怪事捜話
第十三談・月喰の影③

「青薔薇の、魔女……?」
 火遠の口から飛び出したその単語を耳にした瞬間、魔鬼は怪訝に眉を顰めた。
 この秋に入ってから頻繁に姿を現すようになった少女たち、追随する魔女の名前ヘンゼリーゼ。願わずとも想起させられたそれらの記憶に胸中をざわめかせながら、彼女は問う。
「そいつは……もしかして、ヘンゼリーゼとか云う――」
 恐る恐るといった風に言葉を紡ぐ魔鬼を見て、火遠は静かに首を振った。
「――いいや。君が口にしたその名は、今【青薔薇】を名乗っている魔女の名だ。嘗て俺が出逢い、そして最初に青薔薇と呼ばれた魔女は別にいる」
 彼は否定の後そう答え、「この際だから洗い浚い白状しよう」と姿勢を正した。教壇に体重をかけていた手を放し、己の二つ足だけで床に立ち。一拍の間を挟んだ後、火遠は言った。
「魔女の名はエルゼ。エルゼ・クロウフェザー。古代西欧から存在し、暗黒の魔女狩り時代を生き抜いて不老不死の魔術を体現した、正真正銘の大魔女さ。そして――俺の妻だった女性ひとさ」
 最後の一言に、美術部一同は目を剥いた。否、ただ一人、やはり遊嬉だけはあまり驚いた様子を見せなかったが。
 それでもたっぷり五人分の驚きの視線に射抜かれながら、火遠は昔語りを続ける。

「思えばエルゼと再会したことが、俺と嘉乃あいつの今日に至るまでの確執の始まりだったんだ」

 エルゼ・ローラ・エンシェント・クロウフェザー。実に千年以上もの間西欧諸国を拠点としていたいにしえからの大魔女が、遥か東の小国を初めて訪れたのは、明治も中頃の事。
 欧米列強の仲間入りをせんと、工業化へ向かったその時代。請われて日本の地を目指した西欧の技術者たちの船にこっそりと忍び込み、彼女はやって来たのである。
 その動機は東の果てにあると云う未知の国への、ほんの少しの興味。長い長い時間を生きつつも未だかつて目にしたことの無い、かの『黄金の国』を一目見んとて船に乗り込んだのだった。
 そんな些細な動機から遥か大海を超えて来たエルゼは、横須賀の地で火遠と出逢う。
 片や薄紫のドレスに青い薔薇の意匠を散りばめた銀髪の貴婦人、片や漆黒マントと学帽に紅髪の少年。互いに異国の、そして一目してただの人間とは違った風貌の存在の遭遇。興味を持った彼らは、市街を巡って互いの事、それぞれの国の人でない者たちの事情を語り合う内に意気投合し、折に触れては顔を合わせ、話をする仲となった。
 エルゼは以来数十年日本に滞在し、元号が大正へと差し掛かった頃に西欧へと帰国する。火遠とエルゼはその別れ際に再会を約束し、互いに遠くなっていく姿を見送ったのだった。

 そしてそれから三十年余りの時が過ぎた1947年、初夏。じめじめとした梅雨の時期を迎えた頃、魔女エルゼは再びこの国の地を踏んだ。そう、三十年前に交わした再会の約束を果たすべく。
 バラック街の片隅で不貞ふて腐れている火遠を見つけ出したエルゼは、旧友の無事に喜び涙した。ここ三十年ばかりあまり芳しくない欧州事情を小耳にはさんでいた火遠もまた、エルゼが健在であり、そして以前の別れ際の約束を覚えていた事に喜んだ。
 エルゼと初対面の嘉乃とも一応の自己紹介を済ませ、長い事二人きりで続けてきた世を憂う集いにも、久方ぶりに新風が吹いたかに思われた。
 ……しかし、その時火遠はまだ知らなかったのだ。
 その晩火遠とエルゼが旧交を温めるように互いの今日までを語り合っていた話が、火遠と嘉乃の関係に決定的な亀裂を作ってしまうことを――。

