怪事捜話
第二十談・机上空論エンドノート⑦

 一方、突如として謎の揺れと窓硝子の崩壊に見舞われた校舎の中では少なからぬ混乱が起こっていた。
 校舎内で活動している部活動の拠点からは不安の悲鳴やどよめきの声が立ち、廊下には上へ下へとバタバタと動き回る足音が、散乱した硝子の踏みつけられる音を交えて響き渡る。
 そんな混乱の渦中で、歩深世はゆっくりと目を開けた。
 潜り込んだ作業机の下、一階最西端に位置し壁面の南側と西側に窓がある作りの美術室だが、幸いにも彼女の近くにまでは硝子片が到達した様子はない。
 深世は安堵の息を付きながら机の下から這い出ると(出る際に一度頭をぶつけたが、気にしない事にした)、「みんな無事?」と恐る恐る辺りを見渡した。
「大丈夫です、はい」
 まず最初に返事をしたのは明菜だった。緊張からか返事の後幾らかむせ込んだ彼女に続き、柚葉が「みんな大丈夫ですよー」と場違いに明るい声を上げる。
「びっくりしちゃったですね。いきなりで」
「何いきなり落ち着き払ってるの! ……きっと屋上でなんかヤバい事が起こったんだよ……!?」
 ケロリとしてスカートをはしたなくバサバサとさせる柚葉に詰め寄る明菜。だが柚葉は尚も気にする事ない様子で言う。「まあそうだろうにー」と。ふざけているとも取れる調子で。
「にー、じゃないよ! 柚葉ぁ!」
「じゃなければなんなのさ明菜ぁ。落ち着きなぁ。まずアタシらにゃ怪我がなかった、これ大事っしょ。あとなんかあるのはわかってたことで、先輩がもう動いてるンだからさー。ここで慌てたってしゃあないじゃろー?」
 ぷうと口を尖らせ肩の高さに上げた手を謎にパタパタとさせると、柚葉は徐々に再び立ち上がりだす同級生たちを見遣り、それからふと深世を振り返った。
「歩せんぱーい」
「……なんじゃらほい」
「ちょっと田圃たんぼの様子――じゃなくて明菜と連れション行って来ていいですかぁ?」
「連れって……野次馬ならやめときな。怪我じゃ済まないよ」
 深世はうずうずした様子を隠しきれない柚葉の真意を読み取り、呆れたように腰に手を当てた。だが柚葉は「大丈夫ですよぅ」と明菜の手を取り、有無を言わさずグイと引いた。
「じゃあいこか明菜」
「まってちょっと、柚葉ぁ!?」
「何さ」
「どこ行くつもりなの! まさか屋上に――」
 友人の唐突な行動に驚き固まったままの明菜を振り返る、当の友人柚葉。怪訝そうに首を傾げる彼女に、明菜は強めの口調でそう言った。
 柚葉はその語気にキョトンとするが、直後言葉に割り込む形で「いンや?」と首を振る。左右に、否定に。
「屋上行って何するよ? 明菜もこないだの人形やつ見たべー? そこに敵さんいるとして、アタシらじゃあまず勝てねえって」
「じゃあっ……」
「アタシが行きたいのは昇降口~」
「はあ!?」
 まるでわけがわからないと素っ頓狂な声を上げる明菜を他所に、柚葉は再び深世を見て「そういうことなんで大丈夫ですからぁ」と空いた手を振る。
 深世はすっかりお手上げなのか、けれど思いっきり眉間にしわを寄せた上で言う。「絶対無事に帰って来なよ」と。
「なんかあったら先生の前に私の責任になるんだかんね」
「なにそれフラグですか? 心配には及びませんですよ。いってきまーす」
 柚葉は笑い交じりに言うと、再び明菜の手を引いた。明菜は呆然としつつも今度こそ柚葉の力にはかなわず、半ば引きずられるように美術室を後にすることとなった。
 出入り口を超える直前、明菜は一瞬振り向いた美術室内に自分たちを眺める同級生たちの姿を見た。

