怪事廻話
第十二環・廻る星のどこかで②

 たったったっと西階段を昇り、二階に至ってすぐの女子トイレにおしかける。
 昼休みということもあって多少人の出入りのありそうなその場所だが、彼女ら六人が立ち入ったタイミングではまるで人気ひとけが無くしんと静まり返っていた。……まるで待ち構えていたように。
 古めかしく薄暗い女子トイレ内には芳香剤の爽やかなレモンの香りが場違いなまでに漂い、手洗い場の蛇口から漏れる水滴の音を、打ちっぱなしのコンクリートの壁がやけに大きく反響させている。
 少々薄気味悪くも、彼女らにとっては三年の間にすっかり見慣れた場所。そのくうに向かって、乙瓜は「花子さん」と呼びかける。
 けれど返事はない。いつもは答えてくれたりもするし、頼んでもないのに顔を出したりするのに。花子さんからの返事はなかった。
 だが、不吉な感じではない。六人誰もがそう思った。寧ろ、試されているような気さえした。誰もなにも言ったり聞いたりしていないのに、何故だか皆確信をもってそう感じていた。
 だから皆、三階の入り口から三番目の個室のドアの前に立ち。目で示し合って、乙瓜が自らを指さして個室に入り、開けっ放しの内開きの扉を閉ざして鍵を閉めて。外から、魔鬼がコンコンコンと三回扉をノックして、乙瓜以外の五人が声を揃えて『呼び出し文句』唱える。

「はーなっこさん。あっそびましょー」

 幽霊ってのはドロンと化けて出るもので。それは乙瓜や皆が慣れに慣れた今でも変わらず、ドロンと姿を現した。
「やれやれ、こう大勢に呼び出されちゃたまらないわね」
 生きた普通の人間の声と遜色なく。個室内に響いた声に、乙瓜は振り向く。
 声の調子は似ていても、けれど彼ら彼女らは少し高い所に出たがるのだ。そんなことも慣れっこなので、だから乙瓜は迷いなく頭上に目を向けた。
 最初に飛び込んで来たのは、黒だった。
 不自然に、しかしあたかも自然にふわりと浮かぶ長い黒髪。少しだけ短くなってしまったものの、一度断髪してからかなり復活しつつある、花子さんのトレードマーク。
 柔らかく艶のある美しい髪の毛は、この不浄の空間で、芳香剤のそれよりも自然でさり気なく甘い香りをゆるりと放っている。
「花子さん」
 乙瓜が呟くと、彼女・花子さんはニコリと笑った。
 その瞬間、乙瓜が閉ざした個室の鍵がひとりでにガチャリと開く。ドアがゆっくりと開き、外に残った五人が、前のめり気味になって個室内の花子さんを見る。
 段取りなんてお構いなしに皆がそれぞれ口を開きかけた中で、いち早く声を出したのは魔鬼だった。
「花子さんっ! 伝えたいことがあるんだけど!」
 と。魔鬼が叫ぶように言うなり、花子さんはニッと怪しく目を細める。そしてすこし挑戦的に言うのだ。――「私だけでいいのかしら?」と。

