怪事捜話
第十三談・月喰の影①

 はじまりの日。
 彼らは同じ場所から世界を見ることを止め、互いに失望と不信を抱いたままに決別した。
 天に黒雲こくうん立ち込め雷鳴とどろき、桶を返したような雨が降る。

 互いに背を向け正反対の道に一歩踏み出しながら、もう顔を見ることもないだろうと二人は思った。
 しかし運命の悪戯いたずらかな、彼らが歩みだした道は遥か彼方で再び交差する。

 意図せずとも、望まずとも。
 例え、過日の怒りと恨みが、絶望と悲しみが。決して癒えることない亀裂であったとしても――。



「――酷い天気、ですわね」
 早朝の街に暗くよどんだ影を落とす雲を見上げ、和装の女は言った。
 彼女が立つのはビルの屋上。足元のコンクリートは雨水に染まってすっかり色を変え、しずくの王冠を無差別に生み出しては壊し続けている。飴玉大の泡が幾つも生まれ、潤いきった地面の上をつうと滑っては消えていく。
 ひどい土砂降りだった。女はそんな雨の中で白い傘を広げ、目の前の男にそっと差し出す。
 男――と一言で表すには大分幼い容姿の彼は、そんな女の手をやんわりと拒み、頭をゆっくりと左右に振った。
「ありがとう。でもいいんだ」
 彼はそう言うと、叩きつけるような雨に向けて、左の利き腕をすっと伸ばした。
 忽ち、機関銃のようなしずくが彼のてのひらを容赦なく打ち抜く。夏の名残のような生暖かい雨が袖をぐっしょりと濡らし、縋るように肌に張り付く。雨はそれだけで満足せず、やがて遮るもののない彼の体全体を同じように湿らせていった。
「……お風邪を召しますわ」
 傍らの女が心配の目を向ける。だが彼は彼女の傘に収まることを良しとせず、雨に打たれ続けることを選んだ。
「暫くだけ、あと暫くだけ」
 そう答え、彼はふっと空を仰いだ。
 どこまでも広がる鉛色の雲はひたすらに厚く、天高く照らす太陽の姿はどこにもない。視界の彼方で閃光が弾け、忘れた頃に遠く爆音が鳴り響く。
 台風は遥か南、なれば一過性の嵐だろう。彼は一つ息を吐くと、そっと女に振り返る。自らを見守る不安な表情に笑みを投げかけ、彼は静かに口を開く。

「――教えてやろうか、亜璃紗。はじまりの日のことを。この【月】が生まれるに至ったきっかけの日のことを。……僕が何故、草萼火遠に固執するのかを」

 君はまだ知らないだろう? と。彼は――曲月嘉乃は妖しく顔を歪めた。



 同じ頃。先の事件を受けての臨時休校が解かれたばかりの北中美術室に立つのは、美術部二年のいつもの六人と火遠で七人。
 時刻はまだ朝の8時前。運動部や大会目前の吹奏楽部と違って特に朝練もない筈の彼女らがこうして集結しているのは、昨日の内に火遠に呼び出されたからに他ならない。
 言い渡された日数から特に増減もなく迎えた臨時休校最終日の夜、美術部二年それぞれのケータイに見知らぬアドレスからメールが届く。

