怪事捜話
第五談・壺とお札と壊れた家⑩

「火遠お前……どうしてお前が古虎渓さんと一緒に居るんだよ!?」
「そんなに驚くこともないじゃあないか乙瓜。全く心外だなあ」
 思わず大声を上げた乙瓜に対し、火遠はやれやれと言わんばかりに両手を上げた。
「大体、君たちみたいに肝の据わった不良学生ならいざ知らずだよ? まさかこんな夜中のこんな真っ暗な道を、女の子一人で来させるつもりだったのかい? まぁったく、大した先輩だよ君たちは」
 そこで一つ溜息を吐き、火遠は明菜の肩に手を置いた。
「俺はね。そんな無茶ぶりをされて尚健気にもコンビニここを目指そうとしていた彼女に少々手を貸しただけだよ。悪いかい?」
 そんな言葉を受けて、乙瓜も魔鬼もぐぅの音も出ない様子だった。
 だが、その一方で、未だ火遠に手を載せられている明菜は、何かとてつもなく恐ろしいものに出会ってしまったかのようにわなわなと震えている。
 その理由は、火遠が言う所の「少々手を貸した」事の内容にあった。
 火遠が明菜の前に現れたのは、魔鬼たちが丁度狩口宅でのんびりとお湯に浸かっていた頃であった。
 自室にて魔鬼の「使い」を不安半分期待半分で待っていた明菜の前に現れた火遠は、何の説明もなく明菜を名状しがたい空間へと引きずり込んだ。
 その名状しがたい空間とは、今更説明するまでもないこの世ならざる者たちの住む空間――即ち妖界である。
 景色は不気味な赤と黒に彩られ、天も地も曖昧となり、時折影を固めたような魚の群れが通り過ぎるそこは、過去に引き込まれた経験のある乙瓜などからすれば何も恐れることのない場所であるが、明菜は初めてなのでそうはいかない。
 生まれてこの方、少なくとも北中美術部と関わりを持つまでは、歴史に残るような大事件にもドラマチックな出来事にも特に巻き込まれずに生活してきたような人間が、思いつく限りの奇々怪々を一面にちりばめたような空間へ突として放り込まれたのである。その心中は推して測るべきだろう。
 そう。事もあろうに、自分ではいいことをしたと思って平然としているこの妖怪・草萼火遠は、何の説明もない初見には衝撃的過ぎる妖界くうかんにいきなり明菜を引っ張り込み、そこをショートカットとしてコンビニまでやってきたのである。
 しかも件の二人が現地付近に到達するまで暫し妖界待機という鬼畜のオプション付きで。
 とまあそういった事情があるからこそ、明菜は二人の到着を本当に紛れもなく心の底から切実に待っていたのである。
 ……が、当の待たれ人二名はそんな事情など知る由もない。ましてや明菜が何故震えているのかなんて。そんな事・・・・、彼女達にはわかりっこないのだ。
 場には一応「古虎渓さんごめんね」という雰囲気が流れているものの、明菜からすれば「そうじゃない」のである。
(ややややっぱり、私の先輩達なんかみんなどっかおかしい……! ずれてる!)
 とても口には出せないような事を心の中で叫びながら、明菜はただただ震え続ける他なかった。

