怪事捜話
第五談・壺とお札と壊れた家⑧

 魔鬼の視界に再び雛崎家の門が見えて来た時、そこには雛崎家の敷地からあぶれた数人の美術部員の姿が見えた。
 車線のない狭い道にはギリギリまで路肩に寄せられた狩口の軽が停まり、その後方には部員たちの自転車が出来る限り面積を取らないように寄せられて立てかけられている様子だ。
 所謂『路駐』であるが、目的の雛崎家には広い庭が無いので仕方ないと言えば仕方ない。
 恐らく家族の車が停めてあっただろう車庫らしきものはあるが、シャッターが降ろされているし、何より他人の家のものを何の断りもなく使用するだなんて、図々しくてとてもじゃないが出来ないだろう。
(最初来た時は適当に停めてたなぁ……反省しよ)
 そう思いながらより雛崎家へと近づいた魔鬼はしかし、その場に流れる空気の異様さに気が付いた。
 誰も魔鬼に振り向かないのだ。いの一番に「やーい」とからかってきそうな遊嬉をはじめ、誰一人として一足遅れの魔鬼の到着に気付く素振りを見せないのである。
(えっ、何?)
 いささか動揺した魔鬼はすぐさま自転車のブレーキを引き、コンクリートの地面に足を着いた。それとほぼ同時か、彼女の耳にはこんな声が飛び込んできた。

「燿子ちゃん! ここを開けて! 燿子ちゃんッ!!」

 それは女性の声、否、悲鳴、或いは叫びと言った方が正確だろうか。
 非情に切羽詰まった様子の金切声。だが、それはどうやら美術部員のものでも、狩口のものでもなさそうな様子である。
 一体何事かと走り寄った魔鬼が見たのは、雛崎家の玄関前に立ち、激しく戸を叩きながら叫び続ける中年の女性の姿だった。
 彼女の隣には遊嬉が立ち、屋内に呼びかけつつ新聞受けから中の様子を窺っているようだった。
「これは……何がどうなってるんだ……?」
 どう見ても穏やかではない状況を前に、魔鬼は呆然と呟いた。その言葉を受けてか、前方でオロオロと立ち尽くしていた明菜がふっと振り返った。
「ああ、黒梅先輩……! なんかもう、ちょっと大変なんですよ……!」
 明菜はそう言うなり、控えめに玄関を――その前に立つ中年の女性を指し示した。
「あの人、雛崎さんの叔母さんなんです。いつも様子見に来てるみたいなんですけど、今日来てみたら上から悲鳴が聞こえてそれっきり返事がなくて、玄関も鍵開けた筈なのに開かないって……!」
「悲鳴……? というと、雛崎は家の中で何かに襲われた……? それに鍵を開けたのに開かないって……」
 遅かった、やられたか。魔鬼はチッと舌打ちをした。
「どうしよう、どうしましょう先輩っ……!」
 明菜はおどおどとした目で雛崎家の二階を見上げた。魔鬼もそれに倣い視線を二階へ遣る。
 二階の窓はぴたりと閉ざされており、相変わらずのレースのカーテンが視界を妨げている。
 中の様子はようとして知れず、しかし魔鬼には一つだけ確実にわかることがあった。

 ――何かが、居る。或いは、来た。

 魔鬼には乙瓜や杏虎のように、はっきりとこの世のものでないものを視る能力こそない。
 しかし、彼女の直感が、これまで怪事と関わってきた経験から来る直感が告げているのだ。
 ここには何かがある、と。

