怪事捜話
第二十談・机上空論エンドノート⑧

 己が己でなくなっていくのを感じながら、烏貝乙瓜の意識はいつしか橙に包まれていた。
 地平線の彼方から続く、美しい夕焼け。いつかの夕暮れ。七瓜に手を伸ばし伸ばされたあの日の斜陽。
 気が付けば、そんな夕焼けをとても高い場所から――小学校の屋上から見ている自分がいて、その腕の中には七瓜が居る。
 小学生の七瓜が。あの夜突き落とした七瓜が。もう動かない七瓜が。
 屋上は奇妙に高く高く、地平線は丸く丸く弧を描く。
 幻想的な光景。夢の中のような光景。あり得ない光景。どんどん色濃く輝く橙の中で、どこからともなく鳴りだす『夕焼け小焼け』のメロディ。
 ――ああ、ここはあの世だ。乙瓜は思う。
 ずっと行きたかった光の下で。永遠に眠り続けているだけの姉と二人きりで。怖いものも苦しめるものもない場所で。死に続けていられるなら、それはそれで幸せだ。

 それはそれで、幸せだ――



「これは一体……」
 屋上の手摺から身を乗り出し、花子さんが呟く。彼女の視線の先で『烏貝乙瓜だったもの』の内より溢れだした影はぶよぶよと膨れ上がりながらみるみる巨大化し、今や人型の原型すら留めていない。
 もはや正体不明の巨大怪獣と言って差し支えないそれの姿に、校舎の下階から新たな悲鳴が上がる。どうやらあれ・・の姿は霊感の有無に関わらず誰にでも見えてしまうらしい。
 そんな混乱を足下に、花子さんの傍らで火遠は呟く。
「暴走と幻想解除か……」
「……火遠?」
 花子さんが振り向く先、火遠は真っ直ぐに乙瓜だった化け物を見つめて言葉を続けた。
「"影の魔"は存在の成り変わりに際して『世界』を騙す。その魔法が今解けたということさ」
「まって、まって火遠! 何を言ってるのか全然わからないわ!」
 狂乱気味に叫び、花子さんは火遠の両肩をがしりと掴んだ。行動こそやや乱暴だったが、それは真っ当な主張だった。例え火遠の中で事の全体図が完成していようとも、花子さんにはその欠片しか見えていない。不完全な図面を見せられて納得しろと言うのは無理な話なのだから。
 故に叫ぶ。「わかるように教えて」と。――だがそんな花子さんの混乱に解を示したのは火遠ではなかった。

「結論から言ってしまえば、あのたちは消えようとしているということよ」

 誰か聞き覚えのない女の声が言う。花子さんの真後ろで。
 バッと振り返る花子さんが見た先には、黒いスーツの女。長い髪をヘアクリップでまとめ上げ、こんな異常事態の中で不敵に微笑む不自然な女がそこに居た。
 そんな女を目にキョトンとする花子さんに代わり、火遠がその名を答える。――「ヘンゼリーゼ」と。
「ええ」
 女――魔女ヘンゼリーゼはニコリと笑い、校庭の化け物・・・をチラリと見た。
「認識妨害よ。"影の魔"は本来存在しない筈の己の存在を、この『世界』そのものを騙すことで確立する。だけれど今のあの子は絶望からの暴走状態。己を己として証明する事もせずに"影の魔"の源流・・とも切り離されて、その歪みに『世界』が気づいてしまった。『世界』の目が醒めてしまう時が来たのよ。――ああ、はじめからそんなものは存在しなかったのだと!」
「それが消えるという事……!? 貴女っ……!」
 今度はヘンゼリーゼに掴みかかる花子さん。そんな彼女を火遠は静止する「よしな」と。
「ヘンゼリーゼにはがない。ないからこそこちらの感情を揺すって楽しんでいる。……怒るだけ無駄だよ」
 心底悔しそうに、苦虫を噛み潰したように。そんな火遠の声音を耳に、に花子さんは魔女に何事か浴びせてやろうとした口をつぐむ。
 ヘンゼリーゼはそんな彼女に他意なく、けれども煽っているようにしか聞こえない「ありがとう」を返すと、救いを求めるように天へ天へと伸びて行く化け物・・・を改めて見、赤い唇に笑みを浮かべた。
 そして呟くのだ。「笑っちゃうわね」と。

