怪事捜話
第十八談・ラブミー・U→I・ラプソディ⑨

 辿り着いた世界でゆっくりと起き上がり、眞虚は辺りを見回した。
 そこに在るのは一面の暗闇と、メリーさんの内側でも感じた嫌な気配。仮に常人がこの場所に送られてきたとして恐らくは気付くことが出来ないだろう気配を、眞虚は確かに感じ取っていた。
 なんとも形容しがたいが、その場にいるだけで四肢が引き千切られるような痛みを感じるような、胸が押し潰されるような。辺り一面に満ちるそんな気配に包み込まれて、眞虚は小さく息を飲んだ。ここが水祢の夢想の内――彼の心の世界なのだ、と。
「酷い、こんな……」
 思わず呟く。そんな眞虚の背後で、何かの気配がのそりと動く。
 世界そのものとはまた異なる気配に眞虚が振り返ると、そこには先刻の眞虚と同じく体を起こす杏虎の姿があった。手を繋いでいた筈だったが、穴を通る際に離れてしまったらしい。だがそれ以外には特に変わった様子のない彼女を見て、眞虚は安堵の溜息を吐いたのだった。
「杏虎ちゃん大丈夫?」
「ああうん、全然へいき」
 杏虎は「よっ」と掛け声一つ、勢いをつけて起き上がると、埃を払うようにスカートを叩いた。
「そんでまあ、ここが水祢の精神世界ってわけか。……ていうかエリーザん時と同じで真っ暗なんだなぁ。まあ、他に見たことないから知らないけど」
 杏虎はそこまで言ってタコのように唇を尖らせ、むっと腕組みしてみせた。眉間にはしわが寄り、眉毛も心なしか逆八の字だ。
「……杏虎ちゃん?」
 眞虚が心配そうな視線を遣ると、杏虎はいや、と断ってからしかめ面の理由を話し出した。
「いんや、なんていうか。よく考えたらあたしらが前に来た時はエーンリッヒあの悪魔の力で記憶の欠片を捜したんだよなーとか。そんで今あいついなくね? とか。そういう事を思ったりしたわけなんだけど……、遊嬉と乙瓜はどうしたんだ……?」
 途中からは殆ど独り言だった。ぶつくさと言う杏虎をじっと見つめ、眞虚は少し考えるように眉をひそめ、何かを言おうとして迷うように真一文字に口を結んだ。
 彼女には、告げなければならない事があった。エーンリッヒに宣言した手前、目の前にいるこの友人にはっきりと、自分の言葉で告げなければならない事が。
 一瞬の躊躇ためらいと、振り絞る勇気。
 それを示すようにキリと眉を上げ、眞虚は大きく口を開いた。
「あのね杏虎ちゃん、聞いて――」
 己の意思ではっきりと。目の前にいる友人に、それをきちんと告げるために。
「――私、きっと記憶の欠片を捜す事ができるよ。だって――」
 杏虎のハッとした表情と、重なる二つの視線の間に向けて。

