卒業式そのものは特に大きな問題もなく終わった。
終わるころには卒業生、在校生問わずボロ泣きしてしまう者が出て来て、その波は教師陣、特に担任や学年担当等にも波及して行った。
誰にだって思い出があった。人気者にも目立たない者にもなにかしらのドラマがあって、積み重ねて来ただけ感動がある。それは感謝かもしれないし、嬉しさかもしれないし、寂しさかもしれないし、全部ごちゃ混ぜのよくわからない感情の塊かもしれない。
あるいは解放感という理由もあるだろう。中学生活が決して順風満帆とは言えなかった生徒は、しがらみだらけになった既存の人間関係から解き放たれることに涙したのかもしれない。
中学生活が決して順風満帆とは言えなかった生徒は、もしかしたら後者の感情の方が強いかもしれない。
どの道泣いても笑っても皆古霊北中学校から巣立っていくのだ。それは変えられないし、誰にも止める権限はない。
生徒は三年で去っていくし、教師だって校長だって何十年もはここに居られない。
唯一永遠のように思える校舎だって、遠い未来か近い未来か、わからないが、いつかは合併するなり建て直すなりで在り様は変わってしまうだろう。そうなれば、学校妖怪すら永遠不変にそこに在ると保証されない。
この世に永遠不変のものなどない。そう示す理だけが、矛盾を孕みながら唯一永遠不変不動のもの。
何もかもが移り変わり、そうして世界という物語は回り廻るのだ。
きっと、これからの未来も。
「明日からどうしようかぁ?」
卒業式終了後、三年一組教室。遊嬉は自分の机に突っ伏しながら、真正面の席に座る深世に語り掛けた。
彼女らがこの席に座る機会は――実のところ四月の離任式にもあるのだが、『古霊北中学校の制服を着て』と但し書きするならば――これでほぼ最後だろう。
けれど遊嬉はそんな感慨がある風でもなく、脱力気味に『明日以降』を口にする。深世は呆れながら振り返った。
「あのなぁ。遊嬉はもう志望私立合格してるからいいだろうけど、私らは明日合格発表だからな? その後学校来て報告して、……もし受かって無かったら二次試験の手続きとかしなくちゃならないんだからな?」
深世は兼ねてから配られていたプリントの内容を思い出しながら言った。それは要約すれば『合否確認の後で武道館に集合』というもので、そのプリント自体は遊嬉も受け取っているはずだ。目を通している科は別として。
「わーかってるよー」
遊嬉は「はいはい」といった調子でそう答え、卒業式を越えて明日に向けてピリピリし出した深世を見上げた。
「だーから明日より先の話さー。ていうか深世さん絶対受かってるから大丈夫だって」
「確認するまで大丈夫じゃない可能性もちょっとだけあるだろ」
「ちょっとだけなんだ」
「そりゃ私だからな」
さも当然のように答える深世に「じゃあやっぱ大丈夫だよ」と返し、それから遊嬉は大欠伸をした。
それを見て、深世は呆れたように言う。
「お前まーた夜遅くまでゲームとかやってだろ? 目真っ赤だぞ?」
と、深世が指摘する遊嬉の白目は充血し切っている。今日がもし卒業式でなかったら悪目立ちしていたに違いないだろう。
遊嬉はアハハと笑い、それから制服の内ポケットから目薬の小瓶を取り出した。
そうして目薬を点す遊嬉と見守る深世に、横からふと現れた杏虎が言う。
「ねーねーねー。春休み美術部でどっか行かねって思うんだけどー」と。その傍らには眞虚も立っている。
杏虎らはこの後解散となるまでに二組の教室にも行くだろう。そうして当然のように乙瓜や魔鬼にも声をかけるつもりでいるのだ。
そんなふうにしてして多分、彼女らの付き合いはこの学校を離れてもまだ当分続くのだ。
ずっと、かはわからない。けれども、きっと。当分は。
最後のHRで諸々の記念品や卒業アルバムを渡され、大体の卒業生は出席した保護者と共に家路についた。帰る前に、諸々の約束を交わしながら。
大体の生徒は学校に持ってくるかは別としてケータイを持っていたが、それでも自分の口から伝えたいことは幾らでもある。