「【月喰れんちゅう】の考える人間の代替案がこれだなんて。全く似ても似つかないじゃないの」

 皮肉か嘲笑か。黒い魔女が笑う中、周囲の人間の中にはある変化が起き始めていた。
 それは、記憶の変質。乙瓜七瓜の戦いから逃れた生徒の中から。謎の硝子破壊に続く怪物の出現に混乱する生徒の中から。二年生から、教師から。『烏貝乙瓜』、及び『烏貝七瓜』を知る全ての人間の中から。彼女らが存在した・・・・・・・・という記憶が、すっと薄まり消え始めていたのだ。
 まるで目覚めた後に忘れてしまう夢のように。混乱の中、ほとんど誰にも気にされることなく。ここから遠くの人間たちの中からも。他ならぬ、烏貝の家族の中からも。
 どこか不穏な気配を感じ、仕事場の二階から窓外を見遣った怪談小説家の中からも。今は離れた町で暮らす、嘗て美術部を毛嫌いしていた少女の中からも。海辺の町で民宿を切り盛りする女将の中からも。
 過去に僅かでも関わりを持った全ての人たちと全ての物事の記憶と記録から、『烏貝乙瓜』と『烏貝七瓜』が消えてゆく。

 それは美術部とて例外ではなかった。

(なんでだよ、ちくしょう、ちくしょう!)
 心の中で悪態付きながら廊下を走り、黒梅魔鬼は屋上を目指していた。まだあちこちに散らばったままの大きな硝子片を踏むことも厭わずに。
 周囲も見ずに危険極まりない行動だったが、魔鬼にはそうせざるを得なかった。がむしゃらに、そうでないと忘れてしまいそうで・・・・・・・・・
 そう。自分の中にある『烏貝乙瓜』に関する記憶が少しずつ消え始めている事に、彼女は気づいていた。
(まだわかる、まだあれ・・が乙瓜だったってわかる、忘れるな、忘れるな、しっかりしろ私っ……!)
 そうして自分を檄しながら、魔鬼は東階段前……三階から屋上へ通じる最後の昇り階段前に立つ。三階図書室からそこまでは大した距離ではなかったが、丙の術式に力を供給していたからか、それとも心の焦りからか。彼女ははすっかり肩で息をしていた。
「危ないでござるよ魔鬼殿、今こんな廊下に転びでもしたら……!」
 そこに後から追い付いたたろさんが言う。魔鬼は宙に浮く彼をふと見上げ、「赤だったよね?」と唐突に言う。
 傍からは唐突だが、しかし当人らの中では唐突ではない。それは図書室で魔鬼が己の記憶の異変に気付いた時から幾度となく交わしてきた問答のようなものだ。
「……そうでござるよ! まだ大丈夫でござる、気を確かに……!」
 頷き励ますたろさんの頭の中に浮かぶのは、滅茶苦茶ながらも楽しかった体育祭の記憶と、その日乙瓜の頭に巻かれていた鉢巻きの赤色。学校の怪談という人間とは異なるポジション故か、彼は魔鬼より記憶の消滅する速度が緩やかであるようだった。
 そんな彼のお墨付きを得て、魔鬼は目の前の階段に足を掛ける。行ってどうなると言う確証はないが、それでも行かなくてはいけないという気持ちだけがそこにあった。
 すぐ行ける範囲で最も良くそれ・・の全体を見る事の出来る、その場所へと。
 そうして再び走り出そうとした彼女を、誰かの声が呼び止めた。

「魔鬼ちゃん!」

 吹奏楽部も科学部も逃げ出した校舎に響く大きな声。少しハスキーで、だがそれもまた味があると思える声。
 見えざる手に掴まれたが如く立ち止まった魔鬼は、ゆっくりと声の方向――二階方面から上がってきてすぐの場所を振り返り、そこに立つ長い黒髪の少女を視界に捉えた。
「八尾異……」
 魔鬼の口は自然とその名を口にしていた。二週間ばかし前のあの日からずっと、ともすればもっと前からずっと。美術部とは別の思惑で動いていた、母校・社祭第二小学校ニショーで名をはせたの霊感少女の名を。
 少女は、異はコクリと頷くと真っ直ぐ魔鬼を見つめ、そして言った。
「ここから先に只行っても、誰も助けられないかもしれない。それでも君は行くのかい!?」
 強い口調で。問うような口調で。魔鬼はムッと眉を寄せて手摺壁に寄り、「行くしかないだろ!」と声を張る。
「友達なんだ、大事な友達なんだよ……! このまま忘れて消えていなくなって、乙瓜のいない世界で何事も無かったように生きて行くなんて、そうなった後の私が良くても今の私が良くないッ……!」
 叫ぶ魔鬼は殆ど半泣きだった。異はそんな彼女の勢いに目を丸くした後、ふふと微笑んで降参したように両手を上げた。
「そっか。そうだよね。今の言葉を聞いて安心したかな」
「……?」
 なにいってんだこいつ、と魔鬼は顔をしかめる。たろさんも首を傾げる。そんな視線の中動じる事なく、異は魔鬼に何かを投げつけた。といっても乱暴にではなく、パスするようにだ。
 魔鬼が何の気無しにキャッチしたそれは、神社で売っているような小さな白い御守り袋――というか御守りそのものだった。
「なんこれ……ここまで来て願掛け?」
「こんな時だからこそ願掛けだよ。祈りってのはつまるところ魔術や神秘術の最も原始的な形、根幹の部分だからね」
「お、おう? こんな時に何言ってんだお前」
「だーかーらー。こんな時だからだって」
 異は顎に手を当ててクスリと笑い、それからこう続ける。
「有ると思えばそこに在り、無しと思えばそこに亡し。願わなければ消えてしまう。君たち・・がいっちゃんについて思い続ける限り希望はある。その希望を、にも届けて。ぼくもここで祈っているよ」
「うん……いや、ちょいまて! お前言ってる事抽象的過ぎてよくわかんねーよ!! てか彼!? はっきり言えい!!」
「魔鬼殿ノリツッコミでござるか!? こんな状況でノリツッコミでござるか!?」
 預言めいた言い回しに爆発する魔鬼と慌てふためくたろさん。まあわけもなく仕方も無い。だが異は半ばパニックな二人を見てフフと漏らすと、天井――否、恐らくはその先にあるものを指さして言うのだ。
「屋上で待ってる人だよ」と。

