怪事捜話
第十二談・トロイメライデストロイ②

 世界は崩れ落ちる中で生まれ混沌の微睡まどろみで溶け落ちた理性の下で成長する。
 恐怖を生むのは知識。知識の根源は過去の記憶。
 知っているから恐ろしいのだ。知っているから躊躇ためらうのだ。知っているから悔やみ、知っているから悲しむのだ。
 だが忘れてしまえば怖いものなど無い、失うものも無い。後悔も無ければ悲しみも無い。

 無こそ真理、在るべき姿。

 壊せ、乞わせ、こわせ。

 全ての過去を破壊せよ。


「……エリーザ?」
 追いつく様子のない妹分を不思議に思い、花子さんは振り返った。
 彼女が立つのは三階と屋上の狭間の踊り場。見上げた扉は固く閉ざされ、エリーザの姿はどこにも見当たらない。
 おかしい。確かに自分を呼び止め追いかけようとする気配があったのにと、花子さんは首を傾げると同時、胸の内から言い知れぬ不安が込み上げてくるのを感じていた。
 ――自分を姉のように慕うあの娘が、何の断りもなく急遽姿を消すだなんて。そんな事が、未だかつてあっただろうか……と。
(何かあったのかしら。何か……嫌な予感がするわ……)
 思うと同時踵を返し、花子さんは屋上へと駆け昇った。
 怪談と言うを得て生きている人間と大差ない姿恰好をしているとはいえ、本来は死んでいる人間。馬鹿正直に一段一段昇って行く必要はない。文字通り階段を飛び上がり・・・・・、施錠を無視して扉を開け放つ。
 バンと勢いよく開かれた扉の向こうには、足元一面に広がるコンクリートの灰色と、空一面を覆い尽くす青色で埋め尽くされていた。
「エリーザ!」
 花子さんはその名を叫んで四方八方に視線を動かすが、エリーザの姿も、風に翻るあの鮮烈な赤色もどこにも見当たらず。ただ、その名残を残す小さな帽子だけが。まるで置き土産のように、日を照り返す灰色の海の中にポツリと浮かんでいるのだった。
 それを見つけ、花子さんはハッと息を飲んだ。
 彼女は知っていた。忘れ去られたその帽子を、エリーザがどれほど大切にしていたのかを。
 ずっと以前、彼女がエリーザと出会ったばかりの頃。エリーザはその帽子を「お師匠から貰った大事なもの」だと教えてくれた。異国の名を持つ彼女が、"怪人赤マント"となる切っ掛けを与えてくれた人物からプレゼントされたものなのだと。
 以来、その帽子はエリーザにとって掛け替えのない宝物なのだ。先の体育祭時等を除けば殆ど片時も離さず身に着けていたし、去年の人形騒動で帽子を奪われた時の落ち込み様といったら目も当てられない程だった。
 そんな大事な大事な帽子がエリーザの頭上という定位置を離れ、武骨なコンクリートの上に寂しく佇んでいる。
 その有様を一目見て、花子さんはエリーザの身に何かが起こったのだと察した。怪談に生きる妖怪のくせに、自分一人では臆病で人見知りで泣き虫な彼女である。そんな彼女が思い出の品にして心の拠り所たる帽子をそう簡単に手放したりするものか、と。
「……っ、一体何があったっていうの……」
 展開転回。帽子を拾い上げた花子さんの耳に、階下からの悲鳴が飛び込んできた。
 女の、男の、甲高い、野太い、緊迫した、逼迫ひっぱくした、絹を裂くような、耳をつんざくような、硝子を打ち壊すような。無数の悲鳴、悲鳴、悲鳴。
 丁度鳴り響き始めた始業のチャイムと織り交ざって非日常的不協和音を奏でる悲鳴を耳にし、花子さんの顔面からは見る間に血の気が引いていった。……血なんて、とうの昔に通って居なかった筈なのに。
 凍り付いた表情で立ち尽くす花子さんの背後で、クスクスと笑う声がした。
「こういうサプライズもなかなかいきだと思わない? みんなで楽しく・・・・・・・なんてより、こっちの方がよっぽどアタシたち化け物らしくて面白いよ?」
 声がケタケタと空気を揺らす中、花子さんは反射的にその場を飛び退いた。声の主から距離を置き、その姿と対峙する。
「貴女はッ……!」
 花子さんがキッと睨み付けた鉄柵上には、奇怪な姿の少女が居た。妙に布面積の小さい独創的な衣装に身を包み、縫い目だらけの身体と人造物の腕を見せびらかす眼帯の少女が。ヒールの高い靴で器用にバランスを保ち、鉄柵上に立っていた。
 その少女が何者であるか、花子さんにはすぐにわかった。
 右目を隠す眼帯に、作り物じみた左の瞳に。主張激しく刻まれた三日月型の紋章が、彼女の正体を教えてくれた――!
「――【三日月】の使い……人形遣いの神楽月ね!?」
 確かめるよう問いかける花子さんを見て、少女は――アンナはニヤリと口角を上げた。
「直接会うのは初めてだよね、北中の大ボスさん。お近づきのしるしに絶望はいかが?」



