怪事捜話
第十八談・ラブミー・U→I・ラプソディ⑦

「あーらあら。これまた面白い方向性に変化しちゃったわね」
 教壇の上に身を移し、葵月蘰は面白おかしそうに肩を震わせた。視線の先の教室の奥には、禍々しくを広げた一匹の妖怪の姿。名実ともにけだものと成り下がった草萼水祢の姿がある。
 その目と鼻の先には彼が庇った少女・小鳥眞虚の怯える姿がある。全く皮肉な事ではあるが、水祢はこれから自らが守ろうとした少女をその手にかけるだろう。その様を想像すると、蘰は己の内から湧き上がる愉悦を抑える事が出来ないのだった。
「無様ねえ水月の。いいえ、最後くらい敬意を示して水祢と呼んであげるべきだったかしら?」
 余裕に髪を掻き上げ、葵月は投げ捨てたままの杖へと手を伸ばした。――と、その指先に何かが刺さる。
「光の矢……そうね、まだあんたがいたわね」
 言葉に不快を練り込みながら蘰が振り返った先。そこには怒りの表情で次の矢をつがえる白薙杏虎の姿があった。
「お前よくも……! よくもお前ッ!」
「やあねえ。避ける気のないさっきのあたしに外すなんて、怒りで狙いがぶれてるわよぉ? ……それに、こっちばっかり見てていいのかしらぁ? あんたの敵は――」
 蘰が言いかける中、杏虎は視界の後ろで動き出した気配に振り向き、凄まじいスピードで接近する何かを寸での所で避ける。直後その何かの正体に気づくと、恐らく未だ動くことが出来ないだろう友人に向かって叫んだ。
「眞虚ちゃんッ!」
 その叫びが向かう先で、彼女は、眞虚は。己目がけて振り下ろされつつある長い長い凶器――長大化した水祢の腕を認識して、漸く己の眼前で起こった事態を把握していた。

 草萼水祢は、敵となった。

 認識すべき事実の重さに歯を食いしばり、眞虚は数舜前に己が展開した全ての護符に指令を送る。
「水祢くん、ごめん……!」
 謝罪の呟きが漏れ出る中、眞虚の護符は水祢の両腕両足に纏わりつく。今まさに振り下ろされようとしていた腕はその威力を削ぎ落され、眞虚の頭すれすれの壁に突き刺さって静止する。
 封縛。護符によって動きを封じられた水祢は再び意味を成さない獣の叫びを上げ、僅かに動く胴体を暴れさせては牙を向き出しにして眞虚に食いつかんとする。
 すっかり変わり果てた彼の姿に眞虚が目を背ける最中、誰かがひゅうと口笛を吹いた。……言うまでも無く蘰である。
「流石可愛い顔してても妾たちに盾突く美術部サマだわ。相手が元仲間だろうがそうやって対処できるの素敵だと思うわ~」
 悪意ある称賛と拍手を送る蘰。眞虚はそんな彼女をキッと睨み、違うと叫ぶ。
「違うッ! 水祢くんは仲間なんかじゃない! 今だってちゃんと私たちの仲間だ……!」
「その化け物が? そうかしらぁ? ……ああ~、それとも元に戻る希望があるからそんなこと言ってる? だったら……ごめんなさいねぇ」
 蘰はニヤリと笑い、眞虚と杏虎に何も持たない両手の甲を向けた。そして手品師がそうするように手を振ると、二つの手の中に更に二つの新しいダーツを取り出したのである。
 眞虚と杏虎がピクリと反応する中、それを見せびらかすようにして蘰は言う。
「これ、まだあるのよね。あんたたち二人も砕いちゃえば、希望も遠ざかってく気がしない?」
 ニッコリと目を細め、蘰はそれを振りかぶる。杏虎は回避の際に下した弓を再び構えるが、迎撃・・には到底間に合いそうにない。眞虚もまた、既に相当数の護符を操っている上に壁に叩きつけられた際のダメージが抜けきっていない。
「今度こそ終わりね」
 蘰が笑う。
「眞虚ちゃん逃げろ!」
 杏虎が叫ぶ。
 彼女の口から咄嗟に出た言葉は、意図せずとも水祢が残した言葉と殆ど同じものだった。

