怪事捜話
第三談・雨月張弓⑤

 それは、単なる思い付きだった。
 ――雨月張弓。雨のようにはじけ飛ぶ光を見て、弦月のようなその形を見て。杏虎の頭に咄嗟に思いついた、何の意味も無い言葉の筈だった。
 しかし、杏虎は知らない。
 その弓がかつてどのような名で呼ばれていたのか。そして、どのような因縁を持つ代物なのか。
 まだ、なにも。


 砕けた闇の向こうには、見慣れた学校の廊下が広がっていた。
 しかし窓から見える空は相変わらず常識とはなはだしく乖離かいりした禍々しい色に染まっており、ここがまだ現実ではない事を主張している。
 杏虎はそんな空を一瞥し、視線を廊下に戻す。
 流石に異世界らしく人の気配と云うものが途絶した学校の光景がそこにある。
 視線を動かして周囲を見渡すと、生徒会室と音楽室が目に入る。建物の内部構造が現実と変わらないならば、どうやら三階のようである。
 そのことを確認するなり、杏虎は廊下を駆けだした。
 音楽室前の角を曲がって図書室へ。
 先程の神の言葉に嘘偽りがないとするならば、そこではまだ斬子が鵺と交戦中である筈だ。神官の家系で巫女のバイト経験があるだけの斬子が。
 ――急がなくては。
 そう思い短い距離を疾走する杏虎の手には、あの闇の世界を越えるまで握りしめていた筈の弓が無い。
 しかし杏虎には焦りも不安も無かった。自ら「雨月張弓」と名付けたそれを手にした瞬間に、そういうものだと理解していたからだ。
 それに、やいばの退魔宝具・崩魔刀の現在の持ち主である戮飢遊嬉は、度々何もない場所から緋の刀を顕現けんげんさせた。――だからきっと、そういうことなのだろうと。
 退魔宝具、魔性のモノに致命打を与え得る神憑りの武器。この世に在ってこの世に無い幻想の道具。
 定まった形を持たないそれは、所有者の意思で自在に形を変えるだけでなく、必要な時のみ出現させることも可能……!
(大丈夫、まだ気配は感じる。「雨月」はまだあたしの中・・・・・に居る!)
 そう確信し、杏虎は床を蹴る足に力を込めた。
 目的地たる図書室の扉は閉ざされており、備え付けられた曇り硝子の窓からは中の様子は窺えない。しかし一歩一歩近づく度、尋常ではない気配がひしひしと伝わってくるのを杏虎は感じていた。
 おぞましい気配。自分を飲みこんだ化物の気配。
 杏虎は確信する。鵺は間違いなくまだこの中に居る。
 杏虎は奥歯をギリリと噛みしめ、走る速度を緩めず図書室に向かう。
 そしてもう扉に激突するという瞬間、上履き裏のゴムをギュルンと鳴らして急停止し、体を捻りながら勢いよく扉を開け放った。
 入り慣れた美術室の扉と同じ構造のそれは違い詰まる事なくスルリと開き、壁に当たってストンと小気味の良い音を立てた。