卒業アルバムに寄せ書きしたり、わざわざ手書きの手紙を交換するのもその一環だろう。中にはこっそり持ち込んで来た菓子類を交換する者もいる。
乙瓜も八尾異や鬼伐山斬子らから手紙を貰って、更には幸福ヶ森幸呼から義理キャンディを一個貰った。魔鬼らも含め結構な人数が貰っていたので、義理という扱いでいいだろう。
七瓜からはクッキーを貰った。すっかり一般人らしさを取り戻していた七瓜だが、その親代わりの親戚なる卒業式の参列者の姿は紛れもなく七月の戦いで見た鴉の悪魔で、まだ世界では怪事的なことが続いていることをひっそりと物語っている。
「ヘンゼリーゼと貴女たちの縁は、寧ろこれから強くなるんじゃないかしら。魔鬼さんのこともあるし、確実にどこかで絡んでくるわよ。……ただ、恩はあるけど、全くの善人とは言い難いから。だから気を付けてね」
ほんの少しの不穏を残して、七瓜は悪魔と去って行った。
その不穏がいつ芽吹き始めるのか、それとも肩透かしに終わるのか――なんて乙瓜には想像もつかないが、唯一つだけ言えるのは、怪事との縁はまだ続いていくだろう、ということだけだ。
程なくして、乙瓜も母と一緒に家に帰った。それから外食に出かけるなんてことはなく、代わりに祖母の焚いた赤飯と祖父の好きな揚げ物たっぷりの偏った昼食が卒業祝いになった。
ある程度のところで「もっと食え」と言う無理強いを断り、特に意味もなく来た床の間で楽な体勢で放心し。仏壇の前の座布団で丸くなっていた飼い猫が、暖を求めてか乙瓜の膝上に乗ろうとしてきたところで――乙瓜はふと。まだ制服を着ていたことを思い出し。そしてまた、ふと。火遠との約束を思い出した。
『明日。卒業式が終わった後でもう一度学校に来てくれないか?』
思い出して、ハッとして。乙瓜は猫を持ち上げ退かし、バッと立ち上がった。
「行かなきゃ!」
叫んで、ドタバタと外出の準備を始め。何事かと訊ねる家族に「ちょっと約束!」とだけ告げて、乙瓜は家を飛び出した。
自転車に跨り、今朝は車で来た道を全力で。油ものの暴力を受けた胃腸の調子は大分落ち着いていて、寧ろそれどころでないという気持ちからか気持ち悪いかどいうかという感覚すら吹き飛んでいた。
そして戻った学校の、校門はまだ開いていた。というかまだ平日なので、解放された在校生の一部――特に運動部などは、一旦帰宅した後に部活の練習などに励んでいるようだった。
乙瓜はガランと寂しくなった三年生の駐輪スペースに自転車を停め、「そういえば特に待ち合わせ場所とか無かったなあ」と思い、次いで「今先生らに見つかったら忘れ物でもしたみたいで恥ずかしいな」なんて考えて。どうしようかと思っていた、その絶妙なタイミングで。
「やあ、来てくれたね」
背後から声を掛けられた。乙瓜はその声を知っていたし、当然聞き間違えるはずもない。
「火遠」
言って振り向く乙瓜の前には、紛れもなく草萼火遠の姿があった。いつものように澄ました顔の。
「ここだとあんまりにも殺風景だから。ちょっと上にでも行こうか」
火遠は言って屋上側を指して、乙瓜に左手を差し伸べた。そして言うのだ。
「少し飛ぶよ」と。
そして二人は屋上に立った。美術部としては随分勝手に出入りしていたものだが、本来はそう気安く立ち入れない場所。きっと主たる原因は悪ふざけからの不慮の事故や、いじめ由来の自殺等だ。屋上やベランダが立ち入り禁止の学校はそのために増えている。乙瓜の出身小学校も……乙瓜が七瓜と入れ替わったあの一件以来屋上の鍵はより強力なものに付け替えられている。
屋上は危険だ。けれども人は何故か危険な場所に惹かれるものだ。所謂絶景の名所なども裏では自殺の名所だったりすることが珍しくないのに、何故か人を惹きつけて止まない。生と死の境に軽率に近づいてしまうものを、なんだかんだで人は好むのかもしれない。きっと、妖怪や幽霊たちも。
そんな場所で手摺に寄りかかり、乙瓜と火遠は横並びで語り合った。