 引き留めようとするような姿勢で、けれども声が出てこないのか心配そうな表情を浮かべている寅譜結美ゆえみ
 一言二言言いたい事あり気な、普段一年部員の中ではリーダー格の鬼無里結美むすび
 微かに唇を動かして、「無理しないでね」と呟いている風な穏やかな娘、泉堂かおり。
 そしてキョトンとした顔で、それでも送り出すように右手を上げる八尾音色。

 しょっちゅう美術部本来の活動そっちのけで怪奇事件に向けて突っ走って行く二年の先輩は深くは知らない事かも知れないが、彼女らもまた美術部の一員で。性格や好みが必ずしも合うわけではないが、皆根は優しい大切な仲間だと、明菜はそう信じている。
 中学生活に不安を持っていた自分にできた、大切な友達。そんな彼女らに見送られて行く自分の手を引くのは、新しい友人を得ても変わらず自分の近くにいてくれる強引な幼馴染。
 学校が未知の脅威にさらされている、こんな異常な状況の中。明菜は、それがちょっぴり嬉しかった。いや、むしろこんな状況だからか。
 少しでも何かのバランスが崩れれば容易に失われてしまう彼女らの事を思い、明菜はただ引かれるだけでなく、自らの足で歩き出したのだ。
(そうだよ。柚葉が何を考えているかわかんないなんて、結構いつもの事じゃない。……だけど柚葉の思い付きがみんなや先輩を救えるなら、私は自分の力で歩き出したい――!)
 明菜は行く。廊下に散らばる大きな硝子片を避け、それでも避けきれない小さな硝子片を上履きのゴム底で受けながら。小走りで行く。
 柚葉はいつの間にか自分の手引き無しに歩き出した彼女を見て、その独特な腫れぼったい目を上機嫌に細めるのだった。
 
 
 
 咄嗟に身を隠した本棚横から恐る恐る顔を出して、魔鬼は辺りの惨状に息を飲んだ。
 北中三階図書室。窓沿いの本棚の上に下に散らばる硝子片。幸いにして本棚や蔵書にはダメージは行っていないものの、全ての窓がほぼ一瞬にして破壊されるというのは流石に異常事態だ。
「何今の、攻撃!?」
「いや……攻撃ではありますまい。威圧……プレッシャー……、今し方この宙を駆け抜けたものは、何かおそろしい力の纏うだけでござる」
 襲撃の予感に辺りを注意深く見渡す魔鬼にそう答え、たろさんは学帽を目深に被り直した。
「そんなっ、まさか……!?」
 魔鬼は愕然とし言葉を詰まらせた。今の一瞬の出来事は攻撃ですらなかったのかと。
 やがて直近の音楽室から漏れだす狂騒の声は、起こっている事のスケールが彼女の予想より遥かに大きい事を聞かずとも教えてくれた。
(【月】め、やっぱり穏便に済ます気なんてなかったな……!)
 内から沸々ふつふつと込み上げる憤り。しかしその場を動くわけにもいかない魔鬼は、キュッと静かに唇の内側を噛むのだった。

 あれから――屋上の扉の前で解散した後。彼女ら美術部二年と学校妖怪たちはこの数日で立てた計画の通り、校舎内の各所に散らばっていた。
 それは防御術式解除に際して、一旦ほぼ無防備に戻った北中を守るため。学年末テスト後に現れた丁丙は校舎内に防御術式とは違う特殊な術式を回路のように巡らせ、複数の拠点より力を注ぎ込む事で仮の結界を生成する仕組みを作り上げた。

 ――敵の侵入や破壊を完全に防ぐものじゃあないけど、並の術式妨害じゃあ掻き消されまい。でもまあ、あちきは他にやることあるから。当日は現場判断でどうにか上手い事やってくれな。