 その日は、恐ろしく月の綺麗な晩だった。
 梅雨の時期にも関わらず雲一つない彼らの上空には、新円を描く満月が煌々こうこうと輝いていた。
 積もる話を二人きりでしたいと嘉乃に断り、人気のない丘へとやって来た火遠とエルゼは、銀色の月明りの照らすそこから空を見上げていた。
 まだ街明かりの殆どない時代、ましてや未だ復興しきらずバラック立ち並ぶ東京である。強い月光及ばぬ夜空の端には強く瞬く一等星が、そして現代の都会では観測し難い小さな星々が、まるで宝石を散りばめたように煌めいていた。
 そんな星々を見上げ、魔女エルゼはぽつりと言った。
「……【運命の星】、と云うものを聞いた事はなくて?」と。
 運命の? と復唱し、火遠は怪訝な表情を浮かべた。エルゼはそんな火遠をちらと目を遣って、それから再び夜空に視線を戻し、話を続けた。
「昔々、遠い昔。わたくしがまだ人間ヒトの小娘だった頃。私の師匠せんせいに当たる魔女が言っていたの。古の魔女だった彼女は星を視て呪詛を捏ねる人だったから、星の動きから吉凶やある程度の未来を予測することが出来たのだけれど……。これは不死の魔法に至れなかった彼女が、その生涯の最期まで言っていた事……云わば遺言のようなものね」
 エルゼは遠い目をしながら空に輝く星々に指を向け、憂うような声で言葉を紡いだ。
「いずれ遥か空の彼方から【運命の星】が来たる。【星】は人を選び、選ばれし者にはしゅにも近い力を与えるだろう。……そう繰り返し言っていたわ。今も覚えてる」
 言って、彼女はふっと目を瞑った。星を撫ぜるように動かしていた手を下し、青々とした草の上へと乗せる。
 火遠は未だ狐につままれたような顔のままでぱちくりとまばたきすると、「どうしてそんな話をする気になったんだい」と問う。
「千年を超えて生きる君の言うところの昔々だ、俺が知るわけないじゃあないか」
 まるで話の意図が分からず、少し拗ねたように火遠は言う。エルゼはゆっくりと目を開いてそんな彼を見ると、「覚えている?」と、逆にそう問い返した。
「覚えている? 昔逢った時に貴方が話してくれた『子供の頃の話』を」と。
 懐かしむような視線と共に言ったエルゼに、火遠は一瞬呆気にとられて硬直し、しかし数秒の後ぎこちなく肯定を返すのだった。「覚えているさ」と。

 火遠が嘗てエルゼに話した『子供の頃の話』……それは火遠かのんがまだ「カエン」と呼ばれており、妖怪としても未熟な十歳の時分の話である。
 生まれ育った同族の"群れ"の長の意向か、忌避される男に生まれながらも他の姉妹と同じように育てられた火遠は、双子の姉である嶽木と森に遊んでいた最中、不思議な光に遭遇したのだ。
 それは片手に収まるほどの大きさでありながら灯火ともしびよりも遥かに鮮烈で、しかし目を焼くような暴力的な眩さではなく。どこか優しく暖かい輝きを宿した光であった。
 姉との遊びの途中で転んでしまった幼き日の火遠は、転んだ先の木の根元に偶々その光を見つけ、興味本位に手を延ばし、そして。――天女てんにょに出逢った。
 天女。それが果たして本物の天女であったのか、火遠には既に分からない。しかし既に朧げな記憶の中で光の中に見た、この世の者とは思えない女の姿を、当時の火遠は天女であると認識した。
 不思議な光より出でた天女は火遠に暖かな微笑みを投げかけ、そして空を見せた・・・・・のだ。果たしてそれは夢か幻か、鬱蒼とした森の中に居ながら、遮るもののない青空を――。
 果てしなく広がる空の幻を見せた後、天女の光は火遠の目に飛び込んだ。以来、多くの同族と同じく青緑色であった火遠の瞳は炎色へと変わり。瞳と同じく新緑の色であった髪も、後追うように鮮やかなくれないに転じたのである。

 その顛末を、火遠は幼少期の奇妙な記憶としてエルゼに話したことがあったのだ。
 そう、奇妙な記憶。そしてかの青空に魅せられた自分が生まれ育った山を下り、人の世界へ降り立つきっかけの記憶として。

「……あ、ああ。覚えているさ、山の中で光を見た話だろう?」
 火遠は肯定に頷きながらも、未だ何が何やらと言った顔を浮かべていた。そんな火遠に苦笑しつつ、けれどもエルゼは真剣な面持ちで言った。