「まあ、火遠が古虎渓さんを連れてきてくれたってのはわかったけど。……わかったけど、今更何しに出て来たんだ? まさか古虎渓さんを送るだけってこたぁねえだろうし、かといってこれからついてきたって、やる事なんかなーんもないぞ?」
 そんな中、ふと乙瓜が疑問を口にした。それは至極当たり前の疑問だった。なにせ美術部の視点からすれば、今回この怪事について火遠が介入してきたのは殆ど初めてのように思えたからだ。
 実際のところは花子さんに美術部に声がかかるまでの裏側で、彼を含む学校中の妖怪が雛崎と美術部の動向を観察していたりしたのだが――そんな事、勿論美術部の知ったことではないのだ。
 何も知らない乙瓜の何も知らないなりの疑問を受けて、火遠はくくっと笑った。
「そんなの決まってるじゃあないか。君たちがこれからしでかそうとしていることを見届ける為だよ」
 その言葉に、乙瓜と魔鬼は口を揃え、全く同じ調子で「見届けるぅ?」と返した。火遠はそれが可笑しかったのか、口元を緩ませて「ああ」と頷いた。
「君たちの動向、花子さんの招集を受けた後からここまでずっと見させてもらったよ」
「ずっとって……ずっとか? 家から閉め出された時も水浸しを掃除した時もずっといたのかよ!?」
 居たんだったら何かしら手伝ってくれてもよかったのに!? と言わんばかりの乙瓜に悪びれもせず頷き、火遠は続けた。
「試しに何一つ口出ししないでいてみたらどうなるかと思って黙っていたけれど、まあ、良かったじゃあないか。もう別段誰かの手を借りずともなんとか出来る方法を思いついたんだろう? ここに来なかった連中も、それはそれでやる事があるようだし――」
 火遠はそこまで言って一旦区切ると、どこか楽しそうに、そして小馬鹿にしたように目を細め、それから言った。

「それじゃあ見せてもらおうか。君たちなりの解決法を」



 時刻はほんの数分前に遡る。
 まだ乙瓜や魔鬼が全力で自転車を漕いでいる頃、雛崎燿子は自室の布団の中で目を覚ましていた。
「あ……れ……。私、なんで……」
 ぼんやりと独り言を吐きながらのそりと起き上る雛崎からは、夕方から今までの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
 気絶していたのだから当然と言えば当然ではあるのだが、彼女自身の意識の中では「気絶していた」という感覚はない。
 彼女の記憶は、美術部を追い払った後に聞いた雨の音で終わっていた。
(いつの間に寝てたんだろう? それに洗濯物込んだっけ……。ご飯も、食べたかな……)
 そんな事を考えながら辺りを見渡す雛崎だったが、その疑問に答えてくれる者は一人も居ない。
 父も居ない、母も居ない。兄弟なんて元よりなくて、この家には雛崎燿子という人間が一人居るだけである。
 唯一、部屋の柱に掛けられた時計とカーテン越しでも伝わる夜の暗さが、現在時刻がもう夜中の十時近い事を教えてくれるが、それは雛崎の知りたいことではない。
「わからないや……」
 思考は起き上った直後より鮮明になっていたが、いくら思い出そうと考えた所で自分自身の疑問に対する答えを見つけることが出来ず、雛崎は頭を抱えた。
 途方に暮れつつほんの少し体の向きを変えた時、雛崎は枕元に紙切れが置いてあることに気付いた。
 長方形の白い紙切れ。ほんの少しだけ"お札"を想起させる物体に雛崎は一瞬表情を歪めるが、すぐにそれが単なるメモ用紙であることに気付く。
 訝しみながら拾い上げてみると、そこには彼女の叔母の字でこう書いてあった。

