「黒梅先輩も他の先輩たちも、一体何を考えてるんだろ……」
自室のベッド状に伏せりながら、古虎渓明菜はそうぼやいた。
時刻は既に夜の九時を回っている。既に夜の帳の落ちた屋外は暗く静まり返っている。
静寂。時折森の梟がホゥホゥと鳴く声が静寂を破るのを聞きながら、明菜は先輩達と別れる直前の会話を思い出していた。
「まず、現在の状況を一から整理しよっか」
押して進む自転車のチェーンがカラカラと鳴る帰り道。そう切り出したのは、確か遊嬉だった。
「雛崎を襲ったのは雛崎の嘘を血肉として姿形を得た古霊町中の雑霊たち。雑霊は姿も形も目的すらも忘れてしまった霊魂で、故に成仏することもできず現世や妖界を彷徨っている。ここまでオーケィ?」
確認するように人差し指を立てる遊嬉に、明菜はコクリと頷いた。
遊嬉はそれを見てニッと口角をあげ、大きな声で「よぅしいい子だ!」と言って笑った。
そんな遊嬉を見て、明菜はほんのりと顔を赤く染めた。
その理由は褒められて嬉しい事が半分であり、もう半分は天下の往来で大声を上げる先輩を少し恥ずかしく思う気持ちで出来ていた。
「そんじゃ続けよう。雛崎の嘘から成った怪異は、雛崎の事が邪魔だった。何故なら嘘から生まれたヤツらは嘘の生みの親である雛崎に否定されたら消えてしまうから。だから、雛崎を消そうとした」
「それはなんとなくわかります。……けど、何で今日このタイミングで襲われたんでしょうか?」
明菜が腑に落ちないといった表情を浮かべていると、徐に眞虚が口を開いた。
「古虎渓さん。あのね、雛崎さんの怪異はこの古霊町の雑霊が元になってるの。雑霊は姿も形も目的も持っていないから、何かが欲しくて噂に寄って噂を齧る。その噂の中に、私たちの。私たち美術部の噂が含まれていたって、何もおかしくはないんだよ」
だから、と眞虚が一旦区切った言葉の続きを紡いだのは、眞虚ではなく遊嬉だった。
「――だからあちらはこちらの事を知っている。知っているから焦る。焦ったから、襲った。あたしたちが何かする前にやってやろうってね。だけど奴らは雛崎を仕留められなかった。あたしらが戻って来たから。奴らからすればさ、こんなところで消えるわけにはいかないっしょ。だからあたしたちが二度目に雛崎ん家に着いた時は既に逃げ出した後だったってワケ」
遊嬉はそこで一旦息を吸い、「でもね」と続けた。
「奴らは絶対あきらめないよ。あたしらの居ない隙をついて、絶対に雛崎を襲いに来る。だから今夜が山。何かあるなら確実に今夜。雛崎の運命もここで決まる。デッド・オア・アライブ、生きるか死ぬか」
――だから今夜が山。何かあるなら確実に今夜。
頭の中で繰り返される遊嬉の言葉に、明菜は深く溜息を吐いた。
(今夜が山。だから先輩達は今夜の内にカタを付けるつもりなんだ。あの後先輩とも寅譜さんとも別れちゃったけど、あの先輩達のことだから帰らないで待ち伏せとかしてるんだろうなあ……)
ごろりと体制を変え、明菜はベッドに仰向けになる。
天井にぶらさがった室内灯の円い明かりは、蛍光管の寿命が近いのか、幾らか暗く感じられた。
――ところで、古虎渓さん家夜間抜け出しおーけー?