「斬子ッ!」

 クラスメートの名を叫び、杏虎は図書室の中に飛び込んだ。広がった視界の先には、斬子を窓際の済みに追い詰める化物の姿と、分厚い辞書を持って果敢に抵抗する斬子の姿があった。
 化物は杏虎が最後に見た時とはまた姿を変えて巨大なタランチュラのような形態となっており、鋭い牙を今まさに斬子の首筋に突き立てようとしている。
 そんな修羅場的な状況に響き渡った第三者の声に不意を突かれ、化け物の注意は一瞬だけ斬子から逸れた。
 そのごくわずかな隙を見計らって、斬子は化物の牙に辞書を叩きつけ、体を捩って化物のふところに潜り込み、股の間を潜り抜けた。
 まるで迷いのない動きで化物の包囲を逃れた彼女は、一瞬遅れて振り返る化物の頭に持ったままの辞書を投げつける。
 当然のように蜘蛛の多脚が追撃を仕掛けてくるが、武道経験者の彼女にはまるででたらめな動きにしか見えず、見切りながら後退して化け物と距離を置いた。
 撤退した本棚の裏で、斬子は安堵しながらも好機をくれた何者かの存在を思い出し、入り口に目を遣り。……そして驚愕した。
「な、なんで……っ?」
 幽霊でも見たかのようにぐわと見開かれる瞼。その視線の先で何でもない顔をした杏虎が軽い挨拶でもするように手を上げる。
「やっ。無事そうで何より」
「無事そうで何より……って、杏虎ちゃん、あの、あなた……だってさっき!?」
 思いっきり杏虎を指差しながら、金魚のように口をパクパクさせてへたり込む斬子。どうやら驚きの余り腰が抜けたようだ。
 それも当然である。食べられたとばかり思っていたクラスメートが平然とそこに居るのだから。
 杏虎が飲み込まれて以降、斬子は化物に向かって行った。
 だが武術の心得のある彼女とてほぼ丸腰の現状では図書室の本やその他備品をぶつける程度のささやかな抵抗しか出来ず、化物からすればコバエが五月蠅い程度にしか思われていなかっただろう。
 それでも、そうだとしても。もしかしたら腹を思い切り蹴れば杏虎を吐き出させることくらいは出来るのではないかという僅かな希望に縋り、斬子はがむしゃらに頑張っていたのだ。だのに。
 その助けたい相手が、吐き出された形跡すらないのにそこに居る。ピンピンとしている。
 そんな素敵に不可思議な状況に、斬子は「ひぃ」と小さな悲鳴を上げた。

 驚いたのは何も斬子だけではない。化物もまた杏虎の登場に混乱していた。
 確かに自分が飲みこんだ筈の相手が、何ともない顔でピンピンしている。
 相手は単なる人間であり、体内から穴も明けずに抜け出すだなんて不可能である筈なのに。
「……おのれ、誰かが力添えしたな」
 認識と驚愕の数秒後、化物の中にふつふつと怒りが湧きあがる。
 何者かが自分に悟られぬように杏虎を逃がした――出し抜かれた。それは化物のプライドが許さないことだった。
 ――正体不明の存在として、誰だか知らない何者かに出し抜かれる事があっていいものか!
「……灯火か、あやつが手引きしたのか……!」
 怒りに声を震わせ吠える鵺に対し、杏虎は涼しい顔で答える。
「灯火? なんのこったい。あたしを助けてくれたのは白いちっこい神様だったよ? こーんくらいのね」
 手で背丈を示して見せる杏虎を見て、鵺より先に斬子がハッとした顔になる。
「雪媛さまに会ったの!?」
「……ああうん? そっか、そういうえば神逆神社の神様とか言ってたわ。ってか斬子知ってるん、やっぱ?」
「知ってるも何もうちの神様だし……ってか見てるなら私の事助けてくれてもよくない!?」
 猛ショックを受けたような顔を浮かべる斬子を見て、杏虎は薄雪の言葉を一つ思い出し、何の気なしに口にする。
「そういやなんか、勝てないだろうけど死にはしないだろうから大丈夫みたいな事言ってたわ」
 それを聞いた途端斬子の顔が急に真顔になった。「後でシメる」と呟くと、腰抜けが治ったのかスッと立ち上がり、本棚の裏から鵺の様子を窺い見る。
「まあ杏虎ちゃん無事で本当に良かったけど、……アレどうするよ、怒ってるよ?」
 斬子が恐る恐る指差す先で、化物は「おのれ、おのれ」と恨み言を吐きながら体からもくもくと黒煙のようなものを噴出し、姿を隠しつつまた形状を変えようとしていた。
 ぐちゃぐちゃと不気味な音を立てながら、長い蜘蛛のような脚が引っ込み、代わりに黒煙の向こうから肉食獣のような鋭い眼光がギラリと覗く。それを見て、杏虎は「虎」の眼だと思った。

 ――黒い虎が、こちらを見ている。

 尤も、黒煙を通しているから黒く見えるだけであり、更に休むことなく変化するそれはもう虎の姿をしていないだろう。
 しかし杏虎は、一瞬だけ確かに表れた「黒い虎」を見て何かを思い出したのだ。遠い遠い日の出来事を、一つ。
 小学五年のとある放課後、杏虎は帰り道の途中ではじめてなんだかわからないもの・・・・・・・・・・・に遭遇した。
 影のように真っ黒一色で輪郭線もはっきりしないそれは犬でもなく猫でもなく。人のようにも見えないのに、人の言葉で語りかけてきたのだった。
 ――名前を教えてくれぬかのう。