『一旦帰ります 何かあったらいつでも電話してください あとお友達に宜しく伝えておいてください』

 その内容に雛崎は首を傾げた。短い文面を何度も何度も読み返し、一言一句の読み違いも無い事を確認してから、彼女はポツリと呟いた。

「友達って……誰の友達?」

 その時だった。
「ようこちゃん、むかえにきたよ」
 雛崎の耳がそんな声を捉えたのは。ねっとりとした声音。
 しかし何かに阻まれるようにぼやけたその声は、窓の外から聞こえてきているようだった。
「――ッ!?」
 飛び上がらんばかりの勢いで驚く彼女に追い打ちをかけるように、コン、コンと音がする。
 固いもの叩くようなその音を、雛崎は一瞬何の音かと考えたが、すぐにそれが窓ガラスを叩く音だと理解した。
(誰かが、窓の外から叩いてる……!?)
 雛崎は息を飲んだ。こんな時間に、誰が、何の用でこの家の窓を叩くというのか。
 今晩に限らず、この家には自分一人しかいない。お札の家とそんな家に一人残って住んでいる変わった子供の話は近所中を駆け巡り、今では殆ど叔母くらいしか訪ねてこないというのに。
 一体、誰なのだろうか。
 彼女は恐る恐るながらも立ち上がり、そろりそろりと窓辺へと近寄った。
 一歩一歩、物盗りとも人殺しとも知れない得体の知れない存在が僅か1cm未満の向こう側に潜むその場所へ。
 怖いという気持ちが無いわけではなかった。否、寧ろ初めの一声を聞いた瞬間から全身が粟立ち小刻みに震えているくらいに恐ろしかった。
 だがそれよりも、父も母も不在のこの家を、雛崎一家が確かに在ったという証たるこの家を守らなければという気持ちが先に出た。
 しかし、カーテンに手を掛けかけたところで彼女は気づいた。気付いてしまった。
(――ここ、二階だ)
 そう、雛崎の部屋は二階。
 そして叩かれている窓の外には足場となるようなベランダも屋根もなく、そこに伸びる木の類も一切ない。
 ――だのに。恐らくこのカーテンを開けた先に居る存在は、果たしてどのようにして窓を叩いているというのだろうか。
 それに思い当たった瞬間、雛崎の足からフッと力が抜けた。
 声にならない声を上げながらとすんと尻餅を突いたのと同時、外からの物音が一層つよくなった。
 控えめにコンコンと窓を叩く音は、ガラスを突き破らんばかりの勢いに変わる、同時にがなるような声で「開けろ開けろ!」と繰り返す声がけたたましく響き渡る。
「きゃああぁぁあぁあぁああぁぁぁッ!!」
 流石の雛崎もこれには打ちのめされ、遂に悲鳴を上げてしまう。
 そんな彼女に追い打ちをかけるかのように、窓の向こうの存在を覆い隠していたカーテンがひとりでに開く。
 とばりは消え去り、咄嗟の事で目を瞑ることすら出来なかった雛崎の前に、それは姿を現した。
 窓の向こうの一面の真っ闇。
 深く黒く、夜の闇にも似たそれはしかし、只の風景などではない。
 容赦なく窓ガラスを叩く真っ黒な手があり、開けろと叫ぶ口があり。――そして、鈍く赤く輝く瞳があった。

「ようこチゃんムかエニきたヨ。ココをあけテ、イッしょニナろウよ。あケテあけてアけてあけテあけろあけロあけろあけロアけろあけロあケろあけろ」

 明らかに人とは一線を画した存在であるそれは、雛崎の姿を見てニィと厭らしく目を細め、男とも女ともつかない気味の悪い声でそう繰り返している。
 雛崎はもはや悲鳴はおろかうめき声の一つも上げることすらも出来ず、只々地上に打ち上げられた魚のように口をパクパクと動かす事しか出来なかった。
 ぎこちない動作で後方に下がろうとするが、手足が思うように動かず逃げ出すことが出来ない。
 それでいて視線は窓の外のものから反らす事が出来ず、雛崎は目の前の恐怖の現実から逃れる術を失ってしまった。
(そんな、まさか、こんなことが本当にあるなんて……あるなんて……)
 奥歯をガチガチと鳴らしながら、彼女は思った。
 こんなこと・・・・・在る筈がないと思って居た。
 そんなものは迷信で、お話の中にしか存在しなくて。だから幽霊だか妖怪だかを本当に見たなんて人は殆どいないし、そういったものが在ると大っぴらに吹聴して周ってる人間なんて所詮はお金儲け目当てで、自分の父もまたそんな連中に騙された被害者の一人であると。
 雛崎はそう思っていた。父が居なくなったあの日から今までずっとそう信じてきた。
 だが、今現実として奇怪なモノが目の前に在り、それが放つ圧倒的な恐怖の前に、雛崎はもはやどうすることも出来ないでいた。
(今分かった、漸く判った。嘘みたいな話しか残ってないのは、幽霊を見た人が少ないのは、みんな死んじゃうからなんだ……!)
 ある種狂気へ向かいつつある精神状態の中、雛崎は理解した。それと同時に、とある言葉が脳裏を過る。