不意に魔鬼の言葉が脳裏を過った。
遊嬉が現在の状況を整理しだすより前に、魔鬼が嫌に上機嫌な様子で言ってきた言葉だ。
あの後、明菜は条件反射的に頷いてしまった。
後輩の悲しき性ともいえる。案の定というべきか、直後明菜は後悔した。やってしまった、と。
少なくとも明菜の感じている限りでは、彼女の両親は子である明菜に対して特に厳しすぎるわけでもなければ甘すぎるわけでもない。
だが、去年までランドセルを背負っていたような娘が日の沈んだ夜中にこっそり家を抜け出すなんてことをしたら、確実に心配され、そして怒られるだろう。
両親が血相を変えてオロオロする姿と、額に青筋を浮かべてカンカンに怒る姿の両方を想像してしまい、明菜は少しゾッとした。
だがしかし後の祭りかな。
明菜の頷きを肯定と取った魔鬼はにっこりと笑顔を作るなり、「時間になったら使いを寄越すから待っててね」とのたまった。押しに弱い明菜はここでまたしても「はい」と肯定してしまい、遂に後へは引けなくなった。
こうなってしまったらもう腹を決めるしかない。
明菜はもうどうにでもなあれといった心境のまま家へと帰り着くなり、脱いだ靴をこっそりと自室の窓の外へと運んだ。
古虎渓家は昔ながらの平屋であるため、窓を開ければ簡単に庭へと降りられる。明菜の部屋の窓は道に面している為、慎重にすればしばらく家族に気付かれる事はないだろう。
「……というか前から思ってはいたけど、私の先輩ちょっとおかしいって! 寧ろあの人たちの家どうなってんの……うう~……んもう!」
面と向かって言えない言葉を吐き出して起き上ると、明菜は押入れから荷造り用のビニール紐と羽毛布団を取り出し、布団を丸太のようにまとめはじめた。
所謂身代わりである。
寝床を膨らませて暗くしておけば気付かれる確率が減るだろうと、彼女なりに精一杯考えた結果がそれだった。
「ええいもう仕方ない、こうなったらやるとこまでやってやるんだから……! こっそり行って! こっそり見届けて! ……だからどうか、誰にも気付かれませんようにっ……!」
願掛けするように布団を縛る彼女はまだ気付いていなかった。自分が確実に"おかしな先輩たち"の影響を受けつつあることを。
――同刻、古霊町南西。
国道沿いの閑静な住宅地に存在する木造二階建て。
他の家屋と比べて浮くこともない質素なその建物は、怪談小説家にして都市伝説・口裂け女である狩口梢の自宅である。
その家に狩口が居るのは当たり前であるが、今は彼女の他に本来居る筈ではない人物が二人ばかりいた。
黒梅魔鬼と烏貝乙瓜。帰路に着いた筈の彼女たちは、明菜と別れた後で踵を返し、大急ぎで自転車を漕いで狩口家へと急行した。
その理由は単純なもので、単に彼女らの家よりも狩口の家の方が雛崎家に近かったからである。
打ち合わせもなにもあったものじゃない、ともすればはた迷惑な話だが、美術部の人となりを知る狩口は快く二人を迎え入れてくれた。
ちなみに狩口はあの後雛崎家で二階にぶちまけられた水をなんとか拭き取った後、夕飯の支度があるからと一足早く帰宅していた。
そして一通りの準備を済ませて夫の帰りを待っていたのだが、残業になるとの電話が来てしまい、少し落ち込んでいた。
乙瓜と魔鬼が訪れて来たのは丁度そんな時であり、ある意味タイミングが良かったともいえる。
そんなこんなで夕食の時間も終わり、狩口家の居間ではつけっぱなしのテレビから面白いのか面白くないのかよくわからない番組が淡々と流れていた。
狩口はその音声をぼんやりと聞き流しながら、徐に背後を振り返った。
「ところでお二人、ご家族にはなんて?」
彼女が大きめの声を投げかけた先には風呂場があり、先程からずっとシャワーの水音が響いている。その音は狩口の声の後にピタリと止まり、代わりにややエコーがかった魔鬼の声が返ってくる。
「身代わり置いてきたから大丈夫ですよー」
「身代わり?」
「使い魔の見かけだけ私っぽく偽装してみたんですー」
