怪事捜話
第十八談・ラブミー・U→I・ラプソディ⑧

 手にした長物を肩にかけ、夢想の悪魔は眞虚ら二人を、嶽木を、そして入口に立つ七瓜と、その背後で委縮している少女――古虎渓明菜に目を遣った。
「あの、先輩たち……、大丈夫……ですか? 怪我とかは……」
 明菜は言う。すっかり様相の変わってしまった調理室と、その中心で鎖に括られている水祢の姿に怯えながら、ゆっくりと室内へと足を踏み入れながら。
 そんな彼女が気遣う先輩の内一人は放心し、もう一人は眉間に皺を寄せて明菜を……否、明菜の隣に立つ部外者を睨む。
「明菜ちゃん、そいつから離れな」
「えっ……、だけどこの人は私を――」
「いいから」
 杏虎の冷徹な言葉に戸惑い、明菜は傍らの少女を見遣る。烏貝乙瓜に似た彼女はどこか苦しそうな、思い詰めたような表情で床を見つめ、それから明菜の目を見て告げる。
「行って」と。杏虎たちを示しながら。――杏虎ら先輩陣と彼女の間には何かがあった。明菜がそう察するには、その声と表情だけで十分だった。
 明菜は七瓜に小さく頭を下げ、彼女から距離を置くことを選んだ。そうして俯き気味に歩く中、明菜は見てしまった。――もはや誰の口にも入る事はないであろうチョコレートの残骸を。
 それに気付いてしまい、明菜がよりどんよりとした心持になる一方、七瓜を睨んだままの杏虎が再び口を開く。
「――あんたどの面提げてここに来てんの? 直接は覚えてないけど、あんたがあたしらに何したかは知ってんだよ? 乙瓜とはあの後もなんかあったっぽいけど、こっちはまだあの日の事水に流して『助けてくれてありがとう』なんて言える心境じゃないんだわ」
 言いながら杏虎は再び雨月張弓を構える。敵意を込めて。
「尤もな意見だわ……。私があなたたちにしたことはそう簡単に許されるような事じゃない」
 七瓜は沈痛な面持ちで答え、けれども真っ直ぐに杏虎を見つめて言う。
「……だけど信じて杏虎ちゃん。少なくとも今日この場において私は美術部あなたたちの敵じゃない。あなたの隣の子と、そこの青い彼を助けたい。その目的だけは同じ筈だから」
「…………」
 真剣な面持ちの七瓜を前にして、杏虎はムッとした表情のまま、けれどもゆっくりと弓を下ろした。
「そこまで言って、もし違えたら今度こそ容赦なく撃つかんね」
「ええ。そうしてくれてかまわない」
 頷き、七瓜は漸く一歩を踏み出した。離れてみていた明菜は場の空気が幾らか緩んだのを感じ、ホッと胸を撫で下ろす。――と同時に、暫く黙って様子を見ていた嶽木がふと思い出したように口を開く。
「――まあ杏虎ちゃんらの気持ちはさておき状況はなんとなくわかった。とりあえずヤバそうだったから考えなしに殴り飛ばしちまったけど、うちの弟は【月】の遣いに射貫かれ・・・・たんだな。そして君らはヘンゼリーゼんとこからの増援か。襲撃の事は――」
「勿論わかってるわ。だけど私らはこっち優先。心配しなさんなくても、あと数人来てるから、もう一人弟さんも契約者さんも大丈夫だと思うよ」
 呟くような嶽木の言葉に答え、エーンリッヒはニッと頬を上げた。
「そうか、それはよかった。……あの魔女もたまーには役に立つ事してくれるんだな。個人的には嫌いだけど」
「あんまディスんないでよ~。あの子どっから見てるかわかんないからー」
「……いや、いや待ってよ!」
 嶽木と悪魔が二人だけで緩めの空気を生産し始めた中、杏虎が慌てた調子で口を挟む。
「増援って!? 襲撃って!? 今日北中なんか起こってるワケ!?」
「ああ、もしかして君らは知らなかった系かしら?」
 エーンリッヒらがキョトンとする中、代わりにとばかりに明菜が言う。
「下の階に変な人形みたいなのがいっぱいいて……北中ここ襲われてるみたいなんです!」
「はぁ!?」
 素っ頓狂な声を上げ、杏虎は手近な窓から外を見た。先程葵月蘰がぶち破って落ちて行った校庭側の風景はしかし、天気が曇っている事を除いて特に変わりなく平穏だ。グラウンドの奥では相変わらず野球部とサッカー部が練習しているし、何部かまでは知らないがトラックを周回している生徒の姿も見える。……虎の眼を持つ杏虎だからこそわかる。その景色は嘘偽りなく真実だと。
 なにもないじゃん。そんな杏虎の気持ちが言葉に成るのを先回りするように、嶽木は言う。
は昇降口に集中召喚されてるっぽい。人形の大軍勢で、ご丁寧に認識妨害付き。多分でなくてもアンナ・マリーの仕業だね。美術部と学校妖怪おれたち以外に害意はないらしいよ。露骨に」
「マジ……? ていうか美術室とか大丈夫なん? 遊嬉は? 深世さんは?」
「うん――大丈夫っぽい。なんとかね」
 頷き目を閉じる嶽木には聞こえていた。己の契約者の言葉が。彼女と、嶽木が刀を託したトイレの妖怪の善戦により、美術室方面の敵の戦線は後退しつつあるらしい。そして――