 程なく魔鬼らは再び走り出し、異は己の言葉通りその場に留まる。たろさんのマントが踊り場の角の向こうへと消えて行った事を見届けた後、異はくるりと踵を返し、割れた教室の窓越しにそれ・・を睨んだ。
「ぼくに出来る事はここまでだ。あとは彼ら・・の願いとの力次第……それを祈るしかないよね。それじゃあ、行こう」
 呟き、くるりと振り返る事の背後、三階と二階を繋ぐ踊り場には、五つの人影。
 天神坂邪馬人やまと、王宮氷月ひづき、幸福ヶ森幸子、古虎渓明菜。九月の事件の後に異が集めた四人と、あと一人。岩塚柚葉がそこに居る。
「柚葉ちゃんにはギリギリで皆を集めて連れて来る役を頼んじゃって悪かったね」
「どってことないですよぉ、簡単なお仕事ですし」
 ニヒヒと笑い、柚葉は頭の後ろに手を回した。そう、彼女は二月十三日の放課後の時点で異に呼び止められ、時が来たら明菜を連れて、昇降口に集まる三人の先輩と共に三階へと来てくれという妙な役を頂戴したのである。
 元々おかしな事好き且つ変な所で義理堅い彼女の性格には、異の預言書めいた抽象的な言い回しが効果的にはたらいたらしい。
 結果として約束通りに皆を連れて来た柚葉は、腰に手を当てとびきりのドヤ顔と共に異を見上げるのだった。
「労を労うよりはじめましょう八尾先輩。諸先輩方も皆烏貝先輩・・・・の為に集まってくれたんですから。アタシらだって」
「ちょっと柚葉、態度態度……」
 傍らの明菜がおっかなびっくりとする中、王宮や天神坂がコクリと頷く。恐らくは柚葉への同意で。幸呼も静かにゆっくりと頭を動かし、「はじめよう」と異に促す。
「さっき魔鬼ちゃんが言ってたように。そうなった後の私が良くても、今の私が全然良くない。だからやろう。やらないよりは万倍マシだから」
 銘々に覚悟を決めた様子の少年少女たち。
 首謀者たる異はそんな彼らを見下ろして、ふわりと微笑んだ。



