怪事捜話
第六談・古井戸の夢⑤

 ――あれから。
 崩落した二十段跳び箱の下敷きになった賽河原は、特に外傷こそなかったものの打ち所が悪かったのか、暫く待っても全く気が付く様子がなかった。
 溺れた墓下もまた同様に、息こそあれど意識が戻る気配がない。
 そんな具合だったので、二人は同じ救急車で病院へと搬送されていった。
 昼食の時間真っ只中に響き渡った独特なサイレン音は、各教室の物好きな生徒たちを大いにざわつかせた。
 やがて事の次第が殆どの全校生徒に知れ渡った時、誰かがこう言い始めた。

『古井戸の夢を最後まで見ると死ぬ』

 無論の事だが、今回この夢の件でまだ死者なんて出ていない。
 だがしかし、昨日から今朝にかけての墓下・賽河原両名の挙動不審気味な言動と伝染した夢、校内での事故プラス救急車沙汰なんていう滅多にお目にかかれないシチュエーションが、そんな推論ににわかに現実味を与えたのだ。
 そしてとなったそれは瞬く間に学校中の生徒の間を駆け巡り、校内は再び今朝のような、否、今朝にもまして不安と不穏に満ちた雰囲気包まれてしまった。
 不運な事に、件の夢を見てしまった生徒は大勢いた。
 そして不安な状況下で広まる噂は更なる噂と憶測を呼び、口承口伝の物語は爆発的に成長していったのだ。

 誰かが言った。「件の二人は注連縄を壊した為に井戸の怨霊に取り憑かれたのだ」と。
 また誰かが言った。「怨霊の力は強く、故に夢の内容を知ってしまった者にも呪いが飛び火し夢を見るのでは」と。
 それを聞いた誰かが言った。「何とか呪いから逃れる方法はないのか」と。
 そしてそれを聞いた誰かはこう考えた。「井戸の注連縄を元に戻せばもう一度怨霊を封じ込めることができるのでは?」と。
 それを聞いて納得した者が居た。そして愚かしくも単純な一部の生徒たちは、起こるかどうかも分からない「呪い」から助かりたい一心で、また馬鹿げたことをくわだててしまったのだ。

