怪事捜話
第十二談・トロイメライデストロイ①

 非常と日常の戯れは、夢見るように過ぎ去って。
 夢想と現実、混ざり合いながらもどちらつかずのひずみはやがて、大きくひび割れ崩れ出す。
 夢は終わり、夢は崩れる。
 ――それはまるで、壊れるように。



 振替休日を経て週明けの九日火曜日。先週までのイベントムードはどこへやら、生徒たちすっかりは泡の抜けた炭酸のように成り果てていた。
 窓外から照り付ける眩しく強い日差しが、生徒たちに過ぎ去った時間を想起させては憂鬱とさせる。気温はまだ夏並だったが、勢いを落とした蝉の合唱が秋の到来を感じさせ、それがまた哀愁を感じさせる。要するに、体育祭というビッグイベントを経て。生徒たちはちょっぴり遅めの九月病に見舞われていたのである。
 一方では、授業の時間には碌に話も聞かずに内職・・に勤しむ生徒の姿があるし、大胆に居眠りこいている生徒もちらほら。謝り通して夏季課題未提出への恩情・・を貰っていた生徒などはそろそろリミットだろうと察したのか、授業時間もおかまいなしに半分も進んでいないワークブックにペンを走らせている。
 日本全国大抵の学校で見られる学生風景。ほんの二ヶ月前までの北中で当たり前に見られていた光景が、そこにはあった。
 夏休みと体育祭、二つの非日常イベントを超えて。古霊北中にも漸く日常が戻って来たのである。

 そんな日常風景の中に、少しだけいつもと違っている事があった。
 小鳥眞虚が学校を休んだのである。

「眞虚ちゃん、少しの間だけ入院するみたい。盲腸だってさ」
 昼休みの二年一組教室。掃除の為に教室後部へと押し遣られた己の机上に腰を下ろした遊嬉は、この教室で今朝から幾度となく囁かれた話題を口にし、不機嫌な様子で口を噤んだ。
 彼女の周辺には、周囲の席を勝手に借りて座る乙瓜や杏虎の姿もある。隣のクラスから出向いてきた魔鬼は心配そうに眉を顰め、深世も黙って腕組みしている。
 あの後――眞虚の戻りが遅い事が気になった彼女らは、昇降口で倒れている眞虚の姿を発見する。眞虚本人は苦しそうに腹を押さえながらも「大丈夫」と繰り返すが、その顔色は蒼く、額には明らかに暑さとは違う由来の汗が滲んでいて、誰がどう見ても大丈夫な様子ではない。
 あれよあれよの内に救急車の騒動へと発展し、奇妙ながらも楽しかった体育祭の終わりに、どこか後味の悪い物が残る結果となってしまったのだった。
 そんな出来事があった為、今日の美術部員は皆どこか浮かない表情であった。
 盲腸――今となっては俗称であり、虫垂炎ちゅうすいえんと呼ぶのが正しい――は、盲腸から繋がる虫垂と呼ばれる器官が炎症を起こし、腹痛や食欲不振等を引き起こす病気である。さほど珍しい病気でもないので、中学生ともなれば一度くらいはその病名を聞いたことがあるのではないだろうか。
 その昔は診断の遅れから死に至る事も多々あった病気であるが、現代となっては余程の事が無い限りはこの病気で死ぬことは無い。手術はするが、それは医療ドラマやドキュメンタリーで目にする様な大掛かりなものではなく、入院期間もごく短い。長くて一週間もあれば、また以前のように元気になれるのだ。
 美術部の彼女らも、13、4歳ともなればそんな事など承知の上であったが……それでもやはり、心配なものは心配であるのだ。
 例えその理由が大したことない風邪であろうが、ちょっとした怪我であろうが。
 いつも当たり前のように居る友人が、今日は居ない。それだけで、十二分に心配に値するのだった。
 その心配がピークに達したのか、遊嬉は空気が抜けた風船みたいに机に突っ伏すと、唐突に足をジタバタと動かしだした。
「はぁーもぉー! 眞虚ちゃん早く元気にならないかなあ! 居ないとなんだかテンション下がるぅ!」
「はいはい、はいはい。眞虚ちゃんすぐに戻ってくるからねー。みっともない真似やめな、ほら」
 子供のように駄々をこね出した遊嬉を宥め、深世はやれやれと肩を竦める。杏虎も呆れ顔を浮かべ、しかしその表情にはほんのちょっぴり元気が戻っていたのであった。他の二人・乙瓜と魔鬼も同じく。
 その後はとりあえず部活の後にお見舞いにでも行こうか? という話に纏まった頃に昼休み終了のチャイムが鳴り、続く掃除の時間に向けて、彼女らは一旦解散となった。

