怪事捜話
第六談・古井戸の夢⑦

「ちゃんと見ていたからわかる。あの娘のあれは事故だった。事故だった、けど。……ほんの一瞬だけ、確かに。何かの力が介入した気配を感じた」
 嶽木はそう言ってくたびれた様に息を吐いた。
 一旦目を伏せ、傍らに立つ遊嬉の方へ視線を遣る。
「……遊嬉ちゃんはどう思う?」
 そう問われた彼女はうんざりしたように表情を歪め、何も言わずに天を仰いだ。
 風吹き荒ぶ屋上。益々暗さを増した鉛色の雲。
 いよいよ嵐の前触れを思わせる空をじっと睨み、赤目の少女は小さく零した。
「呪い、か」

 鵺鳴峠ぬえなきとうげ逢李あいりが階段から転落して意識を失ったのは、遊嬉と乙瓜が二組の教室を出た直後の事だった。
 それはほぼ確実に鵺鳴峠自身の不注意から起こった事故であり、そこに第三者の意図も無ければ他の物理的な要因――例えば階段が滑りやすくなっていた、等――も存在しない筈……だった。
 だが。彼女の事故を受けて、学校内の混乱はより一層強まる結果となってしまった。
 生徒の間で呪い説が益々信憑性を増して行き、いよいよ気に病みすぎて体調不良を訴える生徒まで現れ始めた。
 そんな生徒たちに対応する教師陣の間にも動揺が広がっているらしく、午後の授業はどこのクラスも今一つ締まらない有様であった。
 そんなぎこちない授業を抜け出して来たのは、何も屋上に居る遊嬉だけではない。
 体調不良を口実に保健室に逃れる生徒たちを隠れ蓑に使い、他の美術部メンバーもまた各々教室を抜け出していたのだ。

「ごめん、なんか都合よくこんな事知ってそうな人って、他に思い浮かばなくって」
 静まり返った図書室の前で、乙瓜はパチンと両手を合わせた。
 お願いのポーズ。それを受けて、対面側の彼女――鬼伐山斬子はちょっぴり困ったような表情で頬を掻いた。
「……うん、美術部がこういうとき・・・・・・に色々暗躍してるっぽい事に対してはもうツッコまないけどね? まさか授業を放棄させられてまで連れてこられるとは思ってなかったというか、なんというか。……まあ、いいけどね。それで、何が聞きたいの? 何が知りたいの?」
 観念した風に姿勢を正す斬子に、乙瓜はもう一度だけ「ごめん」と頭を下げ、そして続けた。
「讀先城址について……いいや、餓者神社について何か知ってる事があったら教えて欲しい」
「ヨミサキ城址、ガシャ神社……なるほどほどなる、やっぱり件の古井戸の呪いとやらを解決するつもりなんだね?」
 斬子は納得したようにコクコクと首を振りながら腕を組み、廊下の壁にもたれ掛った。
「私を引っ張り出して餓者の名前を出すってことは、乙瓜ちゃんは少なくともあの土地の大まかな経緯を知ってるって事だと思うんで、神社が出来た辺りの経緯は割愛させてもらう。きっと知りたいのはそんな事じゃないと思うから。乙瓜ちゃんが知りたいのはずばり、蛾者神社の宮司が何を・・封じ清めようとしていたのか、そしてその何か・・とは何なのかって事でしょう?」
 違う? と問いかける斬子に、乙瓜は黙って首を縦に振った。
 斬子は「そう……」と呟くとそっと瞼を下ろし、大きく深呼吸した。……まるで、何かに対して覚悟を決めるように。
 大きく息を吸って吐き出し、静かに瞼を開く。
 そんな数秒の沈黙の時間を挟んだ後、斬子は神妙な面持ちで語りだした。
「あそこであったのはね――」
 
