怪事捜話
第六談・古井戸の夢⑧

 ほんの僅かな時間だけ沈黙があった。
 その沈黙の終わりに、小さな舌打ちの音が響いた。
 舌打ちの主・たろさんの顔には、普段の穏やかな様子とはまるで違う、憤怒と焦燥をごちゃごちゃに入り混ぜたような表情が浮かんでいる。
 凪いだ海のようだった青い瞳は不気味な銀色に輝いていた。
 そして忌々し気な眼光を乙瓜へと向けると、その内にある激情を押し潰したようなような声で言った。「……何の事でござるか」と。
 その様を見て、乙瓜は「やっぱりな」と呟く。
「ぶっちゃけ本当に当たってるかどうかは賭けだったけど、反応的にビンゴだったみてえだな」
 言うなり一歩踏み出した乙瓜を見て、たろさんはハッと威嚇するように息を吐いて見せた。
「……字部? 之光? どちら様でござるかそれは。拙者は"トイレの太郎さん"、そんな名前の輩なんぞ知りませぬ」
「おっと、今更とぼけるなよ? 状況的に推論的に、もう八割方の事は分かってるんだぞ。な、遊嬉?」
 乙瓜の言葉を受けて、遊嬉は「おうさ」とウィンクした。
 その、如何にも大体の事情が分かりきった様子の二人を見て、魔鬼は只々首を傾げた。
 杏虎も眞虚も同じような顔をしている。水祢ただ一人だけが眉ひとつ動かさず、そしてたろさんを締め上げる手を緩めずに場の流れを看視している。
「ちょっと待って、お前ら一体何が分かったんだ!? なんか、なんというか……まるでワケがわからないぞ!」
 思わずそう叫んだ魔鬼を見て、乙瓜は言った。
「いや、それはこれから順を追って分かる様に言うから。……ていうか、魔鬼こそ一体何やってんだ? 俺らが来た時たろさんの事引っ叩いてなかったか?」
「そ、それは……だって……」
 魔鬼はそこで少々口籠り、言い訳のようなことを小声でブツブツと吐いた後、その場の誰にもはっきりと聞こえるような声で言った。

「だって、花子さんが! 花子さんが、たろさんが自分たちの事あんまり信用してないんじゃないかって泣いてたから!!」

 ――トイレの太郎さんには気を付けなさい。多分今回の元凶に一番近いところに居るのがあの人よ。
 昼休み、北中二階西女子トイレ。あの時あの場で、花子さんは魔鬼に確かにそう告げ、そしてこう続けた。
「屋上でね、言われたの。夢の元凶になった古井戸について。……彼は言ったわ。あそこには三百年前のとある惨劇から溜まりに溜まった呪いがあるから、不用意に関わると私たちが危ないって。心配だから、注意を促してたんだって。……でもね、肝心な事だけ教えてくれなかった。だって、おかしいじゃない。私たちだって馬鹿じゃあないわ、相手が自分の力量でどうしようもならないモノだと感じたなら、決して近づくような真似をしない。誰に言われずとも触れようとすら思わない。これは私たちだけじゃなくて、きっと多少能力ちからのある人間だって同じこと。第六感という奴ね。……なのに、彼は親切にも態々・・・・・・私たちに警告を残してくれた。まるで――」