 ――白薙杏虎は知っていた。
 あの秋の日――メリーさん事件で見てしまった眞虚の姿の正体を、彼女はずっと探っていた。
 虎の眼の力で眞虚を見、見えたモノを頼りにそれらしき情報を探していく。どんな眉唾でもいい、眞虚の中に存在する何かを引き剥がせる方法が一欠片でもあればいい。図書館で、インターネットで、終いにはあの山神の神社にまで訪れて、その方法を探していた。
 こんなことを一人でするべきではないということもわかっていた。本当はもっと他者の力を頼るべきだという事も。……けれども「まだ杏虎じぶん以外の友人には知られていない」という事実が眞虚の中でそれを押し留めるたがとなっていたとしたら? そんな予感が杏虎の中に言葉を封じた。封じた重さに耐えきれなくなって、あの日乙瓜にだけ秘密の一部を打ち明けるまで。
 烏貝乙瓜は秘密を守る人間だ。杏虎はそう信じている。そして何より――狡いやり方かもしれないが、自分にもしもの事があれば彼女と彼女に繋がっている契約妖怪に全てを託そう。そのつもりで、敢えて乙瓜に打ち明けた。
 そんな思惑は先月出逢った白い猿神には御見通しだったらしく、あの面談の場で彼女はその事について言及し、その上で杏虎に訊ねた。――そうした上で何を成したい、と。

 ――あの娘の事を知った上で、お前さんは何を成したいと望む。

 思い浮かべる白猿の言葉、気づき調べた眞虚の現状。杏虎の望みは面談のから――否、眞虚の姿を見てしまった・・・・・・あの時から不動のまま、わざわざ問い質されるまでも無く決まっている。――『友人を助けたい』。
 故に彼女は叫び、そして跳んだ。最早もはや行儀なんて気にしていられない。机から机へ飛び乗り、まさに蘰の手より放たれつつあるダーツから眞虚を庇う為に。間に合わない弓を棄て、水祢と同じ選択を。
 そのデジャヴのような光景に、眞虚は再び目を剥いた。蘰も同じく、しかし驚愕よりも愉悦に目を剥き、且つその手は止まらない。
「来ちゃ駄目ッ!!」
「遅いわ!」
 眞虚と蘰がそれぞれに叫ぶ中、遂にダーツは投じられ――