 そこから斬子が語ったのは次のような内容だった。
 全てのはじまりは今から三百年近く昔、日本がまだ江戸時代の真っ只中に在った時代にさかのぼる。
 時の讀先城主・字部あざべ家之いえゆきは、ある日誤って息子の之光ゆきみつを斬りつけてしまう。
 いかなる経緯でそのような不幸が起こったのか、その詳細は伝わっていない。だが、斬りつけられた之光は重傷を負いながらもその時点では生きており、よろめきながらも井戸の縁に手をかけて体を支えようとしたものの、己の流した血で手を滑らせて井中に転落してそのまま亡くなったという事だけが、はっきりと記録に残されていると云う。
 そう。他ならぬあの井戸の中で。あの、注連縄で封印されていた井戸の中で死んだ人間が、確かに存在していたのだ。
 だが、それは讀先城で起こった惨劇のほんの序章に過ぎない。
 己のせいで息子をうしなった家之は、以来すっかり正気を失ってしまった。
 家之は取り憑かれたように井戸に足を運び、底に向かって、しかしそこ・・にはもう居ない筈の息子に向かって話しかけていたと云う。
 何もいない底に向かって話しかけ、笑いだし、相槌を打ち、涙を零す。……それは誰の目から見ても異様としか言いようのない光景であった。
 家中の者たちは最初はじめこそ哀れに思い何も言及しなかったが、次第に不気味に思い、城主が井戸へ向かうのを引き留めるようになった。
 だが、側近たちが総出で引き留めようとする度、家之は大声でこう叫んだと云う。
『息子が呼んでいるんだ、息子に逢わせてくれ!』と。
 そして、之光の死から半月ほど過ぎた新月の晩。遂に惨劇は起こった。
 家之はその日城に残っていた家臣や女をことごとく手にかけ、一晩かけて全ての死骸を井戸の中へ投じたのだ。
 あくる日城を訪れた者が見たものは、井戸からあふれ出る程の惨殺死体と、その傍らで咽喉のどを掻き切って死んでいる家之の姿だった。

 それから、であるらしい。その土地に関わった者に凶事が相次ぐようになったのは。

「――そういうこと。それでも一応明治くらいまでは根性で学校として使ってたみたいなんだけど、流石に人死にすぎでもう限界ってね。神社建てて祝詞のりと上げて、そしたら今度は宮司がどんどん死んでくってんで、今ではすっかり廃墟同然ってわけ。……だからさ、乙瓜ちゃん。あそこ関わるのは止めときな。クラスのみんなも、多分直接行かなければなんともない、からさ……」
 そんなふうに言って様子を窺うような視線を向ける斬子に対し、しかし乙瓜は首を横に振った。
「ありがとう鬼伐山さん。でも、だったら尚の事放っておくわけにはいかないよ」
 、美術部だからさ。乙瓜はそう言って不器用に笑い、更にこう呟いた。

「それに、半分くらい繋がって来たしな……」


 ほぼ同じ頃、杏虎と眞虚の姿はプールサイドを覆う金網フェンスの外にあった。
 南京錠で施錠された扉に指を掛けながら、眞虚はプールの内側をじっと覗いている。
 その視線の向こう側には、彼女の契約妖怪である水祢の姿があった。
 どうやら金網を超えるのが面倒な二人に使い走られているようである。
「……ったく、妖怪使いが荒いったらありゃしない」
 水祢はぶつくさ言いながらプールサイドを歩き、第4コースの飛び込み台の横に屈んだ。
 そして水中に手を差し込み、目を瞑って動きを止めた。まるで水の中にある何かを探っているかのように。
 そんな水祢の姿と対照的に、金網外の杏虎はカッと目を見開き、プールを凝視していた。
 まるで水面に現れる何かを見逃すまいとしているように。
 眞虚は各々神経を集中させている二人を邪魔しないように押し黙り、その姿を見守っている。
 一つ強い風が吹き、水面みなもが大きく波打った。
 流れる厚雲がその欠片をポツリと落とし、プールサイドの乾いたアスファルトに小さな染みを作る。
 それを皮切りに空の堤防は決壊し、遂に雨が降り出した。ぽつぽつと地面を打つ雫はプールの水面にも降り注ぎ、その水面をかき混ぜる。
 それでも水祢は動かない。それでも杏虎は動かない。だから眞虚も動かない。
 誰も一言も喋らない。雨音と風の音だけがそこに在った。