「――まるであそこに、彼にとって触れられたくない何かがあるみたいに。……花子さんはそう言ってた。そして自分は信用が無いんじゃないかって泣いてたんだ。……あの花子さんが! だから私、たろさんを問い詰めて本当の所を聞き出してやろうと思って……っ!」
 あらましを告げ、魔鬼は不機嫌そうな顔でたろさんを見上げた。
 たろさんは魔鬼の視線から目を逸らしたきり、それ以上の反応を示すことはしなかった。
 乙瓜はそんなたろさんの様子を見て、わざとらしく大きな溜息を吐いてみせた。
「はーあ。花子さん泣かせるたあやっちまったなあ。いーけないんだ、いけないんだ」
 そう言って乙瓜はたろさんを煽るが、当のたろさんは無反応だった。そんな彼らを見ながら、しかし魔鬼はこう叫んだ。
「おいちょっと待て乙瓜! こっちの事よりアザベのなんとかっていうのは一体なんなんだよ! ちゃんと分かる様に説明しろ!」と。
「おう、ちゃんとするぞ。これからな」
 乙瓜は頷き、りをほぐすように体を伸ばすと、再び遊嬉に目配せした。
 遊嬉はコクリと頷くなり、刀のきっさきをたろさんに向け、次いで水祢へと向け。静かな声で「とりあえず下ろしてあげな」と指示した。
 水祢は一瞬だけ冷たい目で遊嬉を睨むが、しかし黙って彼女の指示に従った。
 解放されたたろさんは一瞬よろけながらも顔色一つ変えることなく、相変わらず銀の眼光で遊嬉と乙瓜を見ている。
 ――これから何が始まるというのか。
 先程からただ見ていることしか出来ていない眞虚は、降りしきる雨の中で息を飲んだ。その表情は明らかな不安で彩られている。
 傍らの杏虎は、真剣な眼差しでこの場の中心に居る三者――乙瓜と遊嬉、そしてたろさんを見つめている。
 まるでこれから語られるだろう真相を一言一句たりとも聞き逃さんとしているかのように。一瞬一秒たりとも見逃さんとしているかのように。
 雨音に混じって、風音に混じって。空の彼方より遠雷の音が微かに聞こえる。
 いよいよ嵐がその本領を発揮せんとする中、乙瓜は語り出した。話を本題に戻そう、と。
「今から三百年程昔、件の古井戸の廃神社がまだ讀先城だった頃。城主・字部家之は息子・字部之光を誤って斬りつけてしまい、重傷を負った息子は付近の井戸へと転落して亡くなった。城主はその後狂気に囚われて家中の者を悉く殺し尽くし、井戸の中へ投げ入れた。とまあこれが今日こんにちまで伝わっているあの場所の曰く・・だ。伝わってる話の中では特に城主・家之の狂気が前面に押されていて、パッと聞いただけじゃあ、呪いの発端はこの家之なんじゃないかと思っちまう。俺も斬子に聞いた時点ではそうなんじゃないかと思ってた。だけどな」
 違うんだ、と乙瓜は首を横に振った。
 そして彼女の言葉の続きを引き継ぐように、今度は遊嬉が語りだした。
「決定的なのは、夢だよ。伝えられてる讀先城の惨劇では、城主は新月の夜に家中の人々を殺し周り、そして自分も息絶えた。けれど、この北中ガッコで流行してる井戸の夢の始まりは、必ず月を見上げる・・・・・・所から始まる。これに関してはまだ夢を一回しか見てない乙瓜ちゃんも見てるし、居眠りでも見れるって聞いてあたしもここに来る前に試してみたから、ほとんど確実。はじめの夢には月がある! 井戸の底から丸い月・・・を見上げるところからこの呪い・・・・は始まるんだ! そしてッ!」
 そこで一旦言葉を区切り、遊嬉は大きく息を吸い込んだ。
 そして剣を持っていない左の腕を真正面へと突き出すと、真っ直ぐに立てた人差し指を迷いなくへと向けたのだった。
「記録では、城主の息子が亡くなったのが惨劇の半月前・・・! 即ち満月! つまり呪いの起点となる夢は、之光が息絶える直前の光景ってワケ! どうだ、名推理でしょ!」
 遊嬉は得意満面の顔でそう言い切った。
 そんな彼女に対し、しかしは眉ひとつ動かさず、淡々と言葉を紡いだ。
「……それで、それがどうしたと言うのでござるか。呪いの元凶は確かにその城主の息子かも知れませぬ。だが。それが何故拙者であると? 何の証拠もありますまい。何の確証もありますまい……!」
 そんなの言葉を受け、乙瓜は「そうさ」と肯定してみせた。
 しかし次の瞬間ニヤリと笑い、「だけどな」と続けた。
「何の確証もぇからこそカマをかけたんだよ! まさか少し前の自分の言動を忘れたわけじゃねえよな? 俺が字部之光の名を出すより前、呪いの元凶はお前だと言い切った時点で、あんたは必要以上に動揺してみせたじゃねーか! それが何よりの証拠だ!」
 乙瓜はそう言って、先に構えた護符を持つ手を堅く握りしめた。
 常識的に考えれば、手の中の護符はそれだけで皺くちゃになってしまう。只でさえ吹き荒ぶ風の運ぶ雨水を浴びているのだから、尚更ボロボロになること請け合いだ。
 だが、次に乙瓜が手を開いた時、護符はくしゃくしゃになるどころか折れ目一つない綺麗な状態のままであり、しかもその数を一枚から四枚へと増していた。
 そう、それはまるで手品の様に。
 改めて四枚の護符を向けられ、は――たろさんは。遂に観念したかのように溜息を吐いた。「しまいでござるな」と。
「……ああそうでござるよ。乙瓜殿、遊嬉殿の言う通り、此度こたびの怪事の元凶は他でもない、拙者でござる。……しかれども、之光の名で呼ぶのは止めて頂きたい。そんな大層な名で呼ばれた記憶おぼえなど、おれには無いのですからな……」
 言って、たろさんは力なく笑った。それは誰の目から見ても痛々しい姿だった。
 そんな彼を見上げ、魔鬼は叫んだ。
「たろさんっ、でもどうして……どうしてなのさ……!?」
 どうして。その疑問を胸に抱くのは、何も魔鬼ばかりではない。今この場に居る殆ど全員の胸中に、それは等しく存在していた。