「思えば色々あったね。いきなり目をぶっ刺されたときは本当になんだと思ったよ」
髪に隠れた左目を擦りながら火遠は言った。そこにはまだ傷が残っていて、目の調子も完全には戻っていない。もしくはもう戻ることはないのかもしれないが、火遠はもう、それについて乙瓜を責めるようなことは言わない。
きっと改めて謝ったところで「もういいよ」と許すだろう。火遠はそう言う奴なのだと、乙瓜は知っている。
だから乙瓜は敢えてそのことに触れないまま、直接的に許されようとしないまま。
「お前だって。最初の頃は俺のこと下僕か何かだと思ってたろ」
ぷいとそっぽを向きながら、憎まれ口を返すのだ。
火遠はそんな乙瓜の心情を解してか否か、さっぱりと笑った。
「はははまさか。でもまあこそはね。もしかしたら嘉乃の刺客かもしれないって疑ってたところもあるし。七瓜が出てきたときはかなり驚いたよ。もしかしたら間違ってたかも知れない、どうするかなーって」
「……しっかりしろよ、かみさまだろ」
乙瓜はじとりと火遠を見た。意図しないと今でも忘れがちなことであるが、火遠は世界をどうにかする力を一応持っているのだ。それは一神教多神教問わず様々な神話の中に据えられている創世神の能力に等しい。
その気になれば、火遠は今この瞬間にもこの世界の主になれるのだ。
けれどもその権利を放棄したかみさまは、乙瓜を見つめ返して困ったように笑うのだ。
「素質だけ押し付けられただけさ。俺はずっと運が良かっただけの男だよ、一貫してね。運しかないから、世界を自分のものにしたところで……上手く転がせる自信なんてない」
火遠は言って、思うところありそうに目を瞑った。
「運……ね」
乙瓜はその横顔を見て呟いて、考えて。
「そういやお前についてはまだ知らないことばっかりだ。最後になるならなんか教えてけよ。モヤっとする」
今まで聞かないで居たことを、特に知らなくても良かったことを。初めて知りたいと、そう思った。
乙瓜がその願望を口に出すと、火遠はきょとんと眼を開き、乙瓜に顔を向けた。そして「いいのか」といった調子で言う。
「……長くなるよ?」
「長い方がいい」
言って、乙瓜は少し俯いた。自分でもずるいことを言った自覚はあった。長い方がいいなんて。別れたくないと言っているようなものだから。
けれど。火遠はそれを拒むことなくうんと頷いて。「なにから話したものかな」と空を見て、それからゆっくりと語りだした。
「……育ての親みたいな姉がいてね。嶽木姉さんじゃあなくて、異怨のすぐ下の姉。仏様みたいな女性でさ、こんな変わり者の俺のことも大事にしてくれた。彼女がいなかったら、俺は今もずっと山の中に暮らしてただろうし、【星】を拾うこともなかっただろう。それが一つ目の幸運。……師匠たちに会えたのも幸運だった。俺が師匠だと思ってる人は丙師匠の他にもう一人いてね。その人は閑最って僧侶だった。まあ、山を抜け出たばかりで右も左もわからなくて、とりあえず好奇心と腹を満たすために悪さばかりしてた俺は、その人にとっ捕まって。改心しろって寺に連れてかれて、人里の常識みたいなものを教わって。ついでに護符の作り方と、使い方を教わった」
君にあげた護符の原型さ、と火遠は付け加え、更に話を続ける。
「その僧侶のところで一通り色々学んでから、人が多くて楽しそうな場所を目指して旅に出た。だけどどこで休めそうとか、食料調達しようとか、そんな計画もなにもなかったわけだから……行き倒れちゃってさ」
「おっちょこちょいだな」
「若気の到りさ。でもそのとき助けてくれた奴が面白い奴でね。商家の放蕩息子で自称発明家の、静川暁作って男なんだけど。そいつの行く先々で、どういうわけか妖怪やら幽霊やら絡みの事件が起こりまくるんだよ。で、一応助けられた恩義があるからどうにかしてやろう、……ってやってるうちに、いつの間にか妖怪退治屋みたいになって――まあ大変だったよ。その頃に丙師匠と知り合って、まーだ可愛げがあった頃の玉織と――ああ、乙瓜直接会ったかな? 今は殺伐とした亡霊巫女なんだけど……まあそいつと知り合って。なんか知恵貸してくれる重三郎って漁師のおっちゃんとも知り合ってー、まあ愉快な時代だったな。出会いに恵まれてた。幸運」