「――私、悪魔だから。半分以上悪魔に食べられちゃってるから」

 本当の事を。最後僅かに声が震え、眞虚の視界はじわりとにじむ。覚悟を決めて来た筈なのに。それを簡単に言ってしまえるほど、眞虚の心は強くはなかった。
 一世一代の決意と共に打ち明けられた真実を前に、しかし杏虎はキョトンとして。それから困ったような呆れたようななんとも言えない、けれども眞虚が恐れていた失望も恐怖もない表情で、ニッと笑った。
「知ってたよ」
「……えっ?」
「だーかーらー。眞虚ちゃんがどうなってるかなんてメリーさんの時にあの姿見た時からずーっと気付いてるっての」
 逆にポカンとする眞虚にそう言って、杏虎はちょっぴり拗ねたように頬を膨らませた。
「まあったく心配かけてー。……でもま、その口から直接聞けたって事は、あたしの調べものも今日で終わりって事かな」
 頬の風船をしぼませるようにケラケラと笑い、杏虎は今まで己がこそこそとしていた活動を洗いざらい白状した。『悪魔を引き剥がす方法』。そんなもの、捜したからといっておいそれと見つかるような情報でもないだろうに。思いつく限り・見つかった限りの情報は全て参照し、薄雪まで頼ってそのすべを得ようとしていた杏虎の執念は中々のものだ。
「――まー、この頃はどっちかってーと自白剤の作り方みたいなのを調べてたんだけどねー。あの神様も先月の猿神も、『本人が望まない限りはどうにもできない』なんて言うし」
「猿神……丙さんが私のこと話したの?」
「ん? ああ違う違う。あたしが逆に質問したんだよ。眞虚ちゃんを助ける方法教えろってね」
 ケロリと言ってのける杏虎に、眞虚は唖然とし続ける他なかった。そして改めて気づくのだ。自分はどうやら自分で思っていた以上に鈍感になっていたらしいと。
 仲間や友人を助けたいと願ったのは自分だけでなく、友人もまた友人じぶんを助けようとしていてくれたのだ。……少し注意深く見ていれば、それくらいすぐに分かっただろうに。
(ああ……私、馬鹿だったな――)
 己の愚かさに一筋の涙を零し、眞虚は静かに微笑んだ。
「ありがとう杏虎ちゃん」
 ――そして遊嬉ちゃんも魔鬼ちゃんも深世さんも乙瓜ちゃんも。眞虚は心の中でそう続け、制服の袖で涙を拭う。
 杏虎はそんな眞虚の頭に手を伸ばし、髪を崩さないように優しくなでながら「別にいいんだよ」と言う。
「あたしらはきっと、一人一人の気持ちが強すぎてから回ってただけなんだよ」
「うん」
「帰って、校舎の中で起こってる事が全部片付いたら。みんなで沢山話をしよう。思ってる事を伝え合わないと多分駄目だ。……って考えると、あの七瓜とも話をするべきなんだと思う。話し合わなくちゃならない。それがきっと今日なんだ」
「……うん!」
 杏虎の言葉にこくこくと頷き、眞虚はまた涙を拭った。もうあの破壊され尽くした調理室でへたり込んで泣いていた時のような悲しみはなく、頬を伝う雫を拭い去った後の表情には、杏虎に告白する前同様の覚悟が宿っていた。
 彼女の内にこごっていた感情は、涙となって流れ落ちた。後は望みを形にするだけだ。
 ここに来た、目的。それを果たすために。
 眞虚は大きく息を吸って吐き、杏虎を真っ直ぐ見つめ、そして言った。
「……杏虎ちゃん、どうか何も言わないで見守っててね。私の最後の無茶を――」
 杏虎がコクリと頷く中、暗闇の世界に白い光が舞った。



 くれないが躍る。ほのおの色をまとって。
 濁った水底のような世界で、その揺らめきときらめきだけが私の宝物。
 水面に映るかげは滲み、ぼやけた輪郭は一匹の蝶と成る。
 私の底を照らす紅い蝶。
 あの光に届きたいと願った。あの光に並び飛びたいと願った。
 この腐ったおりを抜け、欠片でも清らかなものになりたかった。

 あなたに恋した一心で。
 あなたを愛した一心で。
 私を愛してほしかった。
 あなたにも、私を。
 美しくなるから、この醜い私を。
 一度きりでも偽りの言葉でも、どうか愛してほしかった。

 果ての水面に火は遠く、かたしろ深く流れに沈む。

 ――水祢に見えていた世界の全て。
 水祢は同族が嫌いだった。山神の所有物として山の為に生き、朝も夜もなく人や神妖と交わる同族が大嫌いだった。
 彼は山野の竹林に棲んで人を惑わし生気を吸い、それを大地へと還元して土地を潤す妖怪として生まれた。山神によって現世から隠された屋敷に十数人のと使いの獣たちと共に住み、何不自由なく育ってきた。
 他の"群れ"の同種のがどんな扱いを受けて来たことかと思えば、愛されていたのだろうことは明白だった。事実彼は幸福だった。自分たちの当たり前をおかしなもの・・・・・・として認識してしまうまでは。
 十五になった夏、水祢は他の姉たちと同様に『屋敷に上がった』。末っ子である当人はやっと姉らと同じ豪奢な着物が着れるようになると喜んだが、その晩に待っていたのは地獄だった。
 ……すべての男がそうではないだろう。けれども水祢はその時初めてそれに触れたのだ。
 歪んだ趣向と食い込むてのひら、噛み千切ろうとする黄ばんだ歯。

 水祢は逃げ、離れに閉じこもった。あれ・・に平気でいられる姉たち同族が全て汚らわしいものに思えて仕方なかった。

 ともすれば贅沢な甘えともみられるかも知れない。そんな事でとなじられるかもしれない。彼ら種族ではそれがあたりまえ・・・・・としてまかり通っているのだから。
 だが、受け取る者によってはそんなこと・・・・・とも云えるそれが、水祢には耐えがたい苦痛だったのだ。
 代わる代わるやってくる姉や使いたちの慰めの言葉が全て嫌味に聞こえた。食べ物も些細な見舞いの品も受け入れられず、日に日に痩せ衰えて行ったが、山神の庇護下に在るので死ぬことは無い。
 そうして死んだように生きる日々が続いたある日、水祢はそれを見たのだ――。