 あの日、そう言ってにやりと笑ったなんだかわからないもの・・・・・・・・・・・は己の事を虎だと言っていた。
 それを思い出し、杏虎は漸く納得した。何故自分にはこの世のものではない声が聞こえるのか。何故退魔宝具に選ばれたのか。
(そうだ、ずっと忘れていた。いいや、ずっと知らないふりをして忘れようとしていた。あたしはあの日黒い虎に会った。そしてあの時本当は手に入れていたんだ。ずっと閉ざしていただけで、本当はずっと持っていた)
 三年前の杏虎はあまりに遭遇した奇怪な現象を受け入れられず、夢か何かだと思い込もうとしていた。そういう記憶はあるけど、あれは夢だと、現実ではないと自分に言い聞かせていた。……だから気付かなかったのだ。
 魔法使いの魔鬼、蛇神に遭遇した遊嬉、悪魔に卵を授けられた眞虚。彼女らと同じように、自分もとっくの昔に怪事に巻き込まれていたことに。

 ――杏虎あたしは。

 杏虎は目を閉じる。化物の立てる変化の音がぴたりと止む。
「おのれ、おのれ……! もう一思いに殺してやろうだのと、生ぬるい事はしない! 喉笛を噛み切って、その首引き千切ってくれるわッッ!」
 激昂したように叫ぶ化物の声は老若男女入り乱れたような不気味なものであり、既に集会委員を騙る少女の名残はない。
 そんな怒声を耳に受け、杏虎はスッと瞼を開いた。
 開かれた視界で杏虎は化物の姿を捉える。
 顔は猿、体は狸、足は虎、尻尾は蛇。伝承に出てくる通りの鵺の姿をしたそれは、既に斬子との戦闘で散らかった読書机の上で猿の鋭い牙を剥き出しにすると、虎の太い脚で地を蹴り、杏虎に向かって飛びかかってきた。
 それと同時、杏虎もまた叫んだ。
「雨月!」
 左手ゆんでを正面に突出し、右手を顔の後ろへ引く。指の間に光が生ずる。
「死ねェッッ!」
 陳腐な台詞を吐き飛びかかってくる鵺に左手を向け、杏虎は再び叫んだ。
「張弓! ……破魔弓矢バスターアロー!」
 猿の牙が将に杏虎の左手を噛み切らんとした瞬間、青き退魔宝具・雨月張弓が顕現する。
 杏虎の取ったポーズに合わせて既に弦は引かれており、右手の中にはいつの間にか光り輝く矢まで出現し、いつでも射出できる体制が整っていた。
 鏃の向く先には化物の大口がある。杏虎は弓矢が出現したと同時、迷うことなく矢を射ち放った。
 ほとんどゼロ距離。狙いを外すこともなく、光の弓は化物の口の中に突き刺さる。
 鵺は苦しみの絶叫を上げながら、まるで矢の推進力に負けるかの如く天井に叩きつけられ、また地面――読書机の上へと落下した。
 鵺の体を受け止めた机は退魔崩具の威力と重なった落下の衝撃に耐えきれなかったのか、数脚が倒れ、化け物を更に床へと叩きつけた。
「ガ……ぐ……ゥぅ……」
 大打撃を受けた鵺は、しかしまだ生きていた。やはり口の中を射抜いた程度では致命傷にはならないようで、首の後ろから貫通した鏃の先端を覗かせて呻きながらもよろよろと体を起こし、恨めしそうに杏虎を睨みつける。
 顔を真っ赤に染めて忌々しげに眼を見開く鵺に杏虎は冷たい視線を送った。その手は既に新たな矢を番えており、いつでも次発を射てる体勢が出来上がっていた。
「ぐ……退魔……ホ、宝具……か、おのれ……そのような力を手に入れる前に……始末、すべきだった……」
「残念だったね、これはもうあたしのもんだ。今更後悔したって遅いよ」
「……だろう……ナ」
 そこまで言って、鵺は苦しそうに喘いだ。ひゅうひゅうと苦しげな音が埃の舞う部屋にハッキリと響く。それはまるで喘息の発作を起こした人の呼吸音のようだった。
 あからさまに弱っている鵺を冷めた目で見下し、杏虎は徐に口を開いた。
「あたしさあ、別にお前が何しに学校に侵入したのかとか、なんで美術部あたしらにちょっかいかけてきたとか、そんな事は割とどうでもいいんだけど。寧ろそれがきっかけで雨月張弓この力とやっと出会えたってことで、ちょっぴり感謝しないこともないんだけど。……だけどやっぱ、許せないよねえ」
 彼女はそこで一旦言葉を区切り、ゆっくりと息を吸い込んだ後、静かな、しかし怒気を押し殺したような声でこう言った。