 ――美術部が、また怪事件を解決したらしい。

 それは学校で耳にした、それこそ根も葉もない噂。
 単なる文科系の一部活動に過ぎない筈の美術部が、街に出没する"ひきこさん"なる化け物を倒したとか倒さなかったとか、そんな噂でクラスが盛り上がっていた時に、誰かがポツリと言った言葉だった。

 ――古霊北中学校には幽霊が出る。
 ――学校にお化けが出ても、美術部が退治する。
 ――美術部がきっと何とかしてくれる。

 散々馬鹿にして中傷して嘘をついてまで妨害しようとしてきた"美術部"についての噂。
 その胡散臭くて無責任でいい加減な噂の数々が、何故か脳裏に浮かんで止まらない。
(無責任で、馬鹿らしくて、嘘っぽくて、許せなくて……私酷い事いっぱい書いた、酷い態度を取っちゃった。あの先輩たちは関係ないのに、所詮噂なのに……っ。せめて……謝っておけば、よかった)

 今更謝れたところで、きっと自分のしたことは許されない。
 美術部が助けてくれるなんて都合のいい話があるわけがない。

 焦燥から懺悔へ、懺悔から諦めへ。壊れる気配こそないものの、延々と叩かれ続ける窓ガラスと、縛り付けられたようにこの場を動けない自分。
 きっとこれは自分への罰で、自分はもう永遠にこの場所で存在に怯え続けなくてはならないんだなと、雛崎は思った。
 そして、助かる事を諦めて。彼女が目を瞑ろうとした――その瞬間。


穿つ暁星の稲妻ヘオス・アステル・アクティース!」


 化け物の立てる音や声を縫って響き渡る言葉に、雛崎はハッと我に返った。
 まるでゲームの中の必殺技を叫んだような、ともすれば場違いなその台詞に目を見開くと、窓の外の真っ黒闇に眩い閃光が走るのが見えた。
 雷光の如き鮮烈な輝きは闇を裂き、煙のように散らしていく。
「なに……これ、なにこれ……!?」
 雛崎は無意識のうちに立ち上がっていた。ほんの数秒前まで縫い付けられたように動かなかったのが嘘のようだった。
 しかし本人にはもはやそんな事などどうでもよく、あんなに恐れていた窓に張り付いて外の様子を窺った。
 彼女が覗いた窓の外には、既に細切れになって霧散していく闇があった。
 その向こう、家沿いを走る細道には、街灯の明かりに照らされて見覚えのある人物が仁王立ちしていた。
「……あの人、は……!」
 驚き窓を開けるのと同時、こんな時間だというのに制服に身を包んだその人物は「警告一つ」と声を張り上げた。
「警告ひとーぉつ! しょーもない嘘をついたことを認めなさい! 出来れば口に出して認めなさい! でないと今度はそこの窓を突き破ります!」
 そう言って、古霊北中の制服姿の少女――黒梅魔鬼は、顔を出した雛崎に向けて何かを向けた。
 雛崎は最初それが何なのかわからなかったが、よくよく見てみてそれがプラスチックの安っぽい定規であると気付いた。
 なんともシュールな光景だが、先程の閃光を見ていた雛崎はなんとなく気づいていた。――彼女なんだ、あれをやったのは。と。

 ――北中美術部には、お化けを退治する集団がいて。魔法使いの先輩やら、護符をやたらと投げる先輩やらが居るらしい。

 全くの嘘っぱちだと思って居た噂が、今ではすんなりと信じられる。雛崎は大きく息を吸って、見下ろす先の彼女にも聞こえるように声を張り上げて言った。

「……っ、ごめんなさい! 雨の噂は私の作った作り話ですッ!」

 それを聞いて、見上げる魔法使いはニッと笑った。

 その日その瞬間、雛崎燿子はみつけていた。否、もしかしたら最初から分かっていたのかも知れない。
 自分が本当に憎んでいたものの正体を。自分がこの壊れた家に固執していた本当の理由を。

