怪事捜話
第十三談・月喰の影④

「――その魔女と奴との会話の内容を、僕は聞いてしまったわけだよ。……我ながら無粋な事をしたもんだ」
 六十年後の雨の屋上、嘉乃は自嘲じちょう気味に口元を歪めた。
 雨脚は衰えることを知らず、吹き抜ける風がすっかり濡れねずみとなった嘉乃の体温を急速に奪っていく。
 その確かな冷たさを感じながら、「盗み聞きなんて」と彼はこぼす。
「聞かなければ良かったと、そう後悔することもあったさ。けれどもね。知らずに居るよりは幾らかマシだったのかもしれないとも思うんだ。だってそうだろう? あの時代、多くの人間ヒトがそれを望んだように、妖怪アヤカシも安寧を求めていた。奴はそれを実現する力を持ちながら、それを決してしないんだぜ。語るばかりで何もしない。……滑稽こっけいだろう。滑稽じゃあないか。そして何より何も知らずに頷いていた僕が……」
 馬鹿みたいじゃないか。声を震わせそう言って、嘉乃は地上に広がる建物の群れを見下ろした。六十年前の焼跡の街は、今や高層建造物ひしめき合うコンクリートの森へと変貌していた。
 日本の首都・東京。あの頃と同じ、しかしあの頃とは全く変わってしまったその場所で。ビルの屋上という丘の上に立ち。曲月嘉乃は見おろしていた。曲月嘉乃は、見くだしていた。
 豪雨の中、逃げるように地上を行き交う人々を。忙しさに追われ、考える時間を無くし、社会の本流に流されるがままに目先の事ばかり考えて生きる人間たちを。……それでも、草萼火遠が愛した人間達の姿を。冷めた目で見おろし、見くだしていた。
「……あの日も今日と同じように雨が降っていた。」
 凍てつく瞳を輝かせながら、嘉乃は言った。
「桶を返したような土砂降りだった。魔女が一時去った後、僕は火遠ヤツに問いただしたんだ。秘密を知ったことを詫びながら、何故その力を有効に活用しないのか、とね。その力さえあれば、もう誰もあの愚かな光に怯えることはない。争いもない、暴力もない、理不尽な差別も偏見もない、真に理想の社会が作れるのに、と。……けれど奴はそれを否定した。理想とは誰かに与えられるものではない、皆が過ちの愚を自覚し、その上で改めて行かなければ意味がないなどと絵空事を抜かす。僕たちの意見はそこで完全に対立した。成行きの友情はそこで完全に崩壊したのさ」
 彼は乾いた笑いを漏らし、それから思い出したように琴月を振り返った。一歩下がって佇む和装の女は、哀れむような、困ったような視線を嘉乃に向け。しかしその口角は歓喜するように歪に吊り上がり、何とも奇妙で不気味な形相を浮かべていた。
 その名状し難い表情のままで、琴月はクスクスと笑う。片を震わせ、控えめに、そしてあざけるように、馬鹿にするように。そんな笑いを漏らしながら、彼女はそっと口を開いた。
「ふふふ……マガツキ様も悪いお方。そんな昔の仲違いから、今でもあのひと・・・・に固執して。人間を排し世界を己の理想に塗り替えようとするだなんて。……本当に。本当に小さくて大きい人・・・・・・・・
 仮にも己の所属する組織の総裁トップを嘲笑う彼女を、しかし嘉乃は叱ることなく。それどころか己もニヤリと笑みを浮かべ、「そうともさ」と同意すらしてみせた。
「僕なんかはどうあがいても小者も小者。奴のような大物にはなれやしない。でも、だからこそ僕はそれをするんだ。やろうと思えば何でもできる、天賦てんぷの才を与えられし恵まれた者がそれをしないから。凡夫の僕がそれをするのさ。たった一人の圧倒的な灯火ともしびを、圧倒的な軍勢となって押し潰し、その存在に成り代わる! その為に、僕は創ったのさ――」
 濡れた両腕を大きく広げ、遥か雨雲に呼びかけるように彼は言った。

「――月喰つきはみの影を。あの日の月をくらい、世を浸食する影となる為にッ! 僕は草萼火遠を徹底的に打ちのめし、この世界を手に入れる!」

 刹那、黒雲に閃光走り、鮮烈な稲光いなびかりが二人を照らす。僅かに遅れて轟く爆音が虚空を揺るがし、大地が震える。そんな、いよいよ激しさを増した一過性の嵐の中。嘉乃は満面の笑みで叫ぶ。