 一方異に送り出された魔鬼とたろさんは、一分もせずに屋上へと辿り着いていた。彼女が開いたそのドアの向こうには、既に沢山の学校妖怪と、そして校内各所の守りについていた遊嬉や杏虎、眞虚の姿があった。
「みんなっ、」
 声を上げた魔鬼に、校庭の異物・・を見上げていた遊嬉らがふっと振り向く。
「魔鬼ィ。……ったくー。遅いぞー」
「ごめん……ていうか遊嬉、記憶は?」
「記憶ぅ? 乙瓜のぉ?」
「その調子じゃ覚えてるっぽいな……」
 遊嬉の言葉にほっと一息吐き、魔鬼は文字通り己の胸を撫で下ろした。けれども眞虚が「ううん」と首を振り、「私たちも少し前まで忘れかけてたんだけどね」と続ける。
「西階段のところで異ちゃんに会ったの。そこで御守り? を貰ってからかな。忘れなくなって少しずつ思い出し始めたの。……そうだったよね、水祢くん?」
「……しらない。ていうか俺は忘れてないし。……バレンタインデー有耶無耶にした元凶の女を忘れるわけないでしょ」
 ふっと眞虚が振り返った先で、いつにもまして不機嫌そうに水祢が言う。どうやら十三日後のゴタゴタでもはやチョコレートがどうこうという事態ではなくなった事をまだ根に持っているらしい。だが、それが逆説的に彼もまだ乙瓜を忘れていないという事をトゲトゲしく主張していた。
 ちょっぴり困ったように笑う眞虚の傍らで、杏虎が「あたしも御守りもらったー」と小さく手を挙げる。
「てか十三日の時から思ってたけど八尾さんマジ謎のポジションじゃね? なんなんあの人?? 二小って変なの多くね?」
「……うん? それ私に喧嘩うってんのか? 私二小出身なんだけど?」
 と、眉をピクリと動かす魔鬼の背中を、遊嬉がドンと強めに叩いた。
「んぼひゃ!」
「あたしも二小出身でーーーっす! いえーい」
 こんな時に、寧ろこんな時だからこそか。遊嬉はやけに陽気な声を上げ、未だ天に向かって伸び続ける影の化け物を――烏貝乙瓜を見上げた。尚、妙な悲鳴を上げて咽る魔鬼を気遣う様子はない。かなしみ。
「はーーーー。乙瓜・・の奴うちらの誰よりも先にビッグになりよってー。ちくしょー」
「羨ましいビッグじゃないけどなー?」
 手で双眼鏡を作って覗き込む遊嬉に杏虎がツッコむ中、集う美術部の側に火遠と嶽木がふわりと飛んできた。花子さんや闇子さんも一緒だ。
「美術部たち、乙瓜や七瓜に関する記憶は無事なんだって?」
 問う火遠に「うん」と頷き、魔鬼は異に貰った御守りをポケットから取り出した。
 火遠はそれを見て何かを見極めようとするように目を細め、それから「あの子か」と小さく呟き、「他に何か言っていなかったかい?」と続けた。
 美術部四人はその問いに顔を見合わせ、数秒の間をおいて眞虚が代表するように口を開いた。
「思い続ける限り希望はある、って」
「……そうかい」
「火遠は何かわかったのか?」
 難しい顔をする火遠に魔鬼は問う。その問いに火遠は躊躇するように視線を逸らし、乙瓜・・を振り返り……それから意を決したように美術部に向き直り、彼女らに向けて話を始めた。

「"影の魔"は他者の存在を喰らう時に『世界』を騙す。その力で存在し得ない己を確立している。乙瓜や七瓜の記憶が消え始めたのは、あの暴走・・の中でその嘘を誤魔化す術を失ったから。乙瓜とそれに上書きされている七瓜という存在の記録は、遅かれ早かれ俺たちの中からも消え去るだろう。その御守りも、いつまでもは……」
「そんな、それじゃ……。何か手段はあるのか?」
「…………ある。あれ・・の中の乙瓜の意思はまだ生きている」
 それがわかる。胸の前でギュッと拳を握り、火遠は小さくそう呟いた。まだ契約は生きていると。
「契約が生きてると言う事は、まだそこに乙瓜の意思が在るってこと。その辺からこじつけて『世界』をもう一度騙し返す」
「フワフワしてんな……。大丈夫なんか?」
 どこか不安げに魔鬼が言う。それに火遠はあっさりと「いいや」と答える。
「確約は出来ないかな。そして多分、異の奴にもわからなかったんだろう。あいつの行動も大概賭けだからね」
「ここ一番の本当に肝心な所で!? いいんかそれで!?」
「いいんだよ。何もやらずに忘れるよりはずっといいだろ?」
 呆れ慌てる魔鬼にそう返し、火遠は横目で嶽木を見た。嶽木は何食わぬ顔で「つながってるよ」と呟くと、スッと己のケータイを差し出した。
 火遠はそれを受け取ると、「もしもし?」と話しかける。電話の向こうの相手へと。「丙師匠?」と。
 それを聞いて美術部は思う。「そういえば今日丙ずっと居なかったな」と。
 火遠は美術部らに背を向けて何やら話をすると、通話を切ってケータイを嶽木に返した。
「どうだって?」
には逃げられたって。なんか忍者みたいな奴が出て来てとか云々言ってたけど、了解は貰えたからいざってときは暫く頼むよ・・・・・・・・・・・・。姉さん」
「はいよ」
 そんな短い遣り取りを嶽木と交わして振り返った火遠は、まず真っ先に眞虚の傍らに立つ水祢を見て、それからどこか申し訳なさそうな顔をして、ポツリと言った。