(――増援はあの子らか)
 目を開き、嶽木はエーンリッヒを見遣る。それからチラリと七瓜を見、そして思う。
(ここまで自軍の駒・・・・を動かしてくるって事は、あの女的にも見過ごせない何かが起こってるって事……か? そして美術部のみんなにとってはあまり印象の良くないあの子も出してきたって事は)
 ハッとしたように目を見開き、嶽木は改めて杏虎に、そして眞虚に向き直った。
「――杏虎ちゃん眞虚ちゃん。おれはまた行かなくちゃならないから、この場はもう任せていいかな。丁度夢想の扉の鍵もあるみたいだし、水祢を起こせたら三人で一階まで来て」
 そこまで言って、返事を待たずに嶽木は再びエーンリッヒを見た。
「この場限りは信用する。任せた」
「任された」
 軽いノリで答える夢想の悪魔に嶽木は頷き、その場を去る為に宙へと浮かびあがる。――と、その靴先を誰かが掴んだ。……眞虚だった。
「……眞虚ちゃん?」
 怪訝に振り返り眉を動かす嶽木。彼女を見上げる眞虚の顔は見たことがないくらいぐしゃぐしゃの泣き顔で、大粒の涙が頬を伝ってぼたぼたと流れ落ち、床に小ぶりな水溜を作らせていた。
 彼女はずっと泣いていたのだ。幾らかは希望が見えたこの状況下で、声も上げずに一人静かに泣いていたのだ。
 そんな彼女の姿に困り顔を向け、嶽木はゆっくりと床に降り立った。
「眞虚ちゃん。この場の事はもう大丈夫だから。水祢も元に戻るから」
 腰を屈め、優しく諭すように嶽木は言う。眞虚はしかしゆっくりと首を左右に振り、未だ止まらぬ涙を湛えた目を嶽木に向けた。
「……ちがうの、私の所為なのっ……! 水祢くんがああなったのは私の……私がちゃんと対応出来なかったから……! そもそも私が約束・・をちゃんと守れなかったからッ! きっと水祢くんは怒ってる……!」
「そんな事はない。絶対にない。確かに水祢はきょうだいの中で一番難しい子だし、時々自分の事しか見えなくなっちゃうけど……ちょっとひねくれてるだけで本当はいい子なんだって、契約してる眞虚ちゃんが一番よくわかってるでしょ?」
 そこまで言って微笑み、嶽木は続ける。
「だから自分を責めないで。水祢の所に行ってあげて。これはあの子の姉としてのおれからのお願いで、火遠もきっと同じことを言う。犯した失敗を嘆き続けるんじゃなくて、完全でなくてもやり直せる道をさがして。……一人で苦しみ続けないで。遊嬉ちゃんだってそう言うし、杏虎ちゃんも……そうだよね?」
 チラリと視線を向けられ、「当たり前じゃんか」と杏虎は頷く。「良かった」と嶽木は呟き、床にへたり込んだままの眞虚の手をぎゅっと握ると、少しずつ導くように立ち上がらせた。
「お話終わった?」
 エーンリッヒが言う。仕事を先送りにされて暇そうにしていた彼女を振り返り、嶽木は改めてコクリと頷く。
「今度こそ終わった。だから改めて任せる」
「そ。じゃあ今度こそいってらっしゃい。こっちもぼちぼちこっちの仕事を始めるわ」
 杖の石突をトン鳴らし、エーンリッヒは改めて消えゆく嶽木に手を振った。ずっともたれ掛かっていた机に別れを告げ、拘束され眠らされている水祢を見て、その場に残る一人ひとりの顔を見て。最後に漸く涙を拭う眞虚に視線を向けた。
「前に私が言った事の意味。どうして私たちが誰も彼もを助けるような事をしないのか。今なら少しは分かったんじゃないかしら。どんなに心優しいヒトも、誰も彼もは救えない。出来ると思うのなら、それはとんだ思い上がり。どんなにこころざしは立派でも、誰も自分のキャパを超えた事はできないの。口先だけになって嘘つきと罵られるか、ボロボロになって共倒れになるか。どっちもあまり楽しくはないわよね。だから私たちはあらかじめ出来る事しか言わない。私にとっては、『そこで倒れてる彼の夢想を救う』くらいが出来る事。同時に何人もは救えない」
 言いながらエーンリッヒは天井高く杖を掲げる。いつぞやと同じように円を描き、その軌跡の中に真っ黒な穴を生む。
「まあ、それでも納得して私たちの同類になるなら構わないわ。……けれど未練がましい上に何がしたいのかわかんない奴は歓迎しないわよ。――そこまで言った上で君に問うけど。マコちゃん、君は今何を望んでる?」
 天井に黒穴を置いたまま、夢想の悪魔は眞虚に問う。
「私の望み……」
「そう。君の望み。嘘偽りない本当の望み。言葉と心が食い違い続ける限り、君はどこまでも堕ちて行く。誰にも止められない。だから君の口から聞かせてほしいな」
 大事なスピーチの前のように、歌い始めの直前のように。深く深く息を吸って、彼女は思う。――ああ、自分はこんな簡単な事にも気付けないでいたんだ、と。
 もっと早く、はっきりと直接言えばよかったのだ。思っているそのままの気持ちを。取り繕うことなく。何を望んでいるのかを。……どちらも言えばよかったのだ。