「させないわよ。残念だけどね」

 投じられなかった。ダーツが蘰の手から放たれる刹那、突如介入した何者かが蘰の身体を弾き飛ばしたからだ。そう、丁度蘰が眞虚にしたように。
 何が起こったかもわからないままに教壇上から調理準備室の扉の前まで落とされた蘰はすぐさま再び立ち上がろうとするが、同時に己の喉元に突き付けられる凶器に気づき、それを断念する。
 彼女の喉元に突き付けられた凶器。それは複数の鋭い刃を並べるエメラルドグリーンの巨大なフォーク・・・・・・・だった。
 夢想の悪魔の夢想の杖。蘰にそれを突きつけるのは、栗色の髪に青緑色の瞳。大きなリボンをつけた頭に、更に黒い角を生やした少女。突如として起こった鈍い音に呆気にとられた杏虎と眞虚もそれぞれその姿を確認し、そしてどちらからともなく叫ぶ。その人物の名を。
「エーンリッヒ……!」
 言葉の集約点でエーンリッヒは、夢想の悪魔はニコリともせずに蘰を見下ろす。
「常々拝んでやりたいと思ってたのよ。私の愛するをぶち壊していく下衆の顔って奴を」
 冷たい声でそう言って、エーンリッヒは鋭利な杖先を僅かに前方に付き出した。フォークの刃は蘰の首に僅かに食い込み、しかし蘰は痛がる様子も無く悪魔を睨み返す。
「拝んでやりたい? それはどうも。 ……あなた【青薔薇】の悪魔ね。当方こんな顔だけれどお気に召したかしら?」
「全然。当方全く気に入らなくてよ。ごめんあそばせ?」
「……そう。それは残念だわ」
 蘰は小さく舌打ちし、蹴り上げるように脚を動かした。その爪先の向かう先、エーンリッヒは特に驚く様子も無く、けれどもそのままその身で蹴りを受けた。
「あっ!」
 眞虚と杏虎が同時に声を上げる。蘰は蹴り上げ宙に舞った少女の姿目がけ、ずっと持ったままだったダーツを放つ。
【月喰の影】われわれに敵対する愚か者、あんたもここから消えなさい!」
 投射と共に勝利宣言。しかし夢想の悪魔はそんな蘰にあくまで冷たい視線を向け、己が手にする緑の杖を真っ直ぐにダーツへ向けた。面積の広い部分で己を守るのではなく、針に対して刃先をぶつけ、点を点で迎え撃つように。
 なにをするつもりかと蘰が疑問に思うより早く、夢想の杖の刃先はダーツを受ける。衝突した点と点。圧力と圧力。毒々しい色のダーツはそのぶつかり合いに耐え切れず、プレスに掛けたアルミ缶のように無残にひしゃげ潰れていく。
「こんな玩具おもちゃで」
 唖然とする蘰にエーンリッヒは言う。静かな声で言う。
「本職相手にどうにかできると思ってんの? 私たちは悪魔よ? 惑わし狂わし壊し崩し……全部あんたらの何百年も前からそれ専門でやってんの。ナメないで」
 確かな怒りを声と鳴らせて床に降り立ち、エーンリッヒは続け様に杖を振るった。宙を斬るように。斬られた空気は見えざる攻撃となって蘰に襲い掛かり、彼女の身体をその場から再び弾き飛ばす。だが今度は蘰も負けてはいない。風圧のようなものに押し飛ばされる最中、咄嗟に髪飾りの紐に手を遣り、そこに付けられた鈴を大きく鳴らしたのだ。
 術式攪乱。数分前に水祢がそう呼んだそれは、エーンリッヒの攻撃事態を消すことは無かった。エーンリッヒ本体を害する事も無い。その代り、現在この調理室内で確かな術式として存在しているもの――眞虚の護符へと影響を及ぼした。
「……! 封縛が!」
 いち早く異変に気付いた眞虚の眼前で、水祢を縛りつけていた護符たちがひらひらと地に落ちる。その色は茶褐色に変色しており、さながら晩秋の枯葉のようであるが、そんな季節外れの落ち葉・・・には風流もへったくれもなく、それどころかその内に封印していた獣を再び解き放つ。
「あぁああぁあああッ!!」
 獣声を上げ、それは再び動き出す。ニヤリと蘰が笑い、杏虎は最早やむなしかと左腕を構える。
「雨月張弓!」
 主の呼びかけに応じ、青き弓は再び杏虎の左手に収まる。それをしっかりと握り、杏虎は怪物・・を睨んだ。今まさに襲い掛かろうとしているそれ・・を見て、一瞬浮かんだ迷いを振り払って。杏虎はその右手に光の矢を生み出させる。
「杏虎ちゃん駄目、撃ったら水祢くんが――!」
「だからってわざわざ水祢に殺されてやるっての!? そんな事したらあたし眞虚ちゃんの事一生ッ、死んでもずっと許さないからッ!! ……水祢だってきっとッ!」
「――っ……!」
 止めようとした眞虚を黙らせ、杏虎は光の矢と弓を番える。蘰はその様を見て何かの箍が外れたようにケタケタと笑い、追撃したエーンリッヒによって校舎外へ追放される。しかし尚も蘰は笑うのを止めない。
「苦しみなさい! 仲間殺しとして!」
 突き抜けた窓から落ちる刹那、蘰はそんな呪いの言葉を残して行った。エーンリッヒはそんな彼女の気配がここから遠くへ撤退した事を確認すると、眞虚らに向き直って杖を振るう。
「あの子らにまで・・味方殺しをさせるわけにはいかないってのに……! 余計な仕事増やしやがってクソ女ぁ……!」
 ぼやきながら振るった杖の先端が淡く輝き、調理室の床と天井に複数の魔法陣を発生させる。そこから杖と同じ緑の鎖が伸び、水祢の手足、そして首に絡みつく。けれども鎖が完全に彼の動きを封じ込めるより早く、鋭い爪が眞虚と杏虎目がけて突き刺さろうとしていた。
「しまった……!」
 さしもの悪魔も冷や汗をかく。杏虎はいよいよ水祢を射抜く覚悟に唇の内側を噛み、眞虚は己と己を守ろうとした相手の最悪の結末の予感を前にストンと床に膝を付いた。
(どうしてこんなことになっちゃったんだろう……)
 眞虚は思う。どこか他人事のように。心の片隅にあった希望は崩れ、暗い絶望がじわりじわりと彼女を埋め尽くす。
 ――最中。