「勿論忘れたわけじゃじゃないでしょ? この学校に棲んでる子たちは私だけじゃない。このトイレの怪談だけだって沢山、たーくさんいるのよ?」

 ね? と花子さんがウィンクすると、六人が背を向ける側のトイレの個室がバタリと勢いよく閉まる。そして皆の注目を引きつけた後でこれまた勢いよく開き、内側から大きな赤マントと同じ色の赤い帽子、透けるような銀髪の少女が軽やかに躍り出る。
「"怪人赤マント"はね、都市伝説から派生したトイレの妖怪! 一人で油断してると、マントに包んでどこかへ連れて行っちゃうの。吸血鬼だとか、血の雨をを振らすとか、鎌で切り刻むとか、いろんな場所でいろんな発展をしてるみたい。卒業しても大人になっても覚えておいてね!」
 すまし顔で名乗りを上げ、彼女はばさりとマントをひるがえした。まさに彼女・怪人赤マント娘、エリーザ・シュトラムの象徴とも云える赤マントを。
 宙にぶわりと持ち上がったそのマントの向こう側から、二つの長いものが宙に蛇のようにぐるぐると渦を描きながら現れる。一つは赤、一つは青。赤紙青紙と呼ばれる手の妖怪、赤マントの怪談の類縁。それらは間接不在の伸びる腕でエリーザの周囲をぐるりと一周すると、六人に向けてピースサインをしてみせた。楽しかったと伝えるように。
 そして彼女らの登場に続き、トイレの手前から一番目の個室がこれまた閉じて開く。その内から現れたのは留袖の老婆で、齢を重ねた白髪の下には品の良さそうなニコニコ顔が鎮座している。
「わたしもねえ、お手洗いに出て来るって話もあるの。本当にお手洗いの怪談は多くって、特に古いところほど薄暗くて寂しい場所だからそうなのかもねぇ。ふっふっふ」
 袖で口許を隠し、老婆・ヨジババは「ねえ?」と、六人でも花子さんらでもなく、手洗い場の鏡の方へと目を向けた。
 同時、その鏡の方向からまた別の声が続く。少し尖った少女の声が。
「加えて昔の学校にゃ部外者立ち入り放題、トイレなんて人目の薄い場所は変な奴が潜んでてもおかしかない場所だったってワケよ。そりゃキナくせぇ噂も生まれ放題だよなあ? 殺されるとか連れ攫われるとか、そんな怪談ばっかにもなるってな」
 そう語るのは、普段二階東女子トイレを縄張りにしている闇子さんだった。彼女は鏡の前で腕組みしながら元美術部たちを見て「そういうわけでトイレにゃ沢山いるんだ」と繋げ、次いで花子さんに目を向けた。
「どうするよイコ。たろ坊も呼ぶか?」
「嫌だわヤミちゃん、女子トイレに男子が居るのはまずいでしょう。彼は追々」
 闇子さんの提案をクスクスと笑い混じりに却下して、花子さんは改めて自らを呼び出した六人に視線を落とした。
「それで、貴女たちは。この、人の世界の不穏を固めて置いたような怪談わたしたちになにを伝えようというの?」
 彼女は問う。どこか挑戦的に。目にどこか不穏な色を輝かせながら、六人に問う。
 けれども、そんな不穏などはあの・・美術部には今更通用しない。彼女らは一人も怯えることなしに花子さんを、そしてその場にいる限りの学校の怪談の妖怪たちをぐるりと見て。そして。

「いままでありがとうございましたっ!」

 全員で声を揃えてそう、感謝を告げたのだ。
 トイレという閉鎖的な空間の壁を震わせて響き渡る感謝の声に、妖怪たちは皆ポカンとして、それから顔を見合わせて微笑む。
「あらあら。ありがとうなんて言われるほどのことをしたかしら? 思えば度々面倒事を押し付けられたなあとか、今だからこそ思ってなぁい?」
「思ってないって」
 ちょっぴり意地悪な笑みを浮かべて問いかける花子さんに、魔鬼は言った。
「まあ、思い返せば理不尽な頼まれごとも多かったけど、その全部があってこその今だしさ。そのときそのときでは思うこともあったけど、今はなんだかんだ良かったって言える。うん」
 小さく頷く彼女に続き、傍らの乙瓜も言う。
「つらいこともあったけど、花子さんたちが居るから楽しかった。だからさ、きっと。忘れないよ」
 そしておもむろに右手を上げる乙瓜を見て、花子さんもゆっくりと右手を差しだした。
 交わされる握手。花子さんはかすかに首を傾けて歯を見せて笑って、それから静かに言った。
「乙瓜あなた、少し髪伸びたわね」と。乙瓜は一瞬キョトンとして、それから「ああ」と、左手の指先で肩にかかる毛先を掬った。
 いつの頃からか――いや、七瓜がきちんと転校してきたあたりからか。乙瓜は密かに髪を伸ばし始めていた。恐らく無意識的に。七瓜と違う自分になるために。
 多分、髪が伸びているのは元美術部皆気付いているが、ほぼ一緒にいるので大きな変化とは感じていないだろう。そんな変化を指摘して、花子さんはふふと笑みを零した。
「最初に会ったときから伸ばしても似合うんじゃないかと思ってたのよ。ちゃんと手入れしなさいね? いいシャンプー使いなさいよ。高校生になるんだから」
「いいシャンプーって……オススメは?」
「私は特にオススメないわよ。だって学校にお風呂ないでしょ? そういう存在だから自然にそうなってくのよ」
「なんかずるいぞそれ」
 乙瓜は口をへの字に結んだ。花子さんはそんな彼女に穏やかな笑みを向け、それから仕切り直すようにこう言った。
「私は十文字じゅうもんじ依子いことしては大人になれなかったから。乙瓜はきっと素敵な大人になりなさいね」
 そこに揶揄からかいの色はなく、涼やかに流れる風のようだった。けれども、"大人になれなかった"。その一言だけで、そこに寂しいものを感じるには十分だった。
 乙瓜はハッと口を開いて、ぐっと結んで俯いて。それからもう一度花子さんを見上げ、しっかりとした意思の宿る瞳を向けた。
「なる。約束する」
 短くも揺らぎない言葉を紡ぐ乙瓜を見つめ返す、花子さんの瞳は優しくて。
 そんな二人の周囲では、魔鬼ら五人とエリーザ、闇子さんらが別れを惜しみ思いの丈を伝え合っていて、皆笑顔だったり涙を浮かべたりしている。顔を持たない赤紙青紙も、嬉し気に寂し気にゆらゆらと揺れて、今更その気持ちが分らない者などいないだろう。