「そっか……。私、誰も信じられなくなってたんだ……」
 呟いて、雛崎は手のひらにずっと握りしめていたものに気付く。
 もはやぐしゃぐしゃに丸め固められたその紙を見つめながら、彼女は静かに涙した。



 街灯の疎らな夜の道に、二台の自転車のチェーン音が静かに鳴り響く。
 その音の主は言うまでもなく黒梅魔鬼と烏貝乙瓜の二人が運転する自転車であり、相変わらず先陣を切って進む乙瓜の自転車の後方には古虎渓明菜がちょこんと座っている。
「……っていうか黒梅先輩! 先輩一人でやっちゃうなら、別に私要らなくなかったですか!? 私いらなかったですよねえ!?」
 恐ろしい目に遭ってまで来た意味を問う明菜に、魔鬼はきょとんとした顔で「なにが?」と返した。
「なにが、って、なにがじゃないですよ!?」
「いや、だって別に古虎渓さんをして何かしてもらおうとか別に思ってなかったし? ただ気になるんじゃないかなあって、流れ的に」
「流れ的ってなんですかぁ!」
「ホラ、雛崎さんがちゃんと大丈夫かどうかー。とか。なー乙瓜ー?」
 賛同を求める魔鬼の呼びかけに、乙瓜は自転車のベルを一回鳴らしただけで特に肯定も否定もしなかった。
 そんな適当な運転手の背にしがみつきながら、明菜は釈然としない様子で頬を膨らませた。
 だが、それと同時に彼女の中にとある疑問が浮上する。
「……ところで、烏貝先輩は何やってたんですかね?」
 まさか自分のようにただ見ていただけではないだろう、と言わんばかりの明菜の問いかけに、乙瓜はチラリとも振り返らず、只眠た気な声で答えた。
護符フダの回収」と。
 直後大欠伸をしてそれ以上語りたがらない乙瓜に代わり、そこから先は魔鬼が補足するように付け加えた。
「乙瓜はさぁ、夕方に家の中に入った時に雛崎家に結界の護符を貼ってたんだよ。それこそ最初の落書き結界なんかよりしっかりした奴をね。まあ、木を隠すなら森の中とはよく言ったもんで、はじめっから護符だらけのあの家の中だもの。雛崎さん住人に気付かれずに貼るにはうってつけのコンディションだよね。まあ、これは落書き結界が破られた時に眞虚ちゃんが考えた事らしいんだけどさ」
 魔鬼は何が可笑しいのかケタケタと笑い、次いで今回美術部が立てた「作戦」について語り始めた。
「今日はこんな段取りだったんだよ。私が雛崎を襲いに来た怪談もどきをド派手に散らす様を見せ、雛崎さんに嘘を認めさせる。乙瓜は万が一正式結界が破られてた時に雛崎さん助ける役割だったんだけど、今回は必要なかったみたい。で、別動隊は街中に居る怪談もどきの漸減」
「漸減……ってなんですか?」
「うん、まー、そう。ホラ、怪談もどきは街中の雑霊が元だから、散らそうと思ったらいくらでも散れるんだよ。それが一ヶ所に集まったら流石にどうなるか分からないから、雛崎家に向かうのを可能な限り減らしてみようってことになったわけ。それが漸減。……まあ、遊嬉なんかは説得とかめんどくさい事嫌いだから、最初からこんな口実つけて暴れるつもりだったんだろうナー。私もはじめは遊嬉たちが何考えてるかわかんなくて真面目に悩んだりしてたけど、蓋を開けてみれば拍子抜けというか……ある意味らしいと言うか……」
 言いながら夕方くらいの自分が恥ずかしくなったのか、魔鬼は大きく溜息を吐いた。
 そんな話を聞かされて明菜はポカンとした様子で尋ねた。
「だったら最初から普通に倒していった方が良くないですか?」と。
 だが魔鬼は「まさか」と笑い、こう返した。
「元雑霊だけ叩いたって、雛崎さんが嘘を吐き続ける限り何も解決しないよ。もう一度何かの形になって、雛崎さんを殺すまでずっとずーっとずぅぅっと繰り返しだ。そんな途方もないループに付き合ってやれる程私たちも暇じゃあないし、暴言吐かれながら守るのも癪じゃない? だからこれでよかったんだよ。円満解決。大団円。終わりよければ総て良し! ってね」
「そんなもんですかね?」
「そんなもんだから仕方ない」
 あっはっは、と笑う魔鬼の声が夜の道に響き渡る。
 それはここ数週間に渡って地味に悩まされてきた元凶が去った喜びだったのか、それともあまり馴染みのない夜道を走りながらハイになっていたのか、それは誰にもわからない。
 乙瓜の横を並んで飛ぶ火遠は、ふと「どう思う?」と乙瓜に耳打ちするが、慣れない二人乗りを漕ぐのに必死な乙瓜は、ぶっきら棒な顔で「知らん」とだけ答えるのだった。