 ――そもそも、彼女達が何をしているのかという事だが、それを説明する為には少しだけ時間を戻す必要がある。あの四時間目の終わりまでだ。
 杏虎と眞虚は体育の選択で器械運動を取っていた為、あの時間彼女たちの姿は体育館の中に在った。
「烏貝の奴がなんか知ってる風でなんも教えないから~~!」
 などと少々意味不明な事をわめきながらうずたかく跳び箱を積み重ねる天神坂を尻目に、杏虎と眞虚は三段ばかりの跳び箱に寄り掛かって雑談していた。
「……なんか、なんだかすごい段数積み上げてるね……。大丈夫なのかなぁ?」
 体育館のほぼ中央に設立されていく跳び箱の塔を見上げながら、眞虚は少しばかり心配そうな表情を浮かべた。
 片や杏虎はそんな事などほぼ気にする様子もなく。長い髪を体育用にコンパクトに纏め直しながら、軽い調子で「事故でも起こるんじゃね」などとのたまっていた。……この後本当に事故が起こってしまうだなんて、露も思わずに。
 やがて完成した二十段の跳び箱に、天神坂が奇声を上げながら向かっていく。
 ジャンプ台を踏み抜き大きく飛び上がった彼は、見事なフォームでを飛び越えて見せた。
 周囲からは自ずと拍手が沸き上がる。眞虚も自然と拍手をしていた。杏虎は「ふぅん」と言っただけだった。
 ちなみに体育館に入って準備して以来ここまで二人とも三段重・・・に寄り掛かったまま一歩も動いていない。跳び箱は寄り掛かるもの。
「そういえば、乙瓜ちゃんいないね?」
 異様に盛り上がっている男子たちを眺めながら、眞虚は思い出したようにそう言った。
 その発言を受けて、杏虎は呆れたように額を抑えた。
「……いや、気付くの遅すぎじゃね? 乙瓜最初から居なかったよ? そんで体育もうすぐ終わりだよ?」
「そうだっけ? なんだか何かが足りないなあとは思ってたけど……。エア存在感がこう、この辺に……」
 神妙な顔で右隣の空間を人型に撫でるジェスチャーをする眞虚を見て、杏虎は大きく溜息を吐いた。
(乙瓜の存在感って一体……)
 そう思いながら彼女が目を遣った時計は間もなく12時を回ろうとしていた。四時間目の終わりが近い。
 そういえば、今日の給食ってなんだっけか。杏虎がそう考え始めた瞬間だった。
「先生ッ!!」
 体育館の入口から聞こえてきた、どうも尋常ではない様子の叫び声と足音。
 その声はその時体育館に居た大多数の人間の注意を引き付けた。その大多数の中には杏虎も含まれていた。
 皆の注目を浴びた声の主は同じクラスの女子生徒で、一つも濡れていない体操服姿を見るに、どうやらプールの見学者のようだった。
 プールと体育館とで距離はそんなに離れていないだろうに、彼女はやけに息を切らしていた。
「どうしたァ!」
 更科の野太い声が体育館中に響き渡る。そのほぼ同時、杏虎のすぐ近くで「ひっ」と、息をつまらせたような小さな悲鳴が上がった。眞虚の声だった。
 ――だから、その瞬間杏虎の視線は体育館中央に戻っていた。
 そして、どうしたと声をかけるよりも早く、杏虎は状況を理解した。
 崩れ行く二十段。落ちて行く段の直下に人間が一人。
 杏虎がそれを賽河原だと認識した瞬間には、既に全てが手遅れだった。
 次々と床にぶち当たる木組みの段たちが立てる轟音に巻き込まれ、賽河原の姿は杏虎の視界から消えた。

 呆然と沈黙、状況の認識と混乱。
 轟音の後、体育館内は一瞬耳が痛くなる程の静寂に包まれ。一瞬後、耳が痛くなる程の悲鳴に包まれた。
 眞虚もまた叫んでいた。だが杏虎は叫ばなかった。
 元より悲鳴を上げる様なキャラではないが、叫ぶ叫ばない以前に彼女は見てしまったのだ。
 跳び箱が崩落した直後。轟音が収まった一瞬後、悲鳴が上がる一瞬前に。