 だから、彼女は言った。誰に代弁させる事も無く、自分の言葉で。

「水祢くんを助けたい! もう一度水祢くんに会う・・・・・・・ために、思っている事を全部伝えるために、……私の為に、二人で助かる為に・・・・・・・・っ!!」

 ずっと胸の内に溜めていたものを吐き出すように。その言葉を最後まで聞き届け、エーンリッヒは小さく笑った。どこか呆れたように肩を竦めながら。
「……促したとはいえそこまで吹っ切れられるといっそ清々しいっていうかなんというか。でもまあいいわ。君も何かを見つけられたみたいね」
 感服したとばかりにそう言って、彼女は杖先に刺した黒穴を天井から降ろす。
 夢想の扉。打ち砕かれた水祢の内面世界への入り口。それを眞虚らの前に送り、エーンリッヒは言う。
「ここから先が彼の夢想に続く道。彼を取り戻す方法は、砕かれた心の欠片の中から核となる一欠片を見つけること。それはとても大変な事。……だけど――多分今のマコちゃんにはヒントは要らないかもね」
「――えっ?」
「彼が大事に思ってるもの。何となくわかってるんでしょ?」
 キョトンとする眞虚に悪魔は意味深に微笑む。それからふと杏虎を見て、少し考えるように宙を睨んでから自己解決したように頷き、一言。
「君は沢山見える子だけど、そんなに野暮な人間じゃないと思うから……まあいっか!」
「は? 今なんか失礼な事言った?」
「全然。あんまりあんまりー。ま、とりあえず夢想世界に行くのは君たち二人で決まりかな。あとは――」
 当然のように訝る杏虎を軽く流し、悪魔は七瓜を見た。
「ナノカ。私も抑えるけどあと10分は魔法解けないようにしててよね」
「元よりそのつもりだわ」
 即答する七瓜に満足そうな笑みを返し、彼女は次に明菜に目を向ける。
「えっとまあ、君はここにいて。美術部戦線は押し返してるだろうけど、まだ完全に敵を排除してはいないだろうから」
「もっ、もう何が起こってるか先輩たちとの会話の内容もさっぱり理解不能ですがとりあえず了解ですはいっ……!」
 生まれたての小鹿のように震えながら謎のファイティングポーズを取る明菜に「おっけーおっけー」と手を振って、悪魔は再び眞虚と杏虎へと向き直った。
「てなわけでこっちはこっちで大丈夫だし、水祢そこの彼のボディと後輩ちゃんの安全も保障するから。君たちは安心して行ってきな」
「……うん!」
 頷き、眞虚は黒穴へと一歩踏み出し、そして杏虎を振り返った。
「杏虎ちゃん、行こう」
「…………はいよ」
 その手を掴み、杏虎はフッと笑う。さっきまでずっと泣いていたのに、ずっと心配していたのが嘘みたいだと。
(今の眞虚ちゃんなら、きっと――)
(待っててね、水祢くん……!)
 思いを胸に黒穴に消える二人。彼女らを飲み込み、黒穴もまた姿を消す。
 随分と静かになってしまったボロボロの調理室を改めて見、エーンリッヒは独り言のように呟く。

「まあ、なんていうか。よくもああして堂々と言えるわよね。聞いてるこっちが恥ずかしいような、だけど羨ましくもあるような。……まるで愛の告白じゃない」



 ひらひらと蝶が舞う。紅い紅い蝶が舞う。
 暗闇の中を羽搏はばたいて、紅い蝶がひらひらと行く。
 ――違う。それは蝶ではなく。紅い紅い、『貴方』の……。

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