 そんなどことなく不安要素の残る言葉と共にこの話を持ち掛けた丙の言葉に、魔鬼らは乗った。小さな希望は所詮小さなものでしかないのかもしれない。大きな絶望にかき消されるかもしれない。けれども何もせずに絶望の訪れを待つよりは遥かにマシな選択だと、彼女らは信じたからだ。
 今、この北中には魔鬼ら4人と主要な学校妖怪たちの手によって最後の意地とも取れる結界が張られている。被服室に遊嬉と嶽木、理科室に杏虎と闇子さんに赤紙青紙、因縁の在る調理室には眞虚と水祢。屋上の扉の前には花子さんが立ち塞がり、そしてこの図書室は魔鬼とたろさんの担当だ。
 戦うためではなく守るために。故に持ち場を動けない彼女らはそれぞれの持ち場で屋上の気配に息を呑み、ただ一心に祈っていた。

 乙瓜――そう。乙瓜、と。



 ゆっくりと持ち上がった七瓜の剣先は真っ直ぐに乙瓜を指し、同時に冬の色を残した風がひゅうと吹く。
 乙瓜と七瓜。同じ色の髪が、同じ型の制服がばさりと揺れる。
「へえ、僕と……いいや。と遊んでくれるのか七瓜ぁ。嬉しいなぁ?」
 乙瓜は余裕の素振りで首を傾げ、ニタリと目を細めた。その瞳はもうすっかり亜璃紗と同じ月色に浸食されており、そこに立つのが皆の求める乙瓜ではないのだと証明していた。
 七瓜はその変わり果てたをキッと睨み、剣を中段に構え直す。首だけの亜璃紗はその様を見て品も無くケタケタと笑い、囃し立てるように「愉快ですわね」と繰り返した。
「七瓜止めろ、君がやろうとしている事は――」
 現下自由となっている火遠が叫ぶ。片や操られている身とはいえ、この姉妹の衝突だけは何としても避けなければならないと。
 そんな彼に槍の穂先を突きつけ、乙瓜は言う。曲月嘉乃の声で。曲月嘉乃の言葉を。「黙っていてくれないかな」、と。
「話をしてるのは僕と七瓜ちゃん・・・・・だよ? 横槍入れないでほしいなあ」
 嘉乃・・の向ける顔は笑顔で、しかし目は笑っていない。その目では続ける。「さもなくばこうだよ」と。槍の柄を乙瓜の首に押し当てながら。……つまるところ、この娘を殺すぞ、と。
 その静かなる主張に、火遠の髪がぶわと一層強く火を噴く。怒りに煮える心のままに。
「嘉乃、お前って奴は――……お前って奴はッ!!」
「おおこわ。でもいいのかな。今その怒りをぶつけたら、僕が何もしなくても乙瓜は黒焦げになって死ぬぜ? それは契約違反だよなぁ?」
「……ご忠告ありがとう。契約違反はしたくないから乙瓜から出てってくれないかな」
「ああ? まあ……いいけど。乙瓜が抜け殻になってもいいのかい? ……それとも俺の事嫌いか?・・・・・・・・・・・ 火遠・・
 最後は再び乙瓜を真似るように。ふざけた返答に眉を顰める火遠を嘲笑い、嘉乃は続ける。
「まあいいや。七瓜・・とやることがあるから。終わるまで命預けといてやるよ」
 くるりときびすを返し、嘉乃は七瓜に向き直った。

「おう待たせたな。じゃあ、殺ろうか」
「…………ええ」
 嘉乃は言う。乙瓜として。七瓜は答える。姉として。
 瞬間、乙瓜・・の持つ葬魔槍が蒼い光に包まれる。長槍は形を変え、見えている穂は二尺程度の片刃の剣へ、柄はその刃と同程度のコンパクトな長さへと収まる。
 そうして現れたのは七瓜の百襲媛とほぼ同等の全長を持つ刀の如き武具。ギリギリ槍と呼べなくも無いその峰を一撫でし、乙瓜は七瓜を真っ直ぐに見つめた。まるでハンデを与えてやったとでも言いたげな目で。
 七瓜はそうした挑発的な視線に静かな怒りを返し、それからふと火遠を見てポツリと言った。

