「えらい唐突だなあ」
真っ先に反応を示したのは魔鬼だった。
「絵描くって、今から? まさかちょっとイラスト描くくらいの用事でわざわざ美術室に集めたわけじゃないよな?」
「流石魔鬼、察しのいいことで」
遊嬉は口角をニヤリと上げてくるりと背を向け、美術室隅の非常口付近に立てかけられた大きなキャンバスパネルを、よっと掴んで引き摺りだした。
その様を見て、杏虎がややうんざりしたように言う。
「パネル画描くのかよ」
「うん! みんなで描きたいなーと思って」
元気よく応える遊嬉は満面の笑顔だった。本気のようだ。
「……いや、私らはいいけど。ていうかお前勉強は。十月だぞ」
深世が言う。杏虎に続き呆れたような調子で、少々引き攣った表情で。当然の反応だ。中学三年生という大事な時期の秋半ばなのだから。
「ただでさえ合唱祭前だし、この前夏の模試の成績があんまり良くないって言ってたの忘れてんのか?」
「まさか、覚えてるよ。学年八十一人中三十一位。……合計点あんまりだったからちょっと落ち込んだけど上から数えた方が早いから上々じゃね?」
「……ばか、校内順位が中の上でも志望校ギリギリだったら入ってから苦労するだけだろ。呑気なこと言ってていいのかー?」
「大丈夫大丈夫、妖界の入り方分ったから全然よゆーよゆー」
「いやそれ大丈夫じゃねーだろ……」
へらへらと笑う遊嬉を見て深世は大きく溜息を吐き、額を抑えた。頭痛を覚えるほどのポジティブさである。ある意味羨ましい。そう思いながら。
遣り取りを見ていた乙瓜と魔鬼、杏虎は無言ながらに目配せして肩を竦めるやら眉を顰めるやら怪訝な表情を浮かべたりしている。皆、言葉に出さないまでも「大丈夫か」とは思っている。そんな中で、今度は眞虚が口を開いた。
「うん、まあ……勉強のことは遊嬉ちゃんがどうにかするとして」と。そう前置きしてから、眞虚は遊嬉の持つキャンバスを指さした。
「私達みんなを呼んだってことは、遊嬉ちゃんはみんなで描きたいってことなんだよね? 一人でじゃなくて」
一人でじゃなくて。眞虚がそう言った瞬間、遊嬉は瞼を大きく上げて、それから力強く頷いた。そしてこう言うのだ。
「卒業制作、作ろうと思ったんだ。本当はもっと早く言うべきだったのかもしれないけれど、もう引退扱いだけど、最後くらい、"美術部"らしいことがみんなでしたいなって。そう思ったんだ。毎日……ううん、日にちは飛び飛びだっていい。一日の内何分かずつ使って、ちょっとずつ絵描こうよ。勿論勉強だってちゃんとやる……し」
どうかな、と。ここに来て上目遣いで提案する遊嬉を見て、眞虚ら五人は顔をきょとんと見合わせて――それからしょうがないなと言うように、けれどもまんざらでもないといった調子頷き合った。
「しょうがないなあ」代表するように深世が言った。「付き合うよ」と。つまり遊嬉の提案は受け入れられたのだ。
「その代わり、絵描いてたから高校落ちたみたいなことにはなんないでよね。まあそこは私らもだけどさ」
「わかってるって! ちゃーんとわかってるよ」
遊嬉は再びニコニコと笑い、コクコクと頷いた。
「ところでなにを描くんだ?」
乙瓜が言う。「そっちから誘って来たんだから、なにかアイディアあるんだろ?」と。
その言葉を受けて、待ってましたとばかりに遊嬉は目を輝かせた。そしていつから持っていたのか、キャンバスパネルの裏からクロッキー帳を「じゃーん」と取り出すと、ページをパラパラと捲って、「実はもう幾つかは考えてあるんだ」と嬉しげに語った。もう案があるようだった。
そしてとあるページに差し掛かったところで手を止めて、「あくまであたしの案だから、皆の方でこうしたらいいってのがあったらどんどん言って欲しいんだけど」と言ったうえでこう続けるのだ。
「私たちの怪事を。思い出を。そういうのを描きたいんだけど。どうかな?」
それからである。彼女らが、昼休み等の折に少しずつ集まって、絵を描き始めたのは。
同級生のいままで楽観視して遊び呆けていたような層すらも漸く鉛筆を持って問題集と向き合い始めた頃である。とはいえ誰もが皆というわけではないが、そんな中で思い出したように絵を描き始めた元美術部らを見て、クラスメートたちは「やはり美術部のやることはわからない」と首を傾げたり苦笑いしたり嘲笑したり、直接なにかを指摘してくる者は少ないながらにまあ反応は様々だった。