(――ああ、やっぱりそうなんだ)
 目の前で流れ行く記憶の奔流を前に、眞虚は小さく息を飲んだ。
 分かっていた。水祢の中に核となる一欠けらがあるのなら、それはを見つけた初めの記憶である筈だと。何も聞くまでも無く分かっていた。
 初めて水祢と会った時の、我を失う程の怒りと執念。その起点である筈なのだと。
(わかってたよ。だけどほんのちょっぴりだけ悔しい気がするのは、もしかしたら私も少しだけはそう・・だったのかもね)
 記憶の中で紅が揺らめく。水祢がふすま越しに覗き見た闇の中で、そこだけ切り取ったかのように。
 鮮やかな着物と同じ色の紅く長い髪。気取ったように煙管をくゆらせてはいるが、それは紛れもなく眞虚の見知った彼なのだ。
 さあっと風が吹き、紅い輪郭をふわりと揺らす。ゆらゆらと揺らめくその姿は蝶にも似ていて、水祢が一目惚れするのも頷ける程に美しかったのだ。
 ばたん、と。記憶の中の水祢が扉を閉める。まるで恐ろしいものを見てしまったかのように、否。恐ろしく美しいものを見てしまったとでも言いたげな顔で。
 水祢は初めて彼を見たのだ。それまで存在すら知らなかった、自分が生まれるずっと昔に屋敷を出て行き、山神の掟から外れて奔放に生きる。自分と同じはみだしもの、けれども全く異なるもの。そんな兄の存在は確かに、水祢の中の何かを照らしたのだ。
 そんな過去の幻を前に、眞虚はフッと目を閉じる。そうして前に向かってスッと手を伸ばす。
「わかってる。これは過ぎ去った過去だって。だけどここで止めるのは無粋だって思うくらい、素敵な恋をしたんだね。……だから、私は。あなたをここから連れ戻さなくちゃならないんだ」
 伸ばした指先が小さな肩に触れる。彼はこんなに小さかっただろうか。……否、初めからこうだったのだ。そんな小さな背中に、自分は無自覚の内に寄りかかっていたのだ。眞虚は思う。
(ごめんね、水祢くん。重かったよね。水祢くんだって逃げたかったよね。……なのに私を庇ってくれたんだよね。私が悪魔の力に飲まれないように、『逃げろ』って言ってくれたんだよね)
 ――本当にありがとう。そんな思いと共に、眞虚は再び目を開く。再びの視界の先には、過去の風景なんてすっかり消えてしまった暗闇と、己の指先で背を向けて、膝を抱えて座っている袴姿の水祢が居る。伸ばすと癖の強い髪を長く長く垂らし、俯いたまま石のように動かない水祢が。
 眞虚は一歩踏み出し、今度は掌でその背に触れる。同時にどこからともなくひらりと白い何かが零れ、水祢の肩にふわりと乗る。
「……水祢くん、私わかったよ。やっとわかった」
 静かな声で眞虚が言う。白い何かは零れ続ける。……それは、柔らかい羽毛。強く羽搏はばたいた後に残るような、やわらかな鳥の羽だった。
 眞虚の背中には大きな翼が生えていた。天使のような白い翼、しかしどこか歪な翼が何対も、内側から食い破るように生えていた。……彼女は決断したのだ。己を呪うその力を、水祢の為に使うと。けれども本来夢想の悪魔の専門領域であるところの力を二度も使ったのだ。反動で羽は剥げ、白い翼は次第に醜い肉へと変わってゆく。滅ぶ前の最期の奇跡のように、白い羽を舞わせながら。
 そんな状況でありながら、眞虚は穏やかな声で言葉を続ける。
「私を棄てて水祢くんが助かっても、きっと水祢くんは喜ばない。それは杏虎ちゃんでも遊嬉ちゃんでも、美術部の他の誰かだってきっとそう。当たり前の事、だけど大切な事。忘れかけてた。……だからね、私決めた。水祢くんはきっと凄く怒ると思うけど、凄く馬鹿な事をしようとしてる自覚はあるけど。水祢くんを助けるために、この力を使うね。だけど、それはこの呪いを断ち切る為」
 容赦なく羽は散り続ける。眞虚は小さく笑う。
「……水祢くん、でもね。信じてるから。私があなたを助けた後で。きっと私を『助けて』ね?」
 微笑んで、一歩進んで、後ろから抱き着く形になって。眞虚は彼の耳に囁いた。
「『目を覚まして』。水祢くん」
 その瞬間、願いに広げた呪いの翼から全ての羽が抜け落ちる。白い翼の魔法は解け、眞虚は水祢を抱いたまま黒い闇の底へと沈み始めた。
 落下、降下。落ちる最中眞虚に残された肉の翼はめきめきと音を立て、蝙蝠の被膜のような、誰もが『悪魔』と聞いて想像するような翼へと姿を変える。変形の痛みに眞虚の顔は歪み、呻くと同時に背中の翼に小さなヒビが生まれ、徐々に皮膚上に広がって行く。そして――。