 ――それから。
 雛崎燿子は件の事件後に何かがふっきれたのか、叔母と共に暮らす為に古霊町を離れることを決めたようだった。
 叔母の家は雛崎の親戚の中でも比較的近場とはいえ何十キロも離れた場所にあり、必然的に雛崎燿子は転校することとなった。
 引っ越しの準備は急ピッチで進められ、一週間も経たない間に雛崎は古霊町から去って行った。
 引っ越し前日の金曜日、雛崎から明菜へと託された美術部宛ての手紙の中には、たどたどしい言葉で謝罪の言葉と感謝の意が綴られていた。

 そうして、美術部には再び平穏な時間が戻って来た。暦は既に七月に代わり、梅雨の時期も終わりを迎えようとしていた――そんなある日の夕方の事。
 珍しく何事もなく部活を終えた乙瓜は、凹凸の激しい旧道に溜まった午前中の雨の置き土産を避けながら帰路を急いでいた。
 雨が上がっても空に残る厚雲は、雲の向こうの夕陽を受けてか、幾らか赤く染まっているように見えた。
「例の一件から偉く平和になっちまったもんだなあ」
 不意に乙瓜はそう呟いた。それは完全な独り言のつもりだった。――しかし。

「あら。平穏って嫌いかしら?」

 その独り言に、言葉を返す者が居た。
「誰だ!?」
 不意を突かれて乙瓜は叫ぶ。自転車を停め、警戒するよう注意深く辺りを見回す。
 ほどなくその目は見慣れた帰路に見慣れない物体を捉える。