 見えざる二階の壁の内を睨み付けた瞬間、魔鬼は何かを思い出してハッとした。
 そういえば、と頭の中で呟きながら、彼女は視線を足元へと降ろす。砂埃でやや茶色く汚れた無機質なブロック塀。
 その根本には、眞虚たちにに書かれチョークの落書き、もとい簡易結界の陣が在る筈だと思い出したからだ。
 ……しかし。魔鬼が視線を遣ったそこに在ったものは、まるでそこだけ倍速で時が流れたかの如く、すっかり掠れて原型を留めていないチョークの跡であった。
(簡易的とはいえ結界だぞ? こじ開けたっていうのか? ……いくらなんでも早すぎる!)
 魔鬼が背筋に冷たいものを走らせていると、家の裏手方向から狩口が顔を出した。
 どうやら家の側面を一周して開いている場所がないか見て来た様子だが、顔の前で手を振りながら首を振る様子を見るに、どうやらどこも開いてはいないようだった。
「駄目。駄目だわ。裏も風呂場の窓も台所も、どっこも開いてないわこの家」
 悔し気に報告する狩口の言葉を受けて、只でさえ顔色の悪い雛崎の叔母の顔色が一層悪くなった。
 その傍らの遊嬉は「はぁ」と溜息を吐き、一瞬狩口と目配せし合ってから、雛崎叔母に向き直った。
「こうなったらもう、どこかしらの窓割るしかないわな。ちょっと壊しますけどいいですか?」
 壊す、という言葉に雛崎叔母は僅かに眉を顰めるが、やはり姪の無事には代えられないのだろう。一瞬の後、彼女は深々と頭を下げた。
「お願い、します」
「よしっ。任せといてくださいよー」
 遊嬉は場違いな程陽気な声を上げるなり、ポケットから丸めたコンビニ袋を取り出した。
 彼女は更にもう片方のポケットからは先程の釣り銭と思しき小銭を取り出して袋に入れ、何かに納得するように「うんうん」と頷きながら、ガラス窓の貼られた縁側へと向かっていった。
 魔鬼は遊嬉の一連の行動を見て、すぐに彼女のやらんとしている事に思い至った。「車の窓割るアレだ」と。
 それは魔鬼が何年か前にテレビで「災害時どうするか?」のような特集で知ったことなのだが、豪雨による水没等の理由で車のドアが開かずパワーウィンドウも開閉不可の状態になってしまった時、ビニール袋に小銭を入れてガラスを叩くと、遠心力と一点集中の圧力で比較的簡単に窓が割れる、というものだった。
 恐らく遊嬉もまたその特集を見て、やり方を覚えていたのだろう。
 尤も、最近では専用のハンマーでないと車のガラスを割るのは難しい等の意見も出ているようだが、一見してそんなに新しい造りでもない雛崎家の窓を破るくらいは容易いだろう。
 案の定、遊嬉のぶつけた小銭ビニール袋の一撃で雛崎家の窓ガラスはガシャンという悲鳴を上げ、その身に大きな穴を誕生させていた。恐らく狙ってやったのだろう、鍵付近のガラスだけが見事に割れている様を見て、魔鬼は内心「なんだか空き巣の手口みたいだな」と思っていた。
「ハイ! 開きました!」
 鍵を開けて得意顔で胸を張る遊嬉に、狩口が「よくやった!」と親指を立てる中、裏手の方から乙瓜、杏虎、眞虚の三人が「窓割ったのか?」等と言いながら姿を現した。
「そういえばそこまで気にする余裕なかったけど三人ともいなかったな……?」
「本当だ、先輩達いつの間に……?」
 独り言のような魔鬼のつぶやきを聞いて首を傾げる明菜。その傍らの寅譜は、現在進行形で繰り広げられているちょっと刑事ドラマじみた展開に只々そわそわしている様子だ。
 そんな彼女らの立つ門外を、乙瓜はふと振り返った。彼女はそこに魔鬼の姿を認めるなり、思い出したようにポンと手を打った。

「なんだ、随分遅かったじゃないか魔鬼」
「いや、私少し前からここに居たよ!?」
「本当か?」
「本当だよ!? ほんのちょっと遅れただけなんだからね!? ……ていうか、みんな今の今までなにしてたのさ」
 頬を膨らませながら問う魔鬼に、乙瓜は一瞬眞虚と顔を見合わせた後「ああ」と口を開いた。
「表んとこの結界破られてたから、裏のも様子も見てきたんだよ。……まあ、案の定裏もやられてたんだけどな。だからちょっと作戦会議みたいのしてた」
「作戦会議ィ?」
 訝しむように語尾を上げる魔鬼に対し、乙瓜は「話は後だ」と自らの後方を指さした。
 指し示された彼女の後方――雛崎家の縁側の窓は既に開け放たれており、そして先程まで乙瓜の傍らに居た遊嬉や眞虚、杏虎の姿が消えていた。
 どうやら彼女達はすでに家の中に入って行ってしまったようで、敷石の上には乱雑に脱ぎ捨てられた遊嬉の靴と、綺麗にそろえられた杏虎と眞虚の靴が並んでいた。
 魔鬼はそれを見て溜息を吐くと、自らも靴を脱ぎ、雛崎家の中へと歩を進めた。

