怪事廻話
第十一環・私たちの怪事を③

『故郷に帰ることになった。だからちゃんとお別れを言いたい。今日、日曜日の午後2時半。古霊駅まで来てほしい。……よければだけれど』

 郵便受けにそっと入っていた手紙を手に、深世は古霊町の南西の外れにある駅へ向けて自転車を走らせていた。
 正直、町の北東部に住む深世にとってはかなりの距離と時間を要する場所であり、恐らく家の人間に車を出して貰った方が早くそして楽に行くことができただろう。けれども深世はそんな楽な道を選ばず、通学路の片道の倍もある距離を、くたびれる事承知で一人でやってきた。
 馬鹿なことをしたなあ、とは彼女自身も感じていた。出発前も、自転車を漕いでいる間も。そもそも本来の深世は運動音痴の人間なのだ。あの夏の決戦の中では体育館の屋根によじ登ったり、煙の中を駆けたり転がったり、終いには空を飛んだりなんてしてしまった彼女だが、それは生きるか死ぬかの瀬戸際で文字通り必死・・となり死力を尽くして戦ったからこそ出来た芸当だろう。常時できることではないし、やるものでもない。
 けれども。それが非効率なことだとわかっていても。深世は自分の力でそこに向かいたいと思った。そうしなければいけないと感じた。――たとえ付き合いが短くても、自分の"友達"なのだから。自分の力で見送りに行きたい。そう、彼女は思ったのだ。
 そして深世が駅に着いたのは、手紙の時間より十分も早い、午後2時20分の頃だった。
 休日だというのに駅舎の内外には人はそれ程多くなく、周囲の住宅街も閑散としている。それが田舎と言うものだといわれたら、そういうものとしか言いようがない。周囲は長閑のどかな静けさに満ちていた。
 そんな駅の駐輪場に自転車を停め、籠に入れた紙袋を取り。駅舎前の鉄柵に手を突いて、上がった息を整えるように深呼吸を繰り返しながら、深世は思う。