そう一気に語った火遠はやけに楽しそうだった。表情もそうだが、語り口も少しばかり子供っぽいように乙瓜には思えた。
しかし話は楽しいままでは終わらない。火遠はある程度まで話すと、少しずつ寂しい表情へと変わって行った。
「まあでも、玉織は三年くらいで遠くに行っちゃうし、重さんや静川は最後まで一緒にいたけど、まあ彼らだって人間だし。……辛かったよ、別れはね。俺らは寿命が気長な方だからさ、老いてだんだん元気なくなっていくの見てるのもしんどかった。閑最師匠も亡くなって……今でこそ軽口叩いてるけど、丙師匠がいてくれなかったらって思うと……感謝しかないよ。本当にね」
しんみりと言って、火遠は少しの間地面に顔を向けた。一旦気持ちに区切りを付けるようにふーと長く息を吐いて、短く吸って。それから火遠はまた身の上語りを再開した。
「それからまた色々あった。将軍の時代が終わって明治、大正……別れの数も増えたけど、思わぬ人物と再会したり、また新しく出会いもした。昭和になって、今までどこか遠いところの話だった戦争がすぐ近くまで来て、沙夜子と会って、……彼女には命と引き換えにとても大切なことを教えられた。また会いたくて反魂香に手を出して……結局使わずにいたら、思わぬところで君たちに迷惑をかけたこともあったっけな」
「……そんなこともあったな」
頷き乙瓜は思い出す。美術室の柱の小戸に隠されていた香炉のことを。それによって起きた小さな怪事を。
「ああいう迷惑はもうまっぴらごめんだ。でも世界をどうにかするって戦いに巻き込まれるよりはよっぽど……あんな感じのと戯れてる方がマシだな」
飽き飽きしたように乙瓜が言うのに対し、火遠はどこか活き活きと、妙な悪戯でも思いついたような表情を浮かべた。
「おや? ほんとにいいのかい?」
紛うことなきニヤニヤ顔で不穏に言い放つ火遠を見て、乙瓜は心底うんざりした調子で反抗する。
「……比較的な話だからな? 今なんかおかしなこと起こしてくれたら怒るぞ流石に」
と。乙瓜が大真面目に釘を刺したところで、火遠は満足そうにクスリと笑った。
「ふふ。冗談だよ。冗談」
狐みたいな信憑性のない笑顔でそう言って、火遠はもう一度話を再開した。
「まあ、そんなこともあって。戦後は姉さんと祓い屋したり、末っ子の水祢が俺のこと追いかけてきたり。嘉乃との喧嘩別れ思い出して苦い思い出でもあるけど、エルゼと再会したりとか」
「……そのエルゼってどんな人だったんだ? なんか結婚してたんだろ?」
「そういやその辺りは話してなかったね。――馴れ初めだけは、もしかしたら前にも少し話したかもしれないけれど、初めに会ったのは明治の中頃。その頃の帝都界隈じゃあ異人さんもまれに見かけるくらいで、そう珍しくもなくなってたけれど。一目見て、ただの婦人とは違うなって思ったのが彼女だったな。で、どうも彼女も人間じゃあないようだったから、こちらも正体明かして話してたら、どうも欧州方面のそこそこ偉い魔女らしくて驚いたよ。だけど彼女、千年以上生きてる星読みのくせして土地勘無いと簡単に迷うし、どこか少し抜けてるし。西欧で魔女狩りが本格的だった頃よく捕まってたとか言うし、日本に来るのも船に乗るまでが一番大変だったみたいに語るし。危なっかしくて目が離せなくて。たまに姿見かける度あちこち案内しては送るの繰り返しで。…………で。気がついたら結婚する流れになってた」
「なんだそりゃ。そんなんで結婚していいのか?」
「なんでなんて、そんな夫婦は世に五万といるよ。というかきっかけはそんな感じだけどさ、ちゃんと愛し合ってたよ、俺とエルゼは。彼女の故郷に家を建てて、可愛い娘までできて。子守歌代わりにあっちの民謡とか教えて貰って。嘉乃の【月】のことがあるから時々は日本に帰らなくちゃならなかったけれど、でも幸せだったよ」