悪びれる様子もなくそう言い放つ魔鬼に、狩口は少し呆れたように「不良ねえ」と返した。
「乙瓜ちゃんの方はどうなの?」
改めて乙瓜に対して狩口が問うと、脱衣場の引き戸がガラガラと開き、乙瓜がひょこりと顔を出す。
「大丈夫ですよ」と言いながら居間へと戻って来た彼女は、上下の下着の上にボタンのかけられていないブラウスをかけただけという、非常にはしたない恰好をしていた。
「コラ、ちゃんと服着てから出てきなさい」
「えぇー……いいじゃないすか、今狩口さんしかいないし」
「駄ー目ーよー。風邪ひくでしょう」
いいから着なさいとたしなめられ、乙瓜は渋々といった調子でボタンをかけはじめた。
狩口はそんな彼女を見てやれやれと溜息を漏らすと、思い出したように話を戻した。
「本当に大丈夫なの?」
その言葉に、きょとんとした様子で「何がですか?」と返す乙瓜に、狩口は内心呆れながら「お家への言い訳」と口にした。
乙瓜はそれを聞いて「ああ」と軽く首を振ると、「その事なら本当に大丈夫なんですよ」と、先程と同じ内容を繰り返した。
「前は杏虎がこっそり根回ししてくれてたんだけど、最近は怪事に関係ある時だけ火遠の奴が俺の家族にちょっとした術みたいのかけてるんで。態々根回ししなくても居なくても気づかれないというか、気にならないというか……まあ、そんな感じなんですよ」
「ふぅん……」
納得したようなしないような、そんな曖昧な返事を返しながら、狩口は思った。最近はちょっと"悪い子"が多いわね、と。
(私が"現役"の時代じゃなくてよかったわ。夜歩きしてるような悪い子なんて、私たちみたいなオバケから見たら恰好の餌食だもの)
夜の闇が今よりもずっと黒々としていた時代を少しだけ懐かしみながら、かつての都市伝説の怪物は不意に時計に目を遣った。
柱時計の時刻は既に夜9時を過ぎ、間もなく半を回ろうとしている。
「すっかり夜ねえ」
彼女がぽつりと漏らしたその瞬間、脱衣所の戸がまた開き、湯上りの魔鬼が姿を現した。
「狩口さーん。お先お湯いただきましたー」
居間に来てぺこりと頭を下げた彼女は、乙瓜と違いきちんとスカートまで穿いたブラウス姿だった。
だが、彼女の姿はいつもとは少し違っていた。それはタイツを履いていないのもあるが、何より髪を下しているのが大きい。
加え、普段は右側に流している前髪が左右に分けて下りており、彼女は一見してちょっとした別人のようになっていた。
「やだわぁ、魔鬼ちゃん髪下ろしてると別人さんみたいね? どこの子かと思ったわ」
「ええー? そうかなぁ……?」
魔鬼は照れ臭いのか恥ずかしいのかよくわからない調子でそう言うなり、そそくさと前髪を弄り始めた。
間もなく「別人さん」の魔鬼は姿を消し、前髪だけはほぼいつも通りになった魔鬼が戻ってくる。
「そのまんまでもよかったのになー」と乙瓜が言う。狩口もそれに便乗して「可愛かったのにねえ」と続ける。
「別にいいでしょ!」と反論した魔鬼は、しかし直後狩口を隔てて向こう側に見える時計に気付き、「あっ」と口を開ける。その様子を見て時計を振り返った乙瓜は「おっ」と呟き、「時間だ」と続ける。
「そろそろ行かなきゃ」
「おう」
魔鬼・乙瓜は互いに頷き合うなり、居間の隅に置いたままの各々の荷物を取って急ぎ足で玄関へと向かった。
取り残された狩口が一歩遅れて廊下に出ると、二人はくるりと振り返って一礼した。
「狩口さんご馳走さま、お風呂ありがとうございました! 俺たちちょっと行ってくる!」
「ありがとーございましたぁー!」
早口で言うなり、彼女らは靴を整えて屋外へ飛び出していった。
「ああ、あの! ちょっと待ちなさい!」
狩口は二人を引き留めようとするが、時すでに遅し。
閉じるドアが彼女らの姿を隠し、続けざまに聞こえる自転車のスタンドを倒す音とチェーンの音が、もう手遅れだと教えてくれる。
「……夜遅いから送って行こうかと思ったのに」