『大事なことを話したい。明日の7時半に美術室に来てほしい 火遠』

 見知らぬアドレス、しかし見知った名前。誰一人として火遠にメールアドレスを教えた覚えはなくとも、相手は何もないところから現れたりできる妖怪、もはや何ができても不思議ではない。深世だけは「呪いのメールが来た!」とテンパっていたが、彼女が発狂したように「どうしよう」メールを美術部一同に送って来たお陰で却って皆に同じメールが来ていた事が判明し、最終的に「本物かどうかわからないけれど行ってみよう」ということで意見が合致したのだった。
 ――そして至る現在。
 屋外の悪天候も相俟あいまってか、いつも以上に静まり返った美術室内には、欠伸を噛み殺す乙瓜と魔鬼、不機嫌だが背筋は伸びている深世、頭に寝癖を残しながら気にした様子もなく机の上に尻を置く遊嬉と、平然と立つ杏虎、そして休校中に入院から復帰した眞虚の姿があった。
 事件に伴う騒動のせいでまともに見舞いにも行けなかった五人は大層心配したものの、眞虚本人が入院前と特に変わりない様子なのを見てほっと胸を撫で下ろしたばかりである。
 そんな風にして暫くぶりに全員揃った美術部二年たちの前に立ち、火遠は大きく息を吐いた。
 眉間に皺を寄せ目を瞑るその表情は、果たして怒っているのか困っているのか悩んでいるのか……それとも嘆いているのか。
 一息の後に瞼を開いた火遠は、一つしか見えない目で六人の顔をゆっくりと一つ一つ確認した後、意を決したように口を開いた。
「……昨日君たちに話したいと伝えた大事なことなんだけどね。なんとなく察しはついてると思うけど……それは他でもない、【月】の連中についてだよ」
 火遠はそこで一旦言葉を区切り、乙瓜と魔鬼に視線を向け、君たちには去年話したことだけど、と前置きしてから言葉を続けた。
「【月】とか【三日月】とか名乗る連中、世界を平和にするとかいう目的のために大霊道の封印を完全に解き放ち、人類を滅ぼして人外だけの理想郷を本気で創ろうとしている。その理想に異を唱える者は同朋である筈の人外にすら容赦しない。……それ故に、多くの人間や俺みたいな妖怪アヤカシとは相容れない敵」
「敵」
 眉唾とばかりに復唱したのは深世だった。美術部の中で最も一般人に近い彼女からすれば、幽霊妖怪からいきなり世界やら人類の興亡やらに話が行くのは流石に飛躍が過ぎたようだった。とはいえ、何もそれは深世に限ったことではなく、友人伝いにその存在は聞いてはいたものの、恐らく初めてその野望を知ったであろう眞虚や杏虎らも目を白黒させている。
 世界も何も、こちらは日本の田舎の片田舎の小さな町で起こる怪事を気まぐれにちみちみと解決しているだけで精一杯なのに、まるでスケールが違いすぎる。"敵"がそれを本気で主張しているのであれば、よっぽど世間知らずの阿呆か、或いは本当にヤバい奴のどちらかだ――と。
 突飛な話を前にどうしていいのかわからなくなった三人が居る一方、去年のうちにその話を知っていた乙瓜や魔鬼は比較的冷静だった。遊嬉も嶽木に予め何か聞かされていたのだろう、行儀悪くも机上で胡坐あぐらをかき「でも、ここはまだ大事な話の大事な部分じゃないよね?」と言わんばかりの視線を火遠に向ける。
 その視線を拾ってかどうかは定かではないが、火遠は少しの間を置いてから話を再開した。
「奴らの目的が君たちにとって突拍子もない馬鹿げた話なのは重々承知してる。そして俺たちも、最初は本当に出来るだなんて思っていなかった。……けれど奴らはそれを成しうる力を手に入れてしまった。人知れず、世に知れず。現実的な脅威となってしまったんだよ。この間の、妖怪の心を壊すダーツ然りね……。だけど、あんなものはまだ奴らにとって余興程度のものだ。やろうと思えば今にだって世界の人間と妖怪の勢力図をひっくり返せる。けれどそれを敢えてしない。ちまちまと呪詛をばら撒き、じわじわと人の世を蝕みながら。……只々時を待っている」
 火遠はふっと息を吐き、閉ざされた窓の外に目を遣った。
 グラウンドには掛け声高くトラックを走る運動部の姿。野球部顧問の野太い声援。彼らの上空を覆う厚雲は気流に乗って不穏に渦巻き、そのうち不安な一雫を大地へと落とすだろう。
 そんな野外の様子を一瞥し、再び美術部に向き直った火遠に眞虚が問う。「何の時を?」と。
 恐る恐るなその問いを受けて、火遠は改めて言葉を紡いだ。悟ったような瞳で、紡いだ。

「俺を確実に潰せる時を」

 言って、火遠は教壇の上にタンと右手を付いた。体重を預けるように体を傾ける彼には、当然の如く疑問の声が降りかかる。
「そこで何でお前が出てくるんだよ?」
 眉根を寄せて前のめりで問う乙瓜に視線を送り、火遠は「あいつが俺を恨んでるからさ」と、さも当然のように言った。
「あいつって誰だよ」
「奴らの大ボスだよ。前に魅玄に聞かされなかったかい。連中の云うところのマガツキ様・・・・・だ。本来の名前は、曲月まがつき嘉乃よみの