 ――かの噂の中心地である、お札の家の内部へと。

「うわ……」
 レースの目隠しを潜り抜けると同時、魔鬼は言葉を失った。そこには彼女の想像を遥かに超越した凄まじい光景が広がっていたからである。
 ざっと目につく壁という壁、柱という柱全てを埋め尽くす護符フダ、護符、護符。そこに待ち受けていたのは、まるで護符の嵐に襲われたかの如き空間だった。
 いくらなんでも常軌を逸した光景を前に、魔鬼は完全に固まってしまった。後から入って来た乙瓜もそれは同じであるようで、こちらの顔からは血の気が引いていた。
「俺の乱射でもこうはならねえぞ……一体どれほど貼っつけたらこうなるんだよ……」
 乙瓜の震えた声を他所に、魔鬼は徐に足元へと視線を落とした。
 すると、ほこりっぽく白んだ畳敷たたみじきが目に入る。それを見て、魔鬼は初めてここが廊下で無かったことを知る。
「居間だ、ここ……」
 呆然と呟くと同時、魔鬼は更にあることに気付く。
 護符のインパクトに気を取られて見落としていたものの存在に。そして噂の中で語られる、この家の内を"凄絶"たらしめているもう一つの要素の存在に。
 それに気づいた瞬間、そしてそれをまじまじと見てしまった瞬間。魔鬼は「ひ」と息を飲んだ。
 それは辛うじて悲鳴とはならなかったものの、そんな相方の様子を見て乙瓜もまたそれに気づいてしまったらしく、ビクリと肩を震わせた。

 彼女らは恐怖していた。普段から大抵の"こわいもの"には慣れっこである筈の彼女らが。今この瞬間、確かに、紛れもなく。心の底から恐怖していた。
 足元に立ち並ぶ無機質な壺と、気味の悪い笑顔を浮かべた彫像の大群だった。幽霊でも妖怪でもなんでもない、かつて確かにここに居た人物の狂気を前に、二人は只々戦慄した。

「雛崎さんて……」
 しばし呆然とした後、魔鬼が呟く。乙瓜それに黙って只々頷く。もはやその先を言葉に出すまでもない。二人は全く同じ感想を抱いていた。

 ――家がこんな風になって行く過程をずっと見ていたのだ。そりゃあ憎むだろう。確実に。

「ちょっとちょっとー。乙瓜ちゃーん。魔鬼ィー。はよ来てはよ来てー?」
 なんとも言えないやるせない気持ちに沈む彼女達を気付かせたのは、上階から響く場違いなまでに空気を読まない遊嬉の声だった。
 我に返った二人は、足元の障害物に手間取りながらもなんとか廊下らしき場所へ抜けた。
 柱や壁は相変わらず異様な護符に包まれてはいるものの人の通れる空間があるし、先程の"居間"に比べれば何十万倍もマシな空間であるように思えた。
「やっと生きた心地がしたなあ」
 溜息と共にそう漏らしながら乙瓜が見た方向は玄関があり、どうやらここが正攻法で――すなわち玄関から――入って来た場合の通路らしかった。
 一方、同じように溜息を吐いて反対側を向いた魔鬼の視界の先には階段があった。
 その天井付近には上階から見下ろせるようになっている柵があり、そこから遊嬉がホラー映画っぽく顔を覗かせていた。
「こっちこっちー。早く早くー。大変なんだからさー」
「大変て、雛崎さんいたのか?」
「居た居た。でもとにかく大変だから、早くきてー。出来ればタオルありったけ持ってきてくれると助かるー」
「タオルぅ?」
 なんでさ、と魔鬼が聞き返す前に、遊嬉は柵から顔を引っ込めてしまった。
「なんでタオル?」
「さぁ……」
 乙瓜と魔鬼は互いに首を傾げながらも、とりあえず洗面所を捜すことにした。
 そして存外すんなりと見つかった洗面所からありったけのタオルを抱えて二階に到着した時、彼女達は言葉の理解するのだった。

 そこには、まるで「台風時に窓を全開にしておいたらこうなった」の見本のような光景が広がっていた。
 壁紙はしっとりと濡れ、天井からはぽたぽたと雫が落ち、廊下はバケツをひっくり返したようにびしょ濡れだったのである。
 不用心に足を踏み出した乙瓜は靴下をじっとりと濡らしてしまい、まるで深い水溜りに足を突っ込んだ時のような不快感に嫌な顔をした。
 傍らの魔鬼もまたタイツをじわじわと濡らす感覚に顔をしかめていた。
「なんでこういう大事な事を先に言わないんだよ……」
「だってあたしらみんな濡れちゃったんだぜー。それんさー、タオル持って来てって時点でなんとなーく予想できない事もないっしょー? だからいっかなーって」
 忌々し気に睨む乙瓜の視線を物ともせず、遊嬉はやれやれとばかりに言い放った。
(な、納得いかねえ……!)
 乙瓜はなんとなくモヤりとしたが、直後その感情は吹き飛んでしまった。
 彼女は気づいたのである。そして魔鬼もまた気付いたようだった。廊下の丁度行き止まりの所でしゃがんでいる杏虎と眞虚に。――そして。