「ここから先もまた読み合いだ! 君もまた最初から気づいていて、それで僕から・・・目を一つ奪ったんだろう? なあ、火遠!!」

 あははと狂ったように笑う声は、天を轟かす雷鳴と、地を打ちのめす雨音に交じり。そこに無数に暮らす人々の耳に届くことなく、嵐の中に溶けていった――。



 一方、古霊町・古霊北中学校美術室では。
「――とまあ、そんなわけで。嘉乃あいつと俺の意見は完全に対立し、決裂し、離別し、……そして至る現在、という事さ。それから色々考えた末に俺は【灯火】を、人間と妖怪の間の微妙な不可侵域を守る為の機構を組織し、あいつはあいつで危険分子と見なした全人類をこの世界から排除し、妖怪だけの世の中を作るべく【月喰の影】を組織した。通り名である【三日月】は、嘉乃が掲げた浸食される欠け曲がりの月シンボルがそう見えるからさ。……とまあそんなわけで」
 何か、質問あるかい? と火遠が問うと、美術部の全員が一斉に手を上げた。彼女たちは互いに顔を見合わせた後、「深世さんから言っていいよ?」と、珍しく火遠の話に食いついた深世に発言権を譲った。
 果たして最初の質問権を得た深世はというと、一言二言でなく言いたい事あり気な面持ちで一歩前へ出ると、火遠の顔を今までないくらいに真っ直ぐに見つめ、そして口火を切った。
「つ、ツッコミたいことは山ほどあるけどっ、まずこれだけ確認させろ! あんたが言う運命のなんちゃら……世界をどうこうするとかいうトンデモパワーについては、間違いなく本当なわけ!? 嘘でなく!?」
 食って掛かるように詰め寄る深世を見つめ返し、火遠はコクリと頷いた。「そこで嘘ついてどうするんだよ」と。
「全て話すと言ったろ。……俺も覚悟を決めたんだ。今更な事とはいえ、何も知らせずに怪事に、いずれ嘉乃の【月】に通じる事に君たちを関わらせ続けるのは、正直心が痛むからね。流石に」
 そう言って、火遠はどこからか一本の棒のようなものを取り出した。
「これは前庭おもての桜の一枝だ。こんなもので証明になるかはわからないけど」
 火遠がふっと息を吹きかけると、くすみつつある枝の葉は一瞬にして瑞々しい新芽と変わった。それから新芽は物事の道理に逆らうように満開の花々へと変わり、三十秒も持たずして散り落ちて行った。
「……それはなんの手品だ?」
 恐る恐ると言った風に口を開いた乙瓜に、火遠は首をゆっくりと左右に振りながら言った。
「手品じゃあないし、かといって妖術・魔法の類でもない。これは物事の道理を捻じ曲げる力だ」
 そうして火遠は、己の手に残った枝を見て呟いた。
「桜じゃない。チョウだ。今日は晴れの日」
 告げるや否や、桜の一枝は消え失せる。代わりに赤々とした蝶が一匹現れ、火遠の指先から美術室内へと飛び立ち、その場にいる美術部たちの間をひらひらと潜り抜ける。
 火遠は遊ぶように飛ぶ蝶を手で誘導すると、窓の一つを静かに開いた。開かれた窓の外、つい今し方まで横降りの雨が降っていた屋外は雲一つない青空で、どこか春を思わせる草花まで咲いている。前庭の桜の花も、勿論満開だ。
 そんな陽気の中に蝶が消えたのを確認し、火遠は再び窓を閉め、そして言った。「――だが、こんなことはあり得ない」と。
 その瞬間、ほとんほうけていた美術部たちの耳は再び雨音を捉える。屋外の天気は元通りの悪天候で、勿論桜の花だって咲いていない。
 一時の戸惑いの気配の後、深世が言った。
「幻か何かを見せたのか……?」
「そう思うなら構わない。けれども、大抵の妖怪アヤカシや魔女たちが幻でしか見せられないものを、俺は道理を捻じ曲げて創る・・事が出来る。勿論壊すことも。時の流れも、命の生き死にすらも。存在をまるごと無かったことにしたり、新たに作り出したり。やろうと思えば何でも。……そんな力が、どういうわけか俺なんかにある。あの日、を拾った時から。そういうことが出来る・・・・・・・・・・と、理論でも理屈でなく本能でっている」