「歯ぁ食いしばれぇッ!! こンの愚弟がッ!!!」

 誰かの声と共に重く鈍い打撃音。それに合わせて眞虚らから逸れる水祢の爪。宙に舞う水祢の身体、それに引きずられる巨大な腕は水道ガスコンロ併設で固定されている調理室の机に爪痕を残し、部屋中の椅子を動かしては滅茶苦茶な配列を施しながら鎖に引かれて動きを止めた。
「……何……?」
 間一髪で食い止められた悲しい討伐。すっかり水祢を倒すつもりでいた杏虎は、矢を番えたままにキョトンとしている。膝を付いた眞虚だって同じだ。エーンリッヒは安堵の溜息を吐くと、水祢を殴り飛ばした・・・・・・その人物を見て呆れたように言った。
「……遅いわよ、お姉さん」
 視線の先、眞虚と杏虎を水祢から守るように立つ人影は、古木の如く変化させた左腕を固く握りしめたままポツリと呟いた。
「いや、流石に愚弟は言いすぎたか」と。自らの発言を反省するようにそう言って、彼女・・はくるりと杏虎らに振り返った。
「怪我はなかったかい?」
 涼しく微笑む水祢の姉・草萼嶽木。もはや窓として機能していないそこから入り込む風が緑生い茂る髪をざわりと揺らす背後で、殴り飛ばされた弟がゆっくりと身を起こそうとする。既にエーンリッヒの鎖に絡めとられていながらも、本能的に新たなを迎撃しようとしているようだった。
「む。存外しぶとい」
 嶽木が気配に振り返り、弟の動きを封じ込める次なる策を講じようとする。そんな中、調理室内に新たなる介入者の声が響き渡った。

「その妖怪ひとは私に任せて。――眠れ眠れねむり姫スリーピング・フォレスト

 調理室入口から響く聞き覚えのある声と薔薇の香り。それが調理室中に満ちる中、鎖に抵抗しつつ起き上がろうとしていた水祢はゆっくりと沈黙――眠りの世界に落ちる。
 杏虎はその声の一瞬だけ期待を向け、一瞬にして失望の表情へと変わる。膝を付いたままの眞虚には未だ見えない。けれども杏虎にははっきりと見えていた。現れた人物の姿が。
「烏貝……七瓜……」
 想起するかの夏、雷鳴轟く中の苦い記録。彼女自身はその時の出来事を主観として覚えていないが、だからこそ余計に思うところはある。その感情を胸に杏虎が睨む先で、七瓜は小さく頷いた。
 ほんの一分程前とはまた違う緊張が一部に漂い始める中、エーンリッヒは小さく溜息を吐いた。

「ま、とりあえずここから始めましょうか。後半戦・を救うための戦いを、ね」

←BACK / NEXT→
HOME