怪事捜話
第十三談・月喰の影②

 ――かつて。
 東日本で妖怪を狩る妖怪と云われ、人の世に厄災を運ぶ妖怪どもの間で恐れ嫌われた妖怪が居た。
 燃えるように鮮烈な赤髪のの存在は噂となり、妖怪たちの間を駆け巡った。

『江戸の町には妖怪を狩る妖怪が居る。人の味方をして護符を操り刀を振るう、酔狂すいきょうな妖怪が』

 妖怪から妖怪伝いに広まったこの噂はやがて野を超え山を越え、北の果てから西の端まで伝わる過程に、彼の同族の耳にも届いた。
 は元々山野の竹林に棲んで人を惑わし生気を吸い、それを大地へと還元して土地を潤す種族であった。地神・山神の守護の下、生涯を生まれた土地で終えることの多いその種族の殆どの者は、山を下って妖怪狩りをする異端の同族の噂に眉をひそめた。
 みっともない。恥ずかしい。の話題が出る度、各地の同族たちは陰口を言い合った。そして最後には、皆決まってこう締め括るのだ。

 おのこなどを外へ出したのはどこの山なのか、と。

 その種族は人を惑わす特性上、皆人間と同じ――そして美しい娘の姿をしていた。
 性別も外見に背くことなく女ばかりであったが、寿命を超えて生きる化け物竹の妖力より生まれ出でるそれらにとっては何ら問題ない事だった。
 だが、そんな種族の中にも時折男が生まれ出でる事があった。見かけこそ他の同族と同じ人間の娘の姿だが、他の同族とは決定的に異なる性質を持つ者が生まれる事が。
 そういう者は同じ土地に棲む"群れ"の中でも忌避され疎まれ、"群れ"の恥であるとして隠されてきた。大抵の"群れ"で、それは当たり前のように行われていた。
 故にその種族の多くは、同族の男として外界に噂を轟かせるを嫌悪した。みっともないと。恥ずかしいと。

 ……しかしそんな同族の中にも、の噂に救われる者が居たのである。

 その少年もと同じ種族に男として生まれ、同じ"群れ"の一族に虐げられて生きてきた。
 幽閉隔離され、時折一族の誰もやりたがらないような事を押し付けられ。ただ無為に過ぎていく時間に絶望していた頃、ろくに顔も知らない姉や妹の話すの噂を耳にした。生まれ育った山を下り、同族にも人間にもはばかることなく奔放に生きる者の噂を。
 羨ましいと、少年は思った。自分ものようになりたいと願った。否、のようにまではなれなくとも、せめて時々この山へ迷い込む人間のようになれたら。この狭い場所を出て、聞くばかりで一度もまともに見たことの無い空を、川を、森を、田畑を、人里を拝むことが出来たら。……どれほど幸せだろうか、と。
 夢想はやがて具体的な計画となり、少年は群れを脱走する。幽閉されていた狭い場所を抜け、初めて自分が走れるという事を知る。
 走って、走って、何度も転んで、泥にまみれて。竹林を抜けて、森を抜けて、やがて辿り着いた山の麓で、彼は初めてまともに空を見た。
 欠け曲がりの月が浮かぶ、赤い残滓を残した西空を――。

「――僕たちの因縁は、もしかしたらその時既に始まっていたのかもしれない」
 現代の雨の屋上で、嘗ての少年――曲月嘉乃はそう言った。しかし直後「いや」と呟くと、何かを否定するようにゆっくりと頭を左右に振り、言葉を続けた。
「あの当時のが、秘匿されていただけでそこそこの数が居たであろう同族の忌子いみごたちに与えた影響から考えれば、こんなものはまだ因縁の内にも入らないか。それほどだったんだよ、火遠カエンって奴の影響は」
「カエン……灯火・・ふるい名前……」
「いいや旧い名前なんてもんじゃない、それが奴の真名しんめいさ」
 傍らの女・琴月亜璃紗の言葉を訂正し、嘉乃は雨に濡れた前髪を掻き上げた。
「……『ソウガクカエン』。奴が契約に使った名は、依然あの頃の名のままだった。『カノン』はあくまで奴の自称だよ。……気まぐれか、それとも意図あっての事か。どの道僕の知ったことじゃないけど。奴は多くの同族・同胞・同輩に希望と絶望を等しく与えたその名を、今でも持ち続けているんだよ――」
 彼はそこまで言って目を瞑り、溜息のように息を吐いた。吐息は生温い雨に絡め取られ、コンクリートの地面目がけて心中する。
 そうして幾つもの吐息が死んで行った後、嘉乃はゆっくりと目を開き、思い出したように話を再開した。