 何故、たろさんが今回の怪事の、古井戸の夢の、そして呪いの元凶となってしまったのか。

 皆がその疑問を抱いて押し黙る中、水祢だけがまるで興味を失ったかのように目を瞑り、フンと鼻を鳴らした。
 そして、それが合図となったかのように。たろさんは静かに語り始めた。


 ――三百年程昔。
 字部家之は長年子に恵まれなかった。
 長年励むも、正妻との間にもめかけとの間にも子が出来ず、仕方なく妹夫婦の次男を後継者として迎えることとなった。
 それが後の字部之光であり、更に後に古霊北中学校の"トイレの太郎さん"となる子供――綱木つなぎまるだった。
 その名の通り字部の家の「つなぎ」としての役割を望まれた彼は、物心ついて以来その期待に応えられるように努力した。
 学を付け武芸に励み、いつの日かに認めて貰えるようにと。
 しかし、綱木丸が家之の養子となり、間もなく十歳になろうという年になって事態は一変する。
 家之の正妻が身籠ったのである。そして産まれて来た家之の第一子は、なんとも皮肉な事に男の子であった。
 家之は待望の実子を溺愛し、その一方で家之の中での綱木丸の価値は地に落ちた。血縁とはいえ所詮は他人の子ということか、以降綱木丸が如何に努力しようが、家之が彼に目を向ける事は無かった。
 家之は既に綱木丸への愛情はおろか、興味感心の一切を失っていた。
 そう、もはや何の興味もない。綱木丸が元服し、名を之光と改めて尚も"綱木丸"の名で呼び続ける程には。
 しかし、興味がないなりに抱いている感情が。一つだけあった。

 ――"綱木丸"が邪魔だ。

 そして、あの日の晩。家之は"綱木丸"を呼び出し、明確な殺意を持って斬りつけた。
 その明らかに急所を狙った一撃を、"綱木丸"は咄嗟に身を捩ってかわす。
 しかしその代わり右肩から腹にかけて深い傷を負い、後世に伝えられている通りに井中へと転落する。
 それは家之があらかじめ考えていた筋書とは少々異なっていたが、井戸に落ちた時点でどのみち死んだだろうと踏んだ彼は、大げさに慌てふためく演技をしながら助け・・を求めに走った。
 ただ内外への体裁を整えるためだけに、何も知らない者が見れば到底"綱木丸"を疎んでいたとは思えないような大芝居を打ってみせたのだ。
 だが。井戸に落ちて暫くの間。"綱木丸"は生きていた。
 暗いくらい地下へと通じる、深いふかい縦穴の底で。遠く離れた天面を仰いで。
 一直線の傷は冷たい井戸水に浸かり、"綱木丸"から命の熱さをじわりじわりと搾り取る。
 落ちる過程で何処かにぶつけたのだろう、ぱっくりと割れた額からも血が流れ出し、命の漏洩に拍車を掛けていた。
 次第に冷えてゆく身体は痛さと気怠さで全く思う通りにならず、指の一本すらも動かすことができない。
 唯一思う通りになる眼で見たものは、丁度自分を見下ろすように降り注ぐ満月の光。
 その白銀の輝きを眺めながら、"綱木丸"は最期に願った。
 最後の最期で、強くつよくこう願ったのだ。