 そうやって、その調子で。元美術部たちは。卒業までの間に北中じゅうの見知った学校妖怪たちに今までの感謝などを伝えて回った。
 たろさんに、魅玄に、てけてけに。けれども、最も近くにいて【月喰の影】との戦いのほぼ中心点にあった草萼のきょうだいたちは、暫くの間どこをどう捜しても見つからなかった。それぞれと結ぶ乙瓜、遊嬉、眞虚の前にも姿を現さず、呼びかけにも応じない。
 けれども不思議と嫌な予感のようなものはなかった。だから皆何故だろうと首を捻りながらも、各々しなければならないことに集中した。

 六人が漸く火遠らに会うことができたのは、県立入試を三日後に控えた昼休みのことだった。
 給食が終わるなり、乙瓜は廊下側の窓の隅から覗く紅い色に気付いた。紅葉のようなその色は外側に向かって銀杏のように黄金に色付き、燃え移ることない不思議な炎となって無限に燃えている。
 それを草萼火遠の頭と認識するのに、時間なんて必要なかった。その紅の炎が揺らめきながら階段の方向へと行くのを見て、乙瓜は慌てて魔鬼に声を掛けた。
 そして飛び出した廊下で、炎が下階に向かうのを見て、三年一組の眞虚、杏虎、深世、遊嬉らにも声を掛けて。皆でぞろぞろと火遠を追い、最後には美術室へと辿り着いた。
 ご丁寧にも鍵は開いていて、誘われているのは明白だった。
 先頭に立つ乙瓜がゆっくりと、建て付けのあまりよくない扉をガタリと開くと、中から「やあ」と声がした。
 飄々ひょうひょうとしたあの声が。
 案の定、案の定。電気スイッチも入れず自然光のままに薄ら暗い美術室の中には火遠が居て、水祢が居て、そしてやはり嶽木も居た。それぞれ作業机の上に座り、入り口に立つ六人に目を向けていた。
 その姿を認めるなり、乙瓜は言う。 「最近どこ行ってたんだよ。全然見かけないし呼びかけにも答えないしで心配したじゃねーか」
「すまなかったね。……まあ色々と、後始末に次ぐ後始末があったのさ。けれどそれもやっと一段落ついた」
 不満げな乙瓜にそう答え、よっと作業机から尻を離すと、火遠はふわりと宙に浮かび上がった。
 そして入口の彼女らに手招きした後、改まるように咳払いして、火遠はこう告げた。

