四時間目の始まりを告げるチャイムが鳴り終わり、各教室で昼食前の最後の授業が始まった頃。
「何もあそこまで言わなくてもいいんじゃないの?」
生温い風に長い黒髪を靡かせて、花子さんはそう言った。
彼女の頭上には前日から依然として回復しないままの曇り空が広がっており、眼下には昼にしては薄ら暗い校庭が広がっている。
屋上。特別な用件でもない限り一般生徒の立ち入れないその場所に、今は四人の人影があった。
一つは花子さん。もう一つは花子さんと双璧を成す存在の闇子さん。三人目は花子さんの妹分であるエリーザで、最後の一人はたろさんだった。
やや強い風を受け、木々がざわざわと不穏に揺れる。
上空の厚雲はぐるぐると渦巻き、もう少しで泣き出しそうである。
そんな天気を少しばかり気にしたように視線を天に向けながら、花子さんはもう一度言った。
「何もあそこまで言わなくても良かったじゃない」
ねえ、たろさん。そう呟いて、花子さんはたろさんを振り返る。
つられるようにして闇子さん、エリーザの二人もまたたろさんに視線を向ける。
黒いマントをばたばたとはためかせた彼は、学生帽を目深に被り直しながら口を開いた。
「あれで良かったんでござるよ、花子殿。あれは――あの井戸は、例え何かの加護を受けた人間であっても、容易に触れていいような代物ではござらぬ」
「容易に触れていいような、ね。……エリーザから聞いたわよ。貴方、昔あの場所で何があったか知っているみたいじゃないの。なら、教えてくれてもいいんじゃなくて? 私たち仲間じゃない。水臭いわ」
風に乱れる髪を抑えながら、花子さんはたろさんを真っ直ぐに見つめた。
その瞳は一見穏やかなようでありながら、芯の部分に冷たい色を含んでいるようにも見えた。
「例え仲間であっても、あれの事を易々と話すわけにはいきませぬ」
たろさんはそんな花子さんの視線をスッと見つめ返した。
普段ならば後ずさりしてしまうような眼光を直に受けて、しかし彼は一歩も引く事無く堂々と立っている。
狡猾な蛇のような赤の視線と、堂々とした海のような青の視線が交錯する。
時間にして僅か数秒、しかし数秒に詰め込むにしては濃厚すぎる剣呑な空気に、傍観するエリーザは只々落ち着かない心境となった。もう一人の傍観者たる闇子さんはというと、口を真一文字に噤んで二人のその後の行動を見守ろうとしている。
ひゅうと一際強い風が屋上を抜けた後、先に沈黙を破ったのはたろさんだった。
「……きっと花子殿にとって気分のいい話ではござらぬよ。ともすればエリーザ殿にも。いいのでござるか?」
「いいのよ。私はそれを知りたいの。知って納得すれば、諦めるわ」
押し勝った蛇はにやりと笑った。
海は一瞬だけ瞼を半分だけ下ろし、如何にも不服そうな視線を送ると、観念したように話し始めた。
「あれは、今からもう三百年は昔の事になりましょうか――」
その時、ぼちゃんと。どこかで水の音が立った。
深い水の中に重いものが飲み込まれるような、沈み込むようなそんな音が。大きな大きな音が。どこかで上がった。
殆ど同じ頃、烏貝乙瓜はプールサイドに体育座りしていた。
夏のこの時期の体育は水泳である。みんな大好きプールである。
例え空が晴天でなかろうが、雨が酷くない限り、水温が低くなりすぎていない限り、そして何より体育教師がやれると言い張っている限り、どうあがいてもそれは実行されるのである。
尤も、それは水泳選択者のみに適応されるルールだ。
この時期の体育は水泳と器械運動の選択制である。
夏休み前の暑い時期故に水泳選択者が圧倒的多数派だが、諸事情あってプールに入れない・入りたくない生徒や、そんな事よりも純粋に器械運動が好きすぎる生徒は、熱気立ち込める体育館でマットと宜しくやっている。