 彼女らの間で倒れている、雛崎燿子らしき姿に。

「……っ! おい、大丈夫か!?」
 乙瓜は思わず大きな声を上げた。その声に杏虎は立ち上がり、眞虚はしゃがんだ姿勢のまま顔だけを上げて乙瓜を見た。
 杏虎が立ち上がった為、その瞬間乙瓜には雛崎の様子がはっきりと見えた。
 ぐったりと動かない彼女の服や髪は肌に張り付く程に濡れそぼっており、まるで池か川にでも落ちたような姿だった。
「まさか、し……」
「大丈夫、今息を吹き返したところ」
 乙瓜が口にしようとした嫌な予感を遮って、眞虚は雛崎の無事を伝えた。
「沢山水を吸ってて、今吐き出したところ。大丈夫だから、ね」
 そう言って、眞虚は雛崎に視線を移した。彼女の視線の先では、横たわる雛崎の胸がかすかに上下している。
 眞虚に倣って雛崎を見た乙瓜もそれを確認し、ホッと胸を撫で下ろした。
 幾ら美術部が雛崎に迷惑をかけられたからといって、死んでしまうなんてことがあったら後味が悪くてたまったものではない。その気持ちは部員誰もが同じ筈である。
「……しっかし、でもこれで一つハッキリした事があるよね」
 皆の安堵の吐息の音を割いて、杏虎がポツリと言った。

双方・・ちょっとオイタが過ぎたね。やりすぎたんだよ、どっちも・・・・。だったら、美術部怒らせるとどうなるか、ちょっぴし教えてやる必要があるよね」

 その些か唐突で不穏な一言に、しかし。その場に居た杏虎を除く四人は、静かに頷いたのだった。


 それから美術部は災害後の如き雛崎家二階の水を全力で拭き取った。
 不思議な事に二階廊下以外の一階や二階各部屋は全くと言っていいほど水にさらされていない様子だったので、雛崎本人の体を拭いて適当な服に着替えさせ、なんとか布団に寝かせてやっと人心地つくことができた。
 雛崎叔母には美術部側が申し訳なく思うほどに感謝され、一応一旦の収拾がついたということで、美術部一同は帰宅の途に着くことになった。
 ちなみに割った窓ガラスはカーテンに引っかかっていた破片を回収し、穴は段ボール等で塞いである。
「って、いいんですか先輩!? 雛崎さん何かに襲われて、また何かあるかもしれないのに普通に帰って来ちゃって大丈夫なんですか!?」
 帰路、明菜が叫んだ言葉に、美術部二年は揃って振り返った。
 一様に「おかしなことを聞くんだね?」とでも言いたげな表情を浮かべた彼女らを代表するかの如く、初めに口を開いたのは魔鬼だった。
「いや、叔母さんもいるのにいつまでもお邪魔してるの悪いじゃん?」
 そうだよねえと、まるで何事もなかったかのように他の部員と頷き合っている魔鬼であるが、しかし明菜は知っている。雛崎家を出る少し前まで、魔鬼が小難しい表情を浮かべて何事かを真剣に考えている様子だったという事を、明菜は知っている。
 それをてっきり雛崎燿子の今後の事についての考え事だと思い込んでいた明菜は、あまりに普通の様子の魔鬼を見て拍子抜けしてしまったのだった。
(一体、あの後何が……? 何かが解決したとでも……?)
 妙に清々しい表情の魔鬼を見て明菜は思い、そして恐る恐る問いかけた。
「黒梅先輩、じゃあ雛崎さんの件って、もう……大丈夫になっちゃってたり、とか? するんでしょうか?」
「いんや、まだなんも?」
「何も!?」
「はい。何も」
 実に軽々しく言ってのける魔鬼を前に、明菜は目の眩むような錯覚を覚えた。
 そんな彼女の心境を知ってか知らずか、今度は遊嬉が追い打ちをかけるような言葉を発する。
「というか寧ろヤバイよねえ。雛崎さんの今後ー。というか今夜が山だ? みたいな感じじゃん」
「え、ええええええっ!?」
 悲鳴を上げる明菜とは対照的に、頼りの綱の先輩共はまるで気にかけた素振りも見せずに「だよねー」と軽口を叩き合っている。
(ま、まさか先輩達、遂に雛崎さんの事見捨てちゃう決断をしちゃったの……!?)
 嫌な予感に冷や汗をかく明菜に気付いたのか、魔鬼は明るい調子のまま「なーに大丈夫だよー」と言い放った。

「でも先輩気づいちゃいました。今夜の内に雛崎さんを助けつつ似非怪事未満を散らせる方法があります。オーライ。大丈夫!」
「は、はあ……」
 もはや何が何だかわからずにポカンとする明菜の肩をパンパンと叩き、魔鬼は続けた。

「ところで、古虎渓さん家夜間抜け出しおーけー?」

HOME