 ――放課後、例の古井戸に行ってみよう、と。


 その企てを乙瓜が聞きつけたのは、授業中の事故騒動が一段落ついた昼休みの事だった。
『……すまん! 本当にすまん!』
 幾度となくそう告げる更科の声は、電話越しだというのにあちら側で何度も頭を下げる様子が容易に想像できた。
 不測の事態とはいえ、こんなタイミングで監督役を押し付けてしまった事についてそれなりに責任を感じているようだった。
「……いいですよ、もう謝らなくても。別に何とも思ってませんから。……はい。……はい。それじゃあ」
 ハアと溜息を一つ吐くと、乙瓜は会話を適当に切り上げた。
 大人が監督できないのであれば、プール授業を中止して、器械運動に合流させればよかった。一生徒に監督などさせるべきではなかった――と更級は言う。
 だが『事故』は既に起こってしまったわけで、同様に謝罪したところで墓下や賽河原の両親が納得するかどうかは別問題であり、場合によってはマスコミ沙汰も免れないだろう。
 故に今、更級にできることは誠心誠意謝罪することだけだ。
 けれども乙瓜は更級が悪いとは微塵も思っていないため、重ね重ね謝る更級にはただただうんざりさせられるだけだった。
 乙瓜が『怪事の仕業』と思っていることも勿論あるだろうが、こればかりは『責任を取るべき大人』と『守られるべき子供』の感覚の違いが大きいだろう。
(別に悪い気はしないけど、ああも重ね重ねだとな……。つか態々わざわざ電話かけてくることでもないとおもう)
 乙瓜はガチャリと受話器を置き、顔を上げた。
 そして終わったのかと尋ねる眼鏡のおばちゃん事務職員にコクリと頷き、職員室を後にした。
 廊下に出ると、入口の横に遊嬉が居た。
 彼女は「よっ」と手を上げると、寄り掛かっていた壁から背中を浮かせた。
「更科せんせーなんだって?」
「すまんって。……つか流石に何回言うんだよって思ったわ。ちょい謝りすぎ」
「まあまあ。そんだけの大事に関わったってこったよ、甘んじて受けな」
 不機嫌気味な乙瓜を宥めるように遊嬉は言った。
「つうか乙瓜ちゃんもようやるわ。墓下の事嫌いっしょ? ……まあ、あたしもあいつ嫌いだけんどさー。よーくも助ける気になったよねぇ? んー?」
「べっっっつにー。常々死んでくれとは思ってるけどここで死なれたら迷惑だから助けただけですしぃ。……つか、忘れてるみたいだから言うけど、最初に動いたのそっちだからな?」
「そうだっけ?」
「そうだよ。プールん中に居る連中より先に動き出したじゃないか」
 とぼけているのか本気で忘れているのか、不思議そうに首を傾げる遊嬉にプイと背を向け、乙瓜は教室へ向かって歩き始めた。
 遊嬉もまた「置いていかないでよ~」と彼女に続く。
 東昇降口前を曲がって階段へ。昼間なのに薄暗いそこを三段ほど登ったところで、乙瓜は思い出したように口を開いた。
「そういやぁ……な。四時間目の前、ここでたろさんに会ったんだよ」
「"トイレの太郎さん"に?」
「ああうん。……そういや、遊嬉は直接話した事無かったっけか?」
「まー、うん、言われてみればそうだけど。前見たことあるから分かるっちゃあ分かるよ? あの学ランマントで大正感あふれる人でそ?」
 言いながら、遊嬉は山のようなモノを描くように両手を滑らせた。
 恐らくマントのシルエットのつもりなのだろう。
 乙瓜はそれにコクリと頷き、踊り場の角をくるりと曲がった。
「んで、その太郎さんがなんだってーのさ?」
 一歩遅れて角を曲がりながら遊嬉が問う。そんな彼女をチラリと振り返り、乙瓜は言った。
「なんかさ、古井戸に関わるのは止めろって」
「古井戸ォ?」
 遊嬉は怪訝な声を上げ、しかし一瞬後に得心の行ったような顔で手をポンと叩いた。
「ああ、なんか朝話題になってた夢の井戸かぁ」
「そ。それなんだけどさ、たろさんが言うに、夢は兎も角直接井戸に触れるのはヤバいっぽいんだよね。だから関わるのは止せと」
「ふうん? めっずらしいね、久々の普通に正統派の怪事なのにさ。解決どころか触れるなとはこれいかに」
「そうなんだよなあ……」
 二階の床を踏みしめながら、乙瓜は大きく息を吐いた。
 手摺てすりに沿って更に方向を変え、続く三階への階段へと一歩踏み出す。
 その瞬間、上階の廊下から数人の話し声が近づいてくるのに気付き、乙瓜はふと足を止めた。
 次第に大きくなる声は階下こちらへと向かっているのか、ぞろぞろと階段を踏みしめる足音がコンクリート剥き出しの壁に反響している。
「誰か来るね?」
 同じく足を止めた遊嬉がそう口にした直後、階上の足音の主たちは眼前の踊り場へと姿を現した。
 女子ばかり連れ立って五人。全員二年で、よりにもよって少々素行の悪い連中ばかりだった。
 中には乙瓜の苦手な鵺鳴峠ぬえなきとうげの姿もある。
 そのボス猫感溢れる風体を認めて、遊嬉はなるほどなと思った。乙瓜は彼女の気配を察して足を止めたのだと。
 ぺらぺらと話しながら降りて来た女子連中は、階下の乙瓜・遊嬉の姿に気付いて一瞬静かになるが、すぐにまた何事も無かったかのように会話を再開した。
「――でさー、アタシ的にはそれでなんとかなんないかなって思うワケ」
逢李アイリ、大丈夫だからね、多分これで助かるってば」
「うん……うん……」
 そんな事を話しながら、彼女たちは階段を降りて行く。
 そのすれ違いの瞬間、乙瓜はチラリと鵺鳴峠に目を遣った。
 普段なら彼女の視界に入っただけで因縁の一つでもつけられそうなものだが、今日の鵺鳴峠は妙に大人しく、……というか墓下たちと同様におそろしく精気が無いように見えた。
 その事に気付き、乙瓜は思わず階下に消えてゆく彼女らに振り返った。そして聞いたのだ。

「じゃあ、今日の放課後。例の廃神社でね――」

 例の廃神社。それが何を意味しているかなんて最早明白だった。
 何がどうなってそうなったのかは乙瓜にはわからないが、少なくともあの五人はあの・・古井戸に触れようとしている。
「や――」
 やめろ、と。乙瓜がそう叫びかけた瞬間、誰かが彼女の手を強く引いた。……遊嬉だった。
「やめときな乙瓜ちゃん。あいつら、美術部うちらを見て敢えて無視して行きやがった。……多分今ここで止めたって止まんないよ。自分たちが納得する方法じゃないと止まらない」
「でも……ッ、だからってこのままにしとくのか!? 学校妖怪が態々俺たちが関わるのを止めてくるような場所なんだぞ、ましてやあいつらなんかじゃあ……」
 通り過ぎて行った彼女らの姿はもう見えない。乙瓜はキュッと唇を噛んだ。
「……いくら嫌いな奴らだとしても、こんなの後味悪いじゃないか」
 押し殺したような声で呟く乙瓜を見て、遊嬉はハアと大きく息を吐いた。
「違う違う。あたしはあいつら見殺しにしようぜって言ってるんじゃないワケ」
 言って、遊嬉は乙瓜の肩をポンと叩いた。
 そして三階へ続く階段の二段目に座り込み、両手で頬杖を付きながら言葉を続けた。
「だって、うちら美術部なワケじゃん。一人じゃなくて五人……いや六人いるわけじゃん。今起こってる事が怪事なら、なんていうかこう、みんなで考えようぜ? どうしたらいいのか、とか」
 そういうもんでしょ、仲間だもん。遊嬉は二ヒヒと笑った。