乙瓜もまた、そんなマットの上でゴロゴロ宜しくやっている連中の仲間だったのだが……。
今、彼女の目の前にあるのはどう見てもプール。日本全国の小中学校で平均的に採用されている25mプールだ。
少々塩素臭い水の中では、水着の生徒が楽しそうに水を掛け合っている。
そのごきげんな光景は、最早授業というよりは少し早目の昼休みである。
水着の男女の和気藹々とした様子を見せつけられながら、体操着の乙瓜は死んだ魚のような目で呟いた。――どうしてこんなことに、と。
時間は四半刻ほど前へと遡る。
まだ四時間目の始まる前。東昇降口前の、職員室にほど近い廊下でへたり込んでいた乙瓜は、偶々職員室から出て来た体育教師と鉢合わせた。
「おう? なにをやっとるんだ?」
その中年で小太りの体育教師――更科は、乙瓜の姿を認めるなり首を傾げた。至極当たり前の反応である。
「す、すみまっ、……いやなんでもないです!」
乙瓜は顔を真っ赤にして立ち上がった。
更科は益々訝し気に眉を顰めるが、そこは大人の対応と言うべきか、一つ咳払いするなり「それより」と話題を変えた。
「それより、丁度いいところで会ったな烏貝。少し頼まれてやってくれない?」
「は、はあ……。何をですか?」
「いんや、大したことじゃあないんだけど」
更科はそう言うなり、小脇に抱えていた出席簿とストップウォッチを「ほい」と手渡す。
そして突然の事に目を白黒させる乙瓜に向かい、こう言い放った。
「さっき急な用事が入って、首藤先生が四時間目出れないんですわ。器械の方は出席扱いにしとくから、烏貝ちょっとプールの方見といてくれない? 出席とったら見てるだけでいいから。あとストップウォッチの方は好きに使って。じゃあよろしく」
矢継ぎ早にそう告げるなり、更科は足早に体育館の方へと去って行った。
再び静けさを取り戻した廊下には、断る隙も与えられずにその場に取り残された乙瓜がぽつんと取り残されている。
首藤先生、というのは、古霊北中学校で体育を指導するもう一人の教師であり、選択授業で屋内・室内で別れる時には更科と分担して生徒の指導・監督に当たっている。
その先生が急遽出られなくなったというので、乙瓜はその代りを押し付けられてしまったというわけだ。
……偶々そこに居合わせたというだけで。
――というわけで現在に至り、乙瓜はプールサイドで膝を抱えている。
プールサイドには彼女の他にも諸事情あってプールに入れない生徒が数人いるが、男子は男子でデッキブラシ片手にプール内の友人とじゃれあっているし、女子は女子で話しかけたらいけない雰囲気で蹲っているし、正直とても楽しくない。
「……授業早く終われ、或いは先生こっちこい」
振り出しそうで振り出さない空を憎々し気に睨みながら、乙瓜は一人そうごちた。
だが悲しいかな、更科が授業終了までにプールに訪れることは恐らくないだろう。
とはいえ、決して更科に悪気があったわけではない。
更科とて本心から一生徒に過ぎない乙瓜に授業の監督を丸投げするつもりはなく、体育館組の出席が取れればすぐにプールに向かうつもりでいた。
しかしこの時体育館では、とある男子の悪乗りにより跳び箱二十段跳びへの挑戦が始まっており、教師として迂闊に目を離せない状況になってしまっていたのである。
無論、そんな事など知らない乙瓜はふて腐れている。
タイミング悪く廊下に居合わせてしまった自分を呪い、そしてタイミング悪く職員室から出て来た更科を呪っていた。
そんな乙瓜の目の前で、第四コーナー前の水がざぷんと弾ける。
「やーっほー乙瓜ちゃ~ん」
そう言って水中から顔を出したのは遊嬉だった。元々水泳を選択していた彼女は、曇天の、しかも幾らか風のある状況下だというのに、いたく楽しそうな様子だった。
「乙瓜ちゃん泳がんの?」