「じゃ、じゃあ……! それが本当なら、あんたは、つまり、その……殆どこの世界の神様みたいなもんだろ!? なのに何で……っ、そんな悪い奴らをのさばらせておくのさ……!?」
 次第に疑問の色に染まっていく深世の表情を見て、火遠は寂しげに、そして自嘲気味に微笑んだ。まるでその反応を予測していたかのような笑みを浮かべ、彼は言った。
「そう……だね。君の言う通りだ。やろうと思えばなんだって出来るということは、きっとこの世界を意のままに変える事も出来るだろう。……けれども、それじゃあ嘉乃のやろうとしている事と変わらないじゃあないか。その正義に添わぬ大勢を犠牲にすることは、俺にはできなかったのさ……。或いは、君ならどうする歩深世? 己の理想に異を唱える全ての者を、有無を言わさず消し去ることが。……君には出来るのかい」
「そ……れは……」
 問い返され、深世は言葉を詰まらせてしまった。そんな彼女に優しい眼差しを向け、火遠は言う。「神様なんてなるもんじゃないんだ」と。
「世の中から都合の悪い事だけをごっそり無くしてしまうということは。そこに関わる全ての人々を、人でない何かを。無かったことにするって事だ。……沙夜子はそれに気づいていて、最期の気力を振り絞って俺を止めてくれたんだと思う。だから俺はあくまで、ただの妖怪・・・・・としての自分の持てる力で嘉乃との因縁に決着をつけたい。エゴかもしれないけれど、そう願ったんだよ……」
 言って、思うとこあり気に眉根を寄せ、火遠は再び美術部全員の顔を見渡した。一人一人の表情を、じっくりと。そうしてから、自分自身を落ち着けるようにふうと息を吐き、彼は言った。
「乙瓜、魔鬼、そして遊嬉、眞虚、杏虎、深世。……すまなかった。俺はいずれ再びこの地を目指すだろう嘉乃と決着をつけるために、意図して君たちを利用していた。学校妖怪の協力を通して怪事との付き合い方・戦い方を意図して身につけさせ、十年前の事件の二の舞にならないよう備えていた。ありもしない責任を引き合いに出して……謂わば君たちを騙していたんだ。だから、謝らせてくれ」
 ごめん、と。火遠は頭を下げる。そんな、初めて見るような彼の姿を前にして、美術部の誰もが戸惑いを隠せないでいた。今眼前に立つ彼は、平時の飄々ひょうひょうとした彼とは似て非なる他人のようで。皆完全に調子が狂ってしまっていたのだ。
「いや、ごめんとか言われても……」
 困惑気味に言いながら、乙瓜は思う。
 正直、今となって思い出してみれば、去年の春から夏にかけて学校妖怪の起こした怪事なんて、殆ど戯れのようなものだったと思う。てけてけと異怨の件だけは別として、鏡探しや合唱対決の何と可愛らしい事か。それを今になって怪事に慣らすためのものだったと告白されたとして、「ああやっぱりそうなのか」ぐらいにしか思うことは無い。もしくは、それを知らされたのが去年の今頃だったとしたら、幾らか怒りもしただろうが、一年以上が経過した今となっては既に怒るような気持ちも湧かないのだった。
 負傷を理由に負わされた責任が虚構だというのも、すんなり受け入れられた。それは多分同じく怪事解決を任された魔鬼も同じことで、そして多分、美術部誰もが分かっていた。仮にも一年以上の付き合いなのだ、あの元気そうな姿を見て、今日の今まで何も出来ないと思い込んでいるほど皆純粋ではない。
 それに乙瓜は覚えていた。丁度一年前、皆が七瓜の魔法に操られる中で戦う火遠の姿を。【月】の刺客として現れた魅玄に囚われた鏡の中から自分を助け出したのは、他ならぬ彼だった事を。
 戦う力がないなんて、嘘だ。とっくに分かっていた、公然の秘密。それを今更明らかにされたところで、特に恨み言も浮かばない。
(……それに、あの日俺は思ったんだ。なんだか面白い事が起こりそうだって、そう思ったんだ)
 火遠と出逢った夜の事を思い出し、乙瓜は考える。
 騙されていた、と思うと幾らか釈然としない気分になるが、こちらもこちらで責任取りを口実に、そこらの同級生の持ち得ない力を使って楽しんでいた感は否めない。