「突然だけど伝えなきゃならないことがある。俺たちきょうだいも、君たちの卒業を見届け次第この北中を、古霊町を去るよ」
「――え?」

 その言葉に、乙瓜は――否、彼女のみならず元美術部全員がぽかんとし、絶句し、それから思い出したように魔鬼が言った。
「居なく、なるのか?」
「うん」
 ぎこちない魔鬼の言葉に火遠はあっさりと肯定を返し、それから水祢と嶽木をそれぞれ一度振り返ってから言葉を続けた。
「話し合って決めたんだ。まだ【月喰】の残党は残ってるし、未来に向けて解決しなければならないことも山積みだけれど、北中も君たちの後の美術部もきっと大丈夫。後のことはその都度その都度で花子さんたちに任せるとして、俺たちは一旦退場しよう――ってね」
 火遠は澄ました顔のままそう告げた。そんな中で遊嬉は彼を見上げ、嶽木に目を向け、それから恐る恐る訊ねた。
「……嶽木も賛成したの?」
「そうだよ遊嬉ちゃん」
 答えたのは嶽木本人だった。彼女は遊嬉に身体を、視線を向けて、「沢山、沢山話し合って決めたんだ」と。念押すようにそう言った。
「遊嬉ちゃんたちの協力のお陰で、【月喰の影】の野望をくじくことができたし、大霊道が深く封じられたお陰でこの町も随分と平和になった。だけどどこか別の場所には、まだおれたちの力を必要としている人たちがいるかもしれない。だから、ね?」
 わかって、とは言わなかった。けれど遊嬉はそう言われたのだと解釈して、「そっか」と呟いて、俯いて……、そして「わかったよ」と、笑顔を浮かべて見せた。そのニッコリ笑った両の目尻に、光る雫を隠せないまま。
 遊嬉が笑うと同じくして、眞虚の視線は水祢に向いていた。水祢は特に何も弁明せず、ある意味いつも通りのむすっとした顔で眞虚を見つめ返し、「そういうことだから」とだけ呟いた。
「行っちまうのか」
 乙瓜が呟く。そのときの彼女の心中には不思議と悲しいという気持ちはなかった。そもそも妖怪なんていう聞く人が聞けば非現実の塊を前にして妙なことだが、まだ現実感がないというか。だがその代わりに、胸の真ん中にぽっかりと穴が開いたような感情だけが確かにあった。
 それ以上のことを何も言えないでいる乙瓜に火遠が頷いた後で、深世が呟く。
「なんか、なんていうか……寂しくなるね」
 それを受けて、傍らの杏虎は何か考えるように宙を見て、視線を深世に戻して。それからふとこう言った。
「でもまあ、アレっしょ。世界がどうにかなったんだから、またどこかで会えるかもじゃんさ」
 言い切る杏虎は至って普段通りの調子だった。そんな彼女に深世は問う。
「……元気付けようとかしてる?」
「んー? そうでもない」
「違うのかよ」
「知らない。でももう、うちら互いに知ってるわけだから。どっかで見かけたら普通に話しかけたっていいっしょ? 一度別れたらもう顔合わせちゃいけないなんてルールないしさ」
 ねえ? と視線を向ける杏虎に、火遠はちょっぴり意外そうに目を見開いて、それから不敵にニヤリと笑った。



 それから一週間は流れるように過ぎた。
 県立入試があって。『三年生を送る会』があって。学校に来ても卒業式の予行演習くらいしかすることがなくなって。
 あっという間に、卒業式の前日となった。
 けれど烏貝乙瓜は普段通り、三年間そうしてきた通りに。早朝の、朝練の生徒を除いてはほぼ誰も居ない時間帯に登校し。――そしてもう一度、火遠に出会った。
 彼はまだ冬の気配を強く残した空気の漂う三年二組の教室の窓辺に立ち、入り口側に背を向けて、グラウンドを見下ろしているようだった。
「――あ」
 滅多にないシチュエーションで火遠を見つけた乙瓜は、教室の入り口で固まった後にそんな間抜けな声を出した。
 火遠はその声に振り返り、乙瓜を真っ直ぐ見つめると、ニヤリと笑って「おはよう」と親し気に片手を上げた。
「お、おはよう」
 乙瓜はぎこちなく挨拶に応じて、「なにしてるんだ?」とそう訊ねた。
「特になにも。だけれど、そうだね。強いて言うなら君を待っていた」
「……俺をか?」
「このクラスで俺が用のある人間なんて、君を除いたら魔鬼くらいしかいないぜ?」
 自らを指さす乙瓜にそう答え、火遠はふふと笑った。
「用って、なんだよ?」
「ちょっとした伝言さ」
 火遠は怪訝そうな乙瓜にゆっくりと歩み寄りながらこう続けた。
「明日。卒業式が終わった後でもう一度学校に来てくれないか?」と。
 乙瓜は近づいてくる火遠を目で追いながら、ほぼ何も考えず「ああ」と答えた。火遠はその回答にニコリとして、
「それじゃあ。良い一日を」
 そう告げると、乙瓜の真横を通り過ぎてそのまま去って行った。
「……?」
 乙瓜は狐に抓まれたような釈然としない気持ちになった。もっとなにかあると思っていたので、ちょっとした肩透かしを食らったような気分でもあった。
 そして幾つもの疑問符を頭上に浮かべたまま教室入り口で固まっている乙瓜の肩を、誰かが不意にぽんと叩いた。
 びくりとし、弾かれたように振り返る。
 そんな乙瓜の視界に飛び込んで来たのは、良く見知った人物の驚いたような顔。
「なにしてんの?」
 これまたこんな時間には珍しい、黒梅魔鬼の姿だった。

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