「本当に、馬鹿な子」

 苦しみの中で自ずと力の籠る腕の中で、彼は目覚めた。
 見慣れたショートヘアとワイシャツ半ズボンにベスト、眞虚のよく知る水祢の姿で。
「何が助かる為だし。何が呪いを断ち切る為だし。……失敗してるじゃない。馬鹿も馬鹿。大馬鹿……!」
 背後から抱きしめる腕に手を重ね、彼は小さく舌打ちする。触れる腕は既に冷たく、暖かい温もりは失われている。
「……逃げればよかったのに。どうしてお前は一々人の忠告を守らないの」
「…………守れないよ、だって、水祢くんだってそうするでしょ?」
 震え始める水祢の声に、背後の声は答える。消える前の灯火ともしびのように頼りない声で。そんな彼女の声を聞き、水祢は指先にキュっと力を込めた。そして思う。――ああ、きっとそうするよ、と。
 だから叫ぶ。全身全霊を込めて。彼女が漸く声を上げて望んだ通りに。自分も彼女も助かる為に。
「契約復唱! 一つ、この者の存在を「小鳥眞虚」として証明すること! この馬鹿で……ッ、大馬鹿な小娘を、人間・小鳥眞虚だと証明する!」
 契約の文言。それを叫び、己に絡みつく腕を解くようにして振り返る。そうして漸く水祢が直視した眞虚は、もうすっかり生気を失った土気色の肌で。背中から伸びる歪な悪魔の翼をバタバタと煩くはためかせ、虚ろな瞳のままに無駄だと言った。
『無駄です。この小娘にくはもうわたしのもの。正当なる悪魔アンドレアルフスの流れを汲む私の苗床となり生き続けると、何年も前に契約済みなのです』
 もはや眞虚の声ではない、ノイズのような耳障りの悪い音を含んだ悪魔の声に水祢は眉間に皺を寄せる。けれども一瞬の後にニコリと微笑み、余裕を見せつけるかのようにこう言った。
「――生憎あいにく様ね。お前が長い事寝てる間に、とっくに俺の契約物なの。お前がこうして出て来るのをずっと待ってた」
 ニヤリとした水祢の腕が巨大な古木の腕に変わる。眞虚の姿をしたものは、それを見て濁った色の眼をハッと見開かせる。
『そんな、初めから切り離せたとでも――!?』
「まさか。少し前までは神の力を以てしても出来なかった。……でもお前は馬鹿ね。わざわざ眞虚とは別の自我・・・・として表に出て来てくれるんだから。この世界は既に夢想の悪魔の腹の中。現世よりも屁理屈が罷り通る世界。そして――他でもないの世界」
『おのれ、おのれ……そんな言葉で、わたしの先約をッ!』
 激昂し悪魔は皹割れた眞虚の指先から黒く鋭い鉤爪かぎづめを伸ばす。水祢はしかし、もう動揺する様子も見せずに一言。
「保証書の発行をおこたった事を後悔して消えて」
 勝ち誇ったようにそう告げると、迫りくる爪に手を伸ばし、そして再び叫んだ。

「手を伸ばせ、小鳥眞虚!」

 あの日と同じ言葉を。
 瞬間。少女の濁った瞳に再び光が灯る。鉤爪の生えた崩れかけの手がピクリと動き、掌は水祢の大きな手を受け入れるように大きく開く。
 逃れ得ない何かを感じ取ったのか……それでも抵抗するようにざわりとゆれる悪魔の翼を、流れ星のような青い光が纏めて射貫く。