 何だかんだ言いながら、乙瓜は。そして美術部の皆は。この、大凡「美術部」の立て看板とはかけ離れたオカルト的活動を楽しんでいたのだ。
 それが今更騙していただなんて言われたって、危険な目に遭うかもしれないだのと言われたって。そんな事は、経験の中でとっくに学習済みだし、ある程度の覚悟も出来ている。
 だから乙瓜は言った。困惑を飲み込み、なんでもない調子で言った。――それが今更どうしたと。
 刹那、火遠の眼が驚きに見開かれる。その視界の先で、少女たちは「それ言っちゃあしょうがないなあ」という視線を交わし合い、いつものような・・・・・・・表情で火遠に向き直った。
 その、大体全て受け入れたとでも言わんばかりの姿を前に、今度は火遠の方が困惑してしまう。
「い、いや君たちねえ! そんなあっさりと……」
 驚き呆れる彼の前で、乙瓜は「だから今更どうでもいいだろ」と繰り返した。
「なんだかデカい事に巻き込まれてる自覚ならとっくにあるんだよ。その上で良からぬ事を企ててる連中がいて、お前とも因縁があって、人類滅ぼすとかいうふざけた目的持ってるなら、関わるなって言われたところで最終的に関わり合いになっちまうだろーが。例えあちらさんにもあちらさんなりの正義があったとして、だから『はいそうですか』ってやられるわけにはいかんだろが。狙われるかもしれない学校妖怪とも既に知らん仲じゃねえしさ。……戦うよ。俺らは」
 な、と。乙瓜が同意を求めるように呼びかけると、周囲もまたコクコクと頷いた。
「そんなん戦うしかないじゃんね」軽い調子で魔鬼が言う。傍らの眞虚もまた頷き、「逆に知らんぷりできなくなったよね」と拳を握りしめる。
「だあってこんなスケールの大きい話、逃げ場なんてないようなもんじゃんさ。いつ滅ぼされるとも知らずに怯え暮らすなら、あたしは逃げない方を選ぶねー」
「同感だわー。暫く馬鹿な事出来ないようにしとかないと夜も眠れないってねー」
 遊嬉と杏虎はちょっぴり物騒にそう言って、二人揃って深世を見た。
「そういや深世さんも頷いてたけど? 何、戦ってくれんの? セロハンテープとかで?」
「……っ、ばか、勘違いしないでよね!? 私は別に戦わないんだからね!? ただこれは部長としての決意表明としてのアレで、私はあくまでお化けの類と戦うトンデモ人類側には行かないんだからねっ!!?」
 茶化すように尋ねた遊嬉にそう答えて、深世は顔を真っ赤に染めた。その様子がおかしくて、他の五人はクスリと笑った。
 そんな少女たちを前にして、未だ戸惑いの表情を浮かべる火遠を見て、遊嬉は得意げにウィンクしてみせた。

「ま、そんなわけだからっ。あたしら美術部は悪の組織だろうが巷の噂だろうが、向かってくる怪事からは逃げたりしませんよってことで。ね、せんせ」

 せきを切ったように激しく振り出した雨を前に、朝練の運動部は校舎へ向かって走り出す。
 一週間前の惨劇の記憶と、目の前のどんよりとした天気を前に、北中生徒たちの心は沈みに沈み切っていた。そんな世間の流れに逆らって、美術部の心の中には前向きな意欲が芽生えていたのだった。

 一方、美術部がまだ火遠と嘉乃の因縁話を聞かされていたその頃。普段ならこんな時間に誰も寄り付かない筈の北中三階図書室には、珍しい面々が集まっていた。
 二年一組学級委員長・王宮氷月ひづき、その友人たる天神坂邪馬人やまと、二年二組・幸福ヶ森幸呼、一年一組・古虎渓明菜――そして二年一組・八尾異。
 王宮と天神坂以外碌に繋がりの無い彼らを一同に集めたのは、他でもない異だった。何処から知ったか、全員にメールで呼びかけた彼女は、皆が思い思いの席に落ち着きなく座る中、一人カウンターの前に立ち、そして口を開いた。

「それじゃあ、話をしようか。君たちが気付いてしまったことについて」

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