 ――許さない。

 そこで彼の生涯は閉じた。
 "綱木丸"の願いは彼自身を怨霊へと変え、その怨念で家之を狂わせ、字部の者たちを悉く殺した。
 そして殺した者たちの未練や無念、憎しみや悲しみを取り込んだ怨霊は、もはや字部の家など関係なく、そこに触れた者たちを無差別で自分たちの側・・・・・・へと引きずり込む呪いと化した。
 そこにはもはや既に亡くなった者たち個人としての意志は無く。只見境なく融合した数多の人々の、やりきれない想いだけが存在していた。
 故に、呪いの根源となった"綱木丸"の意志もまた、呪いの思念の中に溶けて消滅した……筈だった。

 消滅した、筈だったのだが。

 彼が再び目覚めたのは、今から遡ること約40年前。時代は既に江戸の昔ではなく、二度の大戦を経た後の昭和へと移り変わっていた。
 街の姿も社会の仕組みも何もかもが変わってしまったその時代。"綱木丸"の意識は唐突に呪いの怨念の中から蘇ったのだった。

「何故そのような事が起こったのか、それは拙者にもわかりませぬ。しかし"呪い"でなくなった拙者は一個の亡霊として彷徨い歩き、そしてまだ真新しかったこの学校へとたどり着いた。そしていつしかこの学校の"トイレの太郎さん"などと呼ばれるようになったんでござる。……乙瓜殿、遊嬉殿、わかるだろうか。魔鬼殿、眞虚殿、杏虎殿も。わかっていただけるだろうか?」
 たろさんは美術部の一人一人に目を遣って、そして笑った。

「己は漸く、死して漸く! その存在を認めて貰うことが出来たのだよ……!」

 その泣き出しそうな笑顔を見て、美術部メンバーは誰も何も言わなかった。
 誰も何も言えなかった。そんな中で、水祢だけがつまらなそうな顔をして言った。
「……成程。それがお前の理由ってワケ。無害そうな顔してるくせに、よくやること。……はぁ、なんなのもう。つまりお前は――」
 そこまで言いかけ、水祢はたろさんを見遣った。たろさんは水祢に向き直り、その頭を深々と下げた。
「……どうか、お頼み申し上げまする」
 水祢はその言葉を受けて嫌そうに眼を細めると、もう一度だけわざとらしく溜息を吐いてみせた。
「……何? 俺に言わせたいワケ? ……ったく」
 ムカつく、と呟いて、水祢は睨むような視線のまま美術部全員をぐるりと見、そして言った。
「つまりこいつは。"トイレの太郎さん"で在り続けたいが為に、お前らに本当の事を伝えながら、お前らを騙し続けて来たってこと!」
「は、はあ!?」
 誰よりも早く素っ頓狂な声を上げたのは乙瓜だった。
 驚愕。だがそれも仕方なし。呪い騒動の原因についてある程度は推理してきた彼女であるが、たろさんが何故あんな行動を取ったのか、その理由までは特に考えていなかったからだ。
 そもそも、乙瓜がたろさんが呪いの根源ではないかと思ったのも、花子さんが魔鬼に打ち明けたのと同様、たろさんが井戸の件に何らかの関わりを持っていると思ったから程度の軽い理由である。
 良くも悪くも当てずっぽう、深い考えなんてあるわけもない。
 尤も、今この場で驚き混乱しているのは、何も乙瓜だけではない。
 遊嬉だって完全に意表を突かれたと言わんばかりの顔でいるし、魔鬼以下三名もまるで意味が分からないと目を白黒させている。
 そんな雰囲気の中、たろさんは今度こそ己の口からその理由を紡いだ。
「……美術部の皆々様方、此度の件要らぬ心配をおかけして真に申し訳ありませぬ。全ては拙者が小心者故に起こった事。一度呪いなどというものに身をやつした拙者は、この学校のトイレの妖怪として存在することを許されて嬉しかった。嬉しかったが為に、常に不安に思っていたのでございます。何の前触れも無く蘇ったこの身が、何時の日か再び、何の前触れも無くあの暗く冷たい井戸の底へと引き戻される日が来てしまうのではないかと。……拙者は怖かったのです。あの古井戸の呪いを拾ってきた者たちが現れた時。乙瓜殿や魔鬼殿たち美術部の皆が、そして花子殿たちこの学校の仲間たちが。あの深淵の中に取り込まれてしまう様を想像し、拙者は恐ろしかったのです。……そして何より、己自身があの呪いの大元であると皆に知れてしまう事が恐ろしかった! それ故に、その為に……!」
 そこまで言うと、たろさんは膝から地面に崩れ落ちた。
 否、崩れ落ちたのではない。両手両肘を付き、額を地面に擦り付けんばかりに下げたその姿は。――誰がどう見ても土下座だった。
「許して下され乙瓜殿。……否、そんな烏滸おこがましい事を、今更この口で言えましょうか。拙者は己可愛さ故に、乙瓜殿たちのクラスメートを見捨てようとしたのです。……此度直接呪いを被った者たちは、放っておけば一両日中に死ぬでしょう。なれば、それを阻むことがせめてもの償いというもの」
 たろさんはそう言って立ち上がった。
 そして再度深々と礼をするなり、美術部員にくるりと背を向け、どこかに向かって歩き出した。
 そのあまりにも突飛な行動を前に、乙瓜は叫んだ。「おい待てよ! どこ行くんだ勝手に!」と。
 だがしかし、どこへ行くと問いながらも、彼女には彼の目指す場所が分かっていた。
 それは恐らくその場に居た誰もがそうだったと言える。
 たろさんはピタリと足を止め、しかし振り返らずに大きく手を振った。――そして。