 時間は少し戻って、北中校舎内。掃除時刻が間もなく終わる旨を伝え、放送委員・その日の当番だった斉藤メイはうんと背伸びをした。マイクのスイッチが切れている事を確認し、放送用のCDを機材から取り出して電源を落とす。
 一階放送室横の廊下には、先の放送を聞いて掃き集めた塵の回収を始める女子の姿や、「やっと終わった」と言わんばかりに談笑しながら雑巾を片付け始める男子生徒の姿がある。その姿を窓から眺め、斉藤はフッと口許を緩めるのだった。
 それとほぼ同時か。斉藤は自身の視界の隅に、何か赤い物が翻るのを見た。
 何か赤い――布のような、旗のような、柔らかそうな物が。それが見えたのは窓から見える廊下ではなく、確かに今己の居る放送室の中であった。
 ……だが、そんな筈はない。そんな筈、あり得ない。
 狭い放送室の中には、今現在斉藤一人しかいない。室内には見間違えるような赤い布状のものは無く。一つしかないドアは放送中は閉め切りなので、誰かが入って来たとするならば大なり小なり開閉の気配がある筈であるが……そんなものは全く無かった。

 なら……なら。今己の背後で動いたものは何なのか。

 斉藤がその考えに至ると同時。彼女の耳元で声がした。

「――赤いマント、着せてあげる?」

 ほんの数秒の後、破壊音。それは硝子の割れる音。放送室の窓が内側から吹き飛ばされるように割れ、その鋭い音と飛び散る破片に付近の生徒は皆驚き、視線を向ける。
 放送室にほど近い保健室を掃除していた魔鬼もまた、道具を片付けてそろそろ教室へ戻ろうかというタイミングでその音を聞き、他のクラスメートに混じる形で保健室を出ると同時、誰かの甲高い悲鳴を聞いた。
 思うように身動きとれない混乱した場で、しかし魔鬼は断片的に聞こえてくる悲鳴や怒号で何が起こっているのかを知った。
 ――「メイちゃん」、「血が」、「救急車を呼べ」。幾人もの口から幾度となく繰り返されるその言葉だけで、ただならぬ事が起こったのは明白であったのだ。
(斉藤さん怪我したのか……!? それも救急車を呼ぶ程の……!?)
 さほど親しいわけではないとはいえ、一応はクラスメートの顔見知りである。魔鬼は胸中に不安と心配を渦巻かせながら、野次馬だらけでよく分からない状況をもっと知ろうと爪先を立て、人山の隙間から首を伸ばした。