 天狗のほとりについて。

 封印領域への突入前、最初に彼女の存在を意識したとき。深世は正直なところ、またよくわからない輩に絡まれたと思っていた。相手は自分のことを知っているようだったが、こちらは当然知る訳がない。けれども応援されたことは嬉しかったし、薬を貰えたことには感謝しかなかった。
 だから深世は約束したのだ。戻ってきたら互いのことを知るために話をしよう、と。
 そして長く辛い封印領域の世界から帰還した後――落ち着いてから。深世は約束通り彼女と話をした。
 まずは基本的な自己紹介。それから、どうして戦うことになったのかというそれぞれの経緯と哲学。ほとりが最初勾玉を狙っていたということも、深世はそのときに知った。
 知って、苦笑いして、それから深世はこう言ったのだ。
「……まあ、そこ批判されるのはしょうがないと思ってるよ。私なんか素人中の素人で、今日の戦いだって魔鬼の魔法に助けてもらったようなもん。……でもだけど美術部・・・部長・・として、戦うみんなの力に、少しでもいいからなりたかった」
 その言葉を受けたほとりは、神妙な顔で「ごめんね」と言った。それから何か思い切ったように、「今度から困ったことがあったらいつでも私に言いなさい。力になるわ」とそう言って。
 それからほとりや、彼女と距離の近い夜雀兄弟、来訪神の二人、そして雷獣らが深世の日常にちらほらと顔を見せるようになって。すれ違えば互いに挨拶して。深世が神域で修行していれば誰かしら見守ってくれていたり、町の警備をしているような場面に遭遇したら「お疲れ様」と言ったりして。美術部という身内には「一方的に懐かれているだけ」なんて言いはしたものの、深世は。そんな彼らの居る日常が嫌いではなかった。寧ろ好きだった。
 以前の深世だったら属性だけ見て恐れていたであろう。けれども。彼ら彼女らの性分に触れた深世は、「おばけが居る、妖怪が居る」という非日常的な日常の光景を、いつしか当たり前に受け入れていた。そして目的を同じにしているからといった理由以上に、同じ町の仲間だと思ったのだ。……考えてみれば、美術部だって相当な変わり者揃いだし、個人として受け入れられる相手の数に上限があるわけでもない。深世が納得するのは自然のことだった。
 だからこそ。あの日深世は美術部の仲間を。家族を、部外の友人を、揶揄からかわれながらも憎めない火遠らを、そして同じ町の当たり前であるほとりらの為に戦った。戦いの後に道半ばで散った何人かの存在に気付き、彼らを思って声を上げて泣いた。弔って、感謝して、落ち着いて。そして。今度は、いつの間にかいつまでもそこに居るような気がしていたほとりらがもうそれぞれの来た場所に帰ってしまうと知って。
(やっぱり寂しい、よな。……ほんの半年前までは全然知らない、他人だったのにさ)
 そう思う深世の息は、もうだいぶ整ってきていた。鉄柵に手を突いたまま目を向けた地面はコンクリートで舗装されていて、その上をアリが行列を作って歩いている。人の零したパン屑などをせっせと運びながら。
 ほどなく秋が深まり、冬が来る。この蟻たちにとってはまだ早いかもしれないが、遠からずは冬籠りの準備をはじめるだろう。それは避けられないことだ。そして、深世の前に迫りつつある別れも。中学生活の終わりも。避けられないことだ。
 深世はふとそんなことを連想し、何とも言えない気持ちになった。
 直後、一瞬、ゴオッと強い風が吹き。深世の見つめる地面に新たな影がかかった。
 そして頭上から声が振る。「もう来てたの、早いのね」と。
 深世はゆっくりと顔を上げた。思った通り、そこにはほとりの姿があった。その両肩にはそれぞれ雷獣と、夜雀兄弟の姿もある。
「途中まで一緒だから送っていくの」
 ほとりが彼らを見て言うのに続き、雷獣は「まずは来てくれてありがとうだろ」とダメ出しし、夜雀兄弟たちは「ありがとなあ」とほとりの先を越した。
 それらの後で、ほとりは出とちり・・・・したと言わんばかりの表情になって、それからやや気まずそうに言った。
「……来てくれてありがと」
「来るに決まってんでしょ。それより手紙くれてありがとう。……なにも言われず居なくなられたら、それはそれで寂しいから」
「…………そうね」
 残念そうに言う深世を見て、ほとりは一瞬目を伏せた。
「おいおーい。ちゃんとお別れ言うんじゃなかったかよー」
「ちゃんと言わねぇとだめだべ?」
 雷獣と夜雀の次郎太が交互に言う。両耳の真横でそう言う彼らに「ああもうわかってる!」と返すほとりの目には、もう涙がじんわりと浮かんでいた。
 その両目で深世をはっきり見て、ほとりは言う。
「ありがとうね」と。
「短い付き合いだったけど、今まで本当にありがとう。もう手紙で伝えてあるけれど……私、帰るね。……考えたの。集まったみんなの中にも、居鴉寺にも、天狗の仲間はいっぱいいたけれど、みんな別々の里から来た天狗たち。私の里にあのことの顛末を伝えるのは、他の天狗じゃなくて私の役目だって」
「……そっか」
 涙を指で拭いながら言う彼女を見つめ返し、深世はそう呟いて、一旦なにかを堪えるように口を閉じて、それから言った。「また会えるよね?」と。
「山形だっけ? すぐは行けないかもしれないけど、いつか行ったら会えるかな?」
「結構山深くよ? 迂闊に入ってきたら熊に襲われちゃうかも」
「熊か……それはやだな……。でも、そうなったらさ。……呼んだら来てくれる?」
「…………! きっと。必ず!」
「そっか。なら、いいや。なら。いつか必ず会いに行く」
 深世は笑って、それからおもむろに手にしたままの紙袋を掲げた。「これ」と。
 ほとりは意表をつかれたのかきょとんとしながら「えっ?」と呟き、それから紙袋を受け取った。
 そして確認する紙袋の中には、『名物・雪団子』と書かれた放送紙に包まれた小ぶりな箱が入っている。
「これ……」
 確かめるように深世を見るほとりに、深世は「お土産!」と力強く答えた。
「お小遣いなくて大きい箱で買えなかったけど、古霊町の名物だからみんなで分けて! ……それでっ、美味しかったらそっちもまた古霊町に遊びに来て! ……いつでも待ってるから」
 最後、笑顔ながらも声を震わせる深世に「ええ」と返すほとりの目からは、遂に誤魔化しきれなくなった涙がぽろりと落ちた。
 それを見て、深世の涙腺も遂に決壊した。
「……あーもう! また会えるって言ってんのになぁ! もう!」
 これじゃあ帰りの道走れないよ、と必死に手で涙を拭う深世の肩に、雷獣がぴょんと飛び移って言う。「それだけ嬢ちゃんが優しいってことだぜ」と。
「そもそも嬢ちゃんはおれっちのことだって助けてくれたじゃあねェか。それはちょろいとか偽善とかじゃなくて、困ってるヤツを見捨てられねえっていう嬢ちゃん自身の魅力だぜ、誇ってもいい」
「うぅ……今そんな話してるんじゃないしぃ……! 涙止めないとどうにもならないしぃ……!」
 深世は泣きながら雷獣を睨んだ。
「……だいたいあんたまでなんで行っちゃうのさ。あんた親も兄弟ももういないとか言ってたじゃん、じゃあこっちで暮らせばいいじゃん、なんならうちで暮らせばいいじゃん、ほとりも夜雀もかえるとこあるからしかたないけど、なんであんたまで私のこと泣かせようとすんのさ……!」
 そのとき彼女が吐いた言葉は八つ当たりだった。恥ずかしさと照れ隠しと寂しさの本音をごちゃまぜにした理不尽で意味不明な八つ当たりだった。それは彼女自身にもわかっていた。なに言ってるんだ自分と意識しながら、けれども溢れて来る言葉を止めることはできなかった。
 けれど雷獣はその理不尽を受け止めて、優しい声音で彼女に語る。「それも考えたんだけどな」と。
「いっそ古霊町ここに定住することも考えたよ。でも、故郷には同じような境遇の仲間が、まだ少しだけ残ってンだ。奴らが憎しみに捕らわれて曲月嘉乃みたいにならないように、おれっちも行くよ。……嬢ちゃん賢いから、わかってくれるだろ?」
「………………ずるいよ。そういう言い方ってさ」
「……ごめんな」
「…………ずるい」
 深世は肩を震わせながらポケットからミニタオルを取り出して、顔に押し当てて。少し黙って、それから言った。小さな声で。まだ少し震える声で。「がんばれよ」と。
 雷獣はああと応え、そしてまるで深世の写し鏡のように顔にハンカチを押し当てているほとりと、その肩に停まる夜雀の兄弟を見た。
 兄弟は雷獣と目が合うと順にコクリと首を振って、ほとりの耳になにかを囁く。ほとりはそれを受けてハンカチを外し、すっかり赤く擦れた目許を晒しながら深世を見て、語り掛けた。――「ねえ、深世」と。
「深世もがんばりなさいよ。勉強して、かしこくなって、でも頭でっかちなだけじゃない、誰かの為に涙を流せる、泣いてる誰かを助けられる、そんな人間であり続けなさいね。……私も。きっとそんな天狗になるから」
 それは彼女が昨日一晩頭を捻って考えた、深世に伝えたいことだった。無論他にも言いたいこと、伝えたいこと、教えておきたいことはいくらでも浮かんだが、伝えれば伝える程に別れが辛くなるだろうそれらを飲み込んで、ほとりは深世にエールを送った。
 深世はそれを聞いて、顔に宛てたミニタオルをぐしゃりと握りしめて。既に白目が大分赤くなりかけている目を晒して、それから「うん」と頷いた。