「泳がんよ。水着ないしそもそも水泳とってないし」
「水着貸すよぉ?」
遊嬉は悪戯っぽく笑って水着の肩紐を下ろすようなフリをしてみせた。ちなみに縁のパイピングが白いスクール水着だ。露出が広い。ちょっとだけ。
「貸すっておま……いやいやいや何いってんだ」
「やだなー、ほんの冗談だってば」
二ヒヒと笑うと、遊嬉は一旦水に潜り、ぷはあと再び顔を出した。
そんなちょっぴり意味不明な行動を見て、乙瓜は素朴な疑問を口にする。
「つうか、今日は日差しない上風もあるの寒くねえの?」
「なんで? 水の中はあったかいよ?」
「寒いんじゃねーか!」
意味も無く潜ったり出たりを繰り返していた理由を知り、乙瓜は思わずツッコミを入れた。
遊嬉はあははと笑い、もう一度深く沈み込んでから勢いを付けるようにしてプールから上がった。
濡れた足跡がプールサイドのコンクリートの上にじわじわと広がっていく。強い日差しがあればすぐに蒸発してしまうそれも、今日はすぐに消えそうにない。
遊嬉は乙瓜の隣にでんと尻を下ろし、直後「コンクリート痛え」と涙目になった。
それも仕方ない。コンクリートだもの。
「なにやってんだ……」
乙瓜はそんな遊嬉を呆れた目で見、はぁと溜息を吐いた。
ちなみに今このプールサイドには美術部は彼女と遊嬉しかいない。
二年一組の他もう二人の美術部員――イコール眞虚と杏虎は、今頃マットか跳び箱の上で宜しくやっている。勿論跳び箱の練習を。
「ううぇいっ! やっぱ風あるとなんかさぁむいわ! 太陽カムバック! 戻って来い太陽!」
「なんか暫く曇りらしいぞ。天気予報見る限り」
「はーー、やだやだ! まったく嫌になるね! もう七月だよー? 海開きだよーー? ありえないっしょーマジ!」
太陽戻って来い! と、小さな子供のように喚きながら、遊嬉は厚雲の向こうを睨んだ。
無論、睨んだところでどうにもなりやしない。自然という名の至って科学的であり、そして人知の及ばない現象相手には、人間はひたすらに無力なのだ。
その時、ひゅうと一際大きな風が吹いた。
プールを、ひいては校庭を強く吹き抜けていった風に、その場に居た殆どの生徒が思わず目を瞑った。
乙瓜もまた一瞬だけ目を閉ざした。瞬間暗転した視界の傍らで「私の願いが通じたか!?」という遊嬉の声が聞こえた。嬉しそうな声音だった。
多分恐らく、この突風が雲を空の彼方に追いやってくれるとでも思ったのだろう。なんてプラス思考なんだ、と乙瓜は思った。
刹那の後、皆がスッと瞼を開く。
各々の瞳が景を捉え、途絶する前と変わらぬ像を映し出す。
乙瓜の目の前には相変わらずプールがあり、傍らには相変わらず遊嬉が居る。遊嬉は突風から余計な発想を得たのか、ふんふんと鼻歌を歌いだしていた。
それは乙瓜も聞き覚えのあるメロディだった。『かぜよふけふけ』だ。おそらく日本人の何割かは幼稚園か小学校で歌った覚えがあるであろう、あの歌だ。
「いや、この雲全部散らしたかったら、もっと台風レベルの風をずっと吹かせる必要があるからな?」
小声でツッコミを入れながら、乙瓜は天を仰いだ。
上空の厚雲は墨流しの模様よろしく渦巻いているが、ちっとも消し飛ぶ気配はない。
(そういえば、今年のオリンピックが雨だったら雲散らしミサイルがどうとかなんとか言ってたような……)
最近ニュースで見た話題を思い出しつつ、しかし乙瓜はそれを声に出すことは止めた。
今の遊嬉に余計な知識を与えるのはマズイような気がしたからだ。
(そんな事言った日にゃ、じゃあちょっくら雲斬ってくる、とか言い出しかねんもんな……)
あり得ないと言い切れないのが恐ろしい。そういう人間なのだ、戮飢遊嬉は。
なんて思いながら、乙瓜はまじまじと遊嬉を見つめた。