 ――成程、確かに君は 素敵な女の子だね。マガツキ様が目を付けるのもわかる気がする。
 ――僕はあの日、マガツキ様の勅命で、理の調停者代理たる 乙瓜きみ火遠この人の契約を解除させるために来た。

「あ……!」
 脳裏に蘇った過去の声たちに、乙瓜は目を見開いた。彼女は思い出したのだ。過去に対峙した鏡の怪も、人形師も。【月】からの使者は皆同じ人物について言及していたではないか、と。

 マガツキ様。

 ――ひょとすると君の****にあたるかもしれない人。

 あの日あの時、階段を駆け下りる最中。魅玄は自分に何を告げたのか。聞き取れなかった言葉が今更になって引っかかる。とっくの昔に蒔かれた種が忘れた頃に芽を出すように。乙瓜は今更になって不安に駆られた。
(なんて言ったんだ……? あの時、あいつは。"マガツキ様"が俺の何だって言った?)
 急激に湧き上がる嫌な予感を前に、乙瓜は火遠にぶつける疑問の言葉の続きを無くしてしまった。途切れた言葉は空を揺らさず地に落ちる。そんな彼女の変化に気付いているのかいないのか、火遠は淡々と話を続ける。
「嘉乃は人間以上に俺のことを恨んでいる。奴らの最終目標は人間を淘汰する事だけれど、その先の世界に俺が俺のまま存在しちゃあ意味がない。だから傍から見れば間怠まだるっこしくて無駄しかない工程プロセスに見えても、あいつにとっては大いに意味がある。……実に陰湿且つ悪趣味ではあるけどね」
 やれやれ、と。火遠は呆れたように、しかしどこか寂しそうに首を振った。
「俺は人間ヒト妖怪アヤカシを守るために【灯火】を創り、嘉乃あいつは俺と人間ヒトを排する為に【月】を創った。そもそもが繋がっているんだよ。はじまりから、今まで。……だから、美術部君たちにはこれから全てを話そうと思う。長いようで短い話を。……聞いた上で、【月】の連中あいつらと戦うか否かを決めてほしい」
 そうして火遠は、再びこの場に立つ少女たち一人一人の顔に目を向けた。まるで覚悟を問うように。
「えっ、ちょ、私別に戦うとか戦わないとかそういうのは――」
 いつになく真面目な視線を向けられて、深世は途端にあたふたしはじめる。そんな彼女の肩にポンと手を置き、杏虎は「折角だから聞いてけば」と無責任に囁く。
「別に話聞いたからってどうなるってわけでもないし。深世さんが戦力になるとはあたしら誰も思ってないから。安心しなよ。安心」
「じゃあ何で呼ばれたし!?」
「じゃあ深世さん何で来たし?」
 メールを無視せずノコノコやって来ておいて挙動不審になる深世を見て首を傾げつつ、杏虎は思った。この人なんだかんだけ者にはされたくないんだなぁ、と。
 文句を言いつつ美術部宛ての手紙を確認するのも、恐らくは心のどこかに取り残されたくない気持ちがあるからだろう。火遠はそれを分っていて、敢えて深世にもメールを出したのだろう、と。
 そんな具合につい和んでしまった杏虎とは反対に、依然として不平を喚き続ける深世には、遊嬉の不機嫌な咳払いが飛んだ。
「はいはい。ちょっと静かにしとこっか」
 遊嬉は普段のおちゃらけた様子の欠片も見せず、机上から降りて深世の背中をトントンと叩いた。深世はそんな遊嬉の顔を見上げ、目を見開いて息を飲んだ後、そのまま電池が切れたように大人しくなった。

 静寂が再び場を支配する。一瞬ゾッとするほどの無音が通り抜け、後にボタボタと激しい雨音が耳を打つ。屋外に渦巻く不穏な雲が、遂に決壊したようだった。
 そんな雨音を合図にしたように、火遠はゆっくりと口を開いた。音もなく突き刺さる期待と不安の視線を一身に受けて。彼は語った。語りだした。静かに、しかし淀みない言葉で、透き通る声で。火遠は語りだしたのだ。

「これは六十年続く、俺とあいつの因縁のはじまりの話だ――」

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