 そしてほとりと深世は互いに、涙目のまま笑顔になった。しばらく、そのまま微笑みあっていた。
 それはきっとそんなに長い時間ではなかった。けれども大いに意味のある時間だった。
 掛け替えのない時間の後で、ほとりは「じゃあね」と右手を上げた。
 気が付けば、雷獣は再びほとりの肩の上に戻っている。そういうことなのだ。深世は理解して、同じように右手を上げて、「じゃあ」と軽く手を振った。
 その瞬間、また突風が駅舎の前を吹き抜けた。強い風に驚いて、深世は一瞬目を瞑る。
 そして再び目を開いた先に――もうほとりの姿はなかった。
 深世はぽかんと小さく口を開けて、真一文字に噛みしめて、俯いて、またハンカチを目に宛てて。それからぶんぶんと頭を振って、駐輪場へむけて強い足取りで歩き始めた。
「がんばるよ」と。誰も居なくなった後の空に向けて、そう呟きながら。
 その様を、駅舎の上から二つの影が見送っていた。小鈴と電八、来訪神の二人だった。
「ほとちゃん、ちゃんとお別れできてよかったやぞいね。……それじゃ。わてらもそろそろ行こまいか」
「あや」
「わりゃ最後まで肯定しかせんわいね。まあいいか。電ちゃんも元気でな。ありがとう」
「あや――、おう。小鈴も元気でいてけれ。今までども。ありがとう」
 頷き合って、季節には早いが蓑を羽織り、鬼のような面を被って。そして駅舎の上の人影は消え去った。
 そんな駅に背を向けて、深世の自転車が元来た道を帰っていく。風はもう涼しく冷たく、空には羊雲が浮かび。ついこの間まであった夏は終わろうとしていた。
 深世に、そして乙瓜、魔鬼、眞虚、遊嬉、杏虎らにとっての、中学生活最後の夏が。

 そしてカレンダーの月が一つ変わり、いよいよ本格的な秋になった。北中内では合唱祭兼最後の芸術祭が迫り、あちらこちらで合唱練習の声が聞こえない日はない。
 それは三年生とて例外ではなく、寧ろ受験前の最後の学校行事であるからこそクラスの中心的な生徒ほど熱心になって各員に練習を促し、最後を優勝で飾ろうと湧き立っていた。
 戮飢遊嬉が元美術部各員を集めたのは、そんなある日の昼休みのことだった。
 普段昼休みは閉めきっている美術室の鍵をわざわざ借り・開けて、遊嬉は皆の前でこう言った。

「絵、描かない?」

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