綺麗な思い出を語るみたいに火遠は言った。幸せそうに。その顔を見て、乙瓜は思い出した。
ずっと前、ピアノ幽霊を成仏させる過程で火遠たちと合唱対決をすることになった件の前ふりで――そういえば火遠は『グリーンスリーブス』を歌ってみせたのだ。
(確かイングランド民謡だったな、あれ)
乙瓜は思い、そういうわけかと三年越しに納得した。
多分火遠の知るあちらの歌は他にも幾らかあるのだろう。今の彼しか知らない乙瓜からすれば少々信じ難いことだが、彼にも一人の女性とイチャついていたような時期が確かにあったのである。
火遠はそれを十分感じさせる様子で語った後、ぽつりと静かにこう吐いた。
「だけどエルゼはいなくなった」
まるですっかり諦めた過去を語るように。
「逃げられたのか?」
「直球だね。…………そうなのかもしれない。でも本当のことはわからない。【星】の力で知り得たことは、彼女がもうこの『世界』のどこにもいないこと。隠れていたり、アルミレーナみたいに誰かにに隠されていたのとは違う。けれど多分、死んではいないと思う。なにか止むを得ない事情があったんだ。そうでもなければ……彼女が幼い娘一人置いていくはずがない。二十年以上過ぎた今でも、俺はそう信じている」
「……騙されてる、とかは」
「思わない。もし……仮に本当に騙されてるのだとしたら、俺はこのままずっと騙されていたいよ。それにアルミレーナも――」
言いかけて、火遠はそのまま言葉をフェードアウトさせた。
当然乙瓜は首を傾げる。けれども火遠はなんでもないと首を振るのだ。
「いや、なんでもない。いずれまたあの子に会うことがあったら聞いてみてくれ。きっとそのほうがいい」
乙瓜はその態度に不満を抱かないでもなかったが、恐らくこの場で語るべきような話題ではないのだろう。もしかしたらとことん後味の悪い話かもしれないし、そうだとしたら火遠が去る今この場面で話されても、妙なしこりが残るだけかもしれない。
乙瓜は己の中でそう納得した。それにどうしても知りたければ、アルミレーナに聞くという道筋も示されている。アルミレーナは七瓜と通じているので、その気になれば会えるだろう、と。
(まあ、いずれ知りたくなったときにでも)
乙瓜が思ったそのとき、空からポツリと冷たい雫が降って来た。
雫は一つ二つと後に続き、どうやら前日に崩れた天気が少々影響しているようだった。
「傘持ってるかい?」
火遠が問う。けれど乙瓜の答えは当然ノーだ。駐輪場から連れてこられた時点で手ぶらだし、自転車の籠にだって入っていない。
乙瓜が首を横に振ると、火遠は「そうか」と呟いて、それから思いついたようにまた手を差し出した。
そして言うのだ。
「雲の上まで飛べばいいんだ」
いとも簡単に、とんでもなく大胆なことを。
「斜め上の解決法だな」
「まああいだろ? 今なら翼はなくても俺の力で浮かせるから」
呆れる乙瓜に火遠はニコリと笑い、そして二人は再度――今度は屋上なんかよりはるかに高高度まで飛び上がった。
低めの雨雲を越えて、古霊町上空へ。まだ分厚く覆う程でもない雲の上には青い晴れ空が広がっていて、眼下に望む雲の切れ間からは所々古霊町の景色が覗いている。
まだまだ多い山林、それに負けない田畑と大小の池、点在する民家、南西地域のやや廃れた商店街と、それでも未だ廃れない住宅街。それらを白い雲の下に見て、乙瓜は「ほへー」と間抜けな感嘆の声を上げた。
その様をチラリと見て、火遠はふふと微笑む。
「上から見るとまた違った趣があるだろう?」
「――おう。航空写真とかで見たことはあるけど、……すげえ。よく見たら砂粒みたいな人とか車とかが動いてるし――小学校とか体育やってるな、雨降りだしたけど大丈夫か?」
乙瓜はきょろきょろとしながらとりとめのない感想を口にした。夏の戦いでも空を飛んだりしたが、あのときは北中以外の地上の様子まで気にする余裕なんてなかった。そして戦うことに必死で考えもしなかったが、空を飛ぶのは結構爽快なことなのだなと。乙瓜はこのとき初めて実感した。