「来年のチョコレートは食べられると思うんだよね」――と。パッと聞きなんの脈絡もないような言葉を。

 しかし水祢はそんな火遠の言葉にハッと目を見開くと、次に拗ねたように頬を膨らませ、ジトリと細めた目に光るものを滲ませながら、絞り出すように「馬鹿」とだけ言って、そのままくるりと背を向けてしまった。
 そんな会話の中に何かを感じた眞虚らは、火遠のしようとしている事にどことなく不安を覚えた。
「……お前まさか死ぬ気でどうこうするとかそういうアレ?」
 恐る恐る魔鬼が問うと、火遠はキョトンとして、眉をひそめて、それから呆れたようにふーと息を漏らして。

「そんなわけないだろ」と。出会った頃にはよく見た、信用ならない胡散臭い笑みを浮かべたのだ。

 程なくして火遠は美術部と、屋上に集う全ての学校妖怪たちも集めて、彼らに一つのお願い・・・をする。
 それは、呼びかける事。校庭の中に居てただ滅びを待って肥大化する乙瓜に向けて。思う事を全てぶつけて呼びかける事だった。
 全力で在ると信じるために。今そこに在り、嘗てもそこに在ったのだと信じるために。

 烏貝乙瓜という存在を。烏貝七瓜という存在を。

 その決起の様を、黒い魔女がやや離れた場所から微笑みと共に見守っていた。
 思えばいろいろなものによく足場にされたり利用されたりしている給水塔の上。そこに腰かけ優雅に足組み頬杖を突くヘンゼリーゼに、その場に現れた声が「高みの見物ね」と囁く。皮肉たっぷりで。
「あらぁ。そうよ? 魔女だもの」
 そうして振り返るヘンゼリーゼの横には、給水塔のタンクを背に立つ若き紅い魔女と赤黒の魔女。
 不穏な風に髪を揺らすアルミレーナと石神三咲。漸くとばかりに現れた彼女に、ヘンゼリーゼは言う。
「私だって約束した以上、【月喰の影】の件に関しては協力しないこともないのよ? だけれどあれ・・に関しては協定の範囲外だもの。彼らが彼らの力で解決すると決めた以上、それを見させて頂く所存だわ」
「……成程立派なご趣味だわ」
 アルミレーナはそう返し、ヘンゼリーゼをしてあれ・・と呼ばれた校庭の怪物を、己の友人を内包して滅びつつある影の魔の一端を見遣った。
「七瓜しんじゃったねー。なむなむ」
 同じものを見る三咲の口からは大して悲しくもなさそうな言葉が実に容易く零れ落ちる。アルミレーナは不謹慎な友人を、しかしたしなめるでもなく。本日ここに無事に到達するまでの幾らかの苦労を思い、今まさに何かを行おうとしている父を見下ろしながら、そっと両の掌を組み合わせた。
 胸の高さで。祈りを捧げるように。

(七瓜、乙瓜…………父さん……)


 ヘンゼリーゼの愉悦とアルミレーナの祈りが見守る下、果たして火遠の作戦・・は実行された。

「乙瓜ッ!」
 手摺際に立ち、火遠が叫ぶ。乙瓜・・に向けて。
 それが合図だったかのように魔鬼も叫ぶ。眞虚も叫ぶ。杏虎も遊嬉も、学校妖怪たちも声を張り叫ぶ。乙瓜の名を。そして七瓜の名も。
 しかし乙瓜だったものは全くの無反応で、既に数十メートルに及ぶ身体をますます膨張させてゆく。
「ちょ、そもそもこれ届いてなくない!? 声届いてなくない!?」
「諦めんなよもっと声張るんだよ!!! ここで届かせなくちゃ意味ないんだからぁ!!」
 珍しく弱気になった遊嬉に魔鬼が即座に言い返す。
「とはいっても咽喉にも限界ってもんがありますぜ……」
 と、声をガラ付かせながら愚痴る遊嬉はふと、屋上に取り付けられた屋外向けのスピーカーがザザッとノイズを放つのを聞いた。放送が始まる前特有のあのノイズだ。
(えっ何、校内放送!? みんな逃げた筈じゃ!?)
 そう遊嬉が思った次の瞬間だった。スピーカーからエコー全開最大音量の放送が響き渡ったのは。