「火遠さん。ごめんなさい。ありがとう」

 一言一言零すように。その言葉の意味を火遠が飲み込むのと同時、二者はどちらからともなく少女らしからぬ雄叫びを上げて走り出した。
 秒の後には切り結ぶ刃と刃、高く低く響く音と飛び交う火花。地に踏ん張る七瓜の上履きの底からは己にかけた魔術の赤い光が花弁のようにキラキラと宙に舞っては消え、対照的に乙瓜の足下には何かおぞましい気配を秘めた蒼黒い影がうぞうぞと蠢き立つ。
 ぶつかり合う赤と蒼。最初の打ち合いに勝ったのは輝く赤色。
 葬魔槍の刃を押しのけ乙瓜の足を崩した七瓜は、一時無防備となったその身体を抱え、手摺を踏み越え屋上の下へと飛んだ。
「七瓜ッ!」
「あらあら」
 火遠が叫ぶ。亜璃紗が驚きを含ませた声で笑う。
 彼女が飛び出した先の地上にあるのは、前庭の固いコンクリートだ。一見乙瓜と共に命を絶ったかに見えた彼女だったが、しかし彼女はまだ・・そこで絶える気は無かった。
 乙瓜と共に落ちながら、七瓜は校舎の外壁を力強く蹴った。常人の反応速度であればまず不可能な芸当だが、身体強化の魔法はそれを可能とする。且つ、彼女らの身体を前庭を超えて遠くグラウンドへと飛ばすのだ。
 全ては校舎をこれ以上危険に晒さない為に。乙瓜が戻る場所・・・・・・・を守るために。
 されどもそんな事情など知らない運動部の生徒たちは、突如としてグラウンドの真ん中に飛び込んで来た何かを奇異と驚愕の目で迎えた。

「な、なんだ!」
「あいつ烏貝じゃね?」
「てか刀持ってね? そんで二人いるぞ……!?」

 主に野球部サッカー部の男子生徒によって使用されているグラウンドはたちまち喧騒に包まれる。先の校舎の騒ぎで顧問が校舎に戻ってしまった為歯止めが効かない彼らが落ち着きなく見守る中、七瓜と乙瓜の戦いは再開される。
「痛いじゃないか。酷いよ七瓜」
「……痛いのはあなた・・・じゃないわ。あなたが乙瓜を傷つける」
「何言ってんだ、が乙瓜だぞ?」
「いいえ。あなたなんかは乙瓜じゃない……!」
 口争と共にぶつかる刃。どよめき距離を取る男子生徒ギャラリー
「ぶねえ! やっぱり美術部やべーよ! 他所でやれ!」
「つか切り裂き魔ってあいつだったんじゃね?」
「先生呼ぶか? それとも警察??」
 飛び交う野次と流言飛語、少数の真っ当な意見。だがそんな外野のざわめきなど、その中心で命を賭けてぶつかり合う二者にとっては虫のさざめきにも等しくどうでもいいものだった。
 彼女らには互いに彼女らしか見えていない。切り結んでは崩し、次なる相手の攻撃を流し、時折流しきれずに傷つき。大地に少なからず赤い雫が滴り始めるのを見てギャラリーたちもいよいよ尋常ではないと察したのか、散り散りにその場から逃げ出した。
「七瓜……乙瓜……ッ」
 屋上に取り残されたままの火遠はそんな二者の戦いを見下ろし、手摺に掛けた手にギュッと力を込めた。
 こうなってしまった以上彼にはどうすることも出来ない。その情けない背中を見上げ、生首の亜璃紗はうふふと笑う。
「みじめですわね『灯火』。貴方も人間への情なんて捨ててしまえば、こんな状況くらい幾らでも切り抜ける策はあるでしょうに。それとも【星】の力でも使ってみますか? 綺麗ごとで封じた力を。今。己の為だけに」
 首だけになっても変わらぬ多弁で挑発を続ける。火遠はそんな彼女にゆっくりと振り返り、静かに言った。
「……黙らないか」
 次の瞬間亜璃紗の頭に突き刺さるのは、崩魔刀の大鎌の刃。脳天深く突き刺さるそれに亜璃紗の首は「うっ」と呻き、しかし直後不気味に笑みながら言う。
「仕方ないですわね。わたくしは今回これにて退散致しますわ。それではまた、次の機会に」
 言い終えると同時、すすのような跡を残して消滅する首と、切り離されて以来投げ捨てられていた身体。火遠は崩魔刀を引き抜きがてらにその跡を見て、悔しそうに表情を歪めた。
「あいつも本体じゃあなかったか」と。言って見下ろす煤の上には、水祢が持っているのに似た紙の鳥が真っ二つに斬れた形で落ちている。それが風に吹かれて何処へかと流されて行くのと同時、ずっと閉ざされていた屋上の扉がバンと勢いよく開いた。