無論常人に出来ることではない。あの戦いのときは勾玉の支えがあって、今は火遠の支えがある。だからこそ。
「ありがとな」
乙瓜は言った。
「なんのことかな」
火遠はしらばっくれるようにそう返して、それから歌うようにこう言った。
「ここから見る人々はみんな砂粒みたいだけれど。この町と、そしてこの町から続く世界中の人々とその未来を、君たちは守った。それは常人にできることではないし、天才にだって難しい。だからこれは君たちの誇りだ。これから先どんなことがあっても。その誇りを胸に強く生きてほしいと願うよ」
それはきっと、彼からの祝辞だった。乙瓜と、元美術部らに宛てた卒業の祝辞。
その言葉を受けて、乙瓜はもうこの語らいにも終わりが近いことを悟った。
「もう、行っちまうのか」
「ああ」
少しは否定してほしい乙瓜の気持ちとは裏腹に、火遠はさらりと肯定を返す。
「……寂しくなるな」
「なら、一緒に来るかい?」
「行かねえよ」
「だろうね」
火遠は名残惜しむ乙瓜をおちょくるように笑った後で、なにかを悟ったような表情にスッと変わった。
「ずっと、なんで自分にこんな力があるのか考えてた。持て余すだけの力だって、独りよがりの力だって。……だけど今になって、この力をどう使おうか決めたよ」
そこで一旦言葉を区切り、火遠は言う。乙瓜の手を引き前を見て飛んだまま。
「俺はこの力で、エルゼを捜しに行きたい。この世界の果ての、その向こう側へ」
その壮大な宣言に乙瓜は呆然と目を見開いた。それに目もくれず、火遠は続ける。
「そこで誰かが呼んでいるような気がしてたんだ。それが妻かどうかはわからない。もしかしたら、別の世界で同じ力を持っている別のなにかなのかもしれない。辿り着けるかはわからない。けれど行けばなにかが掴める、そんな気がする」
「……お前言ってることフワッフワだぞ。あと壮大すぎてわけわかんねえよ」
乙瓜は呆然としたまま、けれども火遠がとんでもないことを言い出したことだけは理解して、流石にツッコまずにはいられなかった。けれども火遠は「自覚してる」と苦笑いするだけで、きっと意思を曲げる気はないのだ。
「――まあ、そんなわけで俺は旅に出るよ。遠い遠い旅にね」
そこまで言って、火遠は漸く乙瓜を振り返った。乙瓜はその表情を見て――浮かべっぱなしの呆然の表情の後で――小さく笑った。それは諦めの笑みではなく、納得の笑みだった。
あまりに唐突で突拍子もないが、理解は出来るのだ。特に火遠の身の上を知り、エルゼを語るときの幸福そうな表情を見た今となっては。嘉乃との因縁に決着をつけた今だからこそ、火遠はエルゼを捜すという新たな目的に向けて旅立とうとしていることを――乙瓜は理解した。
だからその決断に納得し、それでも乙瓜は訊ねる。訊ねずにはいられなかった。
「……いつかは帰ってくるんだろう?」と。
その問いに、火遠は「ああ」と、けれどどこか困った気配を隠せないままそう答えた。
「そのつもりでいる。でもそれがいつなのかはわからない。もしかしたらあっという間かも知れないし、気の遠くなる未来になるかも知れない。なにも保証できはい。……だから、君とはここでお別れだ。乙瓜」
「……そっか」
ある意味予想していた通りの解答に、乙瓜は思ったままを呟いた。
仕方ないことだ。けれどもそんな乙瓜の目からは、雨粒よりも小さな雫が重力のままに零れ落ちるのだった。
気が付けば、火遠はどこへ向かうでもなく宙に浮かんだまま止まっている。手と手結んだまま向かい合う形で、乙瓜と火遠は空に立っていた。
「卒業おめでとう」
火遠は穏やかな顔で言った。
それから宙に右手を伸ばし、その上にどこからともなく――恐らくは妖界から取り出した小箱を載せ、差し出した。
「なんだそれ?」
「卒業祝い」
尋ねる乙瓜にそう答え、火遠は箱を乙瓜に手渡し、それから空を飛ぶために掴んでいた左手を離した。