 賽河原を押し潰した木枠の前に、不鮮明な人影のような何かが佇んでいるのを。
 白薙杏虎は確かに、そのでそれを見たのだ。

 杏虎は自分が見たものを昼休みの間に眞虚に打ち明けた。
 そして二人で再度体育館へ赴き、その人影の気配の残滓を何とか辿ろうと試みたのだった。
 乙瓜と遊嬉が昼休みの内に彼女達に合流できなかったのはこの為である。
 だが、二人の試みは失敗に終わった。体育館には既に何の痕跡も残されていなかった。物理的にも、霊的にも。
 しかし諦めが付かなかった二人は、次なる場所――賽河原と同じく古井戸の夢を見た墓下の溺れたプールを探ることにしたのだった。
 今度は水祢も巻き込んで。ただ、そのままの理由を告げても面倒がって逃げられてしまうと思ったため、口実は適当にでっち上げたが。

 雨はその勢いこそ増さぬものの、眞虚たちの服と髪は既にじっとりと濡れていた。雨粒が髪の隙間から額に流れ、流石の杏虎も瞬きを繰り返している。
(これ以上は限界……かもしれないよね)
 流石の眞虚もそう考え、杏虎に屋内へ引き返すことを提案しようと口を開いた。……その時だった。

「あった」
「いた」

 彼方の水祢の声と此方の杏虎の声が重なった。――と、次の瞬間。
 水祢は水中から手を引き、咄嗟に振り絞ったような声で叫んだ。
目を閉じろ・・・・・白薙杏虎! これは識ったら引っ張られるぞ・・・・・・・・・・・!」
「……ッ!?」
 あまりにも急な指示を受け、杏虎は一瞬どうしていいかわからずに、只々動揺から掴んでいた金網をガタンと揺らした。
 その刹那、眞虚は見た。プールの水面に浮かぶ半透明で不鮮明な青白い人影を。
 既に殆ど消えかかっているそれを認識したと同時、眞虚の耳は明らかな異音を捉えた。
 雨音でもなく風音でもなく。海鳴りのような音が、ざざん、と。
(また――あの音……!)
 度々聞こえてくるそれが何なのか、眞虚には分かっていた。
 否、正しく全てを理解しているわけではない。それが何故どうして聞こえるかなんて、眞虚は知りもしないのだから。
 しかし、そんな彼女にもたった一つだけ確実に。こればかりは間違いないと思える事実があった。
 その海鳴りは、明らかに危険な何かの到来を報せる音であると――!

怪事アヤシゴト、あれが――」
 眞虚がほうけた様に言葉を紡ぎ出した途中で、ガシャンと大きな音がそれを遮った。
 それは内側から金網を掴む水祢の立てた音だった。
「馬鹿ッ! お前アレを見たねッ!? ……ほんっとうにっ……、もうッ! 何してくれてるんだ馬鹿!」
「……っ、あ……、ごめんっ……」
「ごめんで済んだら警察も警告も要らないんだよッ! ……チッ」
 水祢は派手に舌打ちをかますと、思い出したように杏虎の方に視線を向けた。
 杏虎は金網から指を外したままの間抜けな姿勢でポカンとしており、皿のように開いた目を白黒させている。
 そんな杏虎をギロリと睨み、忌々しそうに水祢は言った。
「お前は? 何か見たわけ?」
 その言葉を受け、杏虎は呆気にとられた表情のままふるふると首を横に振った。
 水祢はそんな彼女を見て如何にも面倒そうに息を一つ吐くと、心底見下すような視線で再び眞虚を見た。
「……馬鹿。お前勝手になんてものに手を出そうとしてるの。あれは怨霊だとか悪霊だとか、そんな生易しいカテゴリーの存在じゃない。あれは呪いだ、呪いの残滓だ! しかも人を食う・・・・
「人を……食べる? それって……どういうこと?」
「そのままの意味。縁が出来た奴をどんどん取り込んで大きくなる。お前なんかが目を付けられたら終わりだよ。ご馳走・・・を抱えてるから。……フン、面倒なこと巻き込みやがって。……しかもあの結婚式場に居た奴よりもずっと強い奴じゃないか」
 水祢はぐちぐちと呟くと足元に転がっていた小石を蹴飛ばした。
 それが金網の縁に当たって跳ね返ったのと同時、ずっと呆けていた杏虎がガシャリ金網を掴んだ。どうやら正気に戻ったようだった。
「いやいやいやいや、まってまってまってまってってば!? 呪いとか人を食うだとか眞虚ちゃん大丈夫なのかよ!?」
 急くように金網を揺すって音を立てる杏虎から顔を背け、怒気を含んだ声のまま水祢は言った。
「……うるさい。……はぁ。繋がる前に断ち切ったからお前たちは大丈夫、とでも言えば安心?」
「マジで? それマジで言ってる?」
「ここで嘘言ってどうするの、やかましい。俺が大丈夫って言ってるでしょ。全く……。……ただ、それより前にあの呪いの根源に直接触れた奴らが居るとするなら――」
 そこまで言って、水祢は杏虎を振り返った。その表情に杏虎はハッと息を飲んだ。
 振り返った水祢は、その口元に薄らと笑みを浮かべていた。
 そしてどことなく不気味な笑顔のままで、こう続けたのだ。