困った子たちね、と彼女は呟く。その数秒後、狩口家の固定電話がけたたましく鳴り響いた。その電話の主は彼女の最愛の夫で、やっと残業が終わって帰れるといった内容だった。
「本当に、今日はタイミングがいいこといいこと……」
一人きりになった家の中で、狩口はクスリと笑った。
自転車を漕ぎだすなり、魔鬼は二体の使い魔を飛ばした。
一つは古虎渓明菜に。そしてもう一つは、小鳥眞虚の所にだ。
怪事に対抗する仲間内で眞虚にだけ使い魔を飛ばすのは、実はちょっとした理由があるのだが、それは後程。
ただ一つ言えるのは、少なくとも今夜の内に乙瓜・魔鬼と眞虚・遊嬉・杏虎が合流することはない、という事だけだ。
「古虎渓さん来るかな?」
自転車を飛ばして約束のコンビニを目指しながら、魔鬼は前方を行く乙瓜に問う。振り返りもしない彼女からは、「わからんね」という言葉が返ってくる。
「だよねぇぇ……。ううう……どうしよう……。先輩命令だと思ってハイって返したけど、本心は滅茶苦茶嫌だなって思ってたらどうしようぅぅ……」
「なんだ、おまえそんな事気にしてたのか」
「そんな事って言うなよぅ、私にしたら結構大事なんだよぅ……あああごめんよ古虎渓さん……。なんかそのこと考えたら胃が痛くなってきたぜ……」
どうやら明菜に来れるかどうか尋ねたことで嫌われたのではないかと今更になって本気で悩んでいるらしく、魔鬼は景気の悪い言葉を連発する。
「……おいおーい。これから雛崎の件をどうにかするってのに大丈夫かよぅ」
乙瓜は勝手に落ち込みムードに陥っている相方を「やれやれ」と思いながら、自転車を漕ぐ足の力を緩めた。魔鬼に並走できるまで速度を落とし、乙瓜は言った。
「そんな心配すんなって。どうしても気になるなら後で一緒に古虎渓さんに謝ってやるから」
「……本当に? ……一人だけ逃げない?」
「逃げない逃げない。その代り、今日の怪事は本当にお前いないとどうにもならんから本当に頼むぞ?」
じゃ、と手を振り、乙瓜は再び自転車の速度を上げる。
また残された魔鬼は、数秒だけ「んー」と考え込むように唸った後、いきなり気合を入れるように一声叫んで自転車を漕ぐ足に力を込めた。
(仕方がない、もうやっちゃったことは仕方ない! から! まずは今起こってる事を全力で解決する事に専念する!)
暗闇の田舎町を走る自転車は、やがて前方にコンビニエンスストアの明かりを見る。
狩口家から飛ばして10分、雛崎家にほど近い、件の約束のコンビニ。
24時間営業とはいえ、昼間よりはいくらか閑散とした様子の駐車場の隅には、パーカー姿の小柄な少女が隠れるように縮こまっている。
服装は見慣れたものとは違えども、それは紛れもなく古虎渓明菜の姿だった。
「先輩達遅いですよぉっ!」
二人の姿を認めるなり走り寄って来た明菜は、よほど心怖かったのか半べそをかいていた。どうやら彼女は魔鬼・乙瓜の来るよりずっと前からコンビニで待機していたようである。
だが、魔鬼はそこで「はて?」と首を傾げる。確か明菜の家はこの近辺でなく、使い魔が明菜の家に到達する時間を考えても、彼女に魔鬼達の先回りをすることなんて不可能に近い筈だ。
「えっ、古虎渓さんいつからここで……!?」
もしやずっと待っていたのでは? と魔鬼が問うと、明菜は涙目のまま首をふるふると振った。
「ちがうんですよぉ……! 来たのはさっきで、さっきなんですけど……」
「……んん? 何、どういうこと?」
魔鬼はまったくわけがわからず当惑してしまった。一体何がどうなっているのかわからない。自然と眉間にしわが寄って行く。――その時だった。
「古虎渓明菜を連れて来たのは君の使い魔なんかじゃあないよ」
乙瓜のものでも明菜のものでもない第三者の、しかし聞き覚えのある声が明菜の後方から聞こえて来たのは。
「おまっ……、まさか、なんで!?」
魔鬼が明菜に落としていた視線を上げた先に居たのは案の定。
胡散臭い笑顔で「やあ、お疲れ様」と手を振る、草萼火遠の姿があった。