「火遠!」

 飛び込んで来たのは予想に漏れず花子さんだった。ずっと屋上前の持ち場・・・で丙の術式結界に力の供給をしていた筈の彼女の登場に火遠は一瞬驚き、……だが驚く事でもないなと目を瞑り、再び開いた。
 この状況下で彼女が言いたい事なんて、概ね予想がついていたからだ。否、殆ど一つに決まっている。
「乙瓜と七瓜は……!」
 果たして思った通りの言葉を口にした花子さんを、火遠は静かに手摺の方へと促した。裏生徒の半分以上を従える長として校内の出来事に敏感な彼女は、とっくに何が起こっているかくらいは把握していたのだろう。だがそれを直に目にした彼女は言い難い衝撃に両手で口を押えた。
 そんな彼女に火遠は言う。
「ありがとう。七瓜は俺にそう言ったんだ。あの子は……たぶん――」

 介入不可の領域で、七瓜の剣が乙瓜の横腹を掠める。既に七瓜はボロボロで、左大腿を伝う血は止まる事無く、立っているのが不思議なくらいの有様だった。そんな七瓜の攻撃をかわしきれない乙瓜の身体もボロボロだった。深く浅く傷を負い、彼女を支配している嘉乃も薄々反応が鈍ってきている事を感じていた。
(そろそろ使い物にならないか。思ったより手間取らせてくれる)
 遠い場所で嘉乃の本体は思う。乙瓜を動かしている彼自体には一切のダメージが通っていないのだが、人間をベースにしている乙瓜の身体そのものがそろそろ限界であると。
(やっぱもろいなあ人間。……だけどまあ、まだ動かせる・・・・・・
 火遠と戦う事叶わずとも、せめてこの厄介なオリジナルを潰しておかねば。そう考えながら体勢を立て直し、嘉乃は言う。
「君もそろそろ動けないだろう? 僕の勝ちだな」
 葬魔槍を握り直し、勝利を確信しながら。ふらり震える足で立つ七瓜はしかし、そんな乙瓜・・を見て「いいえ」と返す。
「勝ったのは私よ。……あなた気付いてなかったの?」
「……何?」
 怪訝に眉を動かす乙瓜・・は、己の知らない内に致命傷を負わされたのではないかと体を見回し、しかしどこも、先の横腹の傷すらも大したことはないと見て鼻で笑う。
「負け惜しみかい? それともこのタイミングで心理戦を挑むつもりかな」
「心理戦? ……そんなものじゃないわ。本当に気づかないのね」
 七瓜はボロボロの顔をフッと緩め、傷だらけの右腕で乙瓜の顔を指さした。

「あなたが気付かないという事が私の勝利の確信よ。……だって乙瓜、ずっと泣いてるもの」
「なんだと……!?」
 そこで嘉乃は初めて気づいた。己の操る烏貝乙瓜が、記憶や感情をそぎ落としてすっかり操り人形とした筈の乙瓜が。いつの間にか泣いているという事に。
(冗談じゃない! この娘はとっくに抜け殻の筈、それがどうして……ッ!)
 嘉乃が焦り、乙瓜の動きが一瞬止まる。目から涙をボロボロと零したままで。
 七瓜はその姿を見て困ったように笑い、そして呟く。
「そこに居るのね。乙瓜。まだそこに在るのね・・・・・・・・・
 笑み、そして七瓜は何を思ったか剣をその場に捨てた。己の持てる唯一の武器にして唯一の防具であるそれを。校庭の地面の上に投げ出したまま、七瓜はゆっくりと歩き出す。ぎこちない足取りで。けれども真っ直ぐ乙瓜に向かって。
「!? 何を考えて――だが好都合だ。ここで本来そうなる通りに虚無の先へ送り返してあげよう!」
 驚きつつも好機とみて、嘉乃は乙瓜に持たせた葬魔槍を掲げる――掲げようとした。だがそれは出来なかった。
 乙瓜の身体が反応しないのだ。今まで己の意のままに動かせた乙瓜の身体が、まるで七瓜を仕留める事を拒むように。