「やっと普通の美術部になったねえ」
ある昼休みに八尾異がそう言った。鬼伐山斬子はそれを聞いて、「本当はそれが当たり前なのになあ」と困った表情を浮かべた。
「それより遊嬉ちゃんがうちの? 神社の? 裏側にほぼ毎日来てるみたいなんだけど、異からもなにか言ってくれない? 私はもう言ったんだけど、押し切られちゃって」
「ははは。ぼくには無理だよ。簡単に引き下がるようだったら、リクは自ら進んで怪事に飛び込んでない。それはあの美術部全員そうなんじゃないかな。まあいんじゃないかい、表側のきみの家には迷惑かかってないんだから」
「……そりゃそうだけどもー」
斬子は口を真一文字に結んだ。そんな彼女を見て、異はクスクスと笑った。
「なんにせよ気楽に考えるに尽きるよ。きみは来年からも遊嬉ちゃんと付き合うことになるだろうから」
「え? ……ん? なにそれ、またいつもの予言的な?」
「流石に予言なんかじゃないよ。ただ彼女、第一志望がきみと同じだからね。だからこれは、うん。推理だ」
「…………えー? えー? えー???」
異の推理に斬子は怪訝な表情で唸り、それから独り言のように呟いた。「私の志望校そんなにレベル低かったっけ?」と。
その、至近距離の独り言を受けて、「こらこら」と異は言う。「彼女だって頑張っているんだから」と。フォローになっているのかいないのか、そんな言葉を吐いた後で、異はふと窓の外へ目を向けた。
そこから見える前庭の銀杏は黄金色の葉を枝いっぱいに抱え、椛の葉は燃えるように赤々と色付いている。空は落ち着いた青色で、やや傾いた太陽は夏の激しさから打って変わり、穏やかな光を放ってグラウンドを照らしている。
平穏な秋晴れ。すっかり移り変わった季節。少しずつ近づく終わりの気配。それはよく変わり者と呼ばれる異にもはっきりと感じられた。ある種超越的な能力を持つ八尾異ではあるが、そういった情緒は理解できるつもりであるし、ついこの間まで庭池に居候していた予知仲間がもう居ないことに対して感じる寂しさは嘘ではないはずだ。
穏やかな風景に一抹の寂しさを見た後で、異は斬子に向き直り、それからポツリと言った。
「来年からもよろしく頼むよ」と。
斬子はきょとんとして、それから「なに言ってるの」と。困ったように笑って。
「そんなの当たり前じゃん。大体、小学校だって違ったんだから。高校が違っても、ずっと友達だよ」
当たり前のことを担保するように、そう言ったのだ。
異はそれを聞いてニコリとして、そして思うのだ。きっと美術部も大丈夫、と。
三年生の教室の中にはまだ別れなんて先と言わんばかりにじゃれ合い茶化し合うクラスメートの姿がある。
受験の為の自習に励む生徒らも、友人と得意教科を教え合う合間に他愛ない話をしたりしていて。その中には幸福ヶ森幸呼と烏貝七瓜の姿もある。王宮氷月や天神坂邪馬人も、きっとどこかに。
まだ、終わるにはまだ少し早いその季節の中に、彼ら彼女らは確かに生きていた。
他愛なく、さりげなく。元美術部がそうであるように。
元美術部らの卒業制作は、少しずつ、着実に進んでいた。
遊嬉が考えた原案に足し引きして、構図の決定と下書きは最初の一週間以内に終わった。なので後は少しずつ色を塗って仕上げていくだけである。
ペンキを乾燥させる都合上、製作途中のその絵の存在はほぼ全校生徒の知るところとなった。
だが多くの生徒の目には、その絵は意味不明の抽象画のように映った。
「芸術ってよくわかんないな」と。そんな風に捉えられたのだった。
けれども一部の生徒にはその意味は伝わっていた。
美術部部長を引き継いだ古虎渓明菜は、製作途中のその絵を指して「いい絵になると思う」と言った。
「きっと先輩たちの今までが詰まってる」と。それには岩塚柚葉らも頷いた。学校妖怪たちも生徒が居なくなった頃に絵を見に来ては、「あの美術部らしい」と語り合った。
その中にはてけてけも含まれていた。
彼女は相変わらず言葉を発することが出来ないが、近頃は丙が学校妖怪らの協力を感謝して贈ったタブレット機器に文字を書いたりして、積極的に言葉を伝えようとしている。
まるで喪失の隙間を埋めるように。