「少々、己の不始末を片付けに行ってくるでござるよ」
 声を張り上げ、普段の調子でそう言って。たろさんは土砂降りの雨の中へとその姿を消した。
 いよいよ近くなった雷鳴が暗雲の隙間を走り、虚空の大気を轟かして行く。

 その日、たろさんは学校に帰ってこなかった。

 終日曇りの天気予報から大きく外れた悪天候に、その日の放課後は多くの運動部が活動を制限され、落雷の影響による停電が三回ほど起こった。
 校舎の明かりが落ちる度、校内に巣食う生きている人間ではないものたちが騒がしくなるのが美術部にはわかった。
 そんな恰好の怪談日和の中に、"トイレの太郎さん"だけが居ない。それだけで、美術部二年のテンションは沈みに沈み切っていた。


 翌日。天気予報の「終日曇り」をまたまた覆し、古霊町の上空には清々しい夏の青空が広がっていた。
 そんな青空の下で、古霊北中を騒がせた古井戸の夢・呪い騒動には、一つの大きな変化が起こっていた。
 それは目には見えない変化だったが、前日まで不安の渦中にあった生徒には目覚めた瞬間にわかっていた。
 誰も古井戸の夢を見なかったのだ。
 乙瓜もまた古井戸の夢の続きを見る事はなかった。
 目覚めた瞬間に彼女の頭の中にあったのは、詳細を覚えていない、けれど何か荒唐無稽な夢を見たという漠然とした記憶のみ。
 すぐに霧散してしまった夢の内容に思いを馳せ、そして昨日の出来事を思い返し。
 乙瓜は、少し泣いた。