 そして、見た。

 騒ぎを聞きつけて次々と集まってくる生徒の中に紛れ、鮮烈な赤を纏った銀髪の少女が立っているのを。
 エリーザ・シュトラム。魔鬼も知る、古霊北中の学校妖怪・怪人赤マント娘。人見知りで臆病で泣き虫で、花子さんたちと一緒でないと人前に立つのも怖いと言うおかしなお化け。
 そんな彼女が、大勢の人々の中に紛れて立ち。白い顔に赤い口を三日月のように広げ、ニタリと笑っていた。
 瞬間、魔鬼の背筋に悪寒が走った。身体は震え、手足の力が抜け欠ける。……それは紛れもなく「恐怖」であった。怖いものなど飽きる程見て来たというのに、その時その瞬間、魔鬼は言い知れぬ恐怖を感じていたのである。
(……なんだ、これ……!? なんで私、震えて……。あれは本当にエリーザか? 私の知ってるエリーザなのか……?)
 恐ろしさから視線を背け、何でもない床を見遣る。怯える己の身体を抱きしめて、魔鬼は悪寒が去るのを待った。
 ――「お化けが怖い」だなんて。オカルト好き・怖いもの好きの彼女にとって、いつ以来の感情であろうか。久方ぶりのそれを理性で鎮めようとする最中、魔鬼は、そして周囲に集った全ての生徒・教師は。その声を聞くこととなる。

「赤いマント、着せてあげる?」

 それは可憐で涼やかで、――とても冷たい声だった。
 例えるならば、時報の音声。感情の全てを払拭した、機械的なアナウンス。
 魔鬼ははじめそれが誰の声だかわからなかった。わからない、けれどわかっていた。現状からして記憶からして、この声はエリーザのものであると。
 平時のエリーザとはかけ離れた口調ではあるが、これは確かにエリーザの声であるとわかっていた。……わかっていたが、頭の何処かでそれを認めてしまうのを拒んでいた。
(違う……! これはエリーザだけど、エリーザじゃない……!)
 思考はなんとかして現実を否定しようとする。混乱。動けない。その一瞬の躊躇いを突いて、事態は急激に動き出す。

「きゃあああああああああああああああああああああッ!!」

 誰かが叫び、何かが吹き飛ぶ。魔鬼が顔を上げた次の瞬間には、また別の誰かが悲鳴をあげ、魔鬼の左頬を何か生暖かい物が掠った。
 その生暖かい物は頬をつうと撫で伝う。どうやら液体のようである。
 恐る恐る、魔鬼はそれに手を伸ばす。その間にも誰かが絶叫し、魔鬼の周囲の生徒たちも便乗するように悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように走り出した――否。それは世間一般の常識で言うならば、逃げ出したと呼ぶのが正しいだろう。
 しかし魔鬼は動き出せない。逃げる人々に押しのけられ、廊下の隅に追いやられながらも。呆然としたまま頬をぬぐって指先に付着した赤いものを見つめていた。
 美術部の扱うどんな絵の具の赤とも異なる、生暖かく鉄臭い赤。それは紛れもなく血液であった。それも誰かの体内から飛び散ったばかりの、新鮮な――。
「どういうことだよ、これ……!」
 魔鬼は弾かれたように顔を上げた。一時の恐怖から目を背けた眼前には、鮮血で赤く染まった廊下と、その血だまりの中で呻きながら倒れる何人かの姿があった。
 その中心にはエリーザの姿がある。地獄のような光景の真ん中で、赤マントの少女はあの恐ろしい・・・・笑みを浮かべて佇んでいる。その表情には平時の面影はなく、アイスブルーの瞳は鉛色に濁り、まるで何も見えていないかのようであった。
 そんな虚ろな目をしたまま、エリーザ・シュトラムはケタケタと奇怪に笑った。笑いながらその場に倒れる生徒の頭を踏みつけ、愉悦の表情を浮かべている。
 魔鬼はその狂った光景に息を飲む。しかし今度彼女の中に生じた感情は身を凍らせる恐怖ではなく、沸々と湧き上がる怒りであった。
 右手は自然にポケットへ伸び、常時携帯の定規を引き出す。それを真っ直ぐエリーザへと向け、眼光鋭く魔鬼は叫んだ。
「…………エリーザお前、よくもッ!」
 対しエリーザは虚ろな笑顔のまま首だけをぐるりと魔鬼へ向け、新しい獲物を見つけた事に対する歓喜か、口をニタァと大きく広げた。そして踏みつけていた生徒の頭から足を下ろし、ふらりと震えるぎこちない足取りで魔鬼へ向けて歩き出した。
「ヒト。人間。生きてる人。生きてる人は恨めしい、生きてる人は皆殺そう。命令、赤色。決めたの決めたの、そう決めたの。捜さなきゃ、月。だけど皆は笑ってそれはずるい。私の帽子、包んで隠して切り裂いて。赤い血、井戸。とまらない、とまらない。そろそろお家に帰らなきゃ、でもお父さんは許してごめんなさい言う事聞くから。決めなきゃ、決めなきゃ……」
 歩きながらエリーザは呟く。まるで思いついた単語を列挙するように、まるで意味のない言葉をブツブツと呟く。魔鬼はそれに再びゾッとしながらも、定規を構え、向かってくるに備えた。
(エリーザに何があったか知らないけれど、人を襲うなら立派な怪事だ、敵なんだ……! 躊躇うな……躊躇うな!)
 自らに言い聞かせるように、強く強くそう念じて。魔鬼は定規に魔力を込め始めた。
 二人の距離はもう2m弱程度か。互いにいつでも仕掛けられる間合いだった。虚ろに呟いていたエリーザはふっと押し黙り――刹那、普段のエリーザのような笑顔を見せた。
 今にも定規に溜めた魔力を放出できる状態でいた魔鬼は、そのエリーザの表情に一瞬意志が揺らいだ。それを見透かすように、エリーザの笑顔が再び虚ろに変わる。
(しまっ――)
 しまった。魔鬼が思ったその瞬間には、エリーザの唇は既に動き出していた。「赤いマント、着せてあげる?」と、あの決まり文句を紡ぐために。
 はじめその言葉を聞いた時は混乱の中にあった魔鬼だったが、オカルト趣味ともなれば流石に、その言葉が紡がれた瞬間に何か良からぬことが起こるのだろうと勘付いていた。