『美術部のみんな! ……と、学校妖怪のみなさんッ!』

 一部がキィンと音割れするほどのボリュームで放たれたその声の主に、屋上の全員とまでは行かずとも、半数程には覚えがあった。そしてその中から代表するように魔鬼は叫ぶ。
「幸福ヶ森さん!? なんで!??」
 そう。幾らかは校内放送独特の劣化をしているものの、声は紛れもなく幸呼のものだった。耳に響く大音声に驚きともにやや怯み気味に屋上の美術部と裏生徒が構える中、幸呼の声は更に続ける。
『今のびっくりしたかもしれない、けど聞いてッ! 私も多分みんなと同じ……乙瓜と七瓜を助けたい一人だから……! 私もここから呼びかけてみる! だからみんなも諦めずに呼びかけ続けてっ!』
 その放送は広く学校の敷地全域に響き渡り、連続する異常事態を受けて学校裏手側の駐車場に一旦避難していた教師やその他部活の生徒の耳のも届いた。
「なにこれ?」「さっちゃんの声だよね?」「いつかとなのかって誰?」生徒たちが口々に騒めく中、教師たちは「誰か勝手に校舎に残って放送室で悪戯している者がいる!」と、急ぎ体育館通路側から駆け戻るが、その足は途中廊下を大きく遮る形に展開された防火扉によって、そしてあの手この手によってバリケードの張られた廊下にて阻まれてしまった。
 あちこち窓が割れているのだからどこかしらかは入れそうなものだが、何故だかそういう所から入ろうと言う考えは浮いてこないようだった。それもその筈、どうしてもバリケードの張り切れないような場所や幸呼の移動の妨げになるような場所には、八尾異謹製の"ちょっとしたいたずら人払い"が施されていたのである。
 一方で物理的な妨害を施した者たちは、二階ベランダ伝いに昇降口の外側に張り出したコンクリートの雨よけの上に登っていた。
「いやあ全く、とんでもない大役だったな!」
 王宮が言う。生徒会長といういいご身分でありながらも元より脅かしたりの悪戯が大好きな彼は、非常事態のどさくさに紛れて普段思ってもとても出来ないような悪戯・・を実行できて大満足の様子である。
「なんかめっちゃ荒れてる学校みたいだったけど楽しかったよなー……。バレたら内申下がるとかそいういうレベルじゃねーけど、そんときゃー烏貝の仕業にしてやりゃーいーか」
 存外ケロリとしてそれに答える天神坂は、「んっ」と伸びをするとふと横を見て、そこに立つ二人――柚葉と明菜に「ありがとなー」と告げた。
「なんだかんだ男二人だけじゃあ机運ぶの辛かったわ。マジ助かった。サンクス」
「お役に立てて光栄でっす」
 柚葉は冗談っぽく敬礼すると、再びスピーカーから鳴り響く爆音に「ひー」と耳を塞いだ。
 そうして耳鳴りにも似たノイズが過ぎ去った後、柚葉は天神坂と王宮を見上げ、ふと不思議そうに首を傾げた。
「そういやところで、天神坂先輩と王宮会長の御二方は烏貝先輩の何者で? 好きなんです?」
 藪から棒に不躾に、しかし悪意なく。好奇心で。王宮と天神坂はキョトンとして顔を見合わせ、それからニヤっと笑って口々に言う。
「誰が好きかい。烏貝ときたら大勢に囲まれると話もできない内弁慶な上に口も悪い」
「そーそ。それでかわいくもないし。素直にありがとうとか言わねえし」
「それと彼女は融通が効かないところがあるよな」
「ああ! あるある」
 半ば悪口のような事を。だが一通り不満を出し終わった所で彼らは言うのだ。
「でもまあ、そんなんだけど友達だからなァ。ぺらーい付き合いだから化け物だよ! とか言われてもフーンて感じだし。そも美術部二年が全体的に化け物めいているし。かといってわけのわからんまま居なくなられるとなんか後味悪いし」
「うむ。だからここ一番での北中のパワーを見せつけたいよな! 自分は全くの凡人だが、出来る事はゼロじゃないとね!」
「ほほー。かっこいいですなー!」
 ドンと胸を張る王宮にそう返し、「君は大物になる予感がする!」と生徒会長のお墨付きを貰う柚葉。一方天神坂は不安に烏貝先輩・・・・を見上げたままの明菜を指して、「君はどうしてあいつを助けたいのさ?」と問う。
 その言葉に我に返ったように天神坂を見た彼女は、生来の人見知りと先輩の手前言いづらいのか、少し視線を泳がせた後で言う。
「多分、先輩たちと同じ気持ちなんです」と。
「正直なんかなあって思うところは幾らでもありました。けど、烏貝先輩たちと見た不思議なものは、私の中ではちょっとした宝物なんです。だから……困るんです。急に居なくなられたら。先輩たちは……六人いてこそ・・・・・・の先輩たちだと思うから……!」
 そんな彼女の意見を聞いて、天神坂は優しく笑った。王宮もうんうんと嬉しそうに頷く。柚葉はニィィと歯を見せて、明菜の両手を掴んで「よっしゃよっしゃ!」と意味も無くぶんぶんと振る。
「わっわっわっ!!? 柚葉柚葉!?」
「よっしゃ見せてやろうぜ明菜ぁ! アタシら凡人も先輩たちの力になれるってとこをー! 世界を救うのは清き少年少女たちだということを~~! レッツゴーじゃ!」
「それさり気なく他の先輩たち下げてるから! 下げてるからぁ!!」
 さり気なく失礼な柚葉と良い雰囲気からの台無しの予感に震える明菜、やれやれと肩をすくめる男子二名。そんな彼らの場所から烏貝乙瓜を求める声が立つのは、程なくすぐの事だった。