 ――同じ頃、北中二階西女子トイレ。
「ねーえ、魔鬼。ちょっとだけ。ちょっとだけ話を聞いて欲しいのだけれど……」
 軽く組んだ両手を顔の高さに。丁度懇願こんがんするぶりっ子のようなポーズを取りながら、花子さんはそう言った。
 そんな花子さんと相対するのは、やや呆れたような表情の黒梅魔鬼。
「いや、私普通にトイレ来ただけなんだけど……」
 トイレの入り口に立ち尽くしたまま眉間にしわを寄せられるだけ寄せ、魔鬼はそうぼやいた。
 偶々人が来なかったのか、それとも花子さんの術中なのか、女子トイレの中には花子さんと魔鬼の他には誰も居ない。
 ……厳密にはその他のトイレに住んでいる妖怪(赤紙青紙など)が居るだろうから二人っきりではないのだが、少なくとも今この場に人間は魔鬼一人しか存在しておらず、そして姿を見せている妖怪も花子さんただ一人だけであったというだけである。
 一般生徒には知られたくない「ひみつのおはなし」をするのにはなんとも都合のいいシチュエーションではあるが、呼び出されたわけでもなく偶々来てみたら偶々こんな状態だった魔鬼としてはたまらない。
 というか、非常に足しづらい。用を。
「あ、あのさ花子さん。なんかあるんだったら後で聞くから、今はとりあえず隠れててくれない?」
「ええーー? ……嫌よ、今聞いて欲しいの」
「ええーー、って言いたいのはこっちなんだけど……」
 目の前に立ち塞がる学校怪談の王者をじとりと睨み付けながら、魔鬼は両足をもじもじと動かした。危険が危ない。
 そんな魔鬼の様子を見て、花子さんはやれやれと手を上げた。
 察したようだ。というか、魔鬼としては来た時に察してほしかった。人がトイレに行く用事なんて、普通はソレとかソレくらいしかないのだから。
「わかったわ。すぐ出てよね」
 言って、花子さんはサッと優雅な動きで体を横に退けた。
 塞がれていた個室への道が開く。
 その道を無言のまま進み、魔鬼は適当な個室に入る。危ないところだった。


「思ったんだけれど、別に用を足してる間に話進めてもよかったわね?」
「そんな落ち着かないトイレは嫌だ」
 個室を出るなり妙な事を言いだした花子さんにキッパリと言い放ち、魔鬼はそのまま手洗い台へと向かった。
 少しだけ濡らした手に石鹸液をつけて泡立てる。
 独特の匂いが香る白い泡からは、時折極小サイズのシャボン玉が一つ二つ生まれては数秒だけ宙に浮かび、そして消えていく。
 そんな風に手を洗う魔鬼の背後に立ち、花子さんは先程の話の続きをはじめた。
「ねえ、そのままでいいから聞いて頂戴。すぐ終わるから」
「……いいけど何の話?」
 言って、魔鬼は両手に落としていた視線を上げた。
 その視線の先にある鏡には、魔鬼の姿しか映っていない。
 しかし、見えないながらも確かにそこに居る存在は、魔鬼の視線を受けて静かに切り出した。
「さっき……四時間目の体育の時間、事故が起こったのは知ってるわよね?」
「あーー、やっぱもう花子さんたちも知ってるんだ。なんかそうみたいだね、私のクラスじゃないけど。……なんか怨霊がどうこうとかいう噂も立ってるし、なんなのさ、もう」
 魔鬼はうんざりした風にそう言って蛇口を捻った。やや遅れてジャアと強く水が流れ出す。
 そんな流水の音に重なる様に、花子さんの声が続いた。
「……そこまで知ってるのなら話は早いわね。そう、あれはただの事故じゃないわ。怪事――もっと言えば、呪いから引き起こされたものよ」
 ――怪事。その単語を受けて、魔鬼の動作がピタリと止まった。
 両手を流水につけたまま、一瞬だけ沈黙する。
 その一瞬、女子トイレの中には蛇口から流れる水の音だけがあった。
 何ミリリットルかの水が排水溝の彼方へと流れていった後、バルブを閉ざす固い音と共に完全な沈黙が訪れた。これも一瞬、一瞬だけだ。
 そんな長いようでごくごく刹那の時間の後、魔鬼は背後をチラリと振り返った。
「……マジ? はあ……」
 たった二文字の言葉に込められたニュアンス。驚きと、疑念と、そしてどこか「やっぱりか」と言いたげな溜息。
 それら全てを読み取って、花子さんは静かに首を縦に振った。
 そして小さく息を吸う音を立てた後、大真面目な表情でこう続けたのだ。

トイレの太郎さん・・・・・・・・には気を付けなさい。多分今回の元凶に一番近いところに居るのがあの人よ」

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