「それじゃあ、話を続けようか。奴と僕がその存在を相互に認識するようになったのは、今から六十年以上前の事だった――」



 人類史の中に二度目の世界大戦として記録されるその戦争に終止符を打ったのは、無慈悲で圧倒的な新型兵器の爆発であった。
 世界常識を覆すこととなるその光は、炸裂の根元に暮らしていた人々とその生活の場を一瞬にしてき尽くし、数多の命が失われた。その壊滅的な被害は人間のみ留まることなく、その地に古くから住まう妖怪たちも同じように苦しみ、傷を負い、そして消えていった。
 その破壊の渦中に、草萼火遠は居た。
 運命の時間、生きる為に世の中の流れから逃げ出した少女と共に爆発の根元に立っていた。……少女は死に、火遠だけが生き残った。
 そしてそこより僅かに離れた山中に、曲月嘉乃は居た。
 もはや今までの全ての人界の争いが過去のものになってしまったと感じながら、灼かれていく同胞たちの断末魔を呆然と聞き届けるしかなかった。

 うずたかく積み重なった人間だったものの山の中で、火遠は叫んだ。……否、それは最早意味のある言葉ではなく、堪え切れない悲しみと怒りが喉を裂いて溢れ出すような咆哮であった。
 人知れず何も残さず、しかし何かが居たという気配だけ残して消えてしまった人でない者たちの残滓の中で、嘉乃は泣いた。さめざめと泣いた。地に膝ついて只々涙を零し続けた。

 ――嗚呼ああ美しくも醜い現世よ、なんと危うく儚いものか!

 嘆き、絶望。彼らがこのときが胸に抱いたのは同一の感情であった。しかし彼らの運命はこの地では絡み合うことなく、半年の時間が経過する。
 そして1946年、東京。前年に受けた破壊の痕跡残るその場所で、彼らは出逢った。
 半年の間に立ち寄った場所で、多くの傷ついた妖怪や壊滅した同族の"群れ"の痕跡を見てきた彼らは、その姿を互いに認めた時、どちらともなく安堵したのだ。
 それがそもそもの始まりで、そしてそもそもの過ちであったと気づかぬままに。心に寂しい傷を負って出逢った彼らが友人となるのには、大して時間は掛からなかった――。

「――そう、友人だったんだよ。俺とあいつは」
 火遠は寂しそうに言って、火遠は美術部の天井に目を向けた。まるでそこに過ぎ去った昔日の光景があるような視線を向けながら、彼は昔語りを再開する。

 友人となった草萼火遠と曲月嘉乃は、少しずつ立ち直ろうとする街の片隅で互いの今までを分かち合い、それぞれの悲しみを慰め合いながら、次第に自分たちの今後について語り合うようになった。語り合う、と言えども、己の意見を言うのは殆ど火遠の方だ。
「多くの妖怪どうほうが人間を恐れて山奥へ逃げた。けれど逃げるばかりでは生きていけないだろうね。……この有様をごらんよ、結構な数の家屋がやられたまんまだ。ここにもう一度以前のような家を建て直すとして、幾つかの森は確実に無くなるだろうね」
 無事だった桜がその蕾を膨らませ始めた頃、うんざりしたように火遠は言った。
「材木を求めて森へ行く。燃料を求めて山を掘る。モノを作るため工場を作る。今まで神や妖怪アヤカシのモノだった森や山はどんどん人間のモノに変わっていくだろうよ。……それに、今や人間は自在に空を飛び、遥か海の底にまで潜っていける術を身に着けているんだぜ、一体どこに逃げ場があるっていうのさ。国を捨てて海の向こうに新天地を捜すかい? ……そんなところがあったとして、とっくに現地の人外ヒトデナシどもの楽園になってるだろうけど」
 溜息交じりにそんな風に言う友人を見て、嘉乃は同意の言葉を一言二言吐いて頷く。そんなやり取りが、二人の間に幾度となく繰り返された。
 そんな表面的な遣り取りの裏で、火遠はとあることを考えていた。そして嘉乃もまた、火遠の愚痴に相槌を返しながらも考えていたのだ。

 同じ世界に在る以上、人間から逃げて生きる事は出来ない。ならば――と。

 その時、彼らの中には既にそれぞれの結論が存在していたが、互いにそれを確定的な言葉にする事はなかった。世の行く末を憂う彼らはしかし、その妄想のような理想が自分たちに実現可能なものであるとは、露程も思っていなかったのである。
 高い理想を掲げ叫ぶだけなら誰にだって出来るのだ。それを理解しているからこそ、彼らは互いに互いの結論こたえを秘匿した。

 ……そう。互いに出来るわけがないと信じていた。
 少なくとも、彼らが出逢ってから一年の月日が過ぎ去り。青い薔薇の魔女が再び・・この国を訪れるまでは。

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