『七瓜ごめん! ……私あんたの話本当はあんまり信じてなかった! 電話がかかって来た夜も、また何かの冗談だと思ってた……! そして乙瓜、ごめん。七瓜の事で色々思うところはある。だけど私が直接暴言を言っちゃったのは乙瓜だから……ごめん。それをちゃんと謝りたいから、だから――!』
 スピーカーから幸呼の声が響く。昇降口上から天神坂や明菜らの声が響く。屋上からは美術部と裏生徒たちの声が響く。
 声、声、声。皆が呼びかけ、祈っていた。乙瓜に、七瓜に。その帰還を。
 上から下からスピーカーから。祈りの反響する二年一組教室――この三月まで烏貝乙瓜の所属する教室で、八尾異は一人祈っていた。
 退廃的に破壊された窓辺に立ち、ここからはやや遠くなるグラウンドの中心を見つめ。
「古霊町にまします神々よ、どうか、どうか……」
 祈念し目を瞑る。そうして気づく。
「こらああああああああああ!! 乙瓜ぁあああああああああああああああああああ!! 七瓜ああああああああああああああああああああッ!!」
 校舎の一階西端から叫び続けている彼女ら・・・の声に。この局面で逃げる事もせず、そのを守り続けていた歩深世と美術部一年一同の声に。
(御守りもないのに……彼女らの中からも消えていなかった……! これは――)
 異はハッとし、そして気づく。嘗て乙瓜だった黒い化け物が、際限なく膨れ上がるかに見えたそれが。膨らむことを止めている事に。
「烏貝ちゃんッ!!」
 叫び、異はベランダへの扉を開ける。その変化は昇降口でも、屋上でも、そして美術室でも観測されていた。
 皆がそれぞれの思う名を叫びながら己が立ちうる果てへ向かう中、それは――乙瓜は。泣いていた。

 聞こえていた沢山の声に。永遠の夕暮れを超えて、その場所に帰りたいと。帰れないと。
 七瓜を殺してしまったと。自分は人間ではなかったと。だからもういいのだと。

 心の叫びともとれるその声は、この場この世界で只一人にだけはっきりと届いていた。
 草萼火遠。契約を結んだ相手。乙瓜の嘆きに耳を傾け、火遠もまた心で語り掛ける。


 戻れないよ。
 ――戻れる術はあるさ。

 帰れないよ。
 ――待っている人もいるさ。

 だけど今更、今更……。
 ――遅すぎる事なんてない。失敗は今からでも取り返して行けばいいんだよ。その手の中を見てごらん。七瓜はまだまだ死んでない。だから――

「――乙瓜」
 ポツリと口にし、火遠はふっと目を開く。視界の中には乙瓜と七瓜を呼ぶ沢山の存在。それを見て、火遠は思う。語り掛ける。こんなに求められているんだよ、と。
 そして屋上の扉に背を預ける姉に目配せし、小さく言うのだ。
「やっぱり今がいざって時みたいだ」と。
 嶽木は小さく頷くと、ふうと息を吐いて一言だけ言う。
「いっておいで」と。

 そうして、火遠は。

「契約確認。一つ。この者の身辺の安全を保証するもの。この一つを以て、我はこの者の存在を承認する。烏貝乙瓜と承認する。烏貝乙瓜と烏貝七瓜を、それぞれ別個の確立した存在であると承認し、証明する。我が契約の名はソウガクカエン。契約主はカラスガイイツカ。執行申請、執行承認……!」

 呪文のように紡がれる言葉に、初めに振り返ったのは魔鬼だった。その他美術部や花子さんらも、徐々にその異質とも言える言葉に気づき、そこに振り向く。
 そして見る。真っ赤な鳥を。そして知る。それが草萼火遠だと言う事を。
 彼の炎の如き髪は流水の勢いで長く長く伸び、その頭部にと背に一対ずつ、合せて四枚の巨大な翼を形成する。コウモリの如き被膜の翼。背に追う根本からは植物の葉のようなものが無数に生え伸び、火遠のシルエットを異様なものへと変異させた。
「なに……あれ。変身……?」
 魔鬼が呟く。そう、その光景は言うなれば『変身』だった。今や草萼火遠は火遠にあって火遠に非ず、衣装までもが翼のあるシルエットに最適化されるように変質し、天使のような光輪すら纏っている。その姿はどこか神秘的で、一方で禍々しくもあり、天使と悪魔の中間を思わせた。
 そんな変身をしてみせた当人は、何の説明もないまま翼を広げ、乙瓜へ向けて飛び立った。
 影の塊に飛び込む一筋の光。何も知らない屋上以外の者は、それを一瞬流れ星と錯覚する。
 唯一異だけがその光の正体に気づくと、唖然とした顔でこう呟いた。運命の星の力、と。