てけてけは美術部が少しずつ絵を完成に近づけていく様を、美術室の扉の外から時折見守っていた。
そしていよいよ冬の気配が近づいたある日、そんな彼女の隣にふと嶽木が立った。
嶽木たち草萼のきょうだいは夏の決戦の『後処理』として暫く各地を飛び回っていたため、こうして北中に落ち着いているのはほとんど夏以来だったし、てけてけと話し合うのも久しぶりのことだった。
「美術部は今日もやってるね。……きみはその後どうだい? 調子は」
嶽木がそう語り掛けると、てけてけはタブレットを取り出して『だいぶいいです』と書いた。そしてそれを一旦嶽木に示した上で更に書き加える。『嶽木さんはどうですか』と。
「こっちもお陰様で問題ないよ。事態の収束も一段落ついて、少しの間はのんびりできそうだ」
言って小さく微笑んで、……それから嶽木は言った。「ごめんね」と。やや俯いて。
『なにがですか』
「異怨を助けられなかった。……なにがあっても京都に一緒に連れて行くべきだった。連れ戻すことを諦めてしまった。分離する方法を見つけられなかった。……もしかしたら心のどこかで見捨てようとしていたのかもしれない。実の姉を。私は」
「………………」
てけてけは懺悔する嶽木を暫く静かに見上げた後、タブレットにすらすらと文字を綴った。『あやまらないでください』と。
嶽木はそれを見て泣きそうな顔で驚いて、――そしててけてけは更に文字を書き加えた。
『あの日。髪の毛のうでにはじき飛ばされたとき。ごしゅじんの気持ちがわかったようなきがしました』
『わたしと出会うまえに、人と妖怪をたくさんたべたこと。おさえているけど、むずかしいこと』
『だからそんな自分でも誰かのやくにたつなら、よみのをいっしょに連れて行くって。そう聞こえたきがしました』
彼女が三回に分けて見せたその文章を見て、嶽木は目を擦り、屈んで、そして無言のままにてけてけを抱きしめた。
てけてけは突然のことにぽかんとして、けれどもその呆然の後に自らも嶽木に腕を回し、彼女の震える背を抱き留める。その脳裏に、あの日髪手の攻撃をまともに受けた際、朦朧とする意識の中に流れ込んで来た異怨の言葉が浮かべながら。
――あうまえに。ひと、よーかい。たくさん、たべた。みんな、おいしい。がまんし、てるけど。がまん、むずかし。だから、もどらない、ほう、いいかも。もど、れない、し。
――でも、だから。せめて。よみの、つれて、く。いっしょに。
――てけ、てけ。しあわせ、なって。たべて、ごめん、ね?
――てけてけに、がっきに、みんなに。ありが、とーって。ばいばい。
(……本当はそれでも、一緒にいてほしかったです。けれどご主人はまだ死んでいない。封印された曲月嘉乃のなかで生きています。その封印が解けるとき、わたしはまだ在るかわかりません。けれど。そのときまでに。ご主人が元に戻れる方法を。わたしはさがしたいです。あの日美術部さんたちが、嶽木さんたちが、ご主人が作ってくれた未来のなかで)
てけてけは想い、これから時間を駆けてでもやらなければならないことを思った。彼女は悲しみの中からこれから成したい目標を見つけていた。
その目標は、もしかしたら曲月嘉乃が抱いたような呪いとなるかもしれない。けれど、その目標・願いの始まりを覚えている限りてけてけは希望を捜し続けるだろう。
何十年経っても、何度でも。あの六人がこれから完成させる絵が残る限り、忘れていたって思い出せる。
てけてけが密かにそう信じるキャンバスの中には、大霊道封印の光景が。わかるモノにだけわかるような形で描き出されようとしていた。
それから緩やかに時間は流れ、絵が大分仕上がって来たところで冬休みとなった。
年が明ければ私立受験が続々と始まり、絵が完成するのは恐らくそれから県立受験までのタイミングとなるだろう。
「まあほとんど出来たようなものだし、全然大丈夫っしょ」
遊嬉はそう言って笑っていたし、他の皆も絵の完成については特に問題はないと気楽に考えていた。
それじゃあ年明けにと約束して、体調崩すなよなんてじゃれ合って、終業式後の校門で手を振って。彼女らは向かっていくのだ。
それぞれの帰路へ、中学生活最後の冬休みへ、そして――卒業へ向けて。
(第十一環・私たちの怪事を・完)