 魔鬼は初めてエリーザに会った時赤マントの怪談を知らなかったが、後に少し気になって調べてみて――そして知ったのだ。『赤マント』は「人を赤マントに包んで連れ去る怪人」であり、実際に起こった連れ去り事件を元とした都市伝説であること。それがどこかで『赤いマント青いマント』という怪談に発展し、『赤い紙や青い紙』、『赤いはんてん』等の怪談の原型となったことを。
 その『赤い紙と青い紙』は"問答系"の怪談だ。「赤い紙と青い紙どっちがいい?」と質問されて答えの内容によって恐ろしいことが起こると云うのが噂の主流であり、『赤いはんてん青いはんてん』も似たようなものだ。
 故に、その源流となった『赤マント』の怪異であるエリーザが、"問答系"の特徴を兼ね備えていてもなんら不思議ではない。エリーザは人に赤いマントを着せるかを問いかけ、その結果がこの血の海である。
 ……故に! 魔鬼は彼女の問いかけの効果を、定規に魔力を込め始めた時点でこう推測していたのだ。

 ――エリーザ・シュトラムの問答は、空間を無視して人を切り裂く能力である。

(問答、いいやそれはもはや問答なんかじゃない……! 狙いを定めたターゲットを、返答なんかお構いなしに、問いかけた時点で攻撃している……!)
 魔鬼は思い出していた。あの時、斉藤メイが傷を負ったと皆で騒いでいる際のあの問いかけで。誰が彼女に返事をしたか、と。……誰も返事をしていないのだ。
 恐らく最初の被害者と思しき斉藤メイや、野次馬の中での最初の一人はいざ知らず。次々と傷を負う生徒を見て混乱するあの場において、誰が赤いマントの問いかけに返答する余裕を持っていたというのか……!
 そう、あの時あの場には、既に問答の余裕なんて存在していなかった。そこから導き出される答えは、自ずと一つ。――問いを投げかけられた時点で詰んでいるのだ。
(やられる……!)
 最早もはや迎撃による妨害は間に合わない。魔鬼は覚悟を決め、それでも一縷の希望を込めて定規を胸の前に構えたまま、きつくきつく目を瞑ったのだった。

「赤いマント、着せて――」
 もう一秒足らずでエリーザの言葉は終了する。その刹那、強張った魔鬼の身体を抱きかかえる者が居た。
 魔鬼がその誰かの正体を知るより早く、宙に浮かんだ魔鬼の身体は何者かに運ばれるままに廊下から離脱したのだった。

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