 ――のだが。

「あ、おはようでござるよ乙瓜殿」
「なっ、えっ、ぬぁ!?」
 いつまでも感傷に浸っているわけにもいかず、今日も今日とて登校した乙瓜を昇降口で待ち受けていたのは、他ならぬたろさん本人だった。
 彼は何でもない風に挨拶すると、やはり何事も無かったかのようにニコリと笑った。
「いや、たろさんおまっ、消えた筈じゃ!?」
「そんな縁起でもない……あれはもしかしたらそうなるかもという仮定の話であって、やってみたら割と大丈夫だったでござるよ。いやあ、こんな事ならもっと早くやっておけばよかったと。本当申し訳ないでござる」
 そう言って、たろさんはケラケラと笑った。
「はあああああああ!? ちょ、おまふざけんなよ! 俺の心配返せ!! ついでに昨日雨に濡れすぎて制服乾かすの大変だったんだかんなああああ!!」
 あやまれええええ! と。乙瓜のご機嫌な絶叫が早朝の校舎と晴天の空に響き渡った。
 結局、呪いを生み出した張本人であるたろさんは、勿体付けた割に本当にあっさりと井戸の呪いを消滅させることに成功したらしく。
 その日の朝のHR中には、前日に病院送りになった三人が回復した事が知らされた。
 "ちょっとした騒動"は終わりを迎え、北中に再び平穏が戻って来た。

「要するに、タロがちょっと自信不足で不器用だったってだけの話ですよね? 花子お姉さまー?」
 水溜りの残る屋上で、エリーザはどこか釈然としない顔で呟いた。
 花子さんはそれを受けて「そうね」と笑った。
「でも、花子お姉さまを心配させるなんて、タロも罪深い人ですよ~。何も勿体ぶる必要なかったじゃないですか。ぶーぅ」
「うーん……。そう、かもしれないわね」
 わざとらしく頬を膨らませてみせるエリーザに、花子さんはどこか含みを込めて言った。
「誰も傷つけまいとする優しさが、時に誰かを傷つけることもあるわ」
「……? はい?」
 イマイチ釈然としない顔でエリーザが頷いたのと同時、屋上の扉が音を立てて開く。
 少々乱暴に開かれたその扉の向こうには、闇子さんが立っていた。
「いーたいた。お前ら何二人でこそこそやってんだよ、あたし抜きで内緒の相談かぁ? ていうか、学校の怪談オバケが朝っぱらから楽しそうにしてるんじゃねえよ。……ったく」
 闇子さんは撥ね戻って来た扉を足で止め、如何にも不服そうにそう言った。
 花子さんはそんな彼女を見てクスクスと笑い、いつもの調子でこう言った。

「そんなことないわよ。なぁんでもないわ。なぁんでも」

 戻りましょう、エリーザ。そう続けて歩き出した花子さんを、赤マントを翻してエリーザが追う。
 彼女達の足元に広がる大きな水溜りたちは、空を映して真っ青に染まっている。
 その青い世界には、長い黒髪の少女も赤マントの少女も、そしてパンクブーツの少女も存在しない。
 やがて消えるその世界に足跡の波紋だけを残し、校舎の中へと姿す彼女達。
 殆どの生徒には認識されないが、しかし確かに学校ここに居る彼女達の居る場所こそが、そう。

 かつて綱木丸と呼ばれた少年がさがしていた、そしてトイレの太郎さんが見つけていた。
 自分が居てもいい所なのだ。




 ――その同日、隣県N市。
 山中に聳える巨大な朱の鳥居の先に在るものは、しかし神社に非ず、だからとて寺でもない。
 ともすれば文化遺産レベルのその鳥居の向こうにあるのは、大凡似つかわしくない黒い建物だ。
 黒く四角い、どこか近未来的なその建物は、全三十階中の実に二十七階が地下へ向かって伸びており、地上に顔を出している部分よりも遥かに巨大で異様な造りとなっている。
 まるで、何かを外部から秘匿するかのように。
 そんな建造物の地上三階・最上階にて。大層な椅子に座し、これまた大層な机に行儀悪く足を乗せる小柄な女は、眼前の来客を見ながらゲラゲラと笑った。
「いやいやいや、遠いところご苦労さん。これまたえらぁく久しぶりじゃあないか。十年、十五年……いや、二十年ぶりくらいか? ともあれ元気そうで何よりだ。で、あちきに報告したいことって何さね? ――坊?」
 彼女の金色の視線に促されるように、その来客は口を開いた。

「なあに報告までですよ、師匠・・。さがしてたウチの娘が見つかったんでね」
 来客は、草萼火遠は。真剣な眼差しでそう告げた。



(第六談・古井戸の夢・完)

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