 闇が、砕けた。



「戻って来たのね、どうにかこうにか」
 感慨も何もなさげに呟く声の中、眞虚はゆっくりと目を開いた。
「いき……てる……?」
 どこかぼんやりとしながら呟くと、頭の上から「当たり前じゃない」と甲高い声が降り注ぐ。エーンリッヒだった。傍らには心配そうに見つめる明菜の姿もある。
「よくやるわね君も。ああまで言った後で悪魔の力使うたぁ私も流石にびっくりしたわ」
 呑気な調子で彼女が言う中眞虚はゆっくりと立ち上がる。夢想の世界でそうしたように。そして違和感を覚える。
「……あれ、調理室直って……?」
「ああ、これ。あんまりにもあんまりなんで形だけでも直してみたわ。食べ物の方は――ちょっと無理だったけど」
 あっさりとそう言ってエーンリッヒが示す調理室は、すっかり何事もなかったかのように綺麗な姿に変わっていた。眞虚は目をパチクリとさせた後、ふと水祢がはじめチョコレートを作っていた机へと目を向け――そして落胆に視線を落とした。
 そこにあるボウルやトレーは元通りの姿だが、エーンリッヒの言葉通りチョコレートの方は歪に固まった状態で、どう見てももう一度作り直さなければならない事は明白だった。
(折角調理室がここまで元に戻ったのにな……)
 と、残念がる眞虚の背後で、誰かが言う。「また作ればいいんじゃね」と。それは誰かというか、完全に杏虎の声だった。
「作り手も送る相手も居るんだから、もっかい作ればいいじゃんって。バレンタインデーそもそも明日だしね」
「そうだ、水祢くん……!」
 己の肩を揉む杏虎を振り返り、眞虚は己が助け、そして己が助けられた彼の姿を捜す。そして調理室背面の壁にもたれ掛かるように眠る水祢の姿を瞳に捉えると、速足で歩み寄ってその肩を揺さぶるのだった。
「水祢くん、ねえ水祢くんてば!」
 どうしよう、もしかしたら何かが失敗していたのかもしれない。そんな不安を抱いて肩をゆする眞虚を、杏虎は制する。
「疲れてるだけだって。……眞虚ちゃんが水祢を助けて、水祢が眞虚ちゃんを助けたとこ、あたしちゃんと見てたからさ」
 言って杏虎は頭の後ろに手をやり伸びをする。彼女はちゃんと最後まで夢想世界あの場に居て、眞虚と水祢の一部始終を見守ったのだ。最後に悪魔にとどめの一撃を放つというおまけ付きで。
「まあ、暫くすればまた目を覚ますんじゃないの」
 エーンリッヒは言う。杏虎も伸びをしながらコクコクと頷く。
「そっか……よかった」
 眞虚はほっと安堵の溜息を吐いた。
 ――と同時、調理室の扉がバンと乱暴に開け放たれる。全員が一斉に振り向くと、そこには血相を変えた様子の遊嬉の姿があった。
「遊嬉」
「遊嬉ちゃん?」
「戮飢先輩!?」
 異口同音に彼女の名を呼ぶ中、遊嬉は眞虚と杏虎の姿を見て、叫ぶように告げた。
「大変! 乙瓜ちゃんが!!」
「えっ……?」
 皆が固まる中、明菜が何かを思い出したように恐る恐る言った。
「あの、その……そういえば七瓜さんはどこに……?」
 空気が凍り付く中、エーンリッヒだけが静かに呟いた。「始まったわね――」と。



 そう、事態は調理室の外でも確実に進んでいたのだ。

 北中プール裏、桜の木の前にて。プールのフェンス上に立った着物の女はクスクスと笑い、その場に居る者たちに見下しの視線を向けた。
 その視線の先には三人の生徒。烏貝乙瓜と八尾異、そして黒梅魔鬼の姿。蛇に睨まれたような硬直の中で魔鬼は思った。――どうしてこんな事になってしまったんだろうか、と。
 なんとか動く目で見遣る先には、八尾異の――魔鬼の苦手とする二小の霊感少女の、今まで見たことの無いような怒りの形相。
 繊細な絵のような瞳に明確な敵意を込めてフェンスの上の女を睨み、彼女は確かにこう言った。
「……会いたかったよ。お婆ちゃんのかたきである君にね!」と。

 夢想は崩れ、太陽を反射する月の輝きは影の中に沈む。
 姿を現した一つの真実と、暴かれた一つの嘘を前に。烏貝乙瓜はドサリと膝を付いた。
「嘘、だ」



(第十八談・ラブミー・U→I・ラプソディ・完)

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