離されたところで、ここから乙瓜が落下していくことはない。彼女はまだ、火遠の力の影響下にあった。
乙瓜がそんなことを気にし出す前に、火遠は箱を開けるように促す。言われるままに乙瓜が開いた小箱の中には、小さな指輪が二つ入っていた。
それを見るなり、乙瓜はやや不機嫌そうに顔を上げる。
「……お前これ」
今時小学生だろうと中学生だろうと指輪を送られる意味くらいは見当が付く。
曲がりなりにも今から妻を探しにいくという奴が、まさかそういうことじゃないだろうなあと疑わしい目を向けたくもなるだろう。
そんな乙瓜の視線を受けて、けれども火遠は「違う違う」と肩を竦めた。
「魔除け厄除けのアミュレット・リングさ。これから先俺は居なくなるから、なにかの役に立てられるんじゃあないかと思ってね。別に素直に指輪として使わなくてもいいよ、なんならキーチェーンに繋いだって構わない」
「びびらせんなよ」
乙瓜は小さく溜息を吐いた。流石に邪推が過ぎたかと。けれど火遠はそんな乙瓜を見てニヤリとし、からかうように続けるのだ。
「まあどんな形にせよそれを大事に取っときなよ。いつか大事な人にも渡せるようにさ。一応安物じゃあないから使えるぜ?」
その発言を受けて、乙瓜は今度こそ真っ赤になった。
「いや、つか俺……女だしっ! ていうか指輪って……いねーよそんな相手!」
「いやいや分らないよ? 将来なにがあるかなんて、さ。万が一結婚することになった招待状送ってくれよ~」
「だから無ぇってば!! ……ったく」
乙瓜はむくれ顔のまま、けれども指輪の小箱を投げ返すようなことはしなかった。大事そうに蓋を閉じて、落さないように両手で抑える。
「……貰っといてやる。要らなくなるまでは」
「素直じゃあないねえ」
「お前に言われたくねえよ」
「まあ、そうだね」
火遠はくくと笑いを零して、そうして仕切り直すように「さて」と言う。
「改めて卒業おめでとう。来月から君は高校生で、新しい生活のスタートラインに立つ」
真っ直ぐ乙瓜を見つめて言う火遠は、もうすっかりやり切ったようにすっきりとした表情だった。
そうして紡ぎ出される言葉は紛れもなく、彼からの祝辞の続きだった。
「困難は何度でも降りかかってくるだろうし、また心折れるようなことも一度や二度じゃないだろう。……けれど、きっと負けないでおくれよ。そしてどんな形でも、どうか幸せになってほしい。離れていても、ずっとそう願ってるよ。勿論、美術部であった皆にも」
火遠は言い切って、息を吸って、吐いて。そして眩い光に包まれて、あの戦い以来の姿へと変わった。
二対四枚の被膜の翼と、龍の尾のように伸びる髪。体のあちこちに鎧のように纏う光の欠片、天使のような光輪。
聖なるとも邪悪なるとも取れる【運命の星】の力の一端を現し、火遠は離れる。飛び立って行く。
「それじゃあ」
別れの言葉を告げて、ゆっくりと、より上空へと。
そして対照的に、乙瓜の身体はゆっくりと地面に向けて落ちて行くのだ。
少しずつ遠ざかっていく彼を見上げ、乙瓜は叫ぶ。
「また会えるよな!? 絶対また会えるよな!? 絶対帰ってこいよ! 俺が生きてるうちに!! 絶対だぞ!」
それに対して火遠は笑う。笑ったように乙瓜には見えた。
そしてこう答えたのが聞こえたような気がした。
「廻る星のどこかで、いつか」
間もなく乙瓜は雲の中に墜ち、火遠の姿を見失う。
そしてこのままでは遠からず地面に打ち付けられ、残酷な死に様を晒すだろう。
けれども乙瓜は知っている。それを打破する力が自分にあると知っている。
それは意図せぬ生まれから手に入れた呪われた力かもしれない。
けれども火遠はきっとその力に可能性を見た。だからこそ安心して、乙瓜から手を放したのだ。
――だから。乙瓜もその力を信じることにした。
卒業祝いを握りしめ、背中に願いを送り込んで。
そうして現れる歪な翼で、影の翼で、呪いの翼で。――だけども乙瓜は飛んでいくのだ。
茫洋たるまだ見ぬ未来を。他ならぬ己の翼で。
(第十二環・廻る星のどこかで・完、エピローグへ)