全ての魔を滅してしまえる力を持った緋尾の剣と、草萼嶽木との契約に寄る超人的な身体能力といった、破格の力を持つ赤目の少女。
(……まてよ、そういや遊嬉の刀も火遠の奴からの借り物なんだよな)
ふとその事に思い至った時、乙瓜の脳裏にたろさんの言葉が再び蘇った。
『例え火遠殿の意向であっても』
(火遠の意向ってなんだ……? たろさんは城址の古井戸の事を忠告した後でそう言ってた……。怪事に何か関係あるのか? それに、俺の目とか、アルミレーナの事とか……。というかそもそも、最近火遠に会ってない気がする。……いつからだ? 目の事気にしだした辺りからか……? ああ……駄目だ駄目だ! 考えることが多すぎて頭の中がこんがらがって来た)
ぶんぶんと頭を振り、乙瓜は自らの両手で自らの両頬をバチンと強く叩いた。
「な、何やってんの!?」
当然の如く遊嬉は驚き、目を丸く見開いている。
乙瓜はそれに「なんでもない」と答えると、スッと立ち上がってぐぃと体を伸ばした。
立ち上がった目線から見える校庭の時計は12時手前を指しており、いよいよこの四時間目の終わりが近い事を告げている。
「……止めだ止め。腹減ってるからかなんもまとまんねえ。飯食って昼休み辺りに考えねえと」
呟き、乙瓜はスゥと大きく息を吸い込んだ。だが傍らの遊嬉は未だ何が起こったか分からずにキョトンとしている。
「ね、ねえ何!? 今の何さ!?」
「なぁんでもない」
「いや、いや明らかになぁんでもなくなかったよゥ!? 遊嬉ちゃんにもおせーてプリーズ!? コワクナイヨ!?」
何やら面白おかしなモーションで食い下がる遊嬉を見て、乙瓜はその時初めて笑った。クスリと小さく笑みを零した。
今朝からずっと考え詰めで強張っていた表情が、その時初めて、少しだけ和らいだのだった。
――その時だった。
ぼちゃん、と。プールの中で音が立った。
何か重いものが水中に沈んでいくような、鈍くも大きな音だった。
乙瓜はハッとしてプールを見た。
泳いでいる男子生徒が見える。隅に固まり、頭だけ出して駄弁っている女子生徒が見える。――そして。
泳いでいる生徒とも駄弁っている生徒とも僅かに離れた、丁度乙瓜の立つ場所から対角線上に反対側の場所で。
ぽこぽこと気泡を上げる黒い塊が、水底に沈んでいた。
誰かが潜水でもしているのか? はじめ乙瓜はそう思った。
だが、その考えは一瞬後には打ち消されることになった。
黒い塊が水中から浮き出る。
それは人の頭だった。塊に見えたのは頭髪の色だった。
その浮き出た頭の主は、間違いない。件の夢の話の大元の一人、墓下だったのだ。
「がばっごぼっ……たすけ……たすけてくれぇ! ごぼぼ……」
墓下は顔を半分ほど浮かせてそう叫ぶと、再び水中に沈んでいった。
周りの生徒は取り合わない。彼がふざけていると思って居るのだろう。
それも無理のないことだ。傍目には墓下が自分の意志で水中に潜って行ったようにしか見えなかったのだから。
だが、プールサイドから見ていた乙瓜にはそうではないことがすぐにわかった。
墓下は溺れていたのだ。
おふざけでも冗談でもなく、本気で心の底から助けを求めて必死で浮上し、そして再び沈んでしまったのだと。
数年前、乙瓜は遊びに来ていた町営プールで人が溺れる瞬間を見たことがあった。
自分より幾らか幼い男の子だった。近くで遊んでいた彼の友達は、彼がふざけているのだと思って笑っていた。
遠からぬ場所で見ていた乙瓜も、騒がしい子がいるなと思ったくらいだった。加え、『まさか、こんな足の着くような浅いプールで人が溺れるわけない』という思い込みもあったのだ。
けれど血相を変えた監視員が飛び込んできて、乙瓜も周囲の大人たちも、そこで初めて男の子が本当に溺れていたことに気付いたのだ。
乙瓜はその日プールで見た光景を思い出していた。
本当に溺れている時、周囲は存外気付かないものだ。