 闇が砕け、光が散る。
 仮初の夕暮れは吹き飛び、乙瓜の瞳は穏やかな夜空を幻視した。星の降る、暗くも爽やかな夜空を。
「よ……る?」
「夜明け前だよ、まだお休み」
 ぼんやりと呟く乙瓜に誰かがそう返す。乙瓜はその声にほっと安心して目を閉ざす。右手に握りしめる暖かいなにかの感覚――自分と同じ優しい温度を感じながら。

 幼子のように眠った乙瓜を見て、火遠はふわりと笑った。傷一つない彼女の右手の先には同じく傷一つない七瓜が、こちらも夜に眠るようにすやすやと眠っている。
 火遠に眠る"運命の星"は、乙瓜と七瓜の消えゆく運命を覆し、その存在を初めから在る・・ものとして再生させた。
 七瓜には影が在り、乙瓜にも影が在る。もう真贋を賭けて互いに削り合うことない存在へと、彼女たちは謂わば生まれ変わったのだ。
 影の塊の中から二人を呼び戻した火遠は、安堵の傍ら小さな後悔に目を閉ざす。
 決して二人を救った事に対する後悔ではない。使わないと決めた世界改変の力を、影を持った存在を一つ増やすという、ささやかながらも大きな改変へと使ってしまったことへの後悔だった。
 世界は元のまま、存在しえない存在の場を生み出すという荒業。……曲月嘉乃がこれを見たなら、「それみたことか、やはり君は自己中心的なエゴイストさ」とでも嘲るだろう。
 ――いや……良かったんだ。ここで乙瓜を失うよりは……。
 火遠は思い、乙瓜と七瓜をそっと地上へと向かわせた。
 妹の為に己の存在を差し出した姉と、姉を滅ぼした罪悪感から存在としての死を選んだ妹。共に在れないもの同士だった姉妹が、これで漸く並び立てる。
 ――これで良かったんだ……これで。
 そうして二人を見送る火遠の身体から、何かがキラキラと零れ出す。星の力を使うために、今の姿に成る為に使った光が。
 剥がれる。剥離する。剥落する。
 影の残骸の闇の中で、鱗のように光を零し。火遠もまた地上へ向かって落ちてゆく。先に送った二人のようにゆっくりではなく、それこそ燃え尽きた流れ星のように。

 それは無茶を通した代償だった。如何にこの世界の神に近い存在であっても、簡単には通してならない願いがあった。
 世界そのものを変えることなく存在できないものをねじ込む事。本来出来るはずもない事。机上の空論を再現してしまったにも等しい、小さくも大きな改変。それによって生まれた新たな歪みはその矛先を火遠へと変え、一筋の雷となって彼の身体を射抜いた。
 瞬間、火遠の纏う光は一撃で砕け散る。火遠の姿は元の姿へと戻るに留まらず、燃える炎の光までも失って、毛髪は嶽木と同じ新緑へと変わる。

(これでよかったんだ。これで)
 雷に焼かれて薄れゆく火遠が意識の片隅で見たものは、校庭に寄り添い倒れる乙瓜と七瓜、昇降口から彼女らに向かって走り寄る美術部はじめ諸生徒たち。
 そんな光景を最後に、彼の意識は完全に途絶した。



 その日美術部が得たものは、一人の友人の無事。本来抗えない絶望の渦の中から見つけ出し引き摺りだした、掛け替えのない希望。

 その希望の代償に、輝く星は燃え尽きて落ちる。



 月は遠くからそれを見て星を嘲り、漸く機は熟したとばかりに目を輝かす。
「破棄寸前の拠点に乗り込んで来られた時はどうなるかと思ったけど。ともあれ奴が勝手に自爆してくれて助かったよ」

 待ち構えるのはしるべを欠いた漆黒の夜。真なる月も星もなく、影が口を開けて待つ闇の洞穴。
 けれど立ち止まる訳にはいかないのだろう。その先に光をさがす為に。



(第二十談・机上空論エンドノート・完/『怪事捜話』了 『怪事廻話』へ続く)

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