「まさか、まさかまさか! ……ここにきてこんな事が! このの命に逆らうと言うのか乙瓜ッ!!」
 彼方遠い【月】の拠点で嘉乃は叫ぶ。全てが全て作戦通りである筈だった。烏貝乙瓜という自軍の影から成らせた存在をいずれ【灯火】に与する者たちと接触させ、時々適当にけしかけた【月】の幹部と戦わせては絆を育ませて丁度いい頃合い・・・・・・・となった時に踏みにじる。……その為に態々遠回しな事をしてきたと言うのに。
「このままじゃ台無しじゃないか……! 動けこの……動け!」
 悪態を突き机に拳を打ち付け八つ当たる。そんな嘉乃の背後のドアが爆音と共に破られる。
 苛立ちと唖然を混ぜた表情で振り向き、嘉乃はチッと舌打ちする。

「……ドアを開けるときはノックしろって、マナーとして教わらなかったのかな」
「生憎あちき・・・はド田舎の育ちなもんでね。分かってても時々無作法しちまうのさ」

 にんまりと笑う小柄な女。丁丙。そのドヤ顔を忌々し気に睨み、嘉乃は静かに両手を上げた。

 降参?

 ――否。


 嘉乃の所在が丙に捕捉された中、七瓜は乙瓜に辿り着く。
「乙瓜」
 そう呼びかける七瓜を、彼女・・はぼんやりと見つめる。

 誰だったっけ。
 彼女は誰だったっけ。
 知らない……いや、知ってる。……覚えてる。
 この人は――

「な……のか……?」

 探るように紡がれる言葉に、七瓜は見開いた目に涙を滲ませる。
(……ああそうだ。七瓜だよ)
 彼女・・は思い、まだぼんやりとする意識のなかで泣き出しそうな彼女を抱きしめようとし――

 ぐさり、と。

 耳触りのよくない音に完全に覚醒する。
 手にする見知らぬ刃。目の前の七瓜の背に食い込む刃。それが同一のものだと気付き、己の手を伝う鮮血の意味を知る。

 彼女が――乙瓜が。七瓜の背を突き刺したのだと。

「違う、違う……じゃない……私じゃない……!」
 ぶんぶんと首を振って否定する。駄々を捏ねるように否定する。そんな彼女に七瓜は言う。
「……そう。あなたじゃない。……これでいいの。これで全部…………元に戻る」
 七瓜の背から流れ出す血は止まらない。制服も手も真っ赤に染めて、大地に赤い雨となって降り注ぐ。そんな血の雨に降られ、乙瓜の中で全ての記憶が鮮明になって行く。

 生まれた日の記憶。
 楽しかった時の記憶。
 小学校の屋上から突き落とした日の記憶。
 美術部との記憶。
 怪事の記憶。
 琴月亜璃紗に攫われ、嘉乃と出会った日の記憶。

 北中屋上で火遠と戦い、七瓜に刃を向けた記憶。

「あ……あ…………ああ……」

 七瓜はもう何も言わない。動き出そうとしない。心なしか冷たくなっていく気がする。
 医者でないから確かな事は分からない。けれども直感的に感じるのだ。一つの命が消えてゆく気配を。
 その感覚を腕に、乙瓜は。

「うあああああああああああああああああああぁぁッッ!!!」

 絶叫。喉を裂き血を吹く絶叫。もはや人間とも獣ともつかない声を天に放ち、彼女の身体は内側から崩壊した。

 皮膚を突き破り形を崩し。その本質である黒く大きな"影"の塊となって、烏貝七瓜の亡骸を飲み込みながら――。

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