「貴方の見たその光が、もしかしたら【運命の星】かもしれない」

 惑わせ茶化す様子もなく、大魔女エルゼはそう言ったのだ。
 刹那、二人の間に生暖かい夜風が吹き抜ける。風は草木の枝葉を揺らし、二人の髪を撫でる。そんな風に撫でられた火遠の髪の一房が、炎の如き光を放ち、ボウと燃え上がる。
 燃え盛り始めた紅毛の持ち主は、しかし依然として魔女の吐いた言葉を前に目を極限まで見開いたままで、己の髪が炎と化したことに未だ気付いていない。
 魔女はそんな彼の見開かれた瞳を静かに覗き返すと、風に乱れた蒼銀の髪を手で軽く直し。ゆっくりと、言い聞かせるように言葉を続けた。
「この国で悍ましい炎が炸裂したあの日、遥か西欧の地に居た私はこの国の方角に尋常でない存在の力を感じた。それは人間ヒトの造りし炎を遥かに上回る破壊の力。深い怒りの込められた紅蓮の焔の気配だった。……よわい千を超えれども、更に古へと遡る聖書の時代を知らない私は、初めそれが主であると思った。けれども、遠く世界の裏側より届く力の波に触れるにつれ、それは違うと思い至ったの」
 エルゼはそこでふっと言葉を区切り、一呼吸の後に遥か天上の月を見た。変わらず夜を照らし続ける丸い月は、その光の中に微かな虹を纏って静かに地上を見下ろしていた。
 そんな月の光に目を細めながら、エルゼは言った。――あれは貴方だったわ、と。
「……そう。を伝う激情を読み取ろうとするにつれ、私が感じ取ったのは貴方の心だった。世界を壊しかねない怒りの中に潜んだ、やるせない悲しみと絶望。……貴方の叫び。その時貴方の昔話を思い出して、それから【運命の星】の事を思い出した。……すぐに会いに行こうと思ったわ。けれど出来なかった。人間ヒトが魔の者に怯えなくなるにつれ、魔女たちも次第に群れるようになっていって。ただ永らえているだけの私は、いつの間にか勢力のあるコミュニティの長に祀り上げられていて……それでね。ごめんなさい。貴方も辛かったでしょうに」
 赦してくれるかしら、と小首をかしげて問うエルゼに、火遠はただ頷いた。……頷きながら、火遠は思う。主――即ち西洋で信仰される唯一絶対の創造主にも匹敵する力とは、と。

 今は遠い幼き日、彼があの不思議な光を手にしたのはほんの偶然だ。どこにでもある山中に落ち葉のように無造作に落ちていたそれが、よもやそんな力を秘めていようだなんて思う筈もない。
 だが、しかし。あの日から自分が他の同族とは違う何かを手に入れてしまったという自覚だけは、確かにあった。焔の瞳、少し力を籠めると発火する紅い髪、その名の如く火難を遠ざけ炎を御する力。仲間の中でも異端であったその容姿と力。それもまた山を下ろうと考えた原因の一旦であったことは否めない。
 ――そして、あの時。
 エルゼが遥か遠国に居ながら強大な力を感じ取ったあの日、破壊し尽くされた街の残骸の中で叫んだ火遠は、己の身体全てが炎と化し、あの無慈悲な兵器以上の力をもって世界を焼き尽くさんとしたのを確かに感じていた。
 瞬間的な怒り任せに全てを壊しかけた火遠を止めたのは、全身を焼き尽くされながらも僅かに生きていたの少女――富岡沙夜子の最期の言葉だった。
 虫の息に残された最後の気力を振り絞り、焼けただれた肺から絞り出す蚊の鳴くような声で、しかし火遠には届いたその声で。沙夜子は言った。

「駄目……だよ。全部壊して、全部、無かったことにしちゃあ、駄目だよ。……死ぬのは、怖い事だけど、苦しい事だけど、悲しい……事だけど。今、確かに生きてた人たちの、事を、そして今、生き残る事が出来た人たちの事、を……なかったことに、しないで」

 その苦しい言葉で、悲しい言葉で、沙夜子という少女の遺言で。火遠の中の怒りの炎は、ふっと消えた。
 燃え盛るようだった身体が急速に冷めていくのを感じながら、瞳の奥から何かが込み上げてくるのを感じながら。火遠が遣った視線の先で少女はにこりと笑い、こう言い残して息絶えた。

「……ありがとう。火遠は、生きてね」


 エルゼの言う通りの力が本当に自分にあったとして、あの日あの時沙夜子の言葉が無かったら。それを想像し、火遠は人知れず背筋を震わせた。
 それを知ってか知らずか、青薔薇の魔女は真剣な表情で火遠に告げる。宣告する。

「火遠。貴方には、世界の全てを塗り替えられるだけの力がある。それを自覚し、これからの立ち振る舞いを考えないといけない。全ての景色が、無自覚に塗り替えられる前に。私は、それを伝えるために来た……」
 それは途方もない宣告。六十年前の満月の下、火遠は静かに震える事しか出来なかった。
 ――【運命の星】。正しく神に匹敵するその力を、一介の妖怪が所持している。
 ともすれば、妖怪狩りをしていたこれまで以上に他の人外に狙われかねないその事実は、沈黙の月光の下、火遠とエルゼ、二人だけの秘密となる筈だった。

 そう。月明り照らす丘の影に潜み、二人の話を盗み聞いている者さえ居なければ。

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