 二年一組にのいちの教室を出て己の清掃場所(因みに保健室である)へ向かう途中、魔鬼はふと思い出す。
(……そう言えば、あの事皆に話しそびれちゃったな)
 あの事、とは他でもない。体育祭当日に七瓜から預けられた、あの予言めいた言葉の内容である。

 ――【月喰の影】がやってくる。明確な悪意と明確な敵意を持って、日常を脅かしにやってくる。それは【いつか】なんて不確定未来じゃなくて、目と鼻の先【間もなく】。その未来が現実となった時、ヘンゼリーゼは動き出す。

 それが穏やかならぬ未来の予告である事は、魔鬼にも何となくわかった。
【月喰の影】。それは恐らく、以前火遠が話していた【月】や【三日月】を名乗る連中の事であろう。運命のすれ違いか、火遠が明確に「敵」と称したそれらと魔鬼が対峙した事は、今のところない。
 被服室の人形が動き出す事件の黒幕がその一味であった事を考えれば、間接的には戦っているのだが、相手が姿を現すより前に気絶してしまい、直接顔を合わせるには至っていない。
 しかしその件を含めて二度【月】の一味からの接触を受けた乙瓜の話を聞く限り、奴らは敵であるという認識を改める必要はなさそうである。――と、魔鬼は今のところはそう判断している。
(……つまり、近々敵がやってくると。それが誰かから七瓜あいつに託された言伝メッセージの大まかな内容。それはちょっと考えればすぐにわかった。だけど……)
 魔鬼はそこまで考えて頭痛を覚え、軽く頭を押さえた。
(ヘンゼリーゼ。魔女の名前。きっと七瓜達あいつらの黒幕。……【月】の敵が現れた時に、そいつもまた動き出す。なんの捻りも無くそういうこと・・・・・・なんだと思う。それは判った、判ったけれど。その名前がこんなにも頭の中で引っかかるのはどうしてなんだ……?)
 ――貴女が何故魔法使いであるのか。七瓜の言葉が蘇り、魔鬼の脳裏でグルグルと回る。頭の芯がズキズキと痛み、視界が僅かにぐにゃりと曲がる。歪んだ世界認識の中で、七瓜の「何故」という声だけが何度となく反芻される。

 ねえ、何故。何故。何故なの?

 七瓜の幻が、声だけの幻が。魔鬼を囲って問いかける。
 魔鬼はそれを黙らせようとして、答えようとして、黙らせようとして。今まさに叫び出そうと開いた口を塞ぎ、声帯の一歩手前まで出た言葉をぐっと飲み込んで。何かを振り切るように、早足で階段を降りだした。
 彼女は気づいてしまったのだ。そして怖くなったのだ。

