震わせていた。
「うええ……なんか知らんけど寒気する」
言いながら己の両腕を摩る彼女の背には、今も悪寒が駆け抜け続けている。それは彼女自身も知らざる第六感のようなものが、遥か遠方から向けられる視線を無意識に感じ取っていたから……なのかもしれないが、そんなこと知る由もない当人としては、精々「風邪ひいたかな」くらいの感想しか抱かないのであった。
そんな彼女の様子を振り返り、乙瓜が心配そうに首を傾ける。
「なんだ魔鬼、風邪か?」
「……たぶん」
「もうぼちぼち保健室開いてるから、熱くらいは測った方いいぞ?」
「……そうするぅ」
未だ収まらない悪寒を抑えるように身を縮めながら、魔鬼は一度通り過ぎた保健室へと小走りで引き返していった。その背中を見送る為に振り返った先の廊下を――美術室に通ずる廊下を見て。乙瓜はふと何かを思い出す。
(そういやマガツキ……月の大将と俺の関係ってなんなんだ? あの鏡の妖怪でさえ知ってるし、火遠も過去に何か知ってる風だったのに……)
そう考えて足を止めた乙瓜を、杏虎が「おーい」と呼ぶ。乙瓜はそれに「先に行ってて」と答え、胸中に再び生まれた靄のようなものを晴らすべく、来た道へ一歩踏み出した。
魔鬼の駆け込んだ保健室を超えて、相談室の角を曲がって、曲がって。そうして戻って来た美術室はまだ施錠されておらず、扉が人一人分くらい開いていた。
そんな美術室の扉を見て、乙瓜は首を傾げる。
(……あれ? さっき閉めたような気がしたんだけどな?)
実はこの後一時間目はどの学年クラスも美術の授業ではない。故に皆でここを出るときに施錠して、確か遊嬉あたりが職員室へ届けに行った筈だ。なのに何故と眉を顰め、乙瓜は残りの廊下を慎重に進んだ。
そして、聞いてしまった。
「――やっぱりずるいよ。本当の事打ち明けるとか言って、まだ言ってないことあるじゃん?」
美術室の中から聞こえる彼女の声を。確かに一緒に廊下に出て、間違いなく途中までは一緒に居た筈の彼女の声を。
驚きつつも息を潜め、乙瓜がそっと耳を欹てる中で、声は続けた。「そんで、いずれきちんと話すんだよねえ? 乙瓜のことも、全部」と。
唐突に名を呼ばれてドキリとする乙瓜が、そっと覗きこんだ部屋の中には。
机の一つに寄りかかり、美術室の鍵のついたキーホルダーの輪を指にはめてくるくると回す遊嬉と。彼女に対峙して立つ、憮然とした面持ちの火遠の姿が、確かにあったのだった。
遊嬉は言う。このまま隠したままでいられると思う? と。
火遠は俯いたまま頷き、わかってるさとそれに答える。
覗き見る乙瓜は息することも忘れたまま、彼らの不穏な遣り取りを呆然と眺めることしか出来なかった。
――変わる変わる。何かが、変わる。
曲月嘉乃が彼方で嘲笑い、ヘンゼリーゼが動き出す。草萼火遠は過去と己に纏わる秘密を打ち明け、しかし己の知る全てを打ち明けられぬまま口を閉ざす。
八尾異は数名の生徒に己が知り得る怪事の事実を伝え、独自の思惑に向けて歩を進める。
様々な思惑が錯綜する中、乙瓜は、魔鬼は。
その行く末は、まだ誰も知らない。杏虎と深世に挟まれて、見せかけだけは何事も無かったように階段を上る彼女もまた、知らない。
(第十三談・月喰の影・完)