 忘れもしないピンクの日傘。

 その所有者たる乙瓜と瓜二つの存在、烏貝七瓜の姿がそこにはあった。
 しかし今日の彼女の表情には以前会った時のような笑みはなく、どこか浮かない顔で俯いている。
 そんな彼女の傍らには、更に二人分の人影があった。
 その内一人は乙瓜も見覚えがある、いつだか自分をメッセンジャーと称した少女・石神三咲だった。
 彼女は乙瓜の視線に気づいてニコリと笑い、ひどく親しげな様子で「お久しぶりね」と手を振った。
「お久しぶりね、もう一人の子」
「お前……、確か魔女の!」
「そう、そうよ、そう。あの雷の日以来ね乙瓜ちゃん。私は三咲、石神三咲。グーテンターク。お元気だった?」
 三咲は茶化すように言葉を回すと、楽しそうにウフフと笑った。
 乙瓜はそんな彼女の態度に眉を顰めると、隠した護符をいつでも出せるようにスカートのポケットにそっと手を伸ばした。
「……雁首がんくび揃えて何のつもりだ、また俺を殺しにでも来たのか?」
 言って、乙瓜は鋭い眼光を三咲に向けた。
 だが当の三咲は初めの笑顔を全く崩さないまま、目にかかった髪を払った。
「やあだやだ、物騒なこと言わないでったら。私たち、別に戦いにきたワケじゃないのよ。争う気もなければ敵意もない。ね? 七瓜」
 三咲はそこで不意に七瓜に同意を求めた。
 七瓜は一瞬ハッとしたような顔を上げたが、「ええ」と答えたきりまた暗い顔をして俯いてしまった。
「けっ、どうだか。一度殺されかけた奴の仲間の言うことなんざ、そう簡単に信じるかってんだ」
「もーもーっ! だからちがうんだってばあ。……ふんっ。だけどいいもん、いいもん。心の広い三咲は別に怒らないもん。……まあ聞いてよ乙瓜ちゃん。今日はあなたに私の大事なだーいじなお友達を一人紹介してあげる。ねねっ、エリィ」
「お友達だと……?」
 乙瓜がふっと疑問に思った瞬間、ずっと押し黙って向こうを向いていたいたもう一人の人影が振り返った。
 その時になって、乙瓜はその場にもう一人の人物が居たことを思い出す。
 モデルのようにすらりと高く整った体つきの女性。その顔を見て、乙瓜は目を、文字通り目一杯見開いた。
 赤い髪。赤い瞳。性別こそは女性だが、その顔立ちはどこか――乙瓜のよく知る彼に似ていた。

「火……遠……?」

 唖然としながら絞り出すようにその名を呟いた乙瓜を見て、三咲はにやりと口角を上げた。
「紹介するわね。アルミレーナ・エリス・ガーデン・クロウフェザー。いずれ魔女界を背負って立つすごい魔女なんだから。ねえ? エリィ」
 言って腕を絡める三咲を一瞥し、アルミレーナは何の感慨もない瞳で乙瓜を見つめ、冷淡な口調で一言だけ「よろしく」と告げた。
「じゃあ、今日はそういうことで。おじさんによろしくね、……どうせそこで見てるだろうけど」
 にこり、と。三咲が無邪気な顔で微笑むと同時、前触れもなく強い風が起こり、どこからともなく現れた赤い花弁がその中に舞う。
 過去の記憶と照合し、それが魔女の転移魔法であると、乙瓜が思い至るのと同時。
 風は一層強さを増し、乙瓜は思わず目を瞑る。
 暗転した視界が再び光を見たときには、かの三人の姿はどこにもなく。まるで初めから何も存在しなかったかの如く、きれいさっぱり消え失せていた。

「なんだったんだ、あいつら……」
 三人が去って行った後で、乙瓜は呆然とそう呟くしかなかった。
 襲うわけでも意味深な警告を残すわけでもなく、ただアルミレーナという少女を紹介していった三咲は、一体何がしたかったというのか。
 そう思った瞬間。乙瓜は右目にズキリと鈍い痛みを感じ、反射的に目を押さえた。
 しかしそれはほんの一瞬の事で、「くっ」と小さく呻いた瞬間には既に痛みは消え失せていた。
 だが、一瞬とはいえ確かに感じた痛みの最中。彼女は聴いた。確かに聴いた。聞き覚えのある誰かの声を確かに聴いた。
 否、聞き覚えなんてものじゃない。確かに知っている彼の声を、確かに耳元で聴いたのだ。

「まて、アルミレーナ」と。今し方消えたあの赤い娘を呼ぶ声を。
 そして、乙瓜の勘違いでないのなら。その声は、草萼火遠のものだった。

 それは何かの始まりだったのか、それとも小さな魔女の気まぐれが起こした偶然だったのか。
 烏貝乙瓜には知る由はない。少なくとも、今の乙瓜には。



(第五談・壺とお札と壊れた家・完)

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