 答えようとした言葉の先を。知っているべき記憶の中身を。自分が全く持ち合わせていない事に。

 その事実を直視してしまわないように、魔鬼は必至で目を逸らし続けた。



 殆ど同時刻、北中屋上にて。
 平時あまり使われない教室にも人の手の入る清掃時間内ではあるものの、野晒し且つ通常立ち入り禁止である屋上まではその手は及ばず。屋外掃除の雑談の声が僅かに聞こえるばかりのその場所は、学校妖怪たちの恰好の集会スポットとなっていた。
「それにしても楽しかったわねえ、体育祭」
 屋上と虚空とを隔てる鉄柵上に腰を下ろし、花子さんは空に向かって思い切り両腕を伸ばした。一見して危険な光景ではあるが、お化けである彼女にはそんな事など関係ない。
 彼女の傍らには妹分とでも言うべき赤マントの妖怪・エリーザが控えており、花子さんの言葉に相槌を打ちつつ、眼下グラウンドにて先日のゴミの残りや早めの落ち葉を掃き集める生徒たちの姿をぼんやりと観察していた。
 花子さんはそんなエリーザの様子に気が付くと、同じように地上の生徒たちへと目を向け、その様子を少しの間窺ってから、成程と口を開いた。
「すっかり日常へ戻ってるわね。まるで体育祭このあいだの事なんて全部夢だったみたいに。……まあ、大多数は本当に夢見心地で居た事でしょうけどね~」
 だって、私がそうしたんですもの。花子さんはフフと笑った。
 エリーザはというと、そんな花子さんの言葉を聞きながら口をへの字に曲げて行った。表情はみるみる不機嫌のそれとなり、その通りの調子で彼女は言った。
「そうですけど花子お姉様、なんだかちょっぴり釈然としない気分です。……あの時はあんなに楽しくしてたのに、仲良くしてたのに、それは本当なのに。あの人間たちには夢としか残らないなんて、……そうしないと駄目だって分かってても、なんだかちょっぴり嫌です」
 ぷぅと頬を膨らませるエリーザに手を伸ばし、花子さんはそっと優しくその背を撫でた。
「例え私たちから認識と記憶に干渉しなくたって、大人になったら子供時代の出来事なんてみんなよ。いずれぼやけて曖昧になって、果たしてそれが現実だったのか夢だったのか、区別の敷居は忘却と消え、混ざって消え失せて分からなくなってしまう。よっぽど思い入れのあるもの以外はね。そういうものよ」
「わかってます、わかってますって……」
 未だ納得いかない調子で答え、エリーザは「だから人間は怖いです」と零した。
 その小さな呟きを拾い上げ、花子さんはちょっぴり困った顔になって。しかしすぐさま表情を微笑へと戻すと、エリーザの手を軽く引いて屋上入口の扉へと振り返った。
 陽気な洋楽を垂れ流していたスピーカーからは掃除終了5分前の放送が流れ、雑談混じりに前庭の掃き掃除をしていた生徒たちも、塵取りを持ち出して集めたゴミ類を処分しようとしていた。
 そんな様子をどこか名残惜しそうに見つめ、エリーザもまた振り返った。既に花子さんの背は遠く、開け放たれた開く筈のない扉・・・・・・・・・・・・・の向こうへと消えようとしている。
「待ってください花子お姉――」
 その背に呼びかけ手を伸ばし、エリーザが一歩踏み出そうとした――刹那。

「こんにちは、異国の人」

 彼女のすぐ背後で声がした。聞き覚えのない女の声が。誰も居る筈の無い屋上の鉄柵のすぐ向こうから。
 その相手が人間でない事くらい、エリーザにはすぐにわかった。そしてそれが北中に棲みつく学校妖怪ではないという事も。
 学校妖怪として長年古霊北中に棲みついているエリーザは、大半の学校妖怪とは顔見知りである。故にこんな声で喋るモノは居ないと知っているし、己の事を『異国の人』なんて呼ぶモノが居ない事も知っている。
 それでは、何者か――答えは簡単、外部のモノだ。
 こんな、既に幽霊妖怪が大量に居ついている北中に態々やってくるモノなんて、よっぽどの考え無しか、或いは明確な目的意識があるかのどちらかだ。そして目的があって来た場合、大抵それはこの地に存在する大霊道――妖怪や幽霊を活性化させる瘴気を垂れ流し人の世を害する、とんでもない代物が目当てである。
 エリーザは知っていた。今から十年も昔。生徒を操り、大霊道の封印を解き放ち。溢れる瘴気の毒で人々を滅ぼし、妖怪アヤカシを操って世界の全てを従えようとしていた、月の名を冠する者達が居たことを。
 事が起こり、妖怪を狩る妖怪・火遠が現れ。操られた二人の生徒との戦いの末、大霊道と共に火遠も封印された顛末を。エリーザはすぐ近くで見て知っていた。
 だから、一瞬遅れて彼女は気づいた。思い出したとでも言うべきか。背後の声が、その大元たる気配が。あの日見た【月】の使者に良く似ている事を。
 だから――しかし。その一瞬が手遅れだった。
「まさか、【三日月】の――」
 言いかけ、振り返りかけた所で。

「はぁい正解。そして残念」

 そんな、嘲笑うような声と共に。何かがエリーザの内側を貫き。そして――。

 その意識を、彼方闇の奥底へと沈めたのだった。

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