「いきなり人に向かって『死ね』とか。ナメてんのか」

 右手が離れる。矢が放たれる。
 一瞬の刹那、鵺は見た。自らの脳天目がけて飛んでくる矢の先で、未だ狙いを定めたままの杏虎の瞳を。
 文字通り射殺すような目をした彼女の眼は、空のような青と金色の光の混ざった奇妙な色をしており、それを見て鵺は悟った。――目を覚まさせてしまったのだと。

 白薙杏虎はさがしていた。夢に見る光の正体を。その結果、彼女は退魔の弓と引き合い、力を手に入れ。――そして、思い出していた。
 自らがこの世ならざる者の声を聴けるだけでなく、万象を見通す眼を持っていた事を。

 ――ああ、この娘は恐ろしい狙撃者になるだろう。我ら妖怪にとって途方もない脅威となるだろう……!

 光の矢が脳天を射抜く一瞬前に、鵺はそう思った。



 惨憺たる有様の図書室の真ん中で、猿とも狸とも虎とも蛇ともつかないモノが事切れている。空はすっかり異様な色彩から解き放たれ、鉛色の雲から大粒の雨を零している。
 そんな屋外の木の上、丁度図書室の窓が見える位置の枝の上に、古風な双眼鏡を構える彼女が居た。
「あーあーあー。残念残念、やられちゃったねぇ」
 言葉とは裏腹に全く残念そうでない口調で呟くと双眼鏡を下す。
 その顕になった右目は眼帯で覆われており、果たして双眼鏡の意味はあったのか甚だ疑問ではある。
「にしても鵺の奴、偵察の仕事も出来ないとかホントありえないわー。敵地だから気を付けろっつーのにちょっとテンションあがりすぎじゃーないのー? ……あの子絶対遠足前に眠れないタイプだわー。……はぁ、アタシも部下に恵まれないなァ。袰月の奴とかぶっちゃけ何やってるの今?」
 彼女はふぅと息を吐くと木の幹に寄り掛かり、真っ直ぐに図書室を見つめた。
 今度は双眼鏡など使わない。そんなものは彼女にとってあってもなくても関係ない代物だし、そもそも先程のものはファッション用の玩具である。
 だから、彼女には何も使わずとも見えていた。散らかった部屋でどうしたものかと立ち尽くす二人の少女の姿が鮮明に。
 そして彼女自身の興味はというと、未だ杏虎の手の中にある弓に向けられていた。
「【雨月張弓】か、いい名を付けたね。そいつが相手じゃあ鵺にゃあ敵わんわ。それに虎の眼も開いたみたいだし、……あーあ、やになっちゃうね。これじゃアタシが敵に塩送ったみたいじゃないか」
 縫い跡の付いた頬を膨らませ、彼女は真っ直ぐに立ち上がった。
「まぁいいわ、今日は様子見。またその内見てなさい、【灯火】の者たち。うふふふ、あははははは!」
 彼女は笑うと、不安定な木の枝を蹴って高く高く飛びあがった。
 枝葉の傘から飛び出し雨にぬれる事も厭わず雲の下に晒した体には縫い目と継ぎはぎが多数施され、腕に至っては完全に作り物の――人形のそれだ。

 飛び上がった上空から古霊北中学校を一瞥して、彼女は――アンナ・マリー・神楽月はにやりと目を細め、何処いずこかへと姿を消した。



(第三談・雨月張弓・完)

HOME