「――死ぬ、だろうね」と。

 その時また一層強い風が吹き、斜めに飛ばされた雨粒が杏虎と眞虚の顔を打った。
 その雫が目に沁みる前に、二人は咄嗟に目を閉じる。一旦視界が暗転する。
 その真っ暗な世界には、アスファルトを打ち付ける雨音と、服を浸して肌に張り付く生温い水の感覚だけがある。
 眞虚はそれを気持ち悪いと思った。杏虎もまた同じ気持ちだった。
 殆ど同時に瞼を開く。眼前には水滴の伝うフェンスとごちゃごちゃとした波紋の入り乱れるプールの水面、そして不機嫌そうな表情を浮かべるずぶ濡れの水祢の姿がある。
 一瞬前とほぼ同じ光景が、そこには在った。在った筈、だった。――二人がそれを認識するまでは。
「……だから。駄目でござるよ、その件は」
 突如聞こえて来たその声に、二人はハッと顔を上げる。
 顔を上げ、声の聞こえた方角へと視線を移す。
 見上げた先は校舎から体育館へ渡る通路の屋根の上。
 緑のペンキで塗装されたスチール折板の屋根の上には、二人にとっては馴染みこそないものの、何度か見かけたことのある人物の姿があった。
「……ええと、トイレの太郎さん、でよかったかな?」
 眞虚の問いに彼――たろさんはコクリと頷くと、雨音に負けじとばかりに声を張り上げた。
「これは警告でござる! 古井戸の件に関わってはいけないッ! この怪事は解決してはならないッ!」
 はっきりとそう告げると、たろさんは僅かに表情を曇らせ、「何故誰もわかって下さらぬのか」と呟いた。
 殆ど雨音に掻き消されたその言葉は、しかし杏虎には届いていた。
 それは彼女が兼ねてより持っていたこの世ならざる者の声が聞こえる能力故か、杏虎にだけははっきりと届いていたのだ。
「待って、待ってってば! それってどういうことさ!? たろさん何か知ってるの!? 他の美術部誰かにも伝えたの!?」
 杏虎がそう言い終わるか否かの瀬戸際、水祢がプール内側の金網を飛び越え、囲いの外へと躍り出た。そしてズカズカとたろさんへ歩み寄るなり、その襟首をグイと掴み上げた。
「何のつもりでござるか、水祢殿」
「……何のつもりか? それを聞きたいのはこっち。お前こそなんなの? 何でアレと同じなの」
「何で――そう、か。水祢殿は……火遠殿からは何も聞いていないのですな」
「は? 何でそこで兄さんの名前が出てくるの。関係ないでしょ。聞かれたことにだけ答えて」
 水祢は早口で捲し立て、襟首を掴む力をより強めた。
 水を吸った布がギリリと音を上げ、たろさんの足が僅かに宙に浮かび上がる。
 見た目の体格こそたろさんの方が勝っているが、地力は水祢の方が勝っているらしい。
 その場を剣呑な空気が包んでいたのは、誰の目から見ても明らかだった。
「水祢くん駄目っ――」
 見ているだけでもチクチクと棘に刺されるような雰囲気に耐え兼ね、眞虚が水祢を止めようとする。
 しかし「やめて」と続きかけたその言葉は、杏虎の手によって阻まれてしまった。
 杏虎は、恐らくってしまったのだ。
 咄嗟に見ていなかったと吐きつつも、本当はあの時水面上に居た何かを視認していた。
 杏虎の持つ虎の目は万象を見抜く目。
 その気になれば数秒先の未来を見透すことは勿論、物理的・心理的な壁に阻まれずあらゆるモノの本質を透かし視る最高級の透視・・能力。
 故に、杏虎には識っていた。あの時水面に見た呪いの残滓の本質の姿・・・・を。
 そして知っていた。今この場で水祢に締め上げられているたろさんが、形ではなく、本質としてあの呪いと同じ姿をしているという事を。
(止めちゃ駄目だ、知らなきゃならない。今知らないと、多分もうわからない……!)
 眞虚の口をそっと塞ぎながら、杏虎はじっと水祢とたろさんの睨み合いを見守るしかなかった。
 その時だった。空気を読まない邪魔が入ったのは。
「みーーつけたァ! たろさんお前このやろう!」