一方で、遊嬉もまた墓下が溺れていることに気づいていた。
――人はお風呂でも溺れることがあるんだよ。だから足が付くからって安心ってことはないんだ。
墓下の様子を見るなり遊嬉の脳裏に浮かんだ言葉は、海辺でライフセーバーをしていた親類からの受け売りである。
――助けなくては。明確にそう思考するより早く、遊嬉はプールに飛び込んでいた。ほぼ同時に、乙瓜もまた声を張り上げる。
「おい! 墓下本当に溺れてるぞ! 助けてやれ!」
突如響き渡った言葉に、その場に居た男女問わず唖然とする。
誰もがすぐには動き出せなかった。要因の一つは、「まさかそんな大袈裟な」という心理。もう一つは、クラス内では物静かな方である烏貝乙瓜が突然大声を上げたことへの困惑。
数秒か、十数秒か、まるで乙瓜以外の時が止まったような沈黙があった。
しかし乙瓜のあまりに必死な形相にただならぬものを感じ取った生徒が漸く動こうとしたときには、既に遊嬉が墓下が溺れた現場に到着していた。
「舌切とダイちゃん、その他男子! ぼーっとしてないで引っ張るの手伝って!! あと誰か更級先生と担任、保健の先生呼んできてッ!!」
遊嬉によって具体的な指示が叫ばれ、凍った時が動き出した。
それから一分もしない間に、遊嬉と遊嬉に働かされた周囲の男子によって墓下は救出された。
プールサイドに引き上げられた彼はぐったりとして意識がなく、しかし辛うじて息はあるようだった。
保健委員の女子は慌てて保健室へと走って行った。話しかけたら全員殺すとでも言いたげな表情でずっと見学していた娘がそうだった。……見学の理由は敢えて聞くまでもあるまい。
体育館に居る更科の所にも見学の中から数人が走って行った。
「しっかし別人みたいにやつれてんな……」
横たわる墓下を見て、誰かがそう呟いた。確かに、と乙瓜は思った。
健康そのもので血色のよかった墓下の顔は、今や土気色に染まっており、目の下の濃い隈のせいで顔全体がミイラのように落ち窪んでいるように見える。
まるで精気が感じられない。まるで……そう。死人の様だ――。
ぞくり、と。乙瓜の背に冷たいものが伝った。
あの憎たらしく腹立たしい墓下が、たった数日でこんな風になってしまうものかと戦慄した。
そしてたろさんの警告を思い出したのだ。
『これから辛いやも知れませぬが耐えて下され。さすれば乙瓜殿とそのお友達には危害はありますまい』
――これから。
そう、あの時たろさんはこれからと言ったのだ。
四時間目の前に。今より前に。これから、と。確かにそう、言ったのだ。
(もしかして、たろさんが伝えたかったのはこういう……?)
ぞくり、ぞわり。乙瓜の背筋にもう一度冷たいものが走る。
冷や汗か、悪寒か、いいや、そんな瑣末な事はどうだってよかった。
今、烏貝乙瓜が今。確実にわかる事といったら。
「これは確実にマズイ」という、漠然とした恐怖だけだった。
(い、いや。でも墓下は死んじゃあいないんだ。多分きっと、おそらく、一番最悪なケースだけは避けられた筈なんだ……)
自分自身に言い聞かせるように考えながら、乙瓜は無意識のうちに胸に手を当てていた。
自分を落ち着かせるように、或いは何かから心臓を守るように。
彼女が宛がった右手の下で、彼女の心臓はどくどくと早鐘を打っていた。
――まだ、嫌な予感がする。
その時だった。
「おおーーいッ! 誰か職員室行って男の先生呼ばって来いぃッ!! 急げェ!!」
野太い怒声が体育館から響く。見ると、体育館の入口の外に必死の形相で叫ぶ更科の姿があった。
「どうしたんですかぁッ!?」
誰かが問い返すと、更科は怒鳴り声で「いいから」と放った後、少し冷静になったのか、顔を青くしながらこう続けた。
賽河原が跳び箱の下敷きになったんだ、と。