 そんなやけにテンションの高い声は、体育館通路の向こう側、校舎側端の方から聞こえて来た。
 皆が一斉に視線を向けた方向には、定規を構えて臨戦態勢の魔鬼が居た。
「魔鬼っ?」
「もごっ……魔鬼ちゃん!?」
「魔鬼殿……」
「……チッ」
 四者四様の反応があった。しかし魔鬼は臆することなく歩み寄ると、水祢の締め上げるたろさんの頬を定規でペチリと叩いた。
「ちょ、魔鬼殿何するんでござるか!」
「うるせえこのおトイレサイダーマン! なんか花子さんに色々聞いて散々捜し回ったのに居ないってどういうこのなのさ!? あまり許される事じゃないんだからねッ!!」
 魔鬼はそう言うなりたろさんの頬を更に二回ペチペチした。
 そんなあまりにも謎すぎる展開に、杏虎と眞虚はすっかり置いてけぼりを喰らってしまった。
 それは引っ叩かれているたろさんも同じことで、唯一付いていけているのは「いいぞもっとやれ」と魔鬼を煽る水祢くらいである。
 剣呑から一転混沌と化した空間で、雨音と定規の音が不思議な協奏曲コンツェルトを奏でていた。
 その変梃なリズムが呼び寄せたのだろうか、このわけのわからない状況下に更なる登場人物が出現する。

「いたぞ! かかれィ!」
「てめーたろさんこのやろう! 捜しても無い時は出て来るのに捜しても出てこないたぁどういう了見だ!」

 などと啖呵を切って現れたのは、案の定遊嬉と乙瓜だった。
 遊嬉に至ってはいつの間にやら崩魔刀を顕現させており、既に何かと戦う気満々である。
 一方の乙瓜はロングスカートに隠した太腿ふともものカードホルダーから護符フダを取り出し、たろさんに向けてビシッと構えた。
「ようたろさん。二時間くらいぶりだな。あん時は散々謎かけみてぇな事言い残してくれやがってどうもありがとよ。……でも少しだけわかった・・・・。あれから。いろいろと・・・・・。……っていうか、みんな丁度居るみてぇだから、ここで答え合わせでも始めてやろうか?」
 ニヤリと口角を上げた乙瓜を見て、たろさんは宙に浮かばされた間抜けな体制のまま、その表情を険しくした。
「何が……。何がわかったと言うんでござるか。何が答え合わせでござるか。……言った筈でござるよ、関わってはならないとッ! 乙瓜殿ッ!」
 語気を荒げたたろさんに、だが乙瓜は臆することなく遊嬉に一旦目配せし、遊嬉がコクリと頷いたのを横目で確認するなり、それまでよりもより一層大きな声で言い放った。
「今回の怪事で、そして今までに讀先城の土地で起こり続けて来た凶事の元凶はッ! 呪いの元凶はッ! ……お前なんだろ、たろさん――いいや」
 乙瓜はその次の言葉を紡ぐ前にスゥと大きく息を吸い込んだ。
 その僅か数秒の間の中でたろさんは叫んだ。
「やめろ! その先を言うのはッ――」
 それは平時の彼からは考えられない程悲痛な叫びだった。だが乙瓜は躊躇ためらいもせず、容赦なく言葉の続きを言い放った。

「